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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

ゴールデンスランバー / 伊坂幸太郎

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   伊坂幸太郎の代表作の一つ「ゴールデンスランバー(A MEMOERY)」です。今回「新潮文庫の100冊2020」のリストに入っており、本サイトでは未レビューだったので久々に読み直してみました。初出は2007年、ライトでウィットに富んだ独特の作風のミステリ作家という定評が確立しつつあった時期で、久しぶりの書き下ろし作品として話題を呼び、2008年本屋大賞と第21回山本周五郎賞を受賞しています。

 

  ケネディ大統領暗殺事件を下敷きに首相暗殺の濡れ衣を着せられた男の逃亡劇を描いており、連作である「魔王」(2005)と「モダンタイムス」(2008)に挟まれた時期に書かれています。この三作とも権力による個人の弾圧、監視社会の恐怖を描いており、当時伊坂幸太郎の興味が「政治権力対個人」に向いていたことが分かります。

 

  タイトルは洋楽ファンならお馴染み、ビートルズ最後のスタジオ録音盤「アビイ・ロード」B面の「Golden Slumbers(黄金のまどろみ)」からとられています。このアルバム録音当時四人の心は離れてしまっており、ポール・マッカートニーはそれをもう一度つなぎとめようと曲を必死に繋いでメドレーに仕上げた。それと同じように本作の主人公は大学サークルで仲の良かった三人の助けを借りて逃走を続けます。

 

  それらのテーマ、プロット、音楽などが映画向きであり、2010年に映画化もされました。結構面白くて、ヒットもしたように記憶しています。今話題の第二弾「半沢直樹」で貫禄たっぷりに対決している黄金コンビ堺雅人香川照之ですが、実は10年前にもこの映画で対決していたんですよね。

 

  閑話休題、その映画の方は全体に時系列に沿って描かれていましたが、原作は五部構成で「事件のはじまり」「事件の視聴者」「事件から20年後」「事件」「事件から三ヶ月後」と時間を前後させて描かれています。そして最初の三章には能動的な意味では本作の主人公青柳雅春は登場しません。事件の概要を 俯瞰的にラフスケッチで描き、かつ先に総括してしまう という構成の妙が光ります。

 

  舞台はいつもの如く著者のホームグラウンド仙台。ただし、パラレルワールド的な設定で、首相公選制が取られており、またキルオという連続殺人犯対策としてセキュリティポッドが市内各地に設置され携帯電話をはじめ市民の行動は厳重に監視されています。その仙台出身の若くて将来有望な金田首相の凱旋パレードの日が端緒。

 

  第一部 「事件のはじまり」   主人公のサークル仲間で元恋人、今は一児の母である樋口晴子が喫茶店で友達とお茶しています。なんだかんだその後の伏線となることを喋っているうちにテレビでは金田首相のパレードが始まり、そこにラジコンが降りてきて爆発します。

 

第二部 「事件の視聴者」   舞台は一転して仙台市内の総合病院の整形外科病棟。暇を持て余した患者たちが延々見続けるTV、新聞等のマスコミ媒体を通してこの暗殺事件の発端から三日目早朝、主人公がついにTV画面に現れるまでが描かれます。この間のマスコミ報道は第三部冒頭に簡略にまとめられています。

マスコミは当然ながら、大騒ぎだった。今、落ち着いた目から見れば、たがの外れた狂騒だった、と言うことはできる。テレビや新聞は警察庁の発表を垂れ流し、真偽不明の一般人からの情報を次々と放送し、視聴者の感情を煽った。

その狂騒を手際よく描きつつも、ここにも伊坂流伏線が山ほど張られています。

 

第三部 「事件から20年後」   事件から20年後のルポの形式でこの事件を総括していますが、ケネディ大統領暗殺事件と同じく真相は100年非公開とされています。ただその時期には、もう誰一人青柳雅春が犯人だったと信じているものはおらず、金田首相の側近だった副首相、対立野党、仙台の首相支持者、果てはアメリカ政府までもが犯行勢力としてまことしやかにささやかれています。

 

  そしてこの事件の真相が見えてこない理由の最大のものに、関係者の多くが死亡しているということがあります。その例が次々と列挙され、薄ら寒いものを感じつつ、「事件」はいよいよ幕を開けます。

 

  ここまでが約100P。これをしっかり読んでおくことで、約550Pある第四章「事件」をより楽しめます。

 

最四部 「事件」   いよいよ本編です。各章の題名は「青柳雅春」か「樋口晴子」のどちらかであり、この二人の視点で第一、二章の真実が明らかになります。

  ごく簡単に言うと、青柳雅春は数年前宅配業中に暴漢に襲われていたアイドルを偶然にも助けたことで地元では顔を知らない人がいない有名人となりましたが、その時点で彼に目をつけて「オズワルド」に仕立て上げようとした勢力があり、何年にもわたる周到な準備の上そいつらが金田首相を爆殺したのだ、ということがジワジワ明らかになっていくわけです。

 

   その一方で大学時代の「青少年食文化研究会」(ファーストフード店めぐりして評価するだけ)のサークル仲間四人の回想シーンがノスタルジックに描かれ、そこにも勿論伏線が張り巡らされています。特に花火師との関わりはもう絶対後で出てくるな的に綿密に描かれています。

 

  残念ながら、この四人のうち、妻の借金故に青柳を事件に巻き込む役割を担わされた森田森吾はそれに耐えきれず「お前、オズワルドにされるぞ」と彼に告げて逃し、自らは首相爆殺と同時に爆殺されてしまいます。また一年後輩のカズは最初に警察勢力の手が回り激しい暴行を受け入院してしまいます。

 

  そんな状況下で青柳は知恵を振り絞り、体力気力の極限まで追い詰められながらも、樋口晴子やカズ、その周囲の一握りの人々、宅配業時代の友人などの助けを借り、信じ難いことながらキルオや第二章の整形外科病棟に入院している反社会勢力的な男までもが力を貸してくれ、マスコミも利用して彼は逃げ続けます。

 

  そして最後、詰んでいる寸前で最後の大博打に打って出ますが、果たしてその結末は?

 

  ハラハラドキドキで最終頁にたどり着き、そこで待っていた一番意外な人物とは?

 

第五章「事件から三ヶ月後」 青柳は警察発表では死んだことになっていますが、比較的穏やかに読むことができる章です。

 

  と言うわけで、もう読みはじめたら止まらないページターナーで、伏線の回収の仕方もこれぞ伊坂と思わせる鮮やかな手際なのですが、伊坂自身は解説の木村俊介氏のインタビューによると

 

今までと同じ方向で書いていては縮小再生産になってしまいかねないので、趣向を変えてそれまで敬遠していたハリウッド映画的な、物語の定形に沿ったものを敢えてやってみた、その結果意外にも伊坂幸太郎の集大成だと言われることも多く、しかもむしろ読者の数はこれまでも増えるという結果になった(要約して引用)

 

と述べています。具体的に言うと

 

・ あまり伏線回収にこだわり過ぎない

・ 風呂敷を無理に畳まない

 

という二点がそれまでの彼の作品と異なるということになります。確かに胸のすくような終わり方ではないし、犯行の真犯人もわからない、伏線もこれだけ回収すれば十分に思えますが、それでも確かに回収されていないところや、回収しきれずに斃れていった登場人物が多いのも気にはなります。

 

  そういう点やプロットの荒唐無稽さにコアなミステリファンからは随分批判もあったと記憶していますし、アマゾンレビューなんか見ても高評価と低評価にはっきり分かれていて、この作品の立ち位置がとても分かりやすい(w。

 

  私はこの作品が大好きです。再読してなおその感を強くしました。シンプルな感想ですみませんが、まあ、そう言うことです。伊坂先生、たいへんよくできました(花丸)!

 

 

衆人環視の中、首相が爆殺された。そして犯人は俺だと報道されている。なぜだ? 何が起こっているんだ? 俺はやっていない――。首相暗殺の濡れ衣をきせられ、巨大な陰謀に包囲された青年・青柳雅春。暴力も辞さぬ追手集団からの、孤独な必死の逃走。行く手に見え隠れする謎の人物達。運命の鍵を握る古い記憶の断片とビートルズのメロディ。スリル炸裂超弩級エンタテインメント巨編。(AMAZON解説)

 

 

エクソダス症候群 / 宮内悠介

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    宮内悠介 を読もうシリーズ、今回は2015年の第三作にして初の長編書き下ろしとなる「エクソダス症候群」です。火星の精神病院を舞台に中世から現代までの精神医療史を緻密に考証しつつ描かれる壮大な物語でした。長編をものする実力を遺憾なく示した、と言いたいところですが、惜しむらくは最後でちょっと息切れした感じがあり惜しいところでした。

 

  これまでも作者の小説作法として「参考文献を必ず巻末に収載する」ことを挙げてきましたが、本作も例外ではなく、というか医師の私から見ても尋常ではない数の精神科関連の書籍を読みこんでおられて驚きました。作家の方がよく参考にされる我が母校の名誉教授中井久夫先生の名前もあり、誇らしい気持ちが半分、ちょっとみんな中井先生にばかり頼り過ぎだよな~という気持ちが半分でした。

 

  さてその参考文献の読み込みの凄さは、中世の魔女裁判ナチスの優性主義なども絡めた精神医療史の光と闇の記述に余すところなく活かされていました。一方氏は医療とは関係ない分野を進まれてきた方で、当然ながら臨床はご存じないはずですが、現場の描写もまずまず破綻なく描けてはいたと思います。

 

  ただ、人類が「火星」に行く時代にまだ精神科救急でハロペリドールやらフルニトラゼパムやらが使われているのかな~、という違和感はありましたし、カバラをはじめとしたユダヤ関連のアイテムを多く出すのなら宮内悠介氏お得意の中近東あたりの架空の国での近未来SFにした方がむしろ説得力は増したんじゃないか、とも思います。

 

  そこまでして「火星」にこだわったのは、勿論解説にも書いてあるようにそこがSFのゴールデンスタンダードの舞台であり挑戦意欲を掻き立てられることもあるのでしょうが、おそらくは最終第八章の章名にもなっている「火星の精神科医」というオリバー・サックス(映画「レナードの朝」の原作者として有名な医師)の著書にインスパイアされたのではないか、と思います。

 

10棟からなるその病院は、火星の丘の斜面に、カバラの“生命の樹”を模した配置で建てられていた。亡くなった父親がかつて勤務した、火星で唯一の精神病院。地球の大学病院を追われ、生まれ故郷へ帰ってきた青年医師カズキは、この過酷な開拓地の、薬もベッドもスタッフも不足した病院へ着任する。そして彼の帰郷と同時に、隠されていた不穏な歯車が動き出した。俊英の初長編。(AMAZON解説)

 

  またまた前置きが長くなってしまいましたが(まだ前置きだったのかよ、という声が聞こえる)、物語はカズキ・クロネンバーグという若手精神科医が地球から火星に里帰りして火星唯一の精神科専門総合病院ゾネンシュタイン病院に赴任するところから始まります。

 

  地球ではテクノロジー、薬、医療の発達により従来の躁鬱、統合失調症神経症などは地上から滅びつつあるのに、逆に「特発性希死念慮(ISI)」という原因不明の自死が増加、カズキも恋人をISIで失い、彼女の父親である精神科教授に疎まれて居場所がなくなり、生まれ故郷である火星に戻ってきたのでした。

 

  一方の火星は辺境であり、物資や医療設備も十分ではなく、精神科救急外来は野戦病院状態、ISIなどというある意味悠長な病気はなく、様々な旧来の疾患で満ち溢れていました。そしてもう一つ、脱出願望を特徴とする幻覚妄想を呈する「エクソダス症候群」が問題となっていました。

 

  実はカズキもエクソダス症候群に罹患しており、薬を常用しています。彼の出生にはある秘密があり、亡き父イツキ・クラウジウスが勤めていたこのゾネンシュタイン病院にそれを知る人物が二人います。狸院長のイワンと、EL病棟と称されている特殊病棟の最古の患者で病棟長も兼ねている謎の人物チャーリーです。帰ってきたイツキの息子に接したこの二人の思惑で、物語は動き始めます。

 

  このメインプロットの合間合間に魅力的なあるいは怪しげな人物のエピソードが挿入され、地球の中世から始まる精神医療史が語られ、ぐいぐい読者を引っ張っていくけん引力となっています。

 

  そして後半、ついにチャーリーが仕掛けたクーデター策が発動し、大量のエクソダス症候群患者が発生し、病院機能が麻痺しかけ、院長イワンも経営破綻だとさじを投げます。果たしてイツキにはどのような対抗策があるのか?

 

  ここからが山場ではあるし、ISIとエクソダス症候群の関係も明かされ、各種伏線も回収はされるのですが、ややあっさりして盛り上がりに欠けるところが残念でした。

 

  というわけで、最後の息切れ感は否めませんが、それでも火星の描写、精神医療史の光と闇の緻密な考証、そして魅力的な人物像の描き分けなど、濃密で満足できる長編大作で宮内悠介の実力を見せつけた長編第一作でした。これからもボチボチと追いかけていきたいと思います。

 

 

鍵のかかった部屋 / 貴志祐介

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  新型コロナ禍でこの春は人気ドラマ再放送だらけでしたが、中でも楽しみに見ていたのが「鍵のかかった部屋」で、無表情・ボソボソ一本調子で喋る大野智君とコミカルな演技の佐藤浩市戸田恵梨香、この三人の間合いが絶妙でした。

  今回コミュニティ企画「カドフェス2020」の作品リストにその原作があったので読んでみました。

 

  貴志祐介氏の作品を読むのは初めてで、そのぱさぱさな文章に最初は戸惑いましたが、だんだんと慣れていきました。

 

  もう一点戸惑ったのが、弁護士芹沢豪が出てこないことです。調べてみたら芹沢はTVドラマのオリジナルキャラで、原作では防犯ショップ店長(防犯探偵)の榎本径(大野)と、彼を盗みのプロではないかと疑いながらも行動を共にする弁護士の青砥純子(戸田)のコンビで事件を解決していきます。佐藤浩市演じる芹沢のコミカルなキャラが立っていただけに残念、彼がいないだけで原作は全体に暗いムードでした。

 

  閑話休題、一番気になっていたのがTVドラマのこれでもか的な装飾過剰密室トリック。テレビならではの脚色だったのか、原作がそうなのか、以下四作品で(実質上三作品)でチェックしてみました。なお三作品とも倒叙推理形式で初めから犯人の目星はついていますのでそれに関してはネタバレでいきます。

 

「1:佇む男」(TVドラマ:Episode 1)

  葬儀会社の社長が末期の膵癌で余命があと半年(もあるかい!)、旧知の医師からモルヒネを分けてもらって(日本の麻薬管理はとても厳しいのでその医師即逮捕)、自分の別荘で勝手に自分で静脈注射している(まじかっ!)。なぜできるかと言えばアメリカでエンバーマーの講習を受けているから(をいをい)。

 

という、もう職業柄到底許せない、というか、ありえない設定。これはもう絶対TVドラマの脚本家が勝手に脚色したんだろう、と思っていましたが、、、

 

もろにそう書いてあった...( ゚Д゚)

 

そんな明日にでも死にそうな社長をわざわざ殺さなくてもよさそうなものを風間杜夫演じるワルの専務が殺してしまう、葬儀社ならではのデコラティブで過剰な四次元密室トリック。これも、

 

もろにそのまんまなのであった...( ゚Д゚)

 

  まあこれだけ手が込んでいるとツッコミどころ満載で警察が簡単に自殺で片付けるなんて信じられないのですが、極めつけは

 

社長の体内からは、5グラム以上のモルヒネが検出された

 

。。。。。モルヒネって普通1アンプル10㎎なんですよね。「社長、500本モルヒネいっときますかっ?」って、ありえんでしょ。。。。。

 

「2:鍵のかかった部屋(TVドラマ:Episode 2)

  中村獅童高嶋政宏の手に汗握る演技対決が印象深かった回です。高嶋政宏演じる冷血理科教師が仕掛ける物理トリックは前回よりはまともでしたが、練炭自殺に見せかけた密室の中は部屋中に紙テープがひらひら垂れ下がっており「まともじゃない感」満載でした。

 

  読んでみるとやっぱりそのまんまだったんですが、文字だけで内容を追っていくとそれほど違和感がなく、これはいいと思いました。

 

「3:歪んだ箱」(TVドラマ:Episode 5)

  新築欠陥住宅殺人事件。犯人役は現実世界でも逮捕されてしまった新井浩文でした。いい役者さんで好きだったんですけど。。。まあそれはさておき、この密室トリックは尋常じゃない。まさか、と思っていましたが、

 

もろにそのまんまなのであった...( ゚Д゚)

 

  これだけはネタバレさせてください。建て付けが悪く内側からゴンゴン叩かないと閉まらなくなったドアを屋外からどう閉めるかがこのトリックのキモなんですが、な、な、なんと、反対側のエアコンダクトの外側からピッチングマシンでテニスボールを投げ、ドアに当て続けることによって閉めてしまうという荒技。。。こんなんでバレないと自信満々の犯人。。。

 

  葛城ミサト(cv三石琴乃)風に言えば、、、「アンタバカァ!?

 

「4:密室劇場」(TVドラマ:Episode 6???)

  唖然茫然。。。。。TVドラマのEp6のサブタイトルと同じ題名なので、ジャニーズのお二人が主演のお洒落な雰囲気の劇団密室ドラマの原作の筈なんですが。。。。。ケッタイな三流劇団のバカみたいな話が延々と綴られて作者がふざけてるんだかおちゃらけてるんだか分からないまま殺人事件が起こり榎本の宣言通り30分で解決。

 

なにこれ?

 

  もう降参、ということで調べてみましたら、こういうのをバカミスというらしいです。3本真面目にやってきてラストでこんなの出す?

 

  というわけで、個人的には玉木宏がめちゃくちゃカッコ良かった(トリックの荒唐無稽さもハンパない)「硝子のハンマー」を読みたかったんですが、これは一冊の長編だそうです。ちなみに「防犯探偵榎本」シリーズは文庫版三冊、ハードカバーが一冊あるそうで、このレビューを読んで興味を持たれた方(おらんわなあ)は是非どうぞ。

 

 元・空き巣狙いの会田は、甥が練炭自殺をしたらしい瞬間に偶然居合わせる。ドアにはサムターン錠がかかったうえ目張りまでされ、完全な密室状態。だが防犯コンサルタント(本職は泥棒!?)の榎本と弁護士の純子は、これは計画的な殺人ではないかと疑う(「鍵のかかった部屋」)。ほか、欠陥住宅の密室、舞台本番中の密室など、驚天動地の密室トリック4連発。あなたはこの密室を解き明かせるか!? 防犯探偵・榎本シリーズ、第3弾!

 

風とともにゆとりぬ / 朝井リョウ

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  朝井リョウを読むシリーズ、ゆとり世代のトンデモ大学生活を綴った「時をかけるゆとり」に続く第二弾「風と共にゆとりぬ」です。堂々と巻頭に「マーガレット・ミッチェルに捧ぐ」と書いてあります。よう言うた、というか、どの口が言う、というか。。。

 

読んで得るもの特にナシ! 500枚超の楽しいことだけ詰まった大ボリュームエッセイ集。 対決!レンタル彼氏/ポンコツ!会社員日記/冒険!朝井家、ハワイへ/諦観!衣服と私 失態!初ホームステイ/本気!税理士の結婚式で余興/阿鼻叫喚!痔瘻手術、その全貌等

ダヴィンチBOOK OF THE YEAR 2017 2位

ブクログ大賞2018 ノミネート

読書メーター OF THE YEAR 2018 3位

桐島、部活やめるってよ』で鮮烈なデビューを飾り、 『何者』で戦後最年少直木賞作家となった著者のユーモアあふれるエッセイ集が待望の文庫化。 日経新聞「プロムナード」連載エッセイや、壮絶な痔瘻手術の体験をつづった「肛門記」を収録。 また、その顛末が読める「肛門記~Eternal~」書き下ろし!(AMAZON解説)

 

   とにもかくにも猫毛で馬面、胴長短足猫背で痔持ちのスットコドッカーさくらももこさんの「少し長め、かつ、メッセージ性皆無のくだらないエピソードばかりで編まれたエッセイ集」をお手本に仰ぐ朝井リョウの快進撃は続きます。今回は三部構成となっており、順番に見ていきます。

 

  第一部「日常」

小説に込めがちなメッセージや教訓を「込めず、つくらず、もちこませず」をモットーに綴ったエピソード12編

ですので、基本的に前回と同じノリ。前作でものすごい存在感を示した謎の眼科医の先生が再登場し、いきなり笑わせてくれます。

 

  とは言え、前作以降のエッセイですので必然的に大学卒業後就職生活についての記事が多くなりますので、学生時代とは違っておふざけ度はやや控えめとなっています。そんななかでもバレーボール愛に満ちた奮闘ぶりは微笑ましい。4人で出られるビーチバレー大会にエントリーしたらきっちり一人が大寝坊で間に合わず、「四人います」とウソをついた当の相手である受付けのオバサンをスカウトしてくる仲間の行動力には脱帽。

 

  それでも社会人生活にはそれなりにまあまあ大人の雰囲気が漂うわけですが、高校時代のエピソードは本領発揮、前作並みにおバカ度満開。

  インキンタムシをカナダにもたらしたホームステイ、高校卒業と大学入学のはざまのモラトリアム時期に友人と初体験するアルバイトが「結婚式場の披露宴フロア係」といういきなりハイレベルすぎる仕事でお決まりの大失敗する話など、楽しめました。

 

  ちょっと驚いたのは「ままならないから私とあなた」収録の短編「レンタル家族」を編集者と一緒に実地で実験しているくだり。レンタル家族っていう仕事、やっぱり本当にあるんだ〜、と妙に感心しました。

 

  第二部「プロムナード」

日本経済新聞で2015年下半期の半年間連載というフィールドオブドリームスに錯乱した著者が、新聞購読者を増やしたいという野心に司られつつ綴ったコラム21編

なのでさすがにマジメ度数アップ、ここまでの1.5巻ほどのバカ笑いはできませんが、相変わらずの面白さです。

 

  そして最後に地雷ならぬ「痔雷」が待っていました。第三部「肛門記」です。

  学生時代から痔と粉瘤に悩まされていたリョウですが、仕事の忙しさにかまけて痛くても治療を先延ばしにしていたところ、ついに一番厄介な「痔瘻」になっていることが判明。

お尻の穴が増えちゃう病気、こと、痔瘻。 発症、手術、入院、その全てを綴った肛門界激震の一大叙事詩

がこの第三部となっています。作者には悪いけど思いっきり笑わせてもらいました。

 

  いやあ、これだから朝井リョウはやめられない。  

 

 

時をかけるゆとり / 朝井リョウ

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 朝井リョウを読むシリーズ、小説を一通り読み終えたのでエッセイに入ります。畏れ多くも原田知世様の「時をかける少女」からお題をいただいた「時をかけるゆとり」です。風の噂でバカバカしいエッセイだとは聞いていたのですが、まあ予想をはるかに上回るバカっぷりでした。おそるべしゆとり世代

 

就職活動生の群像『何者』で戦後最年少の直木賞受賞者となった著者。初のエッセイ集では天与の観察眼を縦横無尽に駆使し、上京の日々、バイト、夏休み、就活そして社会人生活について綴る。「ゆとり世代」が「ゆとり世代」を見た、切なさとおかしみが炸裂する23編。『学生時代にやらなくてもいい20のこと』に社会人篇を追加・加筆し改題。 (AMAZON

 

  冒頭の(作者たっての希望で作ってもらった)年表によりますと、リョウは1989年生まれ、俗に1990年問題と言われる「ゆとり教育」世代です。岐阜県有数の大垣北高校という進学校で学んだくらいで決しておバカではないのですが、東京での大学(早稲田大学)生活は一言で言うと

 

浅慮無分別没常識

 

これはもう「銭形警部はルパン三世の父親(とっつぁん)だと思っていた」1979年生まれの森見登美彦や、「あの頃ぼくらはアホでした」1958年生まれの東野圭吾でさえ尻尾を巻いて逃げ出すくらいひどい。けど、無分別ゆえの行動力はある。故に余計に騒動は大きくなる。

 

  例えば東日本大震災で各地の花火大会は当然中止。しかしリョウたちは「自粛我慢」という言葉とは無縁。探しに探して伊豆諸島の御蔵島の花火大会にでかけることにしたのはいいが、出発当日太平洋上には三つも台風ができている。でもそんなこと気にせずダイジョブダイジョブと乗船。その結末は想像通りでもあり、越えているところさえあり。

 

  また、夏休みに北海道で行われる某フェスに仲間と車で出かける予定を綿密に立てたはいいが「青函トンネルは一般車は通れない」という基本的知識が欠如していた。。。それならとフェリーやら列車やらを予約しようとするが、これまた友人が留学先で教えられていた日本のOBONの大変さをなめていて。。。

 

  かと思えば、友達と東京から京都までサイクリング旅行する計画を立てたはいいが、ロードバイクを出発わずか二日前に購入するという無計画ぶり。まあそれでも死ぬような思いをしつつ達成してしまうところは凄い。

 

  まあそういうアホエピソードのオンパレードで当時真面目に働いていた社会人や東日本大震災で苦汁をなめていた人々からすると噴飯ものなんですが、「桐島、部活やめるってよ」「チア男子!!」に始まる一連の小説にその経験をきっちりと取り入れているところはえらい。

 

  にしても、大学二年生というまだ就職活動に関係ない時期に編集者の依頼で

・ ちゃっかり就活を取材し

・ 超知ったかぶりのエラそうな就活エッセイを書き上げ

・ その後の就職活動に役立て

・ 後年「何者」という小説にして直木賞をかっさらい

・ 再び「知りもしないで書いた就活エッセイを自ら添削する」エッセイを書く

 

一粒で5度おいしい思いをしているのは、賢いというか、ちゃっかりしているというか。。。

 

  そんな朝井リョウの紹介文が最後に載っていますが、そこでもシャレのめしていて、もういっそ清々しい(苦笑。一部抜粋して終わります。

 

2009年「桐島、部活やめるってよ」で第22回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。お腹が弱い。10年「チア男子!!」でスポーツ小説ならではの大人数の書き分けに失敗。13年「何者」で第148回直木賞を受賞し、一瞬で調子に乗る。14年「世界地図の下書き」で第29回坪田譲二文学賞を受賞するが、「イイ話書いてイイ人ぶってんじゃねえ」と糾弾されれる。

 

。。。。。「朝井リョウの優しさを感じさせる」と「世界地図の下書き」レビューのキャッチコピーに書いた私の立場が。。。。。(そんなものないって?) 

 

 

楽しみと日々 / マルセル・プルースト

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  「失われた時を求めて」以外で岩波文庫版で手に入るマルセル・プルーストの作品はもう一つあり、これも読んでみました。「楽しみと日々」というヘシオドスの「仕事と日々」を衒った題名の第一作品集で、短篇、散文、詩などから成っており、一つ一つが短いので安心して読めました(笑。

 

プルースト(1871‐1922)が20代前半に書いた短篇小説・散文・詩をまとめた第一作品集。鋭敏で繊細な感受性、細部にわたる緻密な観察、情熱や嫉妬といった心理の微妙かつ執拗な探究、スノビスムへのこだわりなど、大作『失われた時を求めて』にも見られる特徴の数々が本書にはすでに現れている。作家プルーストの原点。 (AMAZON解説より)

 

  1892〜94年に彼が同人誌などに寄稿した作品を集め、師のアナトール・フランスに序文を、挿絵画家マドレーヌ・ルメールに花々の挿絵を依頼し作成された豪華本で、1896年にようやく完成しました。彼はこれを自費出版し、しかも買ってくれそうな友人知己には献呈したため、ほとんど売れなかったそうです。

 

  それ故に「社交界で有名な有閑作家が手遊びに書いて道楽で出版した」程度にしか思われず、文学界では話題にも登らなかったのですが、その評価が一変したのはやはり「失われた時を求めて」(「スワン家のほう」(1913)「花咲く乙女たちのかげに」(1919))で彼が一挙に有名になってからでした。

 

  雑多な作品を集めて詰め込んだと思われていたそうですが、構成を見るとおそらくそうではなくプルーストらしい美学が垣間見えます。

 

 序(アナトール・フランス

 献辞

シルヴァニー子爵バルダサール・シルヴァンドの死 *

ヴィオラントあるいは社交生活 *

イタリア喜劇序章 **

ブヴァールとペキュシュの社交趣味と音楽マニア *

ド・ブレーヴ夫人の憂鬱な別荘生活 *

画家と音楽家の肖像 ***

若い娘の告白 *

晩餐会 *

悔恨、時々に色を変える夢想 **

嫉妬の果て *

 

*: 短編小説

**: エチュード的散文

***: 詩

 

中央に詩集である「画家と音楽家の肖像」を配し、その前後に「小説ーエチュードー小説」を対称的に配置していることがわかります。選から漏れた作品も、この文庫版には収録されています。

 

付録

夜の前に

思い出

アレゴリー

つれない男

 

「夜の前に」は女性の同性愛をテーマとしてあるので外したと考えられています。「つれない男」は初出が1896年で長い間行方不明であったものを書簡研究家コルプ氏が執念で探し出し、なんと1978年になってようやく日の目を見たそうです。

 

  小説では愛、背徳、苦悩、嫉妬、死、スノビズム、芸術といったテーマが上流階級の社交界を舞台として描かれ、その背後にはプルーストの同性愛対象であったと言われる音楽家レーナード・アーン等の影がちらつき、散文では花、月、海、木立等々の自然描写がパリやノルマンディーといった「土地の名」とともに鮮やかに描かれています。

 

  どれもこれも全て「失われた時を求めて」において花開く材料ばかりで、この頃の修練があの大作につながっていくのだな、という感慨をいだきながら読んでいました。

 

  しかし、あの大作をもし彼が発表せずに亡くなっていたらどうだったか?

 

自意識過剰がプンプン鼻につく、華美な文章で埋め尽くされた、有閑作家の若書き

 

という評価のまま、文学史の彼方にうずもれてしまっても致し方のないところだったと思います。アナトール・フランスが序を書くのを嫌がったので出版が遅れたという話も(代筆という噂まであった)満更作り話でもないのでは、と思います。

 

  個人的には「庶民」の描写がほとんどないことに薄っぺらさを感じました。「失われた時を求めて」では女中のフランソワーズを始めとして多くの庶民階級を描いており、貴族、ブルジョア、庶民という三階層全てを登場させることにより作品に厚みをもたらしていたのだな、と今更ながらに再確認できました。

 

  以上のことを鑑みるに、やはりこれは「失われた時を求めて」を読んでから読む本なのでしょう。私にはクールダウンとしてちょうどよかったと思います。

  未読の方には、例えばエチュードの「悔恨、時々に色を変える夢想」の習作群あたりが、自分がプルーストの文章に親和性があるかどうか、「失われた時を求めて」を読み続けられそうかのリトマス試験紙になると思います。

 

  試しに、いかにもな文章を二つ挙げておきます。気に入ればこの本を踏み台にして「失われた時を求めて」にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

 

 僕は貴女の花を取りはずす。貴女の髪をもち上げる。宝石をちぎり取る。貴女の肉肌に届き、砂に打ち寄せる海のように、僕のキスがあなたの肉体を覆い、打つ。しかし貴女自身は僕の手を逃れ、貴女といっしょに幸福も去っていく。(p262、二十五 愛の光による期待の批判)

 

 現実だけでは満足できないことを予感したかのように、初めて悲しみを覚えるよりも前に、まず生を嫌悪し神秘の魅力に惹かれる人々。海はそういう人々を魅惑してやまないだろう。まだどんな疲れも覚えたことがないのに、もう憩いを必要とする人々を海は慰め、漠たる昂揚に誘うだろう。(p266、二十八 海)

 

 

太陽と乙女 / 森見登美彦

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   モリミーこと森見登美彦の「太陽と乙女」です。(いろんな意味で)衝撃のデビュー作「太陽の塔」と(乾坤一擲待望の女性ファンを一気に増やした)代表作「夜は短し歩けよ乙女」を合体させたような題名からして、またまた京大腐れ大学生と妄想不思議乙女が活躍するモリミー節全開の快作(怪作)かっ!?

  と期待したそこのあなた、、、残念

 

  ご本人曰く、小説家として出発した2003年以来約14年にわたって様々な媒体に発表してきた、現時点での「森見登美彦エッセイ大全集」です。この現時点とは平成29年なのですが、今回(R2年)文庫化され、それに当たって親本刊行後に書いた文章を新たに二篇収録したそうです。この文庫版が「新潮文庫の100冊2020」のリストに上がっており、この際再度モリミーの売り上げに寄与すべく文庫版を買ってきました(恩着せがましい)。

 

  いやあ、どこもかしこも面白い!どこかで読んだ話も多いのですが(親本読んでるから当たり前だろうというツッコミは無しね)、珍妙軽妙洒脱自虐のモリミー節が随所から立ち上り、抱腹絶倒とはいきませんが、クスクス笑えます。

 

  結構全体として分量があり内容も盛り沢山なので一つ一つ紹介するわけにもいきませんが、各章をさらっとみていきましょう。

 

第一章 登美彦氏、読書する

  書評集です。さすがプロ、読ませますし、この本買おうかな、という気にさせます。なんせ冒頭のつかみが上手い。例えば北野勇作の『カメリ』の解説の書き出し。

 

この小説『カメリ』には、ダンゴロイドというナイスな名前の存在が登場する。

 

ダンゴロイド」という名前を出すことでグッと興味をそそり、「ナイス」というベタな表現でたたみかける。聞いたことのない作家でも(とりあえずレビューは)読みたくなります。

  氏自身も、綿谷りさの「憤死」の解説中で

 

笑える話というものはさりげなく始めるといつまで経ってもへなへなするきらいがある。冒頭から思い切った一撃を加え、手前勝手に勝利を宣言することこそが勝利への道であると私は思う。

 

と書いておられます。自分のレビューもこうありたい、と思うのですがなかなか真似できないですわ。

 

第二章 登美彦氏、お気に入りを語る

  続いて映画評等々雑多なレビュー。ここでも「冒頭の一撃」の法則は生きています。特に日本映画史に燦然と輝く「砂の器」評の最初の一文、

 

 すごいという噂は聞いていた。

 

はすご過ぎる!「砂の器」をこれ以上簡潔明瞭に表現しきるのは不可能でしょう。   もちろん冒頭だけではありません、「ルパン三世」の思い出、

 

私がどれくらいぼんやりしていたかというと、銭形警部のことをルパンのお父さんとおもっていたぐらいである。なぜならルパンが「とっつぁん」と呼ぶからだ

 

は、もう天然なのかネタなのかわからない。

 

第三章 登美彦氏、自著とその周辺

  デビュー前後の出来事などなど大体知っている事ばかりでしたが、2011年連載仕事を引き受け過ぎて頭がパンクしてしまい、東京から都落ちして奈良にすっこんで一年ぶらぶら過ごした、ファンには有名な黒歴史を冷静に語っておられるのが印象的。立ち直られて何よりです。

 

  また京都という土地にこだわる続けているようにみえて、「失われた時を求めて」で「土地の名・名」という章まで設けたプルーストばりに

 

もし景色が変わっていても、我々には地名という心強い味方がある。じつのところ私は、地名さえあればなんとかなる、というふうに思っている。

 

と書いておられるあたりは、さすが作家だな、と感心。

 

第四章 登美彦氏、ぶらぶらする

  旅行記、近辺記など、個人的にはこの章が一番好きです。

 

  小説中のキャラのようなユニークな女性編集者矢玉さんとの東京ショートトリップや結構本格的な山陰行も読ませますが、何と言ってもモリミーと同じ奈良県人である私には、ご本人曰くの私なりの奈良のほそ道『2017年近所の旅』シリーズが嬉しい。   特に、奈良県人にとって

 

西大寺は寺の名前ではなく、近鉄の駅の名前である

西大寺からはどこへでもいける、近鉄西大寺駅は世界の中心

 

説には思わず拍手喝采

 

  中高6年間、N女子大付属に通っておられた登美彦氏は近鉄生駒ー奈良を利用、T大寺に通っていた私は車内全線路線図で唯一名前を載せてもらえない超弱小駅から西大寺経由で奈良まで通っていたので、氏の思い出の数々と共鳴しまくりました。

 

  特に、生駒―奈良であれば西大寺は通過するだけなのに、好きになった女子が西大寺で乗り換えするのでわざわざ降りて彼女に近づこうとするエピソードには爆笑。結構あるんですよ、そういう事例は。西大寺恋のハブ駅だったのです。

 

第五章 登美彦氏の日常

第六章 「森見登美彦日記」を読む

第七章 空転小説家

 

  奈良で興奮してしまい長くなり過ぎたのであと三章は割愛させていただきます(をいをい。

 

  とにかく、ご本人もまえがきで書いておられますが、これほど「寝る前に読むべき本」としてぴったりのものはない。奈良県人なら必読、そうでない方も是非枕元に置いて寝てください(寝るのか)。

 

少年の頃から物語を描いていた。我が青春の四畳半時代。影響を受けた小説、映画、アニメーション。スランプとの付き合い方と自作への想い。京都・東京・奈良をぶらり散策し、雪の鉄道旅を敢行。時には茄子と化したり、酔漢酔女に戸惑ったり。デビュー時の秘蔵日記も公開。仰ぎ見る太陽の塔から愛おしき乙女まで、登美彦氏がこれまで綴ってきた文章をまるごと収録した、決定版エッセイ大全集。(AMAZON) 

 

盤上の夜 / 宮内悠介

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 「宮内悠介を読もう」シリーズの五冊目はデビュー作「盤上の夜」です。本来なら真っ先に読まねばならないところなのですが、本作のテーマであるボードゲーム類が全く不得意であることと、紹介文やレビューで「盤上の夜」の主役の設定が嫌だったことで、故意に避けていました。しかし傑作である「ヨハネスブルグの天使たち」に出会えたことで吹っ切れ、本腰を入れて宮内悠介を読みたくなり、この処女作を手に取った次第です。

 

  前作でまとめた宮内悠介の短編集の特徴はこの処女作で既に確立されています。再掲しますと

 

・ ゆるやかに連関のある短編を重ねて全体として統一した世界観を提示する

・ 日本語題名にある程度統一性を持たせる

・ 英語のサブタイトルで内容を示唆する

・ 参考文献を提示する

 

となります。本作の場合は「ボードゲーム」がテーマで、取材記者である「わたし」が一作品を除いて語り手として登場し、最初の作品と最後の作品では主人公が共通しています。

 

  日本語と英語のタイトル、本文、参考文献という体裁も本作ですでにそのスタイルを確立しており、デビュー当初からかっちりとした構成のできる作家であったことがよくわかります。

 

  そして驚くべきは、練りに練られた完成度の高いプロットと、理系的なドライで分析的な文章。いわゆる「キレッキレ」な作品集で、これはデビューから注目を集めるわな、と感心しきりでした。敢えて言えば、ご本人が「超動く家にて」のあとがきで書いておられた

処女作がシリアス過ぎて、このままでは、洒落や冗談の通じないやつだと思われてしまわないだろうかというのがバカ小説執筆のきっかけ

という一節がよく理解できるような、あそびのない張り詰めすぎた展開、そしてややドロドロした設定があるのが気になったと言えば気になりました。また、最初に書いたようにボードゲーム類がからっきしダメなのが悔しかったです。詳しい人なら倍楽しめると思いますし、解説で沖方丁氏が書いておられるように、共通した語り手である「わたし」の心の動きもより理解しやすいのだろうと思います。

 

  それにしても「栴檀は双葉より芳し」という喩えがピッタリくるような処女作でした。

 

  以下、寸評です。

 

盤上の夜 Dark beyond the Weiqi 囲碁(Weiqiは中国語の囲碁の事)

  慰みものにするために海外旅行中の女性の四肢を切り取るという都市伝説を題材にしていると聞いていたので読むのを躊躇っていた作品。その辺はさらっと流し、四肢をもがれた天才女性棋士灰原由宇と彼女の棋風に魅入られた日本の元棋聖相田淳一が囲碁界に起こした嵐が、取材記者の目を通して極めてドライな筆致で淡々と綴られるので、意外に引っ掛かりなく読めました。

  特に彼女が盤上に「感じて」いた世界の描写が素晴らしい。そこから一捻りした上で沖方氏曰くの“本書における最も静かで美しいクライマックス”に持っていく技量は新人離れしています。囲碁をよく理解している人ならもっと深く感じるところがあるのでしょう、そこが悔しかった。

 

人間の王 Most Beautiful Program チェッカー

  実在した無敗のチェッカープレーヤー、マリオン・ティンズリー。彼は1992年にシェーファーというプログラマーが考案したシヌークというプログラムと対決したことでも有名だそうです。その人間チャンピオン対コンピューター最強プログラムの対戦についての、一問一答形式の取材という形式で話は進むのですが、インタビューに応じている人物が誰か、というのがこの話のミソでなかなか面白かったです。

 

清められた卓 Sharman versus Psychiatrist 麻雀

  麻雀は大体ルールがわかるので、面白く読めました。伝説の対局についての取材から浮かび上がってくる、透視能力があるとしか思えないシャーマン女性の真実。宮内悠介自身プロ麻雀試験に補欠合格した経歴の持ち主なので、麻雀理論の説明がすごいのですが、その一方で無敵のシャーマン女性の打つ手が無茶苦茶弱かった私がやるような手ばかり。その種明かしに笑ってしまいました、TVバラエティ番組「突破ファイル」MCのうっちゃんなら「惜しい!」と言ってくれてるかも(笑。

 

象を飛ばした王子 First Flying Elephant チャトランガ

  将棋やチェスの起源と言われる古代インドの盤上遊戯チャトランガの発案者として、家族を捨て出家した釈迦の息子を設定したところが宮内悠介の慧眼です。捨てられ小国の生き残りを任されてしまった王子が戯れに考えだし、大人になって、帰ってきたシッダルタと盤上対決する場面が感動的で、この作品は一個の独立した作品として素晴らしい。

 

千年の虚空 Pygmalion's Millenium 将棋

  これも作品としては素晴らしい出来栄えですが、そのドロドロさにはちょっと辟易。「盤上の夜」を最初に読んでいたら早々に宮内悠介から退散していたかも。そういう意味では、今になって読んで正解でした。

 

原爆の局 White Sands, Black Rain

  「盤上の夜」の主人公の二人由宇と相田、そしてを追いかける記者「わたし」と第一作で由宇に勝てなかった棋士井上隆太の四人が再登場、舞台はアメリカへと移ります。それと並行して昭和20年8月6日の広島で行われていた本因坊戦が描かれ、絶妙にリンクしてラストの由宇と井上の決戦に雪崩れ込みます。観戦している「わたし」が“このとき現実の底がぬけた。部屋は透明な海水に満ち、透明な魚の群れが音もなく横切っては消えた。”と感じてからのめくるめくような展開は見事なものでした。囲碁をよく知る人であれば最後の由宇の言葉

 

「 ーーー 九割の意思と、一割の天命です。」

 

に感じ入る事ができるのだろうと思います。

 

  以上、ボードゲームと人生の「完全解」を求め続ける人間たちの「さが」を描き尽くした短編集でした。( ← と、ボードゲームを知らぬ人間が結論づけてもいいのか? )

 

 相田と由宇は、出会わないほうがいい二人だったのではないか。彼女は四肢を失い、囲碁盤を感覚器とするようになった―若き女流棋士の栄光をつづり、第一回創元SF短編賞山田正紀賞を贈られた表題作にはじまる全六編。同じジャーナリストを語り手にして紡がれる、盤上遊戯、卓上遊戯をめぐる数々の奇蹟の物語。囲碁、チェッカー、麻雀、古代チェス、将棋…対局の果てに、人知を超えたものが現出する。二〇一〇年代を牽引する新しい波。(AMAZON解説)

プルーストと過ごす夏 / アントワーヌ・コンパニョン他

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  先日読了したマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」ですが、読み終わってホッとするかと思いきや、逆にズルズルあとを引いています。この化け物のような、この本の著者の一人に言わせれば“いささか奇怪で、見事な具合に失敗している”小説は一体何だったのか?それをずっと考えていますし、分かっていない部分や読み落としている部分があるんじゃないかという不安に駆られます。かと言って、じゃあもう一回読むかと気軽に再読できる長さと文章じゃない。

 

  もちろん訳者の高遠弘美氏や吉川一義氏の詳細で丁寧な解説はありがたいものでしたが、本国フランスの方の捉え方も参考になるんじゃないか、と思って手に取ったのがこの本です。

 

  2013年の夏、フランス・アンテノールのラジオ番組で8人の現代フランスを代表するプルースト研究者、作家たちが、それぞれの視点から『失われた時を求めて』の魅力、“自分の心にかかるテーマと自分を変えた1ページ”を選び、語った内容を、あらためて文章に起こしてもらったものだそうです。それを番組の聞き手で本書の編者ローラ・エル・マキが、各人の一小節ごとにテーマを提示しつつ上手くまとめています。

 

第一章 時間 アントワーヌ・コンニョン

第二章 登場人物 ジャン=イヴ・タディエ

第三章 プルースト社交界 ジェローム・プリウール

第四章 愛 ニコラ・グリマルディ

第五章 想像界 ジュリア・クリスティヴァ

第六章 場所 ミシェル・エルマン

第七章 プルーストと哲学者たち ラファエル・アント―ヴェン

第八章 プルーストと芸術 アドリアン・グーツ

 

  全く知らなかったことや特別に目新しい内容はなかったですが、ラジオ番組をもとにしただけあって親しみやすく、「そうそうそうなんですよ!」とか、「え、そうかな?」とか、「間違ってたら恥ずかしいから書かなかったけどやっぱりそうなのか!」とか、いろんなツッコミをいれながら読んでいました。

 

  それにしても「失われた時を求めて」という小説は如何様にも読めるし、如何様にもテーマを掘り起こせる。おまけに、語り手「私」が最終章で「もし事故死してしまえば自分の頭脳の中の鉱床がすべて失われかつ掘り起こすことができなくなってしまう」と危惧したように、彼は刊行途中で病死します。アントワーヌ・コンニョンは書いています。

 

もし彼がもっと長く生きていれば、この本は三千ページではなく四千ページになっていた可能性すらある。『囚われの女』と『消え去ったアルベルチーヌ』と『見いだされた時』はもっと増えてしたかもしれないのだ。(p26)

 

ですから、読み終えて「まだ何か読み残しているかもしれない」と思うのは私だけでないのかもしれません。とはいえ、まあ三千ページだけでも完読するのは大変。まして全てを理解するのは不可能に近い。ということで、この8人の言葉を借りて、私なりに通巻での「失われた時を求めて」の再検討を試みてみます。

 

以下レビュアー自己満足の長文ご容赦のほどを。 (ちなみに引用文が「だ・である調」(これについては訳者解説あり)なので地の文もそれに従います。)

 

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  まず、「失われた時を求めて」の一般認識はこうである。

失われた時を求めて』は、うまく分類することが永久に不可能な種類の本の一つである。それこそが、この本の力であり、深さなのだ。一度読んだ人は十年経ってからまたこの本を読み返すだろう。(中略)とはいえ、非常に有名なこの本を、全部通して読んだ人となるとまれだ。当初から変わらない法則が一つある。第一篇『スワン家のほう』を買った人のうち、半分だけが第二篇『花咲く乙女たちのかげに』を買い求め、『花咲く乙女たちのかげに』を買った人のさらに半分だけが『ゲルマントのほう』を買い求める。しかし、それからあとはもう挫折する読者はいない。『ソドムとゴモラ』『囚われの女』『消え去ったアルベルチーヌ』を経て、『見いだされた時』へとたどりつく。(pp16-8)

  この、ストーリーだけとってみれば要約するのに半ページも要らない物語が何故かくも多くの人を挫折させるのか?それはひとえに、長くて難解な文章のせいである。

モンテーニュプルーストは、どちらも息の長いセンテンスを好む。とはいえ、長くなってしまう理由は同じではない。モンテーニュは<引き伸ばし>のために長くなるのであり、プルーストの文の長いのは、本質的に<付け足し>によるものだ。言いかえれば、モンテーニュの文は内部で膨らむのであり、一方、プルーストの文は途方もなく外に延びていくのである。(p248)

 

プルーストの長い文は非常に特殊だ。(中略)だが、プルーストは短い文を書くのもうまい。(中略)第一文「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた」は、巻の幕開けとしてまさに天才の思い付きである。(p26-7)

  つまり文章の性質を把握し、読むのに慣れれば、通読は可能だしその文章を楽しむことがこの小説を読む楽しみにもなりうる。ハイレベルの読者はこんなことさえ言っている。

「短いのに長く感じさせる作品というのがある。プルーストの長い作品は、僕には短く感じられる」ジャン・コクトーは『失なわれた時を求めて』を、こんなふうに語ってみせた。(中略)この本を読むと、そこから抜け出したくないと思ってしまう(p24)

  ただ、その文章の性質ゆえに、流れがつかみにくいのは事実。時の流れ、時代の流れ、ストーリーの展開など、小説の技法を無視してひたすらダラダラ書いているように思える。しかし、それは違う。

彼は周到に物語を構成していた。 この本は、非常に周到に組み立てられている。さらさらと筆が流れるままに書いたかのような見かけにだまされた人もいたわけだが、この本は、あらかじめの準備と、いくども戻って考え直した末の賜物なのだ。(p42)

 

彼は知性よりも心情の間歇のほうを好んだ。知性は時にがっちりと構築されすぎた記念構造物のようになりがちだからだ。ジョン・ラスキンによれば、記念構造物には、錆や風化が必要だという。あの、石を輝かせる時の経過が必要だと。とても頑丈なああした建造物から、構造を消し去り、一目見ただけでは構造がわからないようにしなければならないのだ。知性は図面を引き、土台を造ることを可能にする。だが、プルーストの知性は、さらにその上をいく知性であるために、その図面を半ば消し去り、人が何も見抜けないようにしたのだ。なぜなら、最初にまず印象付けなければならないのは、だからである。そこにこそ、この小説の名作たるゆえんがある。(p307)

  つまり、流れのつかみにくさこそがプルーストの美意識そのものだったのだ。ただ、“本質的に<付け足し>によ”り長くなっていった故に、前後関係の齟齬や死後出版分の訂正しようのない間違いも多い。特に問題なのは

『スワン家のほう』と『見いだされた時』の結末の間には齟齬がある。このことは構造上の問題を生む。(p45)

なのだが、

最後まで読んだ読者はもうそのことについてはもうそのことについて理解し、折り合いが心の中でついている。 「優秀なる読者」には、そんな標識は必要ない。彼はもう文学の、生と死を贖ってくれる、贖罪の役割に気がついている。この意味で、『失われた時を求めて』は幸福な書物だ。幸せな終わりを迎える本なのである。(p45)

  そのようなエクリチュール(書く方法)は写実主義的とは相容れない。とは言え、無意識的記憶に従ってでも自らの人生を描こうとした以上、彼の生きた時代と全く無縁であったわけではない。

プルーストは社会的にも文化的にも宗教的にも、つねに二つの世界に属している。(中略)彼にとってのジレンマは、ハムレットのように「生きるべきか、死ぬべきか」ということではなく、「その中に属すべきか、属さざるべきか」ということなのだ。この態度をもって、彼はフランス社会を痛烈に批判する。(p193)

 

プルーストは、歴史上の出来事など、芸術にとって、鳥の歌声ほどに意味がないと主張していた。だから彼は写実主義的な小説は書かなかった。けれども(中略)物語の筋は、おおよそプルーストの生涯の年譜と対応しているわけだ。ただ、何人かの登場人物は、歳をとらない。たとえば女中のフランソワーズ。(pp34-5)

(このフランソワーズの指摘は面白い。)

プルーストは単なるスノッブで繊細な作家ではない。本当に読んだことのない人が、そう想像しているだけである。彼はからかい好きで残酷な書き手なのだ。その壮大な詩想と超敏感な感受性とは別に、何か奇妙でいびつな部分が彼のうちにあることは,頭に留めておく必要がある。『失われた時を求めて』は、キュビズムの絵画と同時代の作品なのだ。(p107)

  そう、この小説の主要登場人物や、彼らが集う社交界は語り手の目を通して、キュビズム的に特徴(彼の言葉を借りれば印象か)が強調されているように感じる。その一挙一動を執拗に観察し書き続ける語り手。それがこの物語の大きな特徴であると感じる。

けれども、私がとりわけ愛着をもっているのは、この物語の登場人物たちである。人はこの小説の語り手の声に、その人生に、還元しすぎるきらいがある。(中略)そこには巨大な登場人物のシステムー女たち、男たち、子どもたち、老人たち、使用人たち、大貴族たち、政治家たち、兵士たちーがあることを忘れてはならないのである。(p61)

 

プルーストの描く社会は非常に閉鎖的な社会だ。それはいわば<長く生き永らえ過ぎた者たち>の社会であって、それ自体パロディのようなものである。(中略)現実社会の中で、おとぎ話の世界を生きているのである。こういう世界を思い描くには、フェデリコ・フェリーニの映画を思い浮かべるのがいいのかもしれない。(p108)

  そのような登場人物で、最も代表的な人物は、実在の裕福なユダヤ人シャルル・アースをモデルにしたスワン氏であろう。

そもそもスワンは、その人生の挫折により、おそらくプルーストの作品の中でもっともニーチェ的な登場人物だと言っていいだろう。(中略) スワンの挫折は『失われた時を求めて』にとって必要なものだった。ツァラトゥストラの挫折がニーチェの待ち望む超人性にとって不可欠であったように。(中略)ニーチェの超人思想とは、要するに永劫回帰を望むほどまでに生を愛することだったのだが、プルーストもまた同じく生を愛していたのである。(p266)

  このスワン氏にしても、語り手にしても、とにかく恋人(それぞれオデット、アルベルチーヌ)への嫉妬に苦しめられるし、恋愛中は世間との関係を断ってしまいさえする。「苦痛」が愛することそのものであるかのように。それは厭世主義的な点においてショーペンハウワー的とさえ言えるが、安易にショーペンハウワーを持ち出すのはオリヤーヌにバカにされ激怒されるカンブルメール夫人の轍を踏む事になりかねない。

ショーペンハウワーは社交界の哲学者である。社交界、つまりスノッブたちの世界の。(中略)たとえば、カンブルメール夫人はショーペンハウワーをよく引き合いに出す。なぜなら、そうすることで安手に自分を輝かせることができるからだ。(中略)ショーペンハウワーは、その哲学をひけらかしに使う人のとっては実に魅力的なペシミストなのである。(p256)

 

プルーストにおいても、ショーペンハウワーにおいても、<私>だけにこだわるならば、存在は袋小路だということになってしまう。だが、一個人の小さな生が描き出す地平線を越えて、その向こうにまで眼差しを向ければ、厭世主義は乗り越えることができるのだ。(p259)

  また先日レビューした「収容所のプルースト」でも指摘があったように、プルーストは安易に「」を持ち出さない。

プルースト以後、彼が小説の中で探し求めたこの「無神論の美徳」は失われてしまったのではないだろか。シュルレアリストたちは狂気の愛を探し求めた。実存主義者たちは政治革命の熱狂に身を投じた。ヌーヴォー・ロマンは耽美主義を復権させた。そして「自伝的小説」は今日、超自我のスキャンダルを神聖なものとして特別視している。しかし、一つの立場に立つのでも、その反対の立場に立つのでもなく、常に横断的で俯瞰的な姿勢を貫くプルーストに比べると、彼以後の文学は全て局地主義的なものに見え、色あせてしまう。(pp196-7)

 

  敢えて言えばプルーストは芸術至上主義者である。スワン氏と並ぶ重要人物であるシャルリュス男爵はその奇矯な性格と倒錯した性愛の嗜好にもかかわらず、芸術への造詣の深さにより燦然と輝いている人物であるし、そのすべてを書き続ける語り手「私」の文学、音楽、絵画、演劇等々の造詣の深さはただものではない。

 

  そして架空の人物であるヴァントィユ(作曲家)の音楽、エルスチール(画家)の絵画、ベルゴット(作家)の作品、それらを文字で表現していくプルーストの凄さもただものではない。

小説の中で、プル-ストは音楽のフレーズ―ヴァントィユの楽句ーについて、ほとんど文体論的なコメントを書き綴っているが、それはまさにそれ自体一つの文学的小品と言っていいようなコメントである。(中略)プルーストはこうして小説の中で一人の音楽家を創造しているのだ(以下略)(p288)

 

ベルゴットはフェルメールの絵の前で死ぬ。もしかしたら、「アナトール・フランス風の」偉大な作家が他界することが、新しい作家の誕生のために必要だったのかもしれない。(中略)ベルゴットは死に、やがて生まれるべき本がようやくその扉を開くことになる。(p304)

 

この本を通して、プルーストは創作に取り組む芸術家の姿を見せてくれている。それは彼自身の鏡でもある。彼は、自分の数々の彫刻作品をたった一つの作品「地獄の門」の中に集めたロダンや、「睡蓮」の連作を描いたクロード・モネと同じ意思に突き動かされているのだ。それはワーグナー的な計画だと言ってもいい。それ自体一個の世界となりうるかもしれないような作品を作るということである。プルーストはサン=シモンの『回想録』の系譜に連なると同時に、またバルザックシャトーブリアンの末裔でもある。(p282)

 

結論:

 

プルーストは読みやすい作家ではない。その文は一つ一つが長く、描かれる社交界の夜会はいつ終わるともしれない。恐ろしくなる。だが、本を恐れるのは当然なのだ。なぜなら、本というものは、私たちを変えてしまうものだから。プルーストの作品のような小説に飛び込み、それを本当に読んだなら、その最後まで行き着いたなら、人は違う自分になってそこから出てくる。(p18) 

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二十世紀文学の最高峰と言われる、プルースト失われた時を求めて』。この大作に挑戦するには、まばゆい日差しのもと、ゆったりとした時間が流れる夏休みが最適だ―。本書は、現代フランスを代表するプルースト研究者、作家などが、それぞれの視点から『失われた時を求めて』の魅力をわかりやすく語った、プルースト入門の決定版である。(AMAZON解説)

 

空の青さを知る人よ / 額賀澪

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   人気アニメ制作チーム超平和バスターズの、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(通称「あの花」)」「心が叫びたがってるんだ(通称「ここさけ」)」に続いて昨秋公開された「空の青さを知る人よ」のノベライズ作品で、書いておられるのは超平和バスターズではなく、額賀澪という作家さんです。映画は公開時に観ており、今回 #カドフェス2020 のリストにあったので読んでみました。

 

  舞台は「あの花」「ここさけ」とこの作品を入れて秩父三部作と呼ばれている通り、今回も脚本担当の岡田麿里の故郷秩父市です。山に囲まれた風光明媚な土地ではあるけれど、都会志向の若者にとっては山に囲まれた盆地が“牢獄”のように思える田舎町。

 

  主人公は相生あかね(31)、あおい(17)姉妹。小説はあおいの語りで終始進められます。

 

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映画館で買ったクリアファイル。左からじゅん(ここさけ)、あおい(空青)、めんま(あの花)

 

  二人は13年前に交通事故で両親を亡くし、あかねが親代わりとなりあおいを育ててきました。あかねその当時高3で、当時つきあっていた金室慎之助(通称「しんの」)と二人で上京し専門学校へ進学するつもりだったのですが、そういう事情で故郷に残りました。「しんの」はバンドを組んでいたのでギタリストとして成功する夢を持って上京し、それきりになっていました。あおいは当時4歳で、バンドに差し入れにいくあかねにくっついて練習場所の寺のお堂にいっては「しんの」に可愛がられ、将来バンドのベーシストにしてやると言われていました。

 

  時は流れ現在、あおいはこれ以上あかねの負担になりたくないと、高校卒業後進学せず上京する決意を固めています。そしてベーシストとして音楽業界での成功を夢見て、今もあのお堂で練習を重ねています。あかねは役場に勤め堅実な生活をしつつ、あおいの送迎までしています。高校時代のバンドのドラマーであったバツイチコブツキの中村正道はあかねに気があり、あわよくば結婚したいと思っていますが、あかねはいつもはぐらかしています。

 

  そんなお膳立てをした上でのある日、お寺のお堂で練習するあおいの前に、13年前そのまんまの「しんの」が現れたからさあ大変!

 

  しかも同じ日にあかねとあおい、正道親子の前に、正道が町おこしイベントで招聘した大物演歌歌手のバンドの専属ギタリストとして、本物の慎之助が現れた!

 

  お堂の「しんの」は「生き霊」なのか?にしても何故?

 

  そこからあおいとあかね、「しんの」と慎之助の奇妙な四角関係騒動が始まります。超平和バスターズお得意の不思議でちょっと切なくて「大人でも泣ける」物語、あとは読んでのお楽しみ。

 

  全体に丁寧にノベライズされており、作家としての個性は消してうまく各シーンを文字で再現していく額賀澪さんの筆致には好感が持てます。ゴダイゴガンダーラの音楽とともに、どのページをめくっても半年以上前に見たきりであった映画のシーンが鮮明に蘇ってきました。あかねが卒業文集に書いた

 

井の中の蛙 大海を知らず されど 空の青さを知る

 

の意味、そして使われ方もうまく再現されています。

 

  敢えて言えば、あおいの語りで話が進むため、他の人物、特に今回は正道の掘り下げ方が浅かったように思いました。

 

     それでも映画をしっかり追体験でき、映画ではエンドロール中の絵での紹介でしか見られなっかった「その後」についても「エピローグ」でしっかり書かれていますので、映画が好きな方にはお勧めです。映画がまだの方でも一日あれば十分読めますし、イラストもたくさん挿入されているので楽しめます。ストーリーが気に入ればぜひ映画もご覧ください。

 

  これからも超平和バスターズからは目が離せません! ( ← 額賀澪さんじゃないのか )

 

『あの花』『ここさけ』の長井龍雪監督が贈る、最新映画の小説版 山間の街に住む高校生・相生あおい。進路を決める時期なのに大好きな音楽漬けの日々を送る。 そんな彼女を心配する姉・あかねの昔の恋人で、高校卒業後に上京したきりだった慎之介が、街に帰ってきた。 時を同じくして、あおいの前に、高校時代の姿のままの慎之介こと「しんの」が現れる! やがてあおいは、しんのに恋心を抱いていくが……。 一方、あかねと慎之介も13年ぶりに再会を果たす。 過去と現在をつなぐ、「二度目の初恋」が始まる。(AMAZON解説より)