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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

プルーストと過ごす夏 / アントワーヌ・コンパニョン他

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  先日読了したマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」ですが、読み終わってホッとするかと思いきや、逆にズルズルあとを引いています。この化け物のような、この本の著者の一人に言わせれば“いささか奇怪で、見事な具合に失敗している”小説は一体何だったのか?それをずっと考えていますし、分かっていない部分や読み落としている部分があるんじゃないかという不安に駆られます。かと言って、じゃあもう一回読むかと気軽に再読できる長さと文章じゃない。

 

  もちろん訳者の高遠弘美氏や吉川一義氏の詳細で丁寧な解説はありがたいものでしたが、本国フランスの方の捉え方も参考になるんじゃないか、と思って手に取ったのがこの本です。

 

  2013年の夏、フランス・アンテノールのラジオ番組で8人の現代フランスを代表するプルースト研究者、作家たちが、それぞれの視点から『失われた時を求めて』の魅力、“自分の心にかかるテーマと自分を変えた1ページ”を選び、語った内容を、あらためて文章に起こしてもらったものだそうです。それを番組の聞き手で本書の編者ローラ・エル・マキが、各人の一小節ごとにテーマを提示しつつ上手くまとめています。

 

第一章 時間 アントワーヌ・コンニョン

第二章 登場人物 ジャン=イヴ・タディエ

第三章 プルースト社交界 ジェローム・プリウール

第四章 愛 ニコラ・グリマルディ

第五章 想像界 ジュリア・クリスティヴァ

第六章 場所 ミシェル・エルマン

第七章 プルーストと哲学者たち ラファエル・アント―ヴェン

第八章 プルーストと芸術 アドリアン・グーツ

 

  全く知らなかったことや特別に目新しい内容はなかったですが、ラジオ番組をもとにしただけあって親しみやすく、「そうそうそうなんですよ!」とか、「え、そうかな?」とか、「間違ってたら恥ずかしいから書かなかったけどやっぱりそうなのか!」とか、いろんなツッコミをいれながら読んでいました。

 

  それにしても「失われた時を求めて」という小説は如何様にも読めるし、如何様にもテーマを掘り起こせる。おまけに、語り手「私」が最終章で「もし事故死してしまえば自分の頭脳の中の鉱床がすべて失われかつ掘り起こすことができなくなってしまう」と危惧したように、彼は刊行途中で病死します。アントワーヌ・コンニョンは書いています。

 

もし彼がもっと長く生きていれば、この本は三千ページではなく四千ページになっていた可能性すらある。『囚われの女』と『消え去ったアルベルチーヌ』と『見いだされた時』はもっと増えてしたかもしれないのだ。(p26)

 

ですから、読み終えて「まだ何か読み残しているかもしれない」と思うのは私だけでないのかもしれません。とはいえ、まあ三千ページだけでも完読するのは大変。まして全てを理解するのは不可能に近い。ということで、この8人の言葉を借りて、私なりに通巻での「失われた時を求めて」の再検討を試みてみます。

 

以下レビュアー自己満足の長文ご容赦のほどを。 (ちなみに引用文が「だ・である調」(これについては訳者解説あり)なので地の文もそれに従います。)

 

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  まず、「失われた時を求めて」の一般認識はこうである。

失われた時を求めて』は、うまく分類することが永久に不可能な種類の本の一つである。それこそが、この本の力であり、深さなのだ。一度読んだ人は十年経ってからまたこの本を読み返すだろう。(中略)とはいえ、非常に有名なこの本を、全部通して読んだ人となるとまれだ。当初から変わらない法則が一つある。第一篇『スワン家のほう』を買った人のうち、半分だけが第二篇『花咲く乙女たちのかげに』を買い求め、『花咲く乙女たちのかげに』を買った人のさらに半分だけが『ゲルマントのほう』を買い求める。しかし、それからあとはもう挫折する読者はいない。『ソドムとゴモラ』『囚われの女』『消え去ったアルベルチーヌ』を経て、『見いだされた時』へとたどりつく。(pp16-8)

  この、ストーリーだけとってみれば要約するのに半ページも要らない物語が何故かくも多くの人を挫折させるのか?それはひとえに、長くて難解な文章のせいである。

モンテーニュプルーストは、どちらも息の長いセンテンスを好む。とはいえ、長くなってしまう理由は同じではない。モンテーニュは<引き伸ばし>のために長くなるのであり、プルーストの文の長いのは、本質的に<付け足し>によるものだ。言いかえれば、モンテーニュの文は内部で膨らむのであり、一方、プルーストの文は途方もなく外に延びていくのである。(p248)

 

プルーストの長い文は非常に特殊だ。(中略)だが、プルーストは短い文を書くのもうまい。(中略)第一文「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた」は、巻の幕開けとしてまさに天才の思い付きである。(p26-7)

  つまり文章の性質を把握し、読むのに慣れれば、通読は可能だしその文章を楽しむことがこの小説を読む楽しみにもなりうる。ハイレベルの読者はこんなことさえ言っている。

「短いのに長く感じさせる作品というのがある。プルーストの長い作品は、僕には短く感じられる」ジャン・コクトーは『失なわれた時を求めて』を、こんなふうに語ってみせた。(中略)この本を読むと、そこから抜け出したくないと思ってしまう(p24)

  ただ、その文章の性質ゆえに、流れがつかみにくいのは事実。時の流れ、時代の流れ、ストーリーの展開など、小説の技法を無視してひたすらダラダラ書いているように思える。しかし、それは違う。

彼は周到に物語を構成していた。 この本は、非常に周到に組み立てられている。さらさらと筆が流れるままに書いたかのような見かけにだまされた人もいたわけだが、この本は、あらかじめの準備と、いくども戻って考え直した末の賜物なのだ。(p42)

 

彼は知性よりも心情の間歇のほうを好んだ。知性は時にがっちりと構築されすぎた記念構造物のようになりがちだからだ。ジョン・ラスキンによれば、記念構造物には、錆や風化が必要だという。あの、石を輝かせる時の経過が必要だと。とても頑丈なああした建造物から、構造を消し去り、一目見ただけでは構造がわからないようにしなければならないのだ。知性は図面を引き、土台を造ることを可能にする。だが、プルーストの知性は、さらにその上をいく知性であるために、その図面を半ば消し去り、人が何も見抜けないようにしたのだ。なぜなら、最初にまず印象付けなければならないのは、だからである。そこにこそ、この小説の名作たるゆえんがある。(p307)

  つまり、流れのつかみにくさこそがプルーストの美意識そのものだったのだ。ただ、“本質的に<付け足し>によ”り長くなっていった故に、前後関係の齟齬や死後出版分の訂正しようのない間違いも多い。特に問題なのは

『スワン家のほう』と『見いだされた時』の結末の間には齟齬がある。このことは構造上の問題を生む。(p45)

なのだが、

最後まで読んだ読者はもうそのことについてはもうそのことについて理解し、折り合いが心の中でついている。 「優秀なる読者」には、そんな標識は必要ない。彼はもう文学の、生と死を贖ってくれる、贖罪の役割に気がついている。この意味で、『失われた時を求めて』は幸福な書物だ。幸せな終わりを迎える本なのである。(p45)

  そのようなエクリチュール(書く方法)は写実主義的とは相容れない。とは言え、無意識的記憶に従ってでも自らの人生を描こうとした以上、彼の生きた時代と全く無縁であったわけではない。

プルーストは社会的にも文化的にも宗教的にも、つねに二つの世界に属している。(中略)彼にとってのジレンマは、ハムレットのように「生きるべきか、死ぬべきか」ということではなく、「その中に属すべきか、属さざるべきか」ということなのだ。この態度をもって、彼はフランス社会を痛烈に批判する。(p193)

 

プルーストは、歴史上の出来事など、芸術にとって、鳥の歌声ほどに意味がないと主張していた。だから彼は写実主義的な小説は書かなかった。けれども(中略)物語の筋は、おおよそプルーストの生涯の年譜と対応しているわけだ。ただ、何人かの登場人物は、歳をとらない。たとえば女中のフランソワーズ。(pp34-5)

(このフランソワーズの指摘は面白い。)

プルーストは単なるスノッブで繊細な作家ではない。本当に読んだことのない人が、そう想像しているだけである。彼はからかい好きで残酷な書き手なのだ。その壮大な詩想と超敏感な感受性とは別に、何か奇妙でいびつな部分が彼のうちにあることは,頭に留めておく必要がある。『失われた時を求めて』は、キュビズムの絵画と同時代の作品なのだ。(p107)

  そう、この小説の主要登場人物や、彼らが集う社交界は語り手の目を通して、キュビズム的に特徴(彼の言葉を借りれば印象か)が強調されているように感じる。その一挙一動を執拗に観察し書き続ける語り手。それがこの物語の大きな特徴であると感じる。

けれども、私がとりわけ愛着をもっているのは、この物語の登場人物たちである。人はこの小説の語り手の声に、その人生に、還元しすぎるきらいがある。(中略)そこには巨大な登場人物のシステムー女たち、男たち、子どもたち、老人たち、使用人たち、大貴族たち、政治家たち、兵士たちーがあることを忘れてはならないのである。(p61)

 

プルーストの描く社会は非常に閉鎖的な社会だ。それはいわば<長く生き永らえ過ぎた者たち>の社会であって、それ自体パロディのようなものである。(中略)現実社会の中で、おとぎ話の世界を生きているのである。こういう世界を思い描くには、フェデリコ・フェリーニの映画を思い浮かべるのがいいのかもしれない。(p108)

  そのような登場人物で、最も代表的な人物は、実在の裕福なユダヤ人シャルル・アースをモデルにしたスワン氏であろう。

そもそもスワンは、その人生の挫折により、おそらくプルーストの作品の中でもっともニーチェ的な登場人物だと言っていいだろう。(中略) スワンの挫折は『失われた時を求めて』にとって必要なものだった。ツァラトゥストラの挫折がニーチェの待ち望む超人性にとって不可欠であったように。(中略)ニーチェの超人思想とは、要するに永劫回帰を望むほどまでに生を愛することだったのだが、プルーストもまた同じく生を愛していたのである。(p266)

  このスワン氏にしても、語り手にしても、とにかく恋人(それぞれオデット、アルベルチーヌ)への嫉妬に苦しめられるし、恋愛中は世間との関係を断ってしまいさえする。「苦痛」が愛することそのものであるかのように。それは厭世主義的な点においてショーペンハウワー的とさえ言えるが、安易にショーペンハウワーを持ち出すのはオリヤーヌにバカにされ激怒されるカンブルメール夫人の轍を踏む事になりかねない。

ショーペンハウワーは社交界の哲学者である。社交界、つまりスノッブたちの世界の。(中略)たとえば、カンブルメール夫人はショーペンハウワーをよく引き合いに出す。なぜなら、そうすることで安手に自分を輝かせることができるからだ。(中略)ショーペンハウワーは、その哲学をひけらかしに使う人のとっては実に魅力的なペシミストなのである。(p256)

 

プルーストにおいても、ショーペンハウワーにおいても、<私>だけにこだわるならば、存在は袋小路だということになってしまう。だが、一個人の小さな生が描き出す地平線を越えて、その向こうにまで眼差しを向ければ、厭世主義は乗り越えることができるのだ。(p259)

  また先日レビューした「収容所のプルースト」でも指摘があったように、プルーストは安易に「」を持ち出さない。

プルースト以後、彼が小説の中で探し求めたこの「無神論の美徳」は失われてしまったのではないだろか。シュルレアリストたちは狂気の愛を探し求めた。実存主義者たちは政治革命の熱狂に身を投じた。ヌーヴォー・ロマンは耽美主義を復権させた。そして「自伝的小説」は今日、超自我のスキャンダルを神聖なものとして特別視している。しかし、一つの立場に立つのでも、その反対の立場に立つのでもなく、常に横断的で俯瞰的な姿勢を貫くプルーストに比べると、彼以後の文学は全て局地主義的なものに見え、色あせてしまう。(pp196-7)

 

  敢えて言えばプルーストは芸術至上主義者である。スワン氏と並ぶ重要人物であるシャルリュス男爵はその奇矯な性格と倒錯した性愛の嗜好にもかかわらず、芸術への造詣の深さにより燦然と輝いている人物であるし、そのすべてを書き続ける語り手「私」の文学、音楽、絵画、演劇等々の造詣の深さはただものではない。

 

  そして架空の人物であるヴァントィユ(作曲家)の音楽、エルスチール(画家)の絵画、ベルゴット(作家)の作品、それらを文字で表現していくプルーストの凄さもただものではない。

小説の中で、プル-ストは音楽のフレーズ―ヴァントィユの楽句ーについて、ほとんど文体論的なコメントを書き綴っているが、それはまさにそれ自体一つの文学的小品と言っていいようなコメントである。(中略)プルーストはこうして小説の中で一人の音楽家を創造しているのだ(以下略)(p288)

 

ベルゴットはフェルメールの絵の前で死ぬ。もしかしたら、「アナトール・フランス風の」偉大な作家が他界することが、新しい作家の誕生のために必要だったのかもしれない。(中略)ベルゴットは死に、やがて生まれるべき本がようやくその扉を開くことになる。(p304)

 

この本を通して、プルーストは創作に取り組む芸術家の姿を見せてくれている。それは彼自身の鏡でもある。彼は、自分の数々の彫刻作品をたった一つの作品「地獄の門」の中に集めたロダンや、「睡蓮」の連作を描いたクロード・モネと同じ意思に突き動かされているのだ。それはワーグナー的な計画だと言ってもいい。それ自体一個の世界となりうるかもしれないような作品を作るということである。プルーストはサン=シモンの『回想録』の系譜に連なると同時に、またバルザックシャトーブリアンの末裔でもある。(p282)

 

結論:

 

プルーストは読みやすい作家ではない。その文は一つ一つが長く、描かれる社交界の夜会はいつ終わるともしれない。恐ろしくなる。だが、本を恐れるのは当然なのだ。なぜなら、本というものは、私たちを変えてしまうものだから。プルーストの作品のような小説に飛び込み、それを本当に読んだなら、その最後まで行き着いたなら、人は違う自分になってそこから出てくる。(p18) 

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二十世紀文学の最高峰と言われる、プルースト失われた時を求めて』。この大作に挑戦するには、まばゆい日差しのもと、ゆったりとした時間が流れる夏休みが最適だ―。本書は、現代フランスを代表するプルースト研究者、作家などが、それぞれの視点から『失われた時を求めて』の魅力をわかりやすく語った、プルースト入門の決定版である。(AMAZON解説)