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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

収容所のプルースト / ジョセフ・チャプスキ

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  マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」を完読できれば読みたいと思っていた本です。光文社古典新釈文庫版の翻訳をされている高遠弘美氏が第三巻「失われた時を求めて〈3〉第二篇・花咲く乙女たちのかげに I」の解説でこの書に言及し、手もとにテキストがあるわけでないのに

プルーストの表現を一旦自分のなかにいれて咀嚼し(中略)あまりにも見事に綴り直すチャプスキの「記憶」は、フローベールボードレールについて、本そのものが手もとになかったために、記憶だけで引用してすばらしい批評を書いたプルーストその人を想起させる。(中略)勘所を外さないその「引用」と原文を比べると、言いようのない感動に襲われる。(中略)何かの作品を愛するとはまさにこういうことでなければならない。

と絶賛されていたので、これは読まねばと思っていました。

 

  一方で根本的な疑問も二点ありました。

 

1: 収容所という極限の状況下で軍人が何故フランスの社交界と恋愛を延々と描き続けるこの作品を選んだのか?軍人捕虜たちがそれを本当に喜んで聞いていたのか?

2: 本当にテキストなしでこの数千ページに渡る長編小説を講義できるのか?

 

  先週(2020/6/26)ようやく「失われた時を求めて」を読み終えましたので、さっそく読んでみました。

 

1939年のナチスソ連による相次ぐポーランド侵攻。このときソ連強制収容所に連行されたポーランド人画家のジョゼフ・チャプスキ(1896 - 1993)は、零下40度の極寒と厳しい監視のもと、プルースト失われた時を求めて』の連続講義を開始する。その2年後にチャプスキは解放されるが、同房のほとんどが行方不明となり、「カティンの森」事件の犠牲になるという歴史的事実の過程にあって、『失われた時を求めて』はどのように想起され、語られたのか? 現存するノートをもとに再現された魂の文学論にして、この長篇小説の未読者にも最適なガイドブック。(本の帯の解説より)

 

  まず最初にお断りしておきますが、訳者によりますと、本書が本当に収容所内の講義の忠実な記録であるのかどうかに関しては多くの疑問があり、真相はわからないのだそうです。その上でですが一応は収容所内の講義録として上記1,2の疑問を検討していきたいと思います。

 

1について: 「収容所という極限の状況下で軍人が何故フランスの社交界と恋愛を延々と描き続けるこの作品を選んだのか?軍人捕虜たちがそれを本当に喜んで聞いていたのか?」

 

  まず状況については理解できました。この講義はチャプスキだけが行ったものではなく、皆がそれぞれの得意分野を講義しあったのです。その中にはイギリスの歴史、移民の歴史、建築の歴史、南米のことなど様々なテーマがあり、チャプスキ自身も

フランスとポーランドの絵画について、そしてフランスの文学について一連の講義(p016)

を行ったと書いています。

 

  「失われた時を求めて」は主要なテーマではあったのでしょうが、一連の講義の一部に過ぎなかった。それであれば、素直に頷けるところです。

 

  その目的は本書の原題名に端的に表れています。「(Proust) contre la decheance」は「精神の荒廃に抗する」(高遠氏)、「精神の『堕落』への抵抗」(岩津氏)という意味であり、人間性を失わないための捕虜たちの必死の努力だったのでしょう。チャプスキは端的に

精神の衰弱と絶望を乗り越え、何もしないで頭脳が錆びつくのを防ぐために(p014)

この知的作業に取りかかったと述べています。

 

  次に、「軍人が」という点は私に大きな誤解がありました。チャプスキは軍人である前に画業を始めとして様々な分野に通暁した当時一流の文化人であり、パリ滞在歴もありフランス語も堪能、療養中に「失われた時を求めて」を読破しその評論も著していました。

 

  また、彼がパリに滞在していた時期、プルーストはまだ亡くなったばかりで、「失われた時を求めて」はまだ刊行が続いており、プルーストの生きた時代の名残が強く残っていました。講義を行うにはうってつけの人物であったわけです。

 

2について: 「本当にテキストなしでこの数千ページに渡る長編小説を講義できるのか?」

 

  ではそんな彼ですから、テキストなしでも完璧な作品の解題ができたのでしょうか?

 

  答えは一方ではNO、一方ではYES、というのが私の読んだ感想です。

 

NOに関して:   まずはチャプスキの覚え違いが多いです。分厚い書物に見えて講義録の部分は100P程度なのですが、その注釈が約30P,81点にものぼっており、その多くはチャプスキの記憶と本来の内容の齟齬の訂正です。

 

  読んだ者の実感から言うと、いくら注釈で訂正を読んでも未読の方には実感がわかないと思います。例えば「消え去ったアルベルチーヌ」の内容に触れた部分。

そして、一年もたたないうちに、旅先のヴェネツィアで彼女(=アルベルチーヌ)の突然の死を知らされたときには、ほかの女との短い恋に心を奪われていて、ほとんど気にも留めませんでした。(p095)

は二重三重に間違いを重ねていて、これはちょっとひどい。 注釈で訂正はされていますが、全体の流れの中で読まないとその間違いのこみいり方がよく分からないと思います。

 

  次に、この講義録だけで物語のあらすじを追うことは不可能である、ということです。断片的にあちこちで内容は提示されますが、ほんのサワリに過ぎずそれも時系列で追っておらず、これだけで全体のストーリーを知るのは不可能です。

 

  もちろんテキストなしで数千ページを完全に覚えられるわけもなく、覚え違いは仕方ない事ですし、系統的に内容を追って行くだけの時間も資料もなかったことは明白です。卑俗な言葉で言えば「チャプスキに罪はない」。

 

  ただ、それであれば本書の宣伝として 「この長篇小説の未読者にも最適なガイドブック」 と書くのは正しくない。ただの煽りに過ぎません。この点は出版社側に再考を求めたいところです。

 

 

  さあ、ここから本番!(またかよ、という声が聞こえそう)

 

 

YESに関して:   これはもう、チャプスキの講義内容のすばらしさに尽きます。さすが高遠弘美氏が絶賛するだけのことはあります。プルーストの人となりや交友関係、思想見識のバックグラウンドなどを十二分に把握したうえで、「失われた時を求めて」に関する文学論を展開していく様は圧巻です。いやむしろ、この本を叩き台にしてプルーストその人を論じている、とさえ感じます。

 

  まずは冒頭部、チャプスキがはじめて「失われた時」に出会った当時の回想から、その文体の特殊性を浮き彫りにしていくあたりには深く共感しました。

 

  フランス語習得の過程で、簡単なフランス語で書かれた二流小説から始まって1924年当時の流行だったコクトーやモランなどの電報みたいに短く乾いた文体を読んでいたチャプスキは、全く異質のプルーストの文体に驚きます。当時のチャプスキのフランス語の知識では

 

 無数の「ところで」を含み、多様で離れ合った要素を、思いがけない連想によって繋いでいきます。複雑にからみ合った主題を、まるで上下関係がないみたいに扱っていく奇妙な方法、このきわめて的確で豊かな文体がもつ価値を、わたしはほとんど感じ取ることができませんでした。

 

  彼がプルーストに目覚めるには1年後手に取った「消え去ったアルベルチーヌ」まで待たなければなりませんでした。そして病気療養中に全巻を読破し、その真価を体得したチャプスキは、ボイ・ジェレンスキポーランド語訳があまりにも「読みやすい」事を優先したためにプルーストの意図した正確な文体を伝えていない、と批判できるまでになっていました。

 

  このあたり、日本語訳でしか読めない私には耳の痛いところですが、とにかくプルーストの文体はフランスを始めとする欧州の人々にとっても特殊であり難解なのだ、と理解できました。

 

  そこからチャプスキはどんどん思索を深めていき、

 

・ プルーストとフランス芸術(特に画家ドガとの類似性)

・ 病弱なプルーストと生涯彼を愛し続けた母

・ 母方の従兄であるベルグソンの哲学の影響

・ トルストイとの類似性と異質性

・ 第一次世界大戦の影響、戦争前に出版された「スワン家の方へ」二冊の構成の完成度の高さ(これは私も強く感じました)

・ 貴族とスノビズムについて、特にそちらに引き寄せられていたスノブなバルザックとの比較

・ 肉体の愛の問題、変態や倒錯を美化も卑下もせず描写する態度

・ ポーランド作家との比較(これは率直に言って分かりませんでした)

 

等々の検討を経て

 

 『失われた時』の思想的な結論はほとんどパスカル的である

 

という、逆説的とさえ思える結論を導き出します。このあたり、本当にスリリングで読んだばかりの内容を反芻しつつ楽しめました。また、

あの長大な数千ページのなかに、「神」という言葉は一度も出てきません。にもかかわらず、というよりも、むしろだからこそ、過ぎ行く人生の快楽の礼賛は、パスカル風の苦い灰の味わいを残すのです。

という指摘には、驚きを禁じ得ませんでした。「一度も出て」来ないというのは厳密に言うと正確ではないのですが、たしかに主人公がすべてから去るのは、神の名のもと、宗教の名のもとにではない。巻単位でレビューしているとついつい見逃しがちな、西欧思想にとって最も重大な本質であるこの事実を教えてくれたチャプスキに感謝したいと思います。

 

  終盤で圧巻なのは「失われた時を求めて〈10〉第五篇・囚われの女 I」で描かれた偉大な作家ベルゴットの死についての考察です。フェルメールの「デルフトの眺望」を観に行きその前で死んだこの作家に関する文章の中にこそプルーストの真の芸術観があるとし、ドストエフスキの「カラマーゾフ」のゾシマ長老の 「人生の多くの事柄が、私たちの目には隠されている」 という台詞まで引用し論じます。

 

  そしてベルゴットの死をプルーストの死と重ね合わせ、晩年のプルーストとその仕事中の死について述べ、この講義は終了します。

 

 

  これだけの内容をテキストなしで論じたチャプスキ、それを筆記した二人の同僚、そして聞き手の捕虜たちの驚くべき知的水準の高さ。そのような将来の指導者層を葬りポーランドを弱体化すべくソ連は「カティンの森」(アンジェイ・ワイダ映画で有名)においておよそ2万5千人を虐殺したのです。 

 

失われた時を求めて 14 / マルセル・プルースト

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   マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」最終第14巻です。前巻「見出された時 I」の後半と本巻「II」全体を占めるゲルマント大公邸の午後のパーティーでこの長大な物語はついに完結し、主人公の「私」は「失われた時」を見出し、自らの物語を紡ぎ始めます。

 

  ゲルマント大公邸中庭で啓示を受けた「私」は文学を志す決意を固め、本巻においていよいよパーティー会場のサロンに入っていきます。しかしそこで「時」の流れの残酷さを目の当たりにし、驚愕することとなります。

 

  「仮面舞踏会」かと思うほど人々の外見は変貌していました。この物語を彩ってきたゲルマント公爵夫人オリヤーヌ、サン=ルー夫人ことジルベルト、フォルシュビル夫人ことジルベルトの母オデットもその例外ではありません。

  オリヤーヌはまだゲルマント一族の「守護神」の化身たる宝石をちりばめた神聖な老魚の如き風貌を保っていましたが、誰だか分からなかったジルベルトには「わたしのこと母だと思ったでしょ」と図星を突かれます。

  逆に言うと「私」も老化していたわけで、オリヤーヌの言葉からそれを痛感させられます。

 

  変わったのは人々の風貌だけではありません。内面にも「劣化」を「私」は敏感に感じ取ります。オリヤーヌにしてもジルベルトにしてもオデットにしても人の悪口ばかり言い合いますし、かつて娼婦で二流俳優だったサン=ルーの元恋人ラシェルはそれほどの才能もないのに大女優にのし上がっており、かつての大女優で「私」の憧れでもあったラ・ベルマの没落を意地悪く楽しんでいます。

 

  そして最も変わったのは社交界の勢力図でしょう。ブルジョア勢力がかつての上流階級の貴族を凌駕したのがこの半世紀(1800年代後半~20世紀前半)だったのだ、ということが本書の主要テーマであったことがここではっきりします。それは下記の二点で明瞭に描かれます。

 

  まずはヴェルデュラン夫人の栄華。

 

  ゲルマント大公邸のパーティーとはいうもののこれは「ゲルマントのほう」で描かれた壮麗な夜会とは根本的に異なっています。主人である大公妃はかつてオリヤーヌとその美貌を競った従姉妹のマリーではないのです。マリーはすでに亡くなっており、第一次世界大戦で破産してしまったゲルマント大公と結婚して大公妃の座についたのはなんとヴェルデュラン夫人なのでした。

 

  思えば半世紀前の「スワン氏の恋」においてプチブル・ヴェルデュラン家のパーティーでこの物語は幕を開けたわけで、ゲルマント大公妃にまで登りつめたこの上昇志向の塊のようなプチブル女性は半世紀を貫いて描かれた裏主人公と言えるのではないでしょうか。

 

  私が「スワン氏の恋」を読んだ時はここだけで終わる意地悪な小物だとしか思えませんでしたが、プルーストの周到な計画には舌を巻く思いです。

 

  そしてもう一点は、少年時代の「私」が「コンブレー」において正反対の方向と思っていた「スワン家のほう」と「ゲルマントのほう」の融合。

 

  これは前巻でジルベルトの思い出話として示唆されていましたが、今回は現実に「スワン家(ブルジョア)」が「ゲルマント家(上流貴族)」を乗っ取る構図としてはっきり示されます。

 

  ゲルマント公爵はコンブレーのゲルマント家に愛人としてオデット(故スワン氏夫人)を住まわせ、

 

  ゲルマント家の貴公子サン=ルーと結婚したジルベルト(スワン氏の娘)はサン=ルー亡きあともゲルマント一族の一員、サン=ルー夫人として居座っています。

 

  そしてスワン家とゲルマント家の融合の象徴として最後の最後に登場する、本巻の真打ともいえるのがサン=ルーとジルベルトの娘、両家の特徴を併せ持った美貌のサン=ルー嬢

 

  切歯扼腕するオリヤーヌを尻目に、スワン家の三代に渡る女性陣は由緒正しきフランス貴族ゲルマント家に深く浸食していたのでした。

 

  そのような「時」の流れを目の当たりにした私は「いよいよ創作のとりかかる時だ」ということを実感するとともに、体力記憶力に自信をなくしてもおり、千夜一夜物語ほどもかかるであろう作品を生きているうちに完成させられるだろうか、との不安にも苛まれれます。

 

  そのような創作意欲と不安の葛藤を最後に30Pにもわたり吐露し、

 

 なによりもまず人間を、空間のなかで人間に割り当てられたじつに狭い場所に比べれば、逆にきわめて広大な場所を時間のなかに占める存在として描くだろう。(中略)人間の占める場所はかぎりなく伸び広がっているのだ - 果てしない「時」のなかに。  完 (p303)

 

 

と締めてこの長大な物語は終わります。ここから「私」は物語を紡ぎ始めるわけで、そこでもおそらく

 

 「私」マルセル、 母、祖母、フランソワーズ、レオニ叔母、スワン氏、オデット、ジルベルト、ゲルマント公爵夫妻、ゲルマント大公夫妻、サン=ルー、シャルリュス男爵、アルベルチーヌ、アンドレ、モレル、ブロック、ベルゴット、ヴァントィユ、ヴェルデュラン夫妻

 

たちが物語を彩るのでしょう。この小説が「円環をなす」と言われる所以です。

 

失われた時を求めて』とは、この物語がいかに書かれるに至ったかの遍歴談であり、この「天職」発見の物語には、『失われた時を求めて』の成り立つ根拠が至るところに提示されている。『失われた時を求めて』は、みずからの根拠を提示する小説であり、小説の小説なのである。(吉川一義氏)(p338)

 

 

 

 

  う~ん、感無量(苦笑。

 

 

 

  最後にお二人の訳者に謝辞を述べさせていただきます。

 

  まずは光文社古典新釈文庫版において新訳で私を6巻まで導いていただいた高遠弘美氏に感謝します。氏の

 

斜め読みせずに、一行一行を丁寧に読んでゆくことである。というより、私たち読者の義務はそこにしかない。

 

という示唆は大変貴重なもので、その教えを守って読み進めることにより

 

プルーストを読む行為が私たちに与えてくれるものはすこぶる豊穣である。生彩あふれる自然描写、皮肉でいながら深みと立体感に満ちた人物造型、増殖する譬喩の連鎖、豊富な語彙、こうしたすべてがプルーストの美質として私たちの眼前に次々と現れてくる。

 

ことを体感できました。

 

  続いては第7巻以降の岩波文庫版で最後まで導いてくださった吉川一義氏に感謝します。特にプルーストの死により未推敲となってしまった「囚われの女」以後の底本の選択と邦訳は大変なご苦労だったと推察します。未推敲ゆえの矛盾や間違いだらけの文章を我慢して読み進めることができたのは一重に吉川氏の丁寧な注釈のおかげでした。

 

 

 

  大袈裟な言い方になりますが、長年の読書人生の中でも稀有な体験でした。この年齢になってこのような文学の方法論もあることを新たに知ることができ、再挑戦した甲斐があったと思いますし、真面目な話、生きているうちに完読できて本当に良かったと胸をなでおろしています。

 

 

  正直言って、レビューを書くのも本当に大変でした。高遠先生と吉川先生の詳細なあとがきに比べれば児戯に等しいような感想文でしたが、少なくとも自分の考えをまとめることで少しはこの小説の理解も深まったのかなと思います。

 

 

 ゲルマント大公邸のパーティーに赴いた「私」は驚愕した。時は、人びとの外見を変え、記憶を風化させ、社交界の勢力図を一新していたのだ。老いを痛感する「私」の前に、サン=ルーの娘はあたかも歳月の結晶のように現れ、いまこそ「作品」に取りかかるときだと迫る。

 

 

失われた時を求めて 13 / マルセル・プルースト

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   読書好きなら誰もがその名前は知っている「A la recherche du temps perdu 失われた時を求めて」、フランスの作家マルセル・プルーストが1922年に亡くなるまでの約15年間をこの一作のためだけに費やし、その原稿枚数たるや3000枚以上、日本の400字詰め原稿用紙10,000枚に該当するという畢生の大作、「二十世紀文学の金字塔」との誉れも高い作品です。(拙レビュー第一巻)

という、今から思えば仰々しい文章で始まったこのレビューも最終第七篇「見出された時」に入ります。岩波文庫版の本篇は二冊からなり、本第13巻はその前半にあたります。

 

  求めていた「失われた時」を「見出す」解決篇であるわけですが、この長い長い物語の果てに「私」=プルーストは何を見出したのか?

 

  訳者吉川氏の解説(pp549ー511)の助けも借りて整理しますと

第一の概念は人間や人物を変貌させ破壊させてしまう、長い歳月にわたる「時」の発現

(お馴染みの面々の死、そして第一次世界大戦における破壊、その象徴としてのランス大聖堂崩壊など)

 

第二の意味(中略)想い出された「時」という意味

(ジルベルトの告白、タンソンヴィル再発見など)

 

そして

 

過去があるがままによみがえる現象、プルーストが無意識的記憶と呼んだ現象によって現出した「時間を超越した瞬間」いわば「永遠の時」

(かつての「紅茶にマドレーヌ」と同じ啓示が私に訪れ、ついに文学を志す) となります。

 

  「長い歳月」と吉川氏がお書きになっているように、これまでの12巻ではあり得なかった約20年という時が本巻では流れ、大きく分けて三部構成となっています。簡単に整理しますと

 

1:タンソンヴィル再訪

  ジルベルトの告白

  ゴンクール兄弟の未発表原稿

(療養所生活約10年)

2:第一次世界大戦下のパリ

  ヴェルデュラン夫人とボンタン夫人という二人のパリの女王

  サン=ルーの語る戦争

  シャルリュス男爵の語る戦争

  ジュピアンの娼館でのシャルリュス男爵の痴態

(またまた療養所生活約10年)

3:ゲルマント大公邸訪問

  シャルリュス男爵の落魄

  突然訪れた啓示と文学論

 

となります。

 

  1は前巻の続きです。前巻ではあえて伏せましたが、故スワン氏の愛娘ジルベルトは母オデットの再婚により「フォルシュビル嬢」という貴族の仲間入りをし、そしてついに私の親友にしてゲルマント一族の御曹司サン=ルーと結婚してゲルマント一族の仲間入りまでしたのでした。

  しかし、モレルによって男色に目覚めてしまったサン=ルーはそれを隠すためにわざと女性の愛人をたくさん作ってジルベルトを悲しませます。

 

  傷心のジルベルトを慰めるべく、第1巻「コンブレー」において「私」が彼女を見染めたタンソンヴィルの故スワン氏の別荘を訪れるところから本巻は始まります。   

  そこでの散策においてジルベルトは、実はあの時「私」に恋していたこと、幼い「私」にとって正反対の象徴であった「ゲルマントのほう」と「スワン家のほう」はつながっていたことなどを「私」に語ります。

 

  これが吉川氏のいう第二の想い出された「時」という意味にあたります。この辺りは読みはじめの頃を懐かしめるなかなか心温まる箇所です。またサン=ルーとジルベルトの結婚により「ゲルマントのほう」と「スワン家のほう」が長い時を経てつながってしまったこととの対比も見事です。

 

  さてこのパートの最後。話題は一変して滞在の最終日前夜、たまたまゴンクール兄弟の未発表原稿を読んで「私」は己が文学的才能の無さを痛感します。

  パスティーシュの名手であったプルーストが書くヴェルデュラン家の夜会のシーンはとても面白く、こういう風に書いてくれればすんなり楽しめるのに、とさえ思ってしまうのですが、それがプルーストの罠(笑。

 

  最終部での文学論において「価値がない」とする浅くて些事にこだわる写実主義の見本として書いたのが明らかで、逆転への布石だったと後で知る痛快な策略となっています。吉川氏はもっと深く考察されていますが、ここで立ち止まっているとまたまた超長文となってしまいますので、先を急ぎましょう。

 

  第2部は長い療養所生活を挟んだ約10年後の第一次世界大戦下のパリ(1914,1916)です。ランス大聖堂が破壊され、パリにまでドイツ軍の足音が聞こえてくる状況下、貴族からブルジョア、庶民にまで戦争を語らせ、プルーストの戦争観が読み取れる興味深い構成となっているのですが、これも語り始めるとキリがなくなるので割愛し、重要な二点にだけ触れておきます。

 

  一点はパリ社交界の変遷。第二巻で貴族階級から「裏社交界」と揶揄されていたプチブルヴェルデュラン夫妻のサロンが、第四篇「ソドムとゴモラ」で貴族階級と比肩しうるほどにのし上がっていましたが、ついには(これまた初めはパッとしなかったボンタン夫人(アルベルチーヌの伯母)とともに)「戦時下のパリの女王」と呼ばれるまでになっています。

 

  残念ながらヴェルデュラン氏は大戦中に亡くなってしまうのですが、夫人は次回最終巻のゲルマント邸夜会において、さらに驚くべき変貌を遂げています。性格の悪さやスノビスムは生涯かわらないものの、「人間の変貌」という意味では長大な本作において最も劇的な人物であり、そのあたりは最終巻でまた紹介したいと思います。

 

 もう一点は、ゲルマント一族である二人、サン=ルーシャルリュス男爵の対比。 サン=ルーはソドミーという問題はあるものの、立派な軍人であり、望んで出征し、私がまた療養のためパリを発つ日に悲報が届きます。

 

 その知らせとはロベール・ド・サン=ルーの死で、ロベールは前線に戻った翌日、部下の退却を援護して戦死したのだ。ロベールほど他の民族に憎悪をいだかなかった人間はいないだろう。(p387)

 

 

  「花咲く乙女たち」においてバルベックに颯爽と登場し、親友として良くも悪くも「私」に関わり続けた本作でも最も印象深い人物の死には、プルーストも多くの枚数を割いています。

 

  そしてもう一人はご存知ホモ男爵シャルリュス。サン=ルーと同じく戦争を冷静に見つめ、フランス嫌いドイツ贔屓を公言します。その私への高邁な講釈とは裏腹に、その後彼が向かったのはジュピアンにやらせている娼館、通称「破廉恥の殿堂」。

 

  ここに男爵はモレル(ふられた美貌のバイオリニスト)似の若い男を集め、鎖で縛らせて鋲入りの鞭で自分を打たせるのでした。まあはやい話がSMプレイで悦楽に溺れていたわけです。

 

  このシャルリュス男爵、またまた長い時を経た第3部冒頭にも登場し、老化と脳卒中でよぼよぼになった落魄の姿を読者の前に晒し、最後まで本作のキーパーソン、トリックスターとして顔を出し続けます。

  この男もまた「貴族の上流社交界」「芸術」「ソドムとゴモラ」という本作の複数のテーマの根幹をなす主人公であったと言えるでしょう。

 

 

  さて、いよいよ本巻の白眉である第3部です。

  え、まだあるのかって?

  ここからが本番でございます(笑。

 

  長い時を経て(研究では1925年頃)療養所からパリへ帰る「私」。その列車の中でまたしても「私」は、車中から眺める木々に何の感銘も覚えなかったことから、文学的才能が枯渇していると再確認し落胆します。

 

  これがゴンクール兄弟に続く第二の伏線。

 

  そんな私に、ついに、ついに、ついに、深いところに隠されていた「無意識的記憶」からくる幸福感が蘇ります。

  それは夜会に招かれたゲルマント邸の中庭を歩いていた時のこと。

 

ところが、転ばぬよう身体を立て直そうとして、片足をその敷石よりもいくぶん低くなった敷石のうえに置いたとたん、それまでの落胆は跡形もなく消え失せ、私はえも言われぬ幸福感につつまれた。(p430)

 

 

それは第一巻「コンブレー」等、早々に「私」が体験してした

 

バルベックの周辺を馬車で散策していたとき以前見たことのある気がした木々の眺めとかマルタンヴィルの鐘塔の眺めとか、ハーブティー(一巻では紅茶)に浸したマドレーヌの味とか(p430)

 

と同じ啓示でした。

 

  しかしてその敷石の感覚の正体はヴェネツィアのサン=マルコ洗礼堂の不揃いな二枚のタイルを踏んだ時の感覚だったのです。

 

  この幸福感を契機として、失われた時を求めて」いたこの作品の解決としての

 

 芸術作品こそが失われた「時」を見出すための唯一の手段である(p498)

 

という結論に至るまでの、奔流のように湧き出す「私」(=プルースト)の芸術観、文学観の凄いこと凄いこと!

 

  延々独白が続くこれまでの巻に比べれば客観的描写が多かった本巻でしたが、ここから約100Pに渡り怒涛の文学論が展開されます。これは本当に実際に読んでいただきたいところなのですが、そうするにはここまでの十二冊をも読まねばならない。まあそれは無理。。。

 

  という事で、できる限りプルーストの言葉を抜粋借用してそのエッセンスを説明したいと思います。

 

  まず、この幸福感は意識して思い出せるものではなく、何らかの類推の奇跡であり、

 

その存在のみが、私に昔の日々を、失われた時を見出させる力を持っていた(p441)

 

 

のです。そして、

 

 私の感じたものを考え抜くことによって(中略)ひとつひとつの感覚をそれぞれの法則と思考を備えた表徴として解釈しなければならなかったのである。ところで、これを成し遂げる唯一の方法と思われるのは芸術作品を作ること以外のなにであろう?(p455)

 

かくして私はすでに結論に達していた。(中略)芸術作品は自分好みにつくるものではなく(中略)先立って存在する必然的であると同時に隠されたものであるから、我々はそれを自然の法則を発見するように発見しなければならない、という結論である。(p460)

 

という思いを強くします。そしてそのことを確信したのは

 

写実主義を自称する芸術のうそ偽りによってである。この芸術が嘘八百になってしまうのは人生において自分の感じることにそれとはまるで異なる表現を与えていながら、しばらくするとそんな表現を現実そのものだと思いこんでしまうからである。(pp460ー1)

 

という写実主義の虚妄であり、私はサント=ブーブの理論や、ドレフュス事件〜大戦時の軽薄な文学理論を激しく糾弾し、ついには時間の秩序から抜け出した「一瞬の時」の「印象」を会得し「真の自我」に目覚めた人間のみが真の芸術家となり得るのであり、

真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である(p490)

との結論に達します。その上で

 私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。(p496)

 

と決意するのです。

 

  その啓示と決意の結実が、おフランスの「社交界」や「恋愛」や「同性愛」を延々と描き続ける、読みにくいことこの上ないこの作品なのか、というツッコミも入れたくなるところではあるのですが、

 

  敢えて言おう、

 

プルーストよ、あなたは偉大だ

 

と。これは彼の「文章」を(訳ではありますが)ここまで苦しみ悶絶しながら読んできた文章フェチの実感です。

 

  今回も長文おつきあいありがとうございました。

 

  最終巻はもう少し短くまとめたい。。。

 

幼年時代の秘密を明かすタンソンヴィル再訪。数年後、第一次大戦さなかのパリでも時代の変貌は容赦ない。新興サロンの台頭、サン=ルーの出征、「破廉恥の殿堂」での一夜…。過去と現在、夢と現実が乖離し混淆するなか、文学についての啓示が「私」に訪れる。 

 

 

世界地図の下書き / 朝井リョウ

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  デビュー作「桐島、部活やめるってよ」と螺旋プロジェクトの「死にがいを求めて生きているの」の間を埋める「朝井リョウを読むシリーズ」もこれで最後の作品となります。2013年の「世界地図の下書き」です。前年の「何者」での直木賞受賞に続き、この小説でも「坪田譲治文学賞」に輝いています。

 

  ただ、この二作は全く様相を異にしており、前作が就職活動をメインテーマとした大学生たちの物語、本作は児童養護施設を舞台にした児童小説です。彼の本領が「何者」路線であることは明らかで、本作品のような児童小説は珍しい、というか実質この一作のみ、敢えて言えば「星やどりの声」が似た路線かな、と思える程度です。

 

  その執筆動機は現実の事件にありました。彼曰く、高校バスケット部の部長が顧問からの体罰を受けて自殺したというニュースに触れて“『逃げる』という選択肢が彼の頭の中に浮かばなかったのはどうしてなのだろう”という考え、この物語の種が生まれたそうです。

 

  「逃げ場がない」という感覚、これは確かに今の日本の若者を覆う閉塞感なのでしょう。そしてそれは小さな子どもたちまで及んでいるのではないか。子どもたちに“今いる場所から逃げる、もとい、自分の生きる場所をもう一度探しに行く”という選択を教えてあげたいという思いから、敢えて自らの目指す路線から離れた作品を書こうとする。。。

 

朝井リョウってやさしいな、と思いますね。

 

    さて、物語を見ていきましょう。主人公太輔児童養護施設青葉おひさまの家」に入所するところから第一章「三年前」が始まります。彼が所属することになった「一班」のメンバー紹介を兼ねた序章です。

 

太輔: 小学三年生 両親が交通事故で死亡。伯父宅に引き取られるが伯父の家庭内暴力で入所。

佐緒里: 中学三年生 リーダー的存在、両親が離婚し弟だけ親戚が引き取る。

淳也、麻利兄妹: 小学三年、一年。関西から入所。兄は気が弱く、妹は甘えん坊。

美保子: 小学二年生、母の家庭内暴力で入所、おませ。

 

  第二章「晩夏」から最後の「」までの五章が本編で、序章の3年後、太輔は六年生になっています。太輔もすっかり「青葉おひさまの家」のみんなと打ち解けており、大学受験で忙しい佐緒里に代わって小学生たちのリーダー的存在になっています。とは言え、施設では守られている彼らですが、小学校というカースト社会、さらにその向こうにある大人の世界との軋轢に否応なくこの五人は翻弄されます。

 

太輔は戻ってきてほしいと願う伯母とやはりうまくいかず、

淳也、麻利は小学校でいじめを受け、

美保子の母のDVはおさまらず、

そして

佐緒里は北国の親戚の工場で働かねばならなくなり、あれほど頑張っていた大学受験を諦めることとなります。

 

  それぞれの嵐は第四章「暮秋」でまとめて最高潮に達し、絶望感が漂います。その中でも小学生四人、特に佐緒里に憧れている太輔はなんとか失意の佐緒里を慰めたいと思い、ある企画を考えつきます。それは無くなってしまった「蛍祭り」というお祭りにおける「願いとばし」という小さなランタンを熱気球のように飛ばすイベントを復活させて、遠い北国へ行ってしまう佐緒里に最後に見てもらおおうというものでした。

 

  ただこの「願いとばし」はとても小学生だけでできるものではありません。そこからの後半部は内緒で奔走する彼らの微笑ましい情景が描かれます。ちょっと犯罪的な行為もあり、これはよくないんじゃないかな、と思う箇所もありますが、ちゃんと朝井リョウはそのあたりフォローしています。

 

  なんだかんだでとにもかくにも「願いとばし」は成功し、明日には去ってしまう佐緒里と四人は町の高台にある神社からランタンが空に浮かぶ情景を目にすることができました。   しかし、その高台での会話の中で去っていくのは佐緒里だけではないことが次々とわかっていきます。動揺する太輔。涙する三人。

 

  ランタンで励ましてもらった佐緒里は、今度はみんなを励まします。

 

「大丈夫」「私たちは、絶対にまた、私たちみたいな人に出会える」 「いじめられたら逃げればいい。笑われたら、笑わない人を探しに行けばいい。(中略)逃げた先にも、同じだけの希望があるはずだもん」

 

  最初に書いた朝井リョウの思いが結晶した台詞に目頭が熱くなります。本作の苛烈なプロットはむしろ「人生はそんなに甘くない、どこに逃げてもつらい事ばかり」と言っているようにも思えますが、束の間の希望であっても希望があるうちは生きていけるはず、そんな思いで終わらせたことには拍手を送りたいと思います。

 

「希望は減らないよね」 。

 

チア男子!! / 朝井リョウ

⭐︎⭐︎⭐︎

   朝井リョウを読むシリーズもあと二作、というところまできて#stayhomeで中断していました。6月に入り、ようやくブックオフにでかけてささっと二冊買ってきました。で、今回は「チア男子!!」です。

 

  「桐島」に続く第二作、朝井リョウはもちろんまだ早稲田大学在学中で、同大学の男子チアリーディングチーム「SHOCKERS」から着想を得た作品です。「桐島、部活やめるってよ」に次いで本作品も映画化されました。

 

  デビュー作が驚異の大ヒットとなった後で大変なプレッシャーがあったと思いますし、同路線で行くのか思い切って作風を変えるのか、随分悩んだことでしょう。あとがきを読んでみますと

「いつかスポーツものをやってみたい」と身の程知らずなことを言った私に、「じゃあ二冊目でやりましょう」と思いきったことを言ってくださった担当編集の高梨さん(注:集英社

とあり、本人の希望と学内にあった絶好の題材、そして編集者のサポートという幸運が重なってこの作品が出来上がったようです。もちろんその幸運をつかまえるだけの本人の努力があってこそですが、結果として本作品も彼の代表作の一つとなりました。

 

大学1年生の晴希は、道場の長男として幼い頃から柔道を続けてきた。だが、負けなしの姉と比べて自分の限界を悟っていた晴希は、怪我をきっかけに柔道部を退部する。同時期に部をやめた幼なじみの一馬に誘われ、大学チア初の男子チームを結成することになるが、集まってきたのは個性的すぎるメンバーで…。チアリーディングに青春をかける男子たちの、笑いと汗と涙の感動ストーリー。 (AMAZON解説)

 

  作品自体はもうこれ以上ないと言うくらいシンプルなスポ根ストーリー。男子チアに関して、今時ですから

 

早稲田 SHOCKERS

 

Youtubeを検索していただければいくらでも動画が出てきて実感がわきますので説明割愛(をいをい。

 

  まあとにかく活きのいいイケメンタレントたちにチアリーティングを特訓して主役を張らせれば若年(特に女子)層に大受けする映画が出来上がるわな〜、と思わせる直球ストレート勝負の作品で、プロットのひねりと屈折した心情表現が持ち味の朝井リョウとしては、(今から思えばですが)異色の作品です。

 

  まあ若書きですのでノリが軽すぎるし、主人公たちのバックグラウンドの描き方が浅過ぎるし、これで500P近く引っ張るの?と言う感じでダラダラ物語は進んでいきます。

  途中リョウらしいフックもあるにはありますが、あまり効いておらず、正直言って

 

これ本当にリョウの作品? 映画やTVドラマのシナリオライターさんのシノプシス程度じゃない?

 

という思いが拭えませんでした。

 

  そういう思いをようやくにして払拭してくれたのが最終章「二分三十秒の先」でした。朝井リョウの持ち味の一つである、ここ一番での爆発力はやっぱりすごい。

  二分三十秒のチアリーディングの演技の中でこれまで溜めに溜めていたエネルギーを存分に発散させるとともに、チームメンバーたちの心情の変化と成長をも鮮やかな手際で描き切り、痛快なフィニッシュを決めてくれました。

 

  結果後味の良い長編スポーツ小説となっています。だからと言って前半から中盤までの浅さ、冗長さが消えるわけではないですが、第二作でこれだけの長さのストーリーを書ききったことは評価したいと思います。

 

  ちなみに個人的には中国語教授の息子にして留学生の陳さんのけったいな京都弁風日本語と、高給料亭の息子溝口君の箴言集が気に入りました。

 

ドーモトはん、下克上どす(陳)

 

 【どんな馬鹿げた考えでも、行動を起こさないと世界は変わらない】マイケル・ムーア (溝口)

 

 

失われた時を求めて 12 / マルセル・プルースト

⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

  プルーストの「失われた時を求めて」いよいよ十二巻、第六篇「消え去ったアルベルチーヌ」に入ります。「消え去った」とあるように、前巻最後に出奔したアルベルチーヌの死が本巻のメインテーマとなります。

  一方で、元々の出版予告には「ソドムとゴモラ 三 第二部」と銘打たれており、男女それぞれの同性愛の諸相が「ソドムとゴモラ 一」から数えて五巻目の本篇にまで及んでいます。前半ではアルベルチーヌの「ゴモラ」の真相がほぼ解明されるとともに、後半にはシャルリス男爵から始まった「ソドム」がついにその甥である「私」の親友にまで及ぶことになります。

 

  と、簡単にまとめてはみましたが、本篇もプルーストが推敲を繰り返したまま亡くなったあとの刊行で、訳者の吉川一義氏が

 

失われた時を求めて』を構成する全七篇のなかで本篇ほど、初版から現在までに刊行された各種フランス語刊本に大きな異動のある巻はない。

 

  と述べられているほど、大変問題のあるパートだそうです。よって吉川氏は本篇を訳するにあたり

 

・ 本篇のタイトルは、従来の邦訳で普及している『逃げ去る女』でなく『消え去ったアルベルチーヌ』を採用した。

・本篇の終わりを多くの刊本のようにタンソンヴィル滞在の途中で区切るのではなく、直前で区切り、タンソンヴィル滞在はすべて最終篇へ回す処置をとった。

・本編に限り、プレイヤッド版ではなく(中略)リーブル・ド・ポッシュ版(LF版)を主たる底本とした。

 

 

とのことです。その理由についてはあとがきに詳細に書かれていますが、あまりにも長くなるので割愛します。すべての邦訳を読めるわけもなく、比較検討することは私には不可能ですが、ここは本作品の成立過程の研究がご専門の吉川氏を信用して読み進めます。

 

  そこでまずは吉川版の本篇の構成の概要をまとめてみます。

 

1:アルベルチーヌの出奔と事故死

  私の動揺

  サン=ルーの派遣

  アルベルチーヌの事故死

  エメの派遣

  アンドレの告白 1

2:忘却の第一段階

  ブーローニュの森の散策で見かけた三人の娘

  フィガロ誌についに掲載された私の文章

  ゲルマント侯爵夫人再訪

  ジルベルトとの再会

  オデットとフォルシュビルの再婚の経緯

3:忘却の第二段階

  六か月後、アンドレの告白 2

  アンドレオクターヴの結婚

  母の「客を招く日」

   モレルとシャルリス

   パルム大公妃

  その一週間後、アンドレの告白 3

4:忘却の第三段階

  母とのヴェネチア来訪

  サズラ夫人との夕食

  ヴィルパリジ夫人とノルポア氏

  アルベルチーヌが生きているという誤電報

5:帰路とパリにて

  二通の手紙に記された驚くべき二組の結婚

  サン=ルーの性癖

 

付録:プルーストの三通の手紙

 

 

  今回も600Pほどある、これだけで大長編と言える長さなのですが、なんと上記1-3の間、延々300Pも「私」のアルベルチーヌに関する独白が続きます。ここまで読んできた者にとっては「さもありなん」という感じで、辟易はしたもののなんとか読み進めることはできましたが、まあ前知識なしにいきなりこのパートを読まされれば「なんじゃこりゃ」の世界でしょう。さすがの吉川先生も“特異な文学”“レアリスム小説とは対極にある”と評しておられます。

  プルーストらしいと言えばらしいのですが、さすがのプルーストもこれはまずいと思ったのか、2-4あたりをバッサリと切り捨てた原稿(「タイプ原稿1」と呼ばれるそうです)を残していたため、先の述べた大混乱が起こったそう。。。さもありなん(w。

 

  閑話休題、アルベルチーヌの突然の失踪に「私」は慌てふためき、警察のご厄介になるほどの愚行をやらかすわ、

アルベルチーヌに別れの手紙を書き(中略)、一方で私は関与していないことにしてサン=ルーを派遣し、アルベルチーヌが早く戻ってくるようボンタン夫人に露骨な圧力をかけるのだ。

という卑怯極まりない手を使ってアルベルチーヌを怒らせるわの大慌てぶり。

 

  そしてボンタン夫人からのアルベルチーヌ乗馬中事故死の訃報とアルベルチーヌからの帰りたいとの本心を綴った手紙が同時に来るに至ってまたまた大ショック、大混乱。(この訃報と同時に手紙が届くという設定は付録のプルーストアゴスチネリの事故死の当日に出した手紙と合致しています)

  この情けない「私」を描いた1は動的でとても面白いですが、そんな「私」を冷静に見つめるもう一人の「私」の蘊蓄は相変わらず冗長、しかしこれがなくてはプルーストと言えません。

 

  そしてそこからの忘却に至るまでの過程が長い長い。死んでしまったことにより自分の心の中に実在してしまったアルベルチーヌへの思慕の情と、あらためて沸き起こった彼女の同性愛疑惑への煩悶と嫉妬模様が何百ページと続くわけです。さらには実地調査にエメ(バルベックホテルの元給仕頭)を派遣し、「花咲く乙女たち」の一人でアルベルチーヌとの同性愛疑惑のあるアンドレをネチネチ追及する、その執念の凄さ、いやらしさ。

 

  その結果、アルベルチーヌの同性愛は本物、というかとんでもなく「淫乱」だったことが判明します。そこにはあのバイオリン奏者にしてシャルリュス男爵とのホモホモ関係を断絶したモレルまで関与しているのでした。

 

  しかしあれほど出奔には動転した「私」がこの段階に至ってもう動転しません。人間は必ず忘却する、「私」も例外ではなかった。その過程をこれほどまで綿密に書かれると納得せざるを得ない、というくらいプルーストは恋人を失った悲しみからの治癒過程を描き切っています。

 

  そこにはやはり、秘書兼運転手で飛行機事故で死亡した同性愛相手であるアゴスチネリとの愛と別れの経験があったのは明らかです。

  付録の二番目の手紙は恋人の事故死について心配する友人に宛てたプルーストの手紙ですが、そこに“心痛から解放される第一段階”という表現が見られます。吉川先生によると本作とどちらが先かはわからないとのことですが、それでも

『消え去ったアルベルチーヌ』の骨格がプルーストアゴスチネリをめぐる愛情と悲嘆に触発されたことは疑いえない。

と述べられているように、本篇はプルーストアゴスチネリに捧げた挽歌と言える章なのでしょう。

 

 

 

 

  は〜、これで内容の約半分。しかも無意識的記憶の文章の醍醐味はレビュー困難。つくづく思うに、容易なレビューを許さない誠に難しい小説ではあります。。。

 

 

 

 

  さて、そんな読むには難いなっが〜い独白の合間にも外界描写が諸所で挟まれているのですが、とりわけ重要な二点を挙げておきます。

 

  一点は、ついに「私」の文章が「フィガロ」紙に掲載されたこと。

  今となっては忘却の彼方に近い第一巻、子供時代の私がマルタンヴィルの鐘楼の印象を描いた文章に手を入れ投稿するもなかなか掲載してもらえず、イライラしながらもついには忘れていたあの原稿です。

 

  嬉しくてたまらず、感想をそれとなく聞くためゲルマント公爵夫人のところまでノコノコ出かけていくスノビズムぶりを発揮している「私」ですが、これが最終章「見出された時」で文学を志す大団円につながっていくものと思われます。

 

  もう一点は、スワン氏の忘形見ジルベルトとの再会です。あっと驚くことに、スワン氏が生涯望んで叶わなかった娘ジルベルトとゲルマント公爵夫人との面会場面に「私」は出くわしたのでした。(滑稽な伏線もあるにはあるのですが、長くなるのでここでは省略します)

 

  悲しいことにゲルマント公爵夫人が許可したのは、スワン氏の娘としてではなく、「フォルシュヴィル嬢」としてのジルベルトでした。そう、スワン氏の死後、未亡人オデットはちゃっかりと「スワン氏の恋」に出てきた浮気相手の貴族フォルシュビルと再婚(お互いウィンウィンではあるのですが)したのです。

  そしてジルベルト本人も父の思いとは裏腹に、ユダヤ人という出自を敢えて意識はせず「フォルシュヴィル嬢」として振る舞います。

 

  このあたり、さらには後半でのジルベルトの結婚式の仲人をこれまたオデットの浮気相手シャルリュスが務めるなど、当時の貴族の高慢ぶりとユダヤ人差別を描くプルーストの筆は容赦ないものがあります。

 

  さて、好色を絵に描いたような「私」ですが、もうジルベルトにはなんの感慨もわかず、あれほど憧れていたオデットにももう嫌悪感しかありません。しかし後半、意外な人物と結婚したジルベルトを懐かしのタンソンヴィル(第一巻コンブレーに出てきたスワン氏の別荘のある地方)に訪ねていくところから次巻は始まります。と言うか、そこをこの篇に入れている刊本もあるわけですが、兎にも角にもアルベルチーヌの死後再び本作においてジルベルトは復活し、重要な役割を果たすことになるのでした。

 

 

 

 

  もうここで終わろうかしら、、、とも思ったのですが、もう少し書かねば。

 

 

 

  後半のハイライトは、子供のころから憧れ続けながら病弱のため行けなかった、イタリアの水の都ヴェネツィア。アルベルチーヌという軛から解き放たれた「私」はついにその念願を叶えるのですが、さすがのマザコン、やっぱり母と出かけたのでした。

 

  ヴェネツィア大好きのプルーストの筆は冴えわたり、余すところなくこの街を描き尽くします。訳者の吉川氏も大忙し、注釈や図版(絵画や写真)満載で、全巻通しても屈指の読みどころと言えましょう。

 

  もちろんヴィルパリジ夫人とノルポア氏という懐かしのカップルも登場して楽しませてくれますが、まあそれは読んでのお楽しみ、ここではアルベルチーヌにまつわる二つのエピソードを紹介しておきます。

 

  一つはアルベルチーヌから“友へ、きっと私が死んだとお思いでしょう、お赦しください、私はいたって元気です。”云々という謎の電報が届く事件。

 

  この電報の真相は帰路に判明するのですが、プルーストシャーロック・ホームズばりの謎解きを用意していて面白いです。(実際プルーストコナン・ドイルの小説を読んでいます)

 

  しかし大事なのはそういうことではなく、「私」がもう忘却の第三段階に入っていてこの電報を何とも思わなかったこと。せっせとイタリア美女を物色したかと思えば、帰る段になってビュトビュス夫人ご一行が滞在していると知り、その小間使いとの情事を楽しみたくて出立を渋ったりと相変わらずのわがままし放題。アルベルチーヌに悶々としていた頃の「私」はもう過去のものとなっていたのでした。

 

  第二点はそんな「私」がアルベルチーヌを思い出して胸を痛める場面。

  アカデミア美術館のカルパッチョの「悪魔に憑かれた男を治療するグラドの総主教」という絵画に描かれた“カルツァ同信会員のひとりの背中”のコートが、アルベルチーヌのフォルトゥーニのコートと同じだと気づき、「私」は胸に“軽い痛み”を覚えるのでした。

 

  フォルトゥーニとは実在の高名なヴェネツィアのデザイナーで、件のコートは「私」がわざわざゲルマント夫人の助言を得てアルベルチーヌに買い与えた大変高価な一品でした。プルーストはこのデザイナーが大変お気に入りで、その衣裳は本作品において重要なモチーフなのです。

  正確を期すためにプルーストはフォルトゥーニの親戚マゾラッゾ夫人に書簡を送り、モチーフとカルパッチョの絵画の関連性について質問しています。それが付録の第三番目の書簡です。

 

  いつかはこのフォルトゥーニの名前を出さないと、とずっと思っていたのですが、ようやく出せました。

 

 

 

 

  そして終盤(まだあるのか!)。。。。。

 

 

 

  パリへの帰途、「私」への手紙と母への手紙の二通で、二人があっと驚く結婚が報告されます。これをネタあかしするのはさすがに興醒めになってしまうと思うので、本巻のレビューでは伏せておきます。

 

  ただ一点、ある人物の同性愛の件だけは言及しておかなければなりません。

 

  それは「私」の親友で好色家と思われれていた、あのサン=ルー(ロベール)!彼までもが「ソドム」のお仲間だったのです。彼をその道に引き込んだのは、なんとまたまたあのモレルなのでした。

 

  このモレル、最初登場した時はほんのチョイ役かと思われたのですが、シャルリュス男爵との関係のみならず、ジュピアン、アルベルチーヌ、そしてこのサン=ルーと次々と重要人物に関わってきました。吉川氏によりますと、プルーストは「ボードレールについて」という評論中で

私はソドムとゴモラのこの「結合」を自作の終わりの方で(中略)シャルル・モレルという粗野な男に委ねた

と述べています。プルーストの同性愛者に関する「男=女」理論は、「ソドムとゴモラ I」のシャルリュス男爵に始まり、このモレル、そしてサン=ルーに引き継がれて「ソドムとゴモラ 三 第二部」は終わりを告げるのでした。

 

、、、、、って、やっぱり「どいつもこいつも」感は否めない。。。。。

 

  ああ、虚脱状態。でもこれだけ長文でも、本巻のほんのサワリだけを紹介したに過ぎないんですよね。何度でも言いますが、

 

プルースト、畏るべし!

 

  いよいよ次回は最終篇「見出された時」に入ります。泣いても笑ってもあと二巻だっ!

 

アルベルチーヌの突然の出奔、続く事故死の報。なぜ出ていったのか、女たちを愛したからか?疑惑と後悔に悶える「私」は「真実」を暴こうと狂奔する。苦痛が無関心に変わるころ、初恋のジルベルトに再会し、その境遇の変転と念願のヴェネツィア旅行に深い感慨を覚える。

ヨハネスブルグの天使たち / 宮内悠介

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  宮内悠介を読むシリーズ、今回は「ヨハネスブルグの天使たち」を選んでみました。2013年に発表された第二作となりますが、いやあ凄かったです、私がこれまで読んだ宮内作品中最高の出来でした。

 

  伊藤計畫の「虐殺器官」「ハーモニー」を彷彿とさせる筆致でディストピアを描き、しかも、より深く現実の宗教・政治問題に踏み込んでいる。これだけのものがデビュー第二作にして書ける、ポスト伊藤計畫という呼び声は伊達ではないな、と思いました。

 

戦災孤児のスティーブとシェリルは、見捨てられた耐久試験場で何年も落下を続ける日本製ホビーロボット・DX9の捕獲に挑むが―泥沼の内戦が続くアフリカの果てで懸命に生きる少年少女を描いた表題作、9・11テロの悪夢が甦る「ロワーサイドの幽霊たち」など、日本製の玩具人形を媒介に人間の業と本質に迫る連作5篇。デビュー作『盤上の夜』に続く直木賞候補作にして、日本SF大賞特別賞に輝く第2短篇集、文庫化。(AMAZON解説)

 

  ここまで宮内作品を読んできて、だいたい彼の作法というものが見えてきました。

 

・ ゆるやかに連関のある短編を重ねて全体として統一した世界観を提示する

・ 日本語題名にある程度統一性を持たせる

・ 英語のサブタイトルで内容を示唆する

・ 参考文献を提示する

 

という感じです。今回の作品は「○○の〜たち」という題名に統一されており、○○には地名が入ります。その題名・サブタイトル・地名を先にまとめておきますと

 

ヨハネスブルグの天使たち」(City in Plague Time)  南アフリカヨハネスブルグ

「ロワーサイドの幽霊たち」(Our Brief Eternity)USA・ニューヨーク

「ジャララバードの兵士たち」(The Frequency of Silence)アフガニスタン・ジャララバード

ハドラマウトの道化たち」(To Patrol the Deep Faults) イエメン・ハドラマウト

「北東京の子供たち」(How we survive, in the flat (killing) field) 日本・東京

 

となります。近未来を想定したSFであるものの人種問題、イスラム過激派問題等々の社会問題に踏みこまざる得ない地域を選んでおり、現在を生きる私たちに切実にリアルに迫ってきます。

 

  そしてその五編に共通して登場するガジェットが、日本製の少女型ボーカロイドDX9、もともと日本企業が金持ち向けに開発したロボットです。初音ミクをロボットにしたようなイメージでしょう。

  輸出用として便宜的に「楽器」製品として申請され、海外の面倒な商標権問題を回避するためにわざと「DX9」という味気ない製品名にしてあり、通称は「歌姫」。このあたりの作り込みには作者の徹底したこだわりが見て取れます。

 

  冒頭作でこのDX9の数千のプロトタイプが、内戦のため日本企業が撤退したヨハネスブルグのビルの屋上から耐久性試験のため自律的に毎日夕立のように落下を繰り返します。

夕立の時間だ。(中略)風を切る音がした。まもなく幾千の少女らが降った。あるものはまっすぐに、あるものは壁にぶつかり弾けながら、ビルの底へ呑まれていく。(中略)雨は四十五分間つづいた。

  そして、第二編以降もDX9が落下するシーンが必ずあり、全作の通奏低音となっています。

 

  文明社会の行き着く先をディストピアとして描く上で、SFファンにはたまらなく鮮烈なイメージ提起です。このアイデアと個人の意識人格をDX9に転写移植することが可能であるという活用方法がこの作品に深みを与えており、宮内悠介のとんでもない才能を見る思いがしました。

 

  ここまでで随分長くなってしまったので、以下短く各編の感想を記しておきます。

 

ヨハネスブルグの天使たち」   ネルソン・マンデラアパルトヘイトを終わらせたもののその後も人種・貧富・地域格差などの問題がこじれてついに南北戦争に陥っている南アフリカが舞台。戦争孤児となった黒人の少年と白人の少女が暮らすスラムと化したビル中央の吹き抜けを、毎日毎日夕立のように数多くのDX9が落ちていく。そのうちの一台に意識があると見抜いた少年がその個体をレスキューしようとするが失敗。その後結婚した二人は大学に進み、男は政治家を志し内戦を終わらせようとするが。。。

 

  最後に迫害された白人たちをDX9を利用して疎開させるシーンがこれまた印象的。あの個体も再登場し最後に歌い出すところが感動的です。短編なのでやや拙速なところも見受けられはしますが、この世界観の提起だけでもう十分傑作だと思います。

 

ロワーサイドの幽霊たち」   わざと分かりにくくしたストーリーの合間に頻繁に9.11に関連のある人物の紹介が挟まれる、実験的な作品です。最初はとっつきにくいですが、息子を9.11で喪った集団心理学者が、あの日の犠牲者の人格を悉くDX9にインストールしてもう一度あの事態を再現しようとしている、というカラクリがわかってくると俄然面白くなります。面白くといっては不謹慎なのかもしれない題材をギリギリのところでうまく処理したその手腕は見事です。ツインタワーの間の空間は一体なんなのか、という問いかけも印象的。

 

ジャララバードの兵士たち」「ハドラマウトの道化たち」   この二作は共通した登場人物が二人いること、どちらも部族抗争で無政府化しアメリカの介入を許している場所であること、DX9が武器として使われていること、生物兵器にまつわるミステリ仕立てであることなどの共通点があり、連作であるといえます。

 

  日本人主人公ルイは、中央アジアからアラブ地方への放浪歴がある作者を彷彿とさせます。二作品ともリアリティが半端でないのはそのためなのでしょう。またミステリファンの作者らしく、名前を出さずにアフガンで銃弾に斃れた中村哲氏やポリスの「Every Breath You Take」などに触れている箇所があるのでお読み逃しなく。

 

  それにしても、自爆テロに関する思いもかけなかったDX9の使い方には唖然としました。是非お読みいただき、戦慄してください。

 

北東京の子供たち」   かつては繁栄の象徴だった北東京の団地が閉塞感しかないような場所となり、現実逃避の道具としてDX9は使われ毎夜屋上から落下を続けています。DX9にハッキングしている輩は飛び降りを毎夜バーチャル体験する遊びに耽っているわけで、人の命が塵のように軽いアフガンとはまた違った意味で、救いようのない世界です。

 

  主人公の少年(ルイの弟)と少女は、少女の母親のその現実逃避の遊びをやめさせたくて、そのDX9たちをある部屋に閉じ込めることに成功しますが、その結果は無残なものでした。

 

  最後にほんのわずかではありますが救いのある情景を描いて話は終わりを告げます。とうの昔に閉店してしまった団地一階の薬屋が置き去りにしたためそこで毎日毎日歌い続けるDX9がそのシーンにも登場します。哀しくも印象的なエンディングであるとともに、五作品で落ち続け、散っていった無数のDX9に向けて挽歌を歌っているような気もしました。

 

 傍らでDX9は歌い続ける。  

 まるで、愛する人を待っているかのように。

 

 

  迷わず星五つです。  

 

猫を捨てる 父親について語るとき / 村上春樹

⭐︎⭐︎⭐︎

   先日紹介した村上龍の新作「MISSING」では、龍が初めて母の歴史を語っていましたが、この最新エッセイでは村上春樹がついに不仲だった父について重い口を開いています。

  あとがきで彼自身も語っていますが身内のことを書くのはけっこう気が重いことですし、やはりある程度の年齢に達して、ある程度達観しないと書けないものだと思います。

  かたや靄のかかったような幻想的な小説の中(龍)、かたや短い随筆の中での誠実な文章(春樹)での追想、という個性の違いは歴然としているものの、長年二人の作品に付き合ってきた読者としてはダブルMURAKAMIもそういう年齢に達したのだなという感慨がありました。

 

 子供の頃父と二人で海岸に猫を捨てに行ったら、自転車で往復した自分たちよりも早く家に帰っていた、という卑近なエピソードから始めて、父のひととなり、戦時体験とそのトラウマ、そして私との関係と順を追って重い問題にシフトしていくという随筆の基本と言うべき作法で語る。

  このあたりは「職業としての小説家」として誠実に仕事をこなす村上春樹らしいなと思います。ご本人は

どんなところからどんな風に書き始めれば良いのか、それがうまくつかめなかった

とおっしゃってますが、冒頭のエピソードはねじまき鳥クロニクルの猫ワタヤ・ノボルを思い出させますし、多少は戸惑ったにせよプロ中のプロの彼のこと、初めからある程度頭の中では出来上がっていたはず。

 

  ファンの間では長らく作品中での「父の不在」、実生活での父の不仲・確執は以前から語られていた事で、特に「1Q84」に於ける主人公天吾と父親の物語は村上春樹と実父に重ね合わせられていました。

  それについて彼もいつかは語らなければいけないと思っていたのでしょう。その語り口はいつもの彼独特の文体で柔らかく誠実なものですが、語り尽くそうという決意は見て取れます。

 

  出たばかりですし内容については敢えて語りませんが、終盤の

  我々親子は広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴にすぎないが、 一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという雨水の責務がある。

という彼にしては決然とした文章は、彼のこの随筆にかける強い思いが伝わってきてさすがにジーンとくるものがありました。

 

  短い随筆ですが、台湾人イラストレータGAO YANさんの昭和レトロ風の挿絵も素敵ですし、ハルキストをやめたはずの私も久々に楽しませていただきました。ジモティには今では信じられないような昭和30年代の夙川から香櫨園浜あたりののどかな情景描写も嬉しかったです。

 

  最後に結構ズシンときた、春樹らしい文章を一分だけ抜粋。

人には、おそらくは誰にも多かれ少なかれ、忘れることのできない、そしてその実態を言葉ではうまく人に伝えることのできない重い体験があり、それを十全に語りきることのできないまま生きて、そして死んでいくものなのだろう。

 

時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがある ある夏の日、僕は父親と一緒に猫を海岸に棄てに行った。歴史は過去のものではない。このことはいつか書かなくてはと、長いあいだ思っていた―――村上文学のあるルーツ (AMAZON解説より)

 

 

失われた時を求めて 11 / マルセル・プルースト

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  「失われた時を求めて」第五篇「囚われの女」も後半に入ります。まずは本篇の構成をおさらいしておきます。恋人アルベルチーヌの同性愛疑惑に駆られた「私」が、避暑地バルベックからパリに彼女を連れ帰り、自宅に半幽閉状態にした秋から春までが語られるのですが、流れとしては大体下記のようになります。

 

・ パリでのアルベルチーヌとの同棲の日々

   シャルリュス、モレル、ジュピアンの近況

   ゲルマント公爵夫人の近況

・ 作家ベルゴットの死 (以上第10巻)

・ スワン氏の死

・ パリのヴェルデュラン家訪問、壮大な夜会

   ヴァントゥイユの崇高な七重奏曲

   シャルリュス氏の追放

・ 再びアルベルチーヌとの日々

・ アルベルチーヌの出奔 (以上第11巻)

 

  前巻の最後で偉大な作家ベルゴットフェルメールの名画「デルフトの風景」の前での劇的な死を描いたプルーストですが、その余韻が冷めない本巻冒頭においてまたもや本作屈指の主要登場人物スワン氏の訃報を挿入してきました。

 

  「挿入」と書きましたが、訳者の吉川氏によりますとこの二人の死は元原稿にはなく新たに挿入されたものなのだそうです。そして二人にそれぞれ絵画をオマージュとして捧げているのですが、ベルゴットにはスワン氏の研究対象だった偉大な画家フェルメールをあてがっておきながら、そのスワン氏にはティソの「ロワイヤル通り」という社交人士の集団肖像画というあまり芸術的価値のない絵画を捧げたのみ。

 

  吉川氏はこの絵の対比を“社交と芸術、時間と永遠をめぐる対照的な主題”であると捉えておられます。晩年は病に苦しんだベルゴット、晩年の不幸が語られていた偉大な音楽家ヴァントゥイユ、本巻で死が示唆されている画家エルスチール、この物語における主要な芸術家三人は現世では恵まれてはいなかったもののその作品は永遠に残る、一方現世の成功者で芸術の良き理解者スワン氏であっても死後の命運ははかない。ということをこの二枚にプルーストは託したのだろうと。その社交と芸術、時間と永遠をめぐる思惟は最終章まで持ち越されることになります。

 

  もう一点だけ脱線しておくと、「私」が亡きスワン氏を偲んで、珍しく大上段に振りかぶってこう呼びかける場面があります。

親愛なるシャルル・スワンよ、私はまだ若造で、あなたは鬼籍に入る直前だったから、親しくつきあうことはできなかったが、あなたが愚かな若輩と思っておられたに違いない人間があなたを小説の一篇の主人公にしたからこそ、あなたのことが再び話題になり、あなたも生きながらえる可能性があるのだ。(p27)

 

これは驚きです。小説とはこの「失われた時を求めて」、「一篇」とは間違いなく第二巻の前半「スワン氏の恋」のことで、この部分は明らかに作者マルセル・プルーストがスワン氏のモデルとなったユダヤ人で当時社交界の花形であったシャルル・アースに呼びかけているのです。

 

  前巻で述べたように「囚われの女」以降はプルーストの死後に出版されました。最終章「見出された時」に至るまで彼は自身を表には出さないつもりだったのでしょうが、抑えきれない強い思いが筆を滑らせ、それが校正しきれず残ったということなのでしょう。

 

  さて、本巻の前半は長い長いヴェルデュラン家の夜会で占められます。その中核をなすのが、ヴァントゥイユの未発表の七重奏曲の初演。これには「ソドムとゴモラ」の面々が深く関わっています。

 

・ 晩年のヴァントゥイユを苦しめ、さらにはその同性愛現場を見てしまった「私」の心のトラウマとなった、ヴァントゥイユの娘とその女ともだち。この女ともだちが自責の念から彼の未発表メモを掘り起こしたのがこの七重奏曲

・ ホモ男爵シャルリュス。夜会をヴェルデュラン夫妻を差し置いて企画し招待客まで決め、大成功させたはいいがその傍若無人ぶりから夫妻の激しい怒りを買い策略によって追放されてしまう

・ シャルリュスの愛人であるヴァイオリン奏者モレル。七重奏曲の花形で一躍脚光を浴び、ヴェルデュラン夫妻の計略に自ら乗ってシャルリュス氏と訣別する

 

  このように有象無象の「ソドムとゴモラ」は登場しますが、そんな吉川氏曰くの「悪徳の世界」を越えて物語を止揚しているのが架空の傑作「ヴァントイユの七重奏曲」です。第二巻に登場したスワン氏とオデットの“愛の国歌”であった「ヴァントゥイユのソナタ」と対を成しており、その描写の見事なこと!

  プルーストが心酔していたベートーベン弦楽四重奏曲フランク交響曲ニ短調シューマンの「子供の情景」「ウィーン 謝肉祭の道化」間奏曲など様々な楽曲の部分部分をイメージしつつ構築してあり、プルーストの天才ぶりが遺憾無く発揮された、本作でも屈指の名場面となっています。

 

  このように、本巻はとりわけ彼の芸術論が際立っており、前半ではこの音楽論が、後半では「私」がアルベルチーヌに語る文学論(バルベー・ドールヴィイ、トマス・ハーディ、スタンダールドストエフスキー等)が、ストーリーとは別に物語の骨格を形成する双璧をなしています。最初に述べたプルーストの「作者を超えて芸術は永遠性を獲得する」というテーゼが最終篇を待たずして横溢してきた印象を受けます。

 

  もちろんここに至るまで諸所で少しずつ語られてはいたことで、もっと遡るならば、そもそもこの物語を書く発端となった、作品の中に作家の人生を読み取ろうとするサント=ブーブの思想への反論であった「サント=ブーブに反論する」の論旨でもありました。

 

  そういう意味ではこの篇は「ソドムとゴモラ」という現実界の「悪徳」と抽象界の「芸術」が併存しせめぎ合う、プルースト文学の最大の魅力を放つ部分なのかもしれません。

 

  さてさて、その荘厳な演奏が成功裡に終わった後の人間喜劇。

  自分が主催者の如くにはしゃぎ回り、挙句の果てに「私」やブリショに古今東西の王侯貴族や有名人の「ソドムとゴモラ」についての蘊蓄を語りまくるシャルリュス男爵と、彼にすっかりコケにされ激怒したヴェルデュラン夫人がこのホモ男爵を追放すべくモレルとの分断を図るあたりのドタバタ喜劇は、音楽の高尚さと「どいつもこいつも」な現実の人間の低俗さが見事な対比をなしていて、読むのが苦しい本作にあって屈指の躍動感に満ちています。

 

  読んでのお楽しみというところですが、一点だけ、シャルリュス氏がスワン夫人オデットの本性について語る場面に触れておきます。

  冒頭訃報が伝えられたスワン氏とオデットの恋は第二巻「スワン氏の恋」で語り尽くされましたが、実は知り合う前のみならず結婚後もオデットは手当たり次第ともいうべき肉体関係を様々な男たちと持っていたことが彼によって明かされます。前巻で登場した貧乏貴族クレシーもそのうちの一人に過ぎなかったようです。

 

  このスワン氏とオデットの関係と対をなすのが、「私」と謎の女アルベルチーヌ。

 

  アルベルチーヌを「囚われの女」にして、前巻では煩悶しながらもしっかりと性愛に耽っていた「私」ですが、本巻後半ではひたすら彼女の同性愛疑惑と嫉妬で苦しみ、つなぎ止めておこうとして母に叱られるくらいに散財し、挙げ句の果ては彼女のせいで憧れのヴェネツィアへも行けない、と立場は見事逆転して自らが「囚われの男」状態に。 私にとってアルベルチーヌはとの生活は、

 

一方で私が嫉妬していないときは退屈でしかなく、他方で私が嫉妬しているときは苦痛でしかなかった。たとえ幸福な時があったとしても、長続きするわけがなかった。(中略)これ以上ひき延ばしてもなにも得られないと悟った私は、アルベルチーヌと別れたいと思っていた。(p 469−470)

 

 

 

と、もう「どないやねん」状態に。そんな気分のぶれまくる「私」を通してしかアルベルチーヌは描かれないので、本当に嘘つきなのか、同性愛(私ともしっかりやっているのでバイセクシャルということになりますが)者なのか、判然としないままここまで話は延々と続いてきました。

  しかし、本巻において彼女がうっかり口を滑らせた

 

割ってもらえ・・・・・。(p335)

 

という言葉。これは男であればワギナを、女であれば肛門を割ってもらう(これが「壺を割る」)という意味での性行為を意味するようです。そして次から次へと出てくる女性同性愛者とことごとく知り合いである(あのスワン氏の娘ジルベルトまでも!)ことなどから、どうもバイセクシャルなのは間違いないよう。

 

  そして彼女が大人しく「私」に従ってパリについてきたその裏にある真相が明らかとなり二人は大喧嘩、仲直りはするもののこの時点で決定的な亀裂ができたことは間違いないと思わせます。案の定“アルベルチーヌに無関心”になったと「私」が油断していたある朝、女中頭フランソワーズからアルベルチーヌが早朝荷物をまとめて出ていったと聞かされ、愕然とします。

 

私の手は(中略)、一度も経験したことのない冷や汗でぐっしょり濡れ、私はこんなことしか言えなかった、「ああそうかい、ありがとう、フランソワーズ、もちろんぼくを起こさなくてよかったんだよ。しばらく一人にしてほしい、あとで呼ぶから。」(p514)

 

  そんなことなら同性愛疑惑なんかほっといてもっと大事にしてやればよかったのに、と苦笑するほどの「私」の動揺ぶりを最後にさらっと描いて本篇は終了。次篇「消え去ったアルベルチーヌ」に続きます。

 

ヴェルデュラン邸での比類なきコンサートを背景にした人間模様。スワンの死をめぐる感慨、知られざる傑作が開示する芸術の意味、大貴族の傲慢とブルジョワ夫妻の報復。「私」は恋人への疑念と断ち切れぬ恋慕に苦しむが、ある日そのアルベルチーヌは失踪する。

 

失われた時を求めて 10 / マルセル・プルースト

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  岩波文庫版の「失われた時を求めて」も第10巻、第5篇「囚われの女」に入ります。ここから先はプルーストの死後、遺稿を元にして出版が続けられたので、本文の解読や配列、改行の有無、イタリック体使用の有無等、刊本による異同がかなりあるそうです。幸い訳者の吉川一義氏は博士論文のテーマが

未発表草稿に基づく『囚われの女』成立過程の研究

 

だったそうで、その研究の成果を最大限盛り込んだとあとがきに書いておられ最大限盛り込んだとあとがきに書いておられます。
  例えばこの巻において初めて「」が「マルセル」と呼ばれるシーンが登場します。これもプルーストが校正しきれないまま亡くなり、隠し通せなかったからだそうで、こういう破綻は今後もいくつか見受けられます。まあそういうところも一興ではあるのですが、とにもかくにも吉川先生の注釈が格段に増えております。
 
  またまた前置きが長くなりました。ではまず「囚われの女」の構成を見ていきましょう。この篇も岩波文庫版で二冊に分かれるほどの分量(一冊約500P)があります。
  前巻の最後でアルベルチーヌの同性愛疑惑がまた持ちあがり大ショックを受けた「私」は発作的に結婚すると母に告げ、彼女をバルベックからパリに連れ帰り自宅に閉じ込めてしまおうと決意します。そして本篇はバルベックからパリに戻った秋から冬を経て春にかけての約半年が描かれます。概要を箇条書きにしてみますと、
 
・ パリでのアルベルチーヌとの同棲の日々
   シャルリュス、モレル、ジュピアンの近況
   ゲルマント公爵夫人の近況

・ 作家ベルゴットの死
(以上第10巻)

・ スワン氏の死

・ パリのヴェルデュラン家訪問、壮大な夜会
   故ヴァントゥイユの崇高な未発表七重奏曲
   シャルリュス氏の追放

・ 再びアルベルチーヌとの日々

・ アルベルチーヌの出奔
(以上第11巻)

 


という感じになります。こう書くときっちりと物語が進むように思われるかもしれませんが、「無意識的記憶」に任せるままに描かれる本作のこと、時系列に忠実に描かれるわけではなく、一日が100P以上に渡ったり、突然時間が飛んだりと相変わらず読者泣かせです。
 
  特に前半部分となる本巻は、ひたすら自分勝手な「私」の煩悶を聞かされ続けて一巻が終わってしまう感じで、読んでる間は時間経過もよく分かりません。一応冬の始まりの二日間と、春になりかけの一日(その夜に後半の大部分を占めるヴェルデュラン家の夜会がある)の三日間だけが描かれるていることになるそうです。
 
  三日間で400P超。。。。。(呆
 
  勿論その間に
 
・ 秋から冬にかけてのパリの情景、時代の移り変わりの鮮やかな描写がなされ、
 
・ シャルリュス男爵が、音楽家にして性格最悪なモレルと街の仕立て屋ジュピアン二人のホモだちを支配下に置こうと企む人間喜劇で楽しませ、
 
・ 最早憧憬の対象ではなくなり、アルベルチーヌのファッションアドバイザーとして冷静に付き合えるようになったゲルマント公爵夫人の現況を描いて時代の変遷を感じさせ、
 
・ ヴァントゥイユ(架空の音楽家)からワグナー、ニーチェバルザックユゴーミシュレ等々へ飛ぶ音楽、文学、歴史に関する芸術観を延々と開陳し、
 
・ 最後には偉大な作家ベルゴットの、フェルメールの名画「デルフトの眺望」の前での劇的な死を描いて
 
大向こうをうならせてはくれます。
 
  とは言え、現代女性やフェミニストならもう途中で本を叩きつけてしまうであろう、「私」の勝手な恋愛観、アルベルチーヌへの嘘つき呼ばわり、果てしのない同性愛への疑いと嫉妬とその姑息な対抗策、ほぼそれだけに紙面は費やされます。
 
  一方でアルベルチーヌとの性愛はしっかり楽しんでおり、そればかりか、彼女の裸の寝姿を楽しむ方が快感であるという変態的一面もねっちょりと描かれております。今回はそのサワリを引用して終わりとしましょう。
 私のベッドのうえに全身を横たえたアルベルチーヌは、とうてい故意にはつくりだせない自然な姿勢でいて、花をつけた長い茎がそこに置かれているように見えた。

 

こうして漏れてくるアルベルチーヌの眠りという不思議なつぶやき、海の微風のように穏やかで月の光のように夢幻的なつぶやきに私は耳を傾けた。

 

・・・そっとベッドの上へあがり、アルベルチーヌに寄り添って身を横たえ、その腰を片腕で抱きかかえ、頬や胸に唇を押しあて、それから空いている方の手をアルベルチーヌの身体のありとあらゆる箇所へ置くと、その手も真珠(のネックレスのこと)と同様、呼吸に応じてもちあげられ、その規則正しい動きによって私自身もかすかに揺れた。

 

ここから先は読んでのお楽しみ、ということで相変わらず文章は天才的で蘊蓄は半端ないですが、ストーリー的には前巻で難所は乗り越えたと思ったのにまたまたこれかよ、という第10巻でした。