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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

エクソダス症候群 / 宮内悠介

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    宮内悠介 を読もうシリーズ、今回は2015年の第三作にして初の長編書き下ろしとなる「エクソダス症候群」です。火星の精神病院を舞台に中世から現代までの精神医療史を緻密に考証しつつ描かれる壮大な物語でした。長編をものする実力を遺憾なく示した、と言いたいところですが、惜しむらくは最後でちょっと息切れした感じがあり惜しいところでした。

 

  これまでも作者の小説作法として「参考文献を必ず巻末に収載する」ことを挙げてきましたが、本作も例外ではなく、というか医師の私から見ても尋常ではない数の精神科関連の書籍を読みこんでおられて驚きました。作家の方がよく参考にされる我が母校の名誉教授中井久夫先生の名前もあり、誇らしい気持ちが半分、ちょっとみんな中井先生にばかり頼り過ぎだよな~という気持ちが半分でした。

 

  さてその参考文献の読み込みの凄さは、中世の魔女裁判ナチスの優性主義なども絡めた精神医療史の光と闇の記述に余すところなく活かされていました。一方氏は医療とは関係ない分野を進まれてきた方で、当然ながら臨床はご存じないはずですが、現場の描写もまずまず破綻なく描けてはいたと思います。

 

  ただ、人類が「火星」に行く時代にまだ精神科救急でハロペリドールやらフルニトラゼパムやらが使われているのかな~、という違和感はありましたし、カバラをはじめとしたユダヤ関連のアイテムを多く出すのなら宮内悠介氏お得意の中近東あたりの架空の国での近未来SFにした方がむしろ説得力は増したんじゃないか、とも思います。

 

  そこまでして「火星」にこだわったのは、勿論解説にも書いてあるようにそこがSFのゴールデンスタンダードの舞台であり挑戦意欲を掻き立てられることもあるのでしょうが、おそらくは最終第八章の章名にもなっている「火星の精神科医」というオリバー・サックス(映画「レナードの朝」の原作者として有名な医師)の著書にインスパイアされたのではないか、と思います。

 

10棟からなるその病院は、火星の丘の斜面に、カバラの“生命の樹”を模した配置で建てられていた。亡くなった父親がかつて勤務した、火星で唯一の精神病院。地球の大学病院を追われ、生まれ故郷へ帰ってきた青年医師カズキは、この過酷な開拓地の、薬もベッドもスタッフも不足した病院へ着任する。そして彼の帰郷と同時に、隠されていた不穏な歯車が動き出した。俊英の初長編。(AMAZON解説)

 

  またまた前置きが長くなってしまいましたが(まだ前置きだったのかよ、という声が聞こえる)、物語はカズキ・クロネンバーグという若手精神科医が地球から火星に里帰りして火星唯一の精神科専門総合病院ゾネンシュタイン病院に赴任するところから始まります。

 

  地球ではテクノロジー、薬、医療の発達により従来の躁鬱、統合失調症神経症などは地上から滅びつつあるのに、逆に「特発性希死念慮(ISI)」という原因不明の自死が増加、カズキも恋人をISIで失い、彼女の父親である精神科教授に疎まれて居場所がなくなり、生まれ故郷である火星に戻ってきたのでした。

 

  一方の火星は辺境であり、物資や医療設備も十分ではなく、精神科救急外来は野戦病院状態、ISIなどというある意味悠長な病気はなく、様々な旧来の疾患で満ち溢れていました。そしてもう一つ、脱出願望を特徴とする幻覚妄想を呈する「エクソダス症候群」が問題となっていました。

 

  実はカズキもエクソダス症候群に罹患しており、薬を常用しています。彼の出生にはある秘密があり、亡き父イツキ・クラウジウスが勤めていたこのゾネンシュタイン病院にそれを知る人物が二人います。狸院長のイワンと、EL病棟と称されている特殊病棟の最古の患者で病棟長も兼ねている謎の人物チャーリーです。帰ってきたイツキの息子に接したこの二人の思惑で、物語は動き始めます。

 

  このメインプロットの合間合間に魅力的なあるいは怪しげな人物のエピソードが挿入され、地球の中世から始まる精神医療史が語られ、ぐいぐい読者を引っ張っていくけん引力となっています。

 

  そして後半、ついにチャーリーが仕掛けたクーデター策が発動し、大量のエクソダス症候群患者が発生し、病院機能が麻痺しかけ、院長イワンも経営破綻だとさじを投げます。果たしてイツキにはどのような対抗策があるのか?

 

  ここからが山場ではあるし、ISIとエクソダス症候群の関係も明かされ、各種伏線も回収はされるのですが、ややあっさりして盛り上がりに欠けるところが残念でした。

 

  というわけで、最後の息切れ感は否めませんが、それでも火星の描写、精神医療史の光と闇の緻密な考証、そして魅力的な人物像の描き分けなど、濃密で満足できる長編大作で宮内悠介の実力を見せつけた長編第一作でした。これからもボチボチと追いかけていきたいと思います。