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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

盤上の夜 / 宮内悠介

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 「宮内悠介を読もう」シリーズの五冊目はデビュー作「盤上の夜」です。本来なら真っ先に読まねばならないところなのですが、本作のテーマであるボードゲーム類が全く不得意であることと、紹介文やレビューで「盤上の夜」の主役の設定が嫌だったことで、故意に避けていました。しかし傑作である「ヨハネスブルグの天使たち」に出会えたことで吹っ切れ、本腰を入れて宮内悠介を読みたくなり、この処女作を手に取った次第です。

 

  前作でまとめた宮内悠介の短編集の特徴はこの処女作で既に確立されています。再掲しますと

 

・ ゆるやかに連関のある短編を重ねて全体として統一した世界観を提示する

・ 日本語題名にある程度統一性を持たせる

・ 英語のサブタイトルで内容を示唆する

・ 参考文献を提示する

 

となります。本作の場合は「ボードゲーム」がテーマで、取材記者である「わたし」が一作品を除いて語り手として登場し、最初の作品と最後の作品では主人公が共通しています。

 

  日本語と英語のタイトル、本文、参考文献という体裁も本作ですでにそのスタイルを確立しており、デビュー当初からかっちりとした構成のできる作家であったことがよくわかります。

 

  そして驚くべきは、練りに練られた完成度の高いプロットと、理系的なドライで分析的な文章。いわゆる「キレッキレ」な作品集で、これはデビューから注目を集めるわな、と感心しきりでした。敢えて言えば、ご本人が「超動く家にて」のあとがきで書いておられた

処女作がシリアス過ぎて、このままでは、洒落や冗談の通じないやつだと思われてしまわないだろうかというのがバカ小説執筆のきっかけ

という一節がよく理解できるような、あそびのない張り詰めすぎた展開、そしてややドロドロした設定があるのが気になったと言えば気になりました。また、最初に書いたようにボードゲーム類がからっきしダメなのが悔しかったです。詳しい人なら倍楽しめると思いますし、解説で沖方丁氏が書いておられるように、共通した語り手である「わたし」の心の動きもより理解しやすいのだろうと思います。

 

  それにしても「栴檀は双葉より芳し」という喩えがピッタリくるような処女作でした。

 

  以下、寸評です。

 

盤上の夜 Dark beyond the Weiqi 囲碁(Weiqiは中国語の囲碁の事)

  慰みものにするために海外旅行中の女性の四肢を切り取るという都市伝説を題材にしていると聞いていたので読むのを躊躇っていた作品。その辺はさらっと流し、四肢をもがれた天才女性棋士灰原由宇と彼女の棋風に魅入られた日本の元棋聖相田淳一が囲碁界に起こした嵐が、取材記者の目を通して極めてドライな筆致で淡々と綴られるので、意外に引っ掛かりなく読めました。

  特に彼女が盤上に「感じて」いた世界の描写が素晴らしい。そこから一捻りした上で沖方氏曰くの“本書における最も静かで美しいクライマックス”に持っていく技量は新人離れしています。囲碁をよく理解している人ならもっと深く感じるところがあるのでしょう、そこが悔しかった。

 

人間の王 Most Beautiful Program チェッカー

  実在した無敗のチェッカープレーヤー、マリオン・ティンズリー。彼は1992年にシェーファーというプログラマーが考案したシヌークというプログラムと対決したことでも有名だそうです。その人間チャンピオン対コンピューター最強プログラムの対戦についての、一問一答形式の取材という形式で話は進むのですが、インタビューに応じている人物が誰か、というのがこの話のミソでなかなか面白かったです。

 

清められた卓 Sharman versus Psychiatrist 麻雀

  麻雀は大体ルールがわかるので、面白く読めました。伝説の対局についての取材から浮かび上がってくる、透視能力があるとしか思えないシャーマン女性の真実。宮内悠介自身プロ麻雀試験に補欠合格した経歴の持ち主なので、麻雀理論の説明がすごいのですが、その一方で無敵のシャーマン女性の打つ手が無茶苦茶弱かった私がやるような手ばかり。その種明かしに笑ってしまいました、TVバラエティ番組「突破ファイル」MCのうっちゃんなら「惜しい!」と言ってくれてるかも(笑。

 

象を飛ばした王子 First Flying Elephant チャトランガ

  将棋やチェスの起源と言われる古代インドの盤上遊戯チャトランガの発案者として、家族を捨て出家した釈迦の息子を設定したところが宮内悠介の慧眼です。捨てられ小国の生き残りを任されてしまった王子が戯れに考えだし、大人になって、帰ってきたシッダルタと盤上対決する場面が感動的で、この作品は一個の独立した作品として素晴らしい。

 

千年の虚空 Pygmalion's Millenium 将棋

  これも作品としては素晴らしい出来栄えですが、そのドロドロさにはちょっと辟易。「盤上の夜」を最初に読んでいたら早々に宮内悠介から退散していたかも。そういう意味では、今になって読んで正解でした。

 

原爆の局 White Sands, Black Rain

  「盤上の夜」の主人公の二人由宇と相田、そしてを追いかける記者「わたし」と第一作で由宇に勝てなかった棋士井上隆太の四人が再登場、舞台はアメリカへと移ります。それと並行して昭和20年8月6日の広島で行われていた本因坊戦が描かれ、絶妙にリンクしてラストの由宇と井上の決戦に雪崩れ込みます。観戦している「わたし」が“このとき現実の底がぬけた。部屋は透明な海水に満ち、透明な魚の群れが音もなく横切っては消えた。”と感じてからのめくるめくような展開は見事なものでした。囲碁をよく知る人であれば最後の由宇の言葉

 

「 ーーー 九割の意思と、一割の天命です。」

 

に感じ入る事ができるのだろうと思います。

 

  以上、ボードゲームと人生の「完全解」を求め続ける人間たちの「さが」を描き尽くした短編集でした。( ← と、ボードゲームを知らぬ人間が結論づけてもいいのか? )

 

 相田と由宇は、出会わないほうがいい二人だったのではないか。彼女は四肢を失い、囲碁盤を感覚器とするようになった―若き女流棋士の栄光をつづり、第一回創元SF短編賞山田正紀賞を贈られた表題作にはじまる全六編。同じジャーナリストを語り手にして紡がれる、盤上遊戯、卓上遊戯をめぐる数々の奇蹟の物語。囲碁、チェッカー、麻雀、古代チェス、将棋…対局の果てに、人知を超えたものが現出する。二〇一〇年代を牽引する新しい波。(AMAZON解説)

プルーストと過ごす夏 / アントワーヌ・コンパニョン他

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  先日読了したマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」ですが、読み終わってホッとするかと思いきや、逆にズルズルあとを引いています。この化け物のような、この本の著者の一人に言わせれば“いささか奇怪で、見事な具合に失敗している”小説は一体何だったのか?それをずっと考えていますし、分かっていない部分や読み落としている部分があるんじゃないかという不安に駆られます。かと言って、じゃあもう一回読むかと気軽に再読できる長さと文章じゃない。

 

  もちろん訳者の高遠弘美氏や吉川一義氏の詳細で丁寧な解説はありがたいものでしたが、本国フランスの方の捉え方も参考になるんじゃないか、と思って手に取ったのがこの本です。

 

  2013年の夏、フランス・アンテノールのラジオ番組で8人の現代フランスを代表するプルースト研究者、作家たちが、それぞれの視点から『失われた時を求めて』の魅力、“自分の心にかかるテーマと自分を変えた1ページ”を選び、語った内容を、あらためて文章に起こしてもらったものだそうです。それを番組の聞き手で本書の編者ローラ・エル・マキが、各人の一小節ごとにテーマを提示しつつ上手くまとめています。

 

第一章 時間 アントワーヌ・コンニョン

第二章 登場人物 ジャン=イヴ・タディエ

第三章 プルースト社交界 ジェローム・プリウール

第四章 愛 ニコラ・グリマルディ

第五章 想像界 ジュリア・クリスティヴァ

第六章 場所 ミシェル・エルマン

第七章 プルーストと哲学者たち ラファエル・アント―ヴェン

第八章 プルーストと芸術 アドリアン・グーツ

 

  全く知らなかったことや特別に目新しい内容はなかったですが、ラジオ番組をもとにしただけあって親しみやすく、「そうそうそうなんですよ!」とか、「え、そうかな?」とか、「間違ってたら恥ずかしいから書かなかったけどやっぱりそうなのか!」とか、いろんなツッコミをいれながら読んでいました。

 

  それにしても「失われた時を求めて」という小説は如何様にも読めるし、如何様にもテーマを掘り起こせる。おまけに、語り手「私」が最終章で「もし事故死してしまえば自分の頭脳の中の鉱床がすべて失われかつ掘り起こすことができなくなってしまう」と危惧したように、彼は刊行途中で病死します。アントワーヌ・コンニョンは書いています。

 

もし彼がもっと長く生きていれば、この本は三千ページではなく四千ページになっていた可能性すらある。『囚われの女』と『消え去ったアルベルチーヌ』と『見いだされた時』はもっと増えてしたかもしれないのだ。(p26)

 

ですから、読み終えて「まだ何か読み残しているかもしれない」と思うのは私だけでないのかもしれません。とはいえ、まあ三千ページだけでも完読するのは大変。まして全てを理解するのは不可能に近い。ということで、この8人の言葉を借りて、私なりに通巻での「失われた時を求めて」の再検討を試みてみます。

 

以下レビュアー自己満足の長文ご容赦のほどを。 (ちなみに引用文が「だ・である調」(これについては訳者解説あり)なので地の文もそれに従います。)

 

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  まず、「失われた時を求めて」の一般認識はこうである。

失われた時を求めて』は、うまく分類することが永久に不可能な種類の本の一つである。それこそが、この本の力であり、深さなのだ。一度読んだ人は十年経ってからまたこの本を読み返すだろう。(中略)とはいえ、非常に有名なこの本を、全部通して読んだ人となるとまれだ。当初から変わらない法則が一つある。第一篇『スワン家のほう』を買った人のうち、半分だけが第二篇『花咲く乙女たちのかげに』を買い求め、『花咲く乙女たちのかげに』を買った人のさらに半分だけが『ゲルマントのほう』を買い求める。しかし、それからあとはもう挫折する読者はいない。『ソドムとゴモラ』『囚われの女』『消え去ったアルベルチーヌ』を経て、『見いだされた時』へとたどりつく。(pp16-8)

  この、ストーリーだけとってみれば要約するのに半ページも要らない物語が何故かくも多くの人を挫折させるのか?それはひとえに、長くて難解な文章のせいである。

モンテーニュプルーストは、どちらも息の長いセンテンスを好む。とはいえ、長くなってしまう理由は同じではない。モンテーニュは<引き伸ばし>のために長くなるのであり、プルーストの文の長いのは、本質的に<付け足し>によるものだ。言いかえれば、モンテーニュの文は内部で膨らむのであり、一方、プルーストの文は途方もなく外に延びていくのである。(p248)

 

プルーストの長い文は非常に特殊だ。(中略)だが、プルーストは短い文を書くのもうまい。(中略)第一文「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた」は、巻の幕開けとしてまさに天才の思い付きである。(p26-7)

  つまり文章の性質を把握し、読むのに慣れれば、通読は可能だしその文章を楽しむことがこの小説を読む楽しみにもなりうる。ハイレベルの読者はこんなことさえ言っている。

「短いのに長く感じさせる作品というのがある。プルーストの長い作品は、僕には短く感じられる」ジャン・コクトーは『失なわれた時を求めて』を、こんなふうに語ってみせた。(中略)この本を読むと、そこから抜け出したくないと思ってしまう(p24)

  ただ、その文章の性質ゆえに、流れがつかみにくいのは事実。時の流れ、時代の流れ、ストーリーの展開など、小説の技法を無視してひたすらダラダラ書いているように思える。しかし、それは違う。

彼は周到に物語を構成していた。 この本は、非常に周到に組み立てられている。さらさらと筆が流れるままに書いたかのような見かけにだまされた人もいたわけだが、この本は、あらかじめの準備と、いくども戻って考え直した末の賜物なのだ。(p42)

 

彼は知性よりも心情の間歇のほうを好んだ。知性は時にがっちりと構築されすぎた記念構造物のようになりがちだからだ。ジョン・ラスキンによれば、記念構造物には、錆や風化が必要だという。あの、石を輝かせる時の経過が必要だと。とても頑丈なああした建造物から、構造を消し去り、一目見ただけでは構造がわからないようにしなければならないのだ。知性は図面を引き、土台を造ることを可能にする。だが、プルーストの知性は、さらにその上をいく知性であるために、その図面を半ば消し去り、人が何も見抜けないようにしたのだ。なぜなら、最初にまず印象付けなければならないのは、だからである。そこにこそ、この小説の名作たるゆえんがある。(p307)

  つまり、流れのつかみにくさこそがプルーストの美意識そのものだったのだ。ただ、“本質的に<付け足し>によ”り長くなっていった故に、前後関係の齟齬や死後出版分の訂正しようのない間違いも多い。特に問題なのは

『スワン家のほう』と『見いだされた時』の結末の間には齟齬がある。このことは構造上の問題を生む。(p45)

なのだが、

最後まで読んだ読者はもうそのことについてはもうそのことについて理解し、折り合いが心の中でついている。 「優秀なる読者」には、そんな標識は必要ない。彼はもう文学の、生と死を贖ってくれる、贖罪の役割に気がついている。この意味で、『失われた時を求めて』は幸福な書物だ。幸せな終わりを迎える本なのである。(p45)

  そのようなエクリチュール(書く方法)は写実主義的とは相容れない。とは言え、無意識的記憶に従ってでも自らの人生を描こうとした以上、彼の生きた時代と全く無縁であったわけではない。

プルーストは社会的にも文化的にも宗教的にも、つねに二つの世界に属している。(中略)彼にとってのジレンマは、ハムレットのように「生きるべきか、死ぬべきか」ということではなく、「その中に属すべきか、属さざるべきか」ということなのだ。この態度をもって、彼はフランス社会を痛烈に批判する。(p193)

 

プルーストは、歴史上の出来事など、芸術にとって、鳥の歌声ほどに意味がないと主張していた。だから彼は写実主義的な小説は書かなかった。けれども(中略)物語の筋は、おおよそプルーストの生涯の年譜と対応しているわけだ。ただ、何人かの登場人物は、歳をとらない。たとえば女中のフランソワーズ。(pp34-5)

(このフランソワーズの指摘は面白い。)

プルーストは単なるスノッブで繊細な作家ではない。本当に読んだことのない人が、そう想像しているだけである。彼はからかい好きで残酷な書き手なのだ。その壮大な詩想と超敏感な感受性とは別に、何か奇妙でいびつな部分が彼のうちにあることは,頭に留めておく必要がある。『失われた時を求めて』は、キュビズムの絵画と同時代の作品なのだ。(p107)

  そう、この小説の主要登場人物や、彼らが集う社交界は語り手の目を通して、キュビズム的に特徴(彼の言葉を借りれば印象か)が強調されているように感じる。その一挙一動を執拗に観察し書き続ける語り手。それがこの物語の大きな特徴であると感じる。

けれども、私がとりわけ愛着をもっているのは、この物語の登場人物たちである。人はこの小説の語り手の声に、その人生に、還元しすぎるきらいがある。(中略)そこには巨大な登場人物のシステムー女たち、男たち、子どもたち、老人たち、使用人たち、大貴族たち、政治家たち、兵士たちーがあることを忘れてはならないのである。(p61)

 

プルーストの描く社会は非常に閉鎖的な社会だ。それはいわば<長く生き永らえ過ぎた者たち>の社会であって、それ自体パロディのようなものである。(中略)現実社会の中で、おとぎ話の世界を生きているのである。こういう世界を思い描くには、フェデリコ・フェリーニの映画を思い浮かべるのがいいのかもしれない。(p108)

  そのような登場人物で、最も代表的な人物は、実在の裕福なユダヤ人シャルル・アースをモデルにしたスワン氏であろう。

そもそもスワンは、その人生の挫折により、おそらくプルーストの作品の中でもっともニーチェ的な登場人物だと言っていいだろう。(中略) スワンの挫折は『失われた時を求めて』にとって必要なものだった。ツァラトゥストラの挫折がニーチェの待ち望む超人性にとって不可欠であったように。(中略)ニーチェの超人思想とは、要するに永劫回帰を望むほどまでに生を愛することだったのだが、プルーストもまた同じく生を愛していたのである。(p266)

  このスワン氏にしても、語り手にしても、とにかく恋人(それぞれオデット、アルベルチーヌ)への嫉妬に苦しめられるし、恋愛中は世間との関係を断ってしまいさえする。「苦痛」が愛することそのものであるかのように。それは厭世主義的な点においてショーペンハウワー的とさえ言えるが、安易にショーペンハウワーを持ち出すのはオリヤーヌにバカにされ激怒されるカンブルメール夫人の轍を踏む事になりかねない。

ショーペンハウワーは社交界の哲学者である。社交界、つまりスノッブたちの世界の。(中略)たとえば、カンブルメール夫人はショーペンハウワーをよく引き合いに出す。なぜなら、そうすることで安手に自分を輝かせることができるからだ。(中略)ショーペンハウワーは、その哲学をひけらかしに使う人のとっては実に魅力的なペシミストなのである。(p256)

 

プルーストにおいても、ショーペンハウワーにおいても、<私>だけにこだわるならば、存在は袋小路だということになってしまう。だが、一個人の小さな生が描き出す地平線を越えて、その向こうにまで眼差しを向ければ、厭世主義は乗り越えることができるのだ。(p259)

  また先日レビューした「収容所のプルースト」でも指摘があったように、プルーストは安易に「」を持ち出さない。

プルースト以後、彼が小説の中で探し求めたこの「無神論の美徳」は失われてしまったのではないだろか。シュルレアリストたちは狂気の愛を探し求めた。実存主義者たちは政治革命の熱狂に身を投じた。ヌーヴォー・ロマンは耽美主義を復権させた。そして「自伝的小説」は今日、超自我のスキャンダルを神聖なものとして特別視している。しかし、一つの立場に立つのでも、その反対の立場に立つのでもなく、常に横断的で俯瞰的な姿勢を貫くプルーストに比べると、彼以後の文学は全て局地主義的なものに見え、色あせてしまう。(pp196-7)

 

  敢えて言えばプルーストは芸術至上主義者である。スワン氏と並ぶ重要人物であるシャルリュス男爵はその奇矯な性格と倒錯した性愛の嗜好にもかかわらず、芸術への造詣の深さにより燦然と輝いている人物であるし、そのすべてを書き続ける語り手「私」の文学、音楽、絵画、演劇等々の造詣の深さはただものではない。

 

  そして架空の人物であるヴァントィユ(作曲家)の音楽、エルスチール(画家)の絵画、ベルゴット(作家)の作品、それらを文字で表現していくプルーストの凄さもただものではない。

小説の中で、プル-ストは音楽のフレーズ―ヴァントィユの楽句ーについて、ほとんど文体論的なコメントを書き綴っているが、それはまさにそれ自体一つの文学的小品と言っていいようなコメントである。(中略)プルーストはこうして小説の中で一人の音楽家を創造しているのだ(以下略)(p288)

 

ベルゴットはフェルメールの絵の前で死ぬ。もしかしたら、「アナトール・フランス風の」偉大な作家が他界することが、新しい作家の誕生のために必要だったのかもしれない。(中略)ベルゴットは死に、やがて生まれるべき本がようやくその扉を開くことになる。(p304)

 

この本を通して、プルーストは創作に取り組む芸術家の姿を見せてくれている。それは彼自身の鏡でもある。彼は、自分の数々の彫刻作品をたった一つの作品「地獄の門」の中に集めたロダンや、「睡蓮」の連作を描いたクロード・モネと同じ意思に突き動かされているのだ。それはワーグナー的な計画だと言ってもいい。それ自体一個の世界となりうるかもしれないような作品を作るということである。プルーストはサン=シモンの『回想録』の系譜に連なると同時に、またバルザックシャトーブリアンの末裔でもある。(p282)

 

結論:

 

プルーストは読みやすい作家ではない。その文は一つ一つが長く、描かれる社交界の夜会はいつ終わるともしれない。恐ろしくなる。だが、本を恐れるのは当然なのだ。なぜなら、本というものは、私たちを変えてしまうものだから。プルーストの作品のような小説に飛び込み、それを本当に読んだなら、その最後まで行き着いたなら、人は違う自分になってそこから出てくる。(p18) 

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二十世紀文学の最高峰と言われる、プルースト失われた時を求めて』。この大作に挑戦するには、まばゆい日差しのもと、ゆったりとした時間が流れる夏休みが最適だ―。本書は、現代フランスを代表するプルースト研究者、作家などが、それぞれの視点から『失われた時を求めて』の魅力をわかりやすく語った、プルースト入門の決定版である。(AMAZON解説)

 

空の青さを知る人よ / 額賀澪

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   人気アニメ制作チーム超平和バスターズの、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(通称「あの花」)」「心が叫びたがってるんだ(通称「ここさけ」)」に続いて昨秋公開された「空の青さを知る人よ」のノベライズ作品で、書いておられるのは超平和バスターズではなく、額賀澪という作家さんです。映画は公開時に観ており、今回 #カドフェス2020 のリストにあったので読んでみました。

 

  舞台は「あの花」「ここさけ」とこの作品を入れて秩父三部作と呼ばれている通り、今回も脚本担当の岡田麿里の故郷秩父市です。山に囲まれた風光明媚な土地ではあるけれど、都会志向の若者にとっては山に囲まれた盆地が“牢獄”のように思える田舎町。

 

  主人公は相生あかね(31)、あおい(17)姉妹。小説はあおいの語りで終始進められます。

 

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映画館で買ったクリアファイル。左からじゅん(ここさけ)、あおい(空青)、めんま(あの花)

 

  二人は13年前に交通事故で両親を亡くし、あかねが親代わりとなりあおいを育ててきました。あかねその当時高3で、当時つきあっていた金室慎之助(通称「しんの」)と二人で上京し専門学校へ進学するつもりだったのですが、そういう事情で故郷に残りました。「しんの」はバンドを組んでいたのでギタリストとして成功する夢を持って上京し、それきりになっていました。あおいは当時4歳で、バンドに差し入れにいくあかねにくっついて練習場所の寺のお堂にいっては「しんの」に可愛がられ、将来バンドのベーシストにしてやると言われていました。

 

  時は流れ現在、あおいはこれ以上あかねの負担になりたくないと、高校卒業後進学せず上京する決意を固めています。そしてベーシストとして音楽業界での成功を夢見て、今もあのお堂で練習を重ねています。あかねは役場に勤め堅実な生活をしつつ、あおいの送迎までしています。高校時代のバンドのドラマーであったバツイチコブツキの中村正道はあかねに気があり、あわよくば結婚したいと思っていますが、あかねはいつもはぐらかしています。

 

  そんなお膳立てをした上でのある日、お寺のお堂で練習するあおいの前に、13年前そのまんまの「しんの」が現れたからさあ大変!

 

  しかも同じ日にあかねとあおい、正道親子の前に、正道が町おこしイベントで招聘した大物演歌歌手のバンドの専属ギタリストとして、本物の慎之助が現れた!

 

  お堂の「しんの」は「生き霊」なのか?にしても何故?

 

  そこからあおいとあかね、「しんの」と慎之助の奇妙な四角関係騒動が始まります。超平和バスターズお得意の不思議でちょっと切なくて「大人でも泣ける」物語、あとは読んでのお楽しみ。

 

  全体に丁寧にノベライズされており、作家としての個性は消してうまく各シーンを文字で再現していく額賀澪さんの筆致には好感が持てます。ゴダイゴガンダーラの音楽とともに、どのページをめくっても半年以上前に見たきりであった映画のシーンが鮮明に蘇ってきました。あかねが卒業文集に書いた

 

井の中の蛙 大海を知らず されど 空の青さを知る

 

の意味、そして使われ方もうまく再現されています。

 

  敢えて言えば、あおいの語りで話が進むため、他の人物、特に今回は正道の掘り下げ方が浅かったように思いました。

 

     それでも映画をしっかり追体験でき、映画ではエンドロール中の絵での紹介でしか見られなっかった「その後」についても「エピローグ」でしっかり書かれていますので、映画が好きな方にはお勧めです。映画がまだの方でも一日あれば十分読めますし、イラストもたくさん挿入されているので楽しめます。ストーリーが気に入ればぜひ映画もご覧ください。

 

  これからも超平和バスターズからは目が離せません! ( ← 額賀澪さんじゃないのか )

 

『あの花』『ここさけ』の長井龍雪監督が贈る、最新映画の小説版 山間の街に住む高校生・相生あおい。進路を決める時期なのに大好きな音楽漬けの日々を送る。 そんな彼女を心配する姉・あかねの昔の恋人で、高校卒業後に上京したきりだった慎之介が、街に帰ってきた。 時を同じくして、あおいの前に、高校時代の姿のままの慎之介こと「しんの」が現れる! やがてあおいは、しんのに恋心を抱いていくが……。 一方、あかねと慎之介も13年ぶりに再会を果たす。 過去と現在をつなぐ、「二度目の初恋」が始まる。(AMAZON解説より)

収容所のプルースト / ジョセフ・チャプスキ

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  マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」を完読できれば読みたいと思っていた本です。光文社古典新釈文庫版の翻訳をされている高遠弘美氏が第三巻「失われた時を求めて〈3〉第二篇・花咲く乙女たちのかげに I」の解説でこの書に言及し、手もとにテキストがあるわけでないのに

プルーストの表現を一旦自分のなかにいれて咀嚼し(中略)あまりにも見事に綴り直すチャプスキの「記憶」は、フローベールボードレールについて、本そのものが手もとになかったために、記憶だけで引用してすばらしい批評を書いたプルーストその人を想起させる。(中略)勘所を外さないその「引用」と原文を比べると、言いようのない感動に襲われる。(中略)何かの作品を愛するとはまさにこういうことでなければならない。

と絶賛されていたので、これは読まねばと思っていました。

 

  一方で根本的な疑問も二点ありました。

 

1: 収容所という極限の状況下で軍人が何故フランスの社交界と恋愛を延々と描き続けるこの作品を選んだのか?軍人捕虜たちがそれを本当に喜んで聞いていたのか?

2: 本当にテキストなしでこの数千ページに渡る長編小説を講義できるのか?

 

  先週(2020/6/26)ようやく「失われた時を求めて」を読み終えましたので、さっそく読んでみました。

 

1939年のナチスソ連による相次ぐポーランド侵攻。このときソ連強制収容所に連行されたポーランド人画家のジョゼフ・チャプスキ(1896 - 1993)は、零下40度の極寒と厳しい監視のもと、プルースト失われた時を求めて』の連続講義を開始する。その2年後にチャプスキは解放されるが、同房のほとんどが行方不明となり、「カティンの森」事件の犠牲になるという歴史的事実の過程にあって、『失われた時を求めて』はどのように想起され、語られたのか? 現存するノートをもとに再現された魂の文学論にして、この長篇小説の未読者にも最適なガイドブック。(本の帯の解説より)

 

  まず最初にお断りしておきますが、訳者によりますと、本書が本当に収容所内の講義の忠実な記録であるのかどうかに関しては多くの疑問があり、真相はわからないのだそうです。その上でですが一応は収容所内の講義録として上記1,2の疑問を検討していきたいと思います。

 

1について: 「収容所という極限の状況下で軍人が何故フランスの社交界と恋愛を延々と描き続けるこの作品を選んだのか?軍人捕虜たちがそれを本当に喜んで聞いていたのか?」

 

  まず状況については理解できました。この講義はチャプスキだけが行ったものではなく、皆がそれぞれの得意分野を講義しあったのです。その中にはイギリスの歴史、移民の歴史、建築の歴史、南米のことなど様々なテーマがあり、チャプスキ自身も

フランスとポーランドの絵画について、そしてフランスの文学について一連の講義(p016)

を行ったと書いています。

 

  「失われた時を求めて」は主要なテーマではあったのでしょうが、一連の講義の一部に過ぎなかった。それであれば、素直に頷けるところです。

 

  その目的は本書の原題名に端的に表れています。「(Proust) contre la decheance」は「精神の荒廃に抗する」(高遠氏)、「精神の『堕落』への抵抗」(岩津氏)という意味であり、人間性を失わないための捕虜たちの必死の努力だったのでしょう。チャプスキは端的に

精神の衰弱と絶望を乗り越え、何もしないで頭脳が錆びつくのを防ぐために(p014)

この知的作業に取りかかったと述べています。

 

  次に、「軍人が」という点は私に大きな誤解がありました。チャプスキは軍人である前に画業を始めとして様々な分野に通暁した当時一流の文化人であり、パリ滞在歴もありフランス語も堪能、療養中に「失われた時を求めて」を読破しその評論も著していました。

 

  また、彼がパリに滞在していた時期、プルーストはまだ亡くなったばかりで、「失われた時を求めて」はまだ刊行が続いており、プルーストの生きた時代の名残が強く残っていました。講義を行うにはうってつけの人物であったわけです。

 

2について: 「本当にテキストなしでこの数千ページに渡る長編小説を講義できるのか?」

 

  ではそんな彼ですから、テキストなしでも完璧な作品の解題ができたのでしょうか?

 

  答えは一方ではNO、一方ではYES、というのが私の読んだ感想です。

 

NOに関して:   まずはチャプスキの覚え違いが多いです。分厚い書物に見えて講義録の部分は100P程度なのですが、その注釈が約30P,81点にものぼっており、その多くはチャプスキの記憶と本来の内容の齟齬の訂正です。

 

  読んだ者の実感から言うと、いくら注釈で訂正を読んでも未読の方には実感がわかないと思います。例えば「消え去ったアルベルチーヌ」の内容に触れた部分。

そして、一年もたたないうちに、旅先のヴェネツィアで彼女(=アルベルチーヌ)の突然の死を知らされたときには、ほかの女との短い恋に心を奪われていて、ほとんど気にも留めませんでした。(p095)

は二重三重に間違いを重ねていて、これはちょっとひどい。 注釈で訂正はされていますが、全体の流れの中で読まないとその間違いのこみいり方がよく分からないと思います。

 

  次に、この講義録だけで物語のあらすじを追うことは不可能である、ということです。断片的にあちこちで内容は提示されますが、ほんのサワリに過ぎずそれも時系列で追っておらず、これだけで全体のストーリーを知るのは不可能です。

 

  もちろんテキストなしで数千ページを完全に覚えられるわけもなく、覚え違いは仕方ない事ですし、系統的に内容を追って行くだけの時間も資料もなかったことは明白です。卑俗な言葉で言えば「チャプスキに罪はない」。

 

  ただ、それであれば本書の宣伝として 「この長篇小説の未読者にも最適なガイドブック」 と書くのは正しくない。ただの煽りに過ぎません。この点は出版社側に再考を求めたいところです。

 

 

  さあ、ここから本番!(またかよ、という声が聞こえそう)

 

 

YESに関して:   これはもう、チャプスキの講義内容のすばらしさに尽きます。さすが高遠弘美氏が絶賛するだけのことはあります。プルーストの人となりや交友関係、思想見識のバックグラウンドなどを十二分に把握したうえで、「失われた時を求めて」に関する文学論を展開していく様は圧巻です。いやむしろ、この本を叩き台にしてプルーストその人を論じている、とさえ感じます。

 

  まずは冒頭部、チャプスキがはじめて「失われた時」に出会った当時の回想から、その文体の特殊性を浮き彫りにしていくあたりには深く共感しました。

 

  フランス語習得の過程で、簡単なフランス語で書かれた二流小説から始まって1924年当時の流行だったコクトーやモランなどの電報みたいに短く乾いた文体を読んでいたチャプスキは、全く異質のプルーストの文体に驚きます。当時のチャプスキのフランス語の知識では

 

 無数の「ところで」を含み、多様で離れ合った要素を、思いがけない連想によって繋いでいきます。複雑にからみ合った主題を、まるで上下関係がないみたいに扱っていく奇妙な方法、このきわめて的確で豊かな文体がもつ価値を、わたしはほとんど感じ取ることができませんでした。

 

  彼がプルーストに目覚めるには1年後手に取った「消え去ったアルベルチーヌ」まで待たなければなりませんでした。そして病気療養中に全巻を読破し、その真価を体得したチャプスキは、ボイ・ジェレンスキポーランド語訳があまりにも「読みやすい」事を優先したためにプルーストの意図した正確な文体を伝えていない、と批判できるまでになっていました。

 

  このあたり、日本語訳でしか読めない私には耳の痛いところですが、とにかくプルーストの文体はフランスを始めとする欧州の人々にとっても特殊であり難解なのだ、と理解できました。

 

  そこからチャプスキはどんどん思索を深めていき、

 

・ プルーストとフランス芸術(特に画家ドガとの類似性)

・ 病弱なプルーストと生涯彼を愛し続けた母

・ 母方の従兄であるベルグソンの哲学の影響

・ トルストイとの類似性と異質性

・ 第一次世界大戦の影響、戦争前に出版された「スワン家の方へ」二冊の構成の完成度の高さ(これは私も強く感じました)

・ 貴族とスノビズムについて、特にそちらに引き寄せられていたスノブなバルザックとの比較

・ 肉体の愛の問題、変態や倒錯を美化も卑下もせず描写する態度

・ ポーランド作家との比較(これは率直に言って分かりませんでした)

 

等々の検討を経て

 

 『失われた時』の思想的な結論はほとんどパスカル的である

 

という、逆説的とさえ思える結論を導き出します。このあたり、本当にスリリングで読んだばかりの内容を反芻しつつ楽しめました。また、

あの長大な数千ページのなかに、「神」という言葉は一度も出てきません。にもかかわらず、というよりも、むしろだからこそ、過ぎ行く人生の快楽の礼賛は、パスカル風の苦い灰の味わいを残すのです。

という指摘には、驚きを禁じ得ませんでした。「一度も出て」来ないというのは厳密に言うと正確ではないのですが、たしかに主人公がすべてから去るのは、神の名のもと、宗教の名のもとにではない。巻単位でレビューしているとついつい見逃しがちな、西欧思想にとって最も重大な本質であるこの事実を教えてくれたチャプスキに感謝したいと思います。

 

  終盤で圧巻なのは「失われた時を求めて〈10〉第五篇・囚われの女 I」で描かれた偉大な作家ベルゴットの死についての考察です。フェルメールの「デルフトの眺望」を観に行きその前で死んだこの作家に関する文章の中にこそプルーストの真の芸術観があるとし、ドストエフスキの「カラマーゾフ」のゾシマ長老の 「人生の多くの事柄が、私たちの目には隠されている」 という台詞まで引用し論じます。

 

  そしてベルゴットの死をプルーストの死と重ね合わせ、晩年のプルーストとその仕事中の死について述べ、この講義は終了します。

 

 

  これだけの内容をテキストなしで論じたチャプスキ、それを筆記した二人の同僚、そして聞き手の捕虜たちの驚くべき知的水準の高さ。そのような将来の指導者層を葬りポーランドを弱体化すべくソ連は「カティンの森」(アンジェイ・ワイダ映画で有名)においておよそ2万5千人を虐殺したのです。 

 

失われた時を求めて 14 / マルセル・プルースト

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   マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」最終第14巻です。前巻「見出された時 I」の後半と本巻「II」全体を占めるゲルマント大公邸の午後のパーティーでこの長大な物語はついに完結し、主人公の「私」は「失われた時」を見出し、自らの物語を紡ぎ始めます。

 

  ゲルマント大公邸中庭で啓示を受けた「私」は文学を志す決意を固め、本巻においていよいよパーティー会場のサロンに入っていきます。しかしそこで「時」の流れの残酷さを目の当たりにし、驚愕することとなります。

 

  「仮面舞踏会」かと思うほど人々の外見は変貌していました。この物語を彩ってきたゲルマント公爵夫人オリヤーヌ、サン=ルー夫人ことジルベルト、フォルシュビル夫人ことジルベルトの母オデットもその例外ではありません。

  オリヤーヌはまだゲルマント一族の「守護神」の化身たる宝石をちりばめた神聖な老魚の如き風貌を保っていましたが、誰だか分からなかったジルベルトには「わたしのこと母だと思ったでしょ」と図星を突かれます。

  逆に言うと「私」も老化していたわけで、オリヤーヌの言葉からそれを痛感させられます。

 

  変わったのは人々の風貌だけではありません。内面にも「劣化」を「私」は敏感に感じ取ります。オリヤーヌにしてもジルベルトにしてもオデットにしても人の悪口ばかり言い合いますし、かつて娼婦で二流俳優だったサン=ルーの元恋人ラシェルはそれほどの才能もないのに大女優にのし上がっており、かつての大女優で「私」の憧れでもあったラ・ベルマの没落を意地悪く楽しんでいます。

 

  そして最も変わったのは社交界の勢力図でしょう。ブルジョア勢力がかつての上流階級の貴族を凌駕したのがこの半世紀(1800年代後半~20世紀前半)だったのだ、ということが本書の主要テーマであったことがここではっきりします。それは下記の二点で明瞭に描かれます。

 

  まずはヴェルデュラン夫人の栄華。

 

  ゲルマント大公邸のパーティーとはいうもののこれは「ゲルマントのほう」で描かれた壮麗な夜会とは根本的に異なっています。主人である大公妃はかつてオリヤーヌとその美貌を競った従姉妹のマリーではないのです。マリーはすでに亡くなっており、第一次世界大戦で破産してしまったゲルマント大公と結婚して大公妃の座についたのはなんとヴェルデュラン夫人なのでした。

 

  思えば半世紀前の「スワン氏の恋」においてプチブル・ヴェルデュラン家のパーティーでこの物語は幕を開けたわけで、ゲルマント大公妃にまで登りつめたこの上昇志向の塊のようなプチブル女性は半世紀を貫いて描かれた裏主人公と言えるのではないでしょうか。

 

  私が「スワン氏の恋」を読んだ時はここだけで終わる意地悪な小物だとしか思えませんでしたが、プルーストの周到な計画には舌を巻く思いです。

 

  そしてもう一点は、少年時代の「私」が「コンブレー」において正反対の方向と思っていた「スワン家のほう」と「ゲルマントのほう」の融合。

 

  これは前巻でジルベルトの思い出話として示唆されていましたが、今回は現実に「スワン家(ブルジョア)」が「ゲルマント家(上流貴族)」を乗っ取る構図としてはっきり示されます。

 

  ゲルマント公爵はコンブレーのゲルマント家に愛人としてオデット(故スワン氏夫人)を住まわせ、

 

  ゲルマント家の貴公子サン=ルーと結婚したジルベルト(スワン氏の娘)はサン=ルー亡きあともゲルマント一族の一員、サン=ルー夫人として居座っています。

 

  そしてスワン家とゲルマント家の融合の象徴として最後の最後に登場する、本巻の真打ともいえるのがサン=ルーとジルベルトの娘、両家の特徴を併せ持った美貌のサン=ルー嬢

 

  切歯扼腕するオリヤーヌを尻目に、スワン家の三代に渡る女性陣は由緒正しきフランス貴族ゲルマント家に深く浸食していたのでした。

 

  そのような「時」の流れを目の当たりにした私は「いよいよ創作のとりかかる時だ」ということを実感するとともに、体力記憶力に自信をなくしてもおり、千夜一夜物語ほどもかかるであろう作品を生きているうちに完成させられるだろうか、との不安にも苛まれれます。

 

  そのような創作意欲と不安の葛藤を最後に30Pにもわたり吐露し、

 

 なによりもまず人間を、空間のなかで人間に割り当てられたじつに狭い場所に比べれば、逆にきわめて広大な場所を時間のなかに占める存在として描くだろう。(中略)人間の占める場所はかぎりなく伸び広がっているのだ - 果てしない「時」のなかに。  完 (p303)

 

 

と締めてこの長大な物語は終わります。ここから「私」は物語を紡ぎ始めるわけで、そこでもおそらく

 

 「私」マルセル、 母、祖母、フランソワーズ、レオニ叔母、スワン氏、オデット、ジルベルト、ゲルマント公爵夫妻、ゲルマント大公夫妻、サン=ルー、シャルリュス男爵、アルベルチーヌ、アンドレ、モレル、ブロック、ベルゴット、ヴァントィユ、ヴェルデュラン夫妻

 

たちが物語を彩るのでしょう。この小説が「円環をなす」と言われる所以です。

 

失われた時を求めて』とは、この物語がいかに書かれるに至ったかの遍歴談であり、この「天職」発見の物語には、『失われた時を求めて』の成り立つ根拠が至るところに提示されている。『失われた時を求めて』は、みずからの根拠を提示する小説であり、小説の小説なのである。(吉川一義氏)(p338)

 

 

 

 

  う~ん、感無量(苦笑。

 

 

 

  最後にお二人の訳者に謝辞を述べさせていただきます。

 

  まずは光文社古典新釈文庫版において新訳で私を6巻まで導いていただいた高遠弘美氏に感謝します。氏の

 

斜め読みせずに、一行一行を丁寧に読んでゆくことである。というより、私たち読者の義務はそこにしかない。

 

という示唆は大変貴重なもので、その教えを守って読み進めることにより

 

プルーストを読む行為が私たちに与えてくれるものはすこぶる豊穣である。生彩あふれる自然描写、皮肉でいながら深みと立体感に満ちた人物造型、増殖する譬喩の連鎖、豊富な語彙、こうしたすべてがプルーストの美質として私たちの眼前に次々と現れてくる。

 

ことを体感できました。

 

  続いては第7巻以降の岩波文庫版で最後まで導いてくださった吉川一義氏に感謝します。特にプルーストの死により未推敲となってしまった「囚われの女」以後の底本の選択と邦訳は大変なご苦労だったと推察します。未推敲ゆえの矛盾や間違いだらけの文章を我慢して読み進めることができたのは一重に吉川氏の丁寧な注釈のおかげでした。

 

 

 

  大袈裟な言い方になりますが、長年の読書人生の中でも稀有な体験でした。この年齢になってこのような文学の方法論もあることを新たに知ることができ、再挑戦した甲斐があったと思いますし、真面目な話、生きているうちに完読できて本当に良かったと胸をなでおろしています。

 

 

  正直言って、レビューを書くのも本当に大変でした。高遠先生と吉川先生の詳細なあとがきに比べれば児戯に等しいような感想文でしたが、少なくとも自分の考えをまとめることで少しはこの小説の理解も深まったのかなと思います。

 

 

 ゲルマント大公邸のパーティーに赴いた「私」は驚愕した。時は、人びとの外見を変え、記憶を風化させ、社交界の勢力図を一新していたのだ。老いを痛感する「私」の前に、サン=ルーの娘はあたかも歳月の結晶のように現れ、いまこそ「作品」に取りかかるときだと迫る。

 

 

失われた時を求めて 13 / マルセル・プルースト

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   読書好きなら誰もがその名前は知っている「A la recherche du temps perdu 失われた時を求めて」、フランスの作家マルセル・プルーストが1922年に亡くなるまでの約15年間をこの一作のためだけに費やし、その原稿枚数たるや3000枚以上、日本の400字詰め原稿用紙10,000枚に該当するという畢生の大作、「二十世紀文学の金字塔」との誉れも高い作品です。(拙レビュー第一巻)

という、今から思えば仰々しい文章で始まったこのレビューも最終第七篇「見出された時」に入ります。岩波文庫版の本篇は二冊からなり、本第13巻はその前半にあたります。

 

  求めていた「失われた時」を「見出す」解決篇であるわけですが、この長い長い物語の果てに「私」=プルーストは何を見出したのか?

 

  訳者吉川氏の解説(pp549ー511)の助けも借りて整理しますと

第一の概念は人間や人物を変貌させ破壊させてしまう、長い歳月にわたる「時」の発現

(お馴染みの面々の死、そして第一次世界大戦における破壊、その象徴としてのランス大聖堂崩壊など)

 

第二の意味(中略)想い出された「時」という意味

(ジルベルトの告白、タンソンヴィル再発見など)

 

そして

 

過去があるがままによみがえる現象、プルーストが無意識的記憶と呼んだ現象によって現出した「時間を超越した瞬間」いわば「永遠の時」

(かつての「紅茶にマドレーヌ」と同じ啓示が私に訪れ、ついに文学を志す) となります。

 

  「長い歳月」と吉川氏がお書きになっているように、これまでの12巻ではあり得なかった約20年という時が本巻では流れ、大きく分けて三部構成となっています。簡単に整理しますと

 

1:タンソンヴィル再訪

  ジルベルトの告白

  ゴンクール兄弟の未発表原稿

(療養所生活約10年)

2:第一次世界大戦下のパリ

  ヴェルデュラン夫人とボンタン夫人という二人のパリの女王

  サン=ルーの語る戦争

  シャルリュス男爵の語る戦争

  ジュピアンの娼館でのシャルリュス男爵の痴態

(またまた療養所生活約10年)

3:ゲルマント大公邸訪問

  シャルリュス男爵の落魄

  突然訪れた啓示と文学論

 

となります。

 

  1は前巻の続きです。前巻ではあえて伏せましたが、故スワン氏の愛娘ジルベルトは母オデットの再婚により「フォルシュビル嬢」という貴族の仲間入りをし、そしてついに私の親友にしてゲルマント一族の御曹司サン=ルーと結婚してゲルマント一族の仲間入りまでしたのでした。

  しかし、モレルによって男色に目覚めてしまったサン=ルーはそれを隠すためにわざと女性の愛人をたくさん作ってジルベルトを悲しませます。

 

  傷心のジルベルトを慰めるべく、第1巻「コンブレー」において「私」が彼女を見染めたタンソンヴィルの故スワン氏の別荘を訪れるところから本巻は始まります。   

  そこでの散策においてジルベルトは、実はあの時「私」に恋していたこと、幼い「私」にとって正反対の象徴であった「ゲルマントのほう」と「スワン家のほう」はつながっていたことなどを「私」に語ります。

 

  これが吉川氏のいう第二の想い出された「時」という意味にあたります。この辺りは読みはじめの頃を懐かしめるなかなか心温まる箇所です。またサン=ルーとジルベルトの結婚により「ゲルマントのほう」と「スワン家のほう」が長い時を経てつながってしまったこととの対比も見事です。

 

  さてこのパートの最後。話題は一変して滞在の最終日前夜、たまたまゴンクール兄弟の未発表原稿を読んで「私」は己が文学的才能の無さを痛感します。

  パスティーシュの名手であったプルーストが書くヴェルデュラン家の夜会のシーンはとても面白く、こういう風に書いてくれればすんなり楽しめるのに、とさえ思ってしまうのですが、それがプルーストの罠(笑。

 

  最終部での文学論において「価値がない」とする浅くて些事にこだわる写実主義の見本として書いたのが明らかで、逆転への布石だったと後で知る痛快な策略となっています。吉川氏はもっと深く考察されていますが、ここで立ち止まっているとまたまた超長文となってしまいますので、先を急ぎましょう。

 

  第2部は長い療養所生活を挟んだ約10年後の第一次世界大戦下のパリ(1914,1916)です。ランス大聖堂が破壊され、パリにまでドイツ軍の足音が聞こえてくる状況下、貴族からブルジョア、庶民にまで戦争を語らせ、プルーストの戦争観が読み取れる興味深い構成となっているのですが、これも語り始めるとキリがなくなるので割愛し、重要な二点にだけ触れておきます。

 

  一点はパリ社交界の変遷。第二巻で貴族階級から「裏社交界」と揶揄されていたプチブルヴェルデュラン夫妻のサロンが、第四篇「ソドムとゴモラ」で貴族階級と比肩しうるほどにのし上がっていましたが、ついには(これまた初めはパッとしなかったボンタン夫人(アルベルチーヌの伯母)とともに)「戦時下のパリの女王」と呼ばれるまでになっています。

 

  残念ながらヴェルデュラン氏は大戦中に亡くなってしまうのですが、夫人は次回最終巻のゲルマント邸夜会において、さらに驚くべき変貌を遂げています。性格の悪さやスノビスムは生涯かわらないものの、「人間の変貌」という意味では長大な本作において最も劇的な人物であり、そのあたりは最終巻でまた紹介したいと思います。

 

 もう一点は、ゲルマント一族である二人、サン=ルーシャルリュス男爵の対比。 サン=ルーはソドミーという問題はあるものの、立派な軍人であり、望んで出征し、私がまた療養のためパリを発つ日に悲報が届きます。

 

 その知らせとはロベール・ド・サン=ルーの死で、ロベールは前線に戻った翌日、部下の退却を援護して戦死したのだ。ロベールほど他の民族に憎悪をいだかなかった人間はいないだろう。(p387)

 

 

  「花咲く乙女たち」においてバルベックに颯爽と登場し、親友として良くも悪くも「私」に関わり続けた本作でも最も印象深い人物の死には、プルーストも多くの枚数を割いています。

 

  そしてもう一人はご存知ホモ男爵シャルリュス。サン=ルーと同じく戦争を冷静に見つめ、フランス嫌いドイツ贔屓を公言します。その私への高邁な講釈とは裏腹に、その後彼が向かったのはジュピアンにやらせている娼館、通称「破廉恥の殿堂」。

 

  ここに男爵はモレル(ふられた美貌のバイオリニスト)似の若い男を集め、鎖で縛らせて鋲入りの鞭で自分を打たせるのでした。まあはやい話がSMプレイで悦楽に溺れていたわけです。

 

  このシャルリュス男爵、またまた長い時を経た第3部冒頭にも登場し、老化と脳卒中でよぼよぼになった落魄の姿を読者の前に晒し、最後まで本作のキーパーソン、トリックスターとして顔を出し続けます。

  この男もまた「貴族の上流社交界」「芸術」「ソドムとゴモラ」という本作の複数のテーマの根幹をなす主人公であったと言えるでしょう。

 

 

  さて、いよいよ本巻の白眉である第3部です。

  え、まだあるのかって?

  ここからが本番でございます(笑。

 

  長い時を経て(研究では1925年頃)療養所からパリへ帰る「私」。その列車の中でまたしても「私」は、車中から眺める木々に何の感銘も覚えなかったことから、文学的才能が枯渇していると再確認し落胆します。

 

  これがゴンクール兄弟に続く第二の伏線。

 

  そんな私に、ついに、ついに、ついに、深いところに隠されていた「無意識的記憶」からくる幸福感が蘇ります。

  それは夜会に招かれたゲルマント邸の中庭を歩いていた時のこと。

 

ところが、転ばぬよう身体を立て直そうとして、片足をその敷石よりもいくぶん低くなった敷石のうえに置いたとたん、それまでの落胆は跡形もなく消え失せ、私はえも言われぬ幸福感につつまれた。(p430)

 

 

それは第一巻「コンブレー」等、早々に「私」が体験してした

 

バルベックの周辺を馬車で散策していたとき以前見たことのある気がした木々の眺めとかマルタンヴィルの鐘塔の眺めとか、ハーブティー(一巻では紅茶)に浸したマドレーヌの味とか(p430)

 

と同じ啓示でした。

 

  しかしてその敷石の感覚の正体はヴェネツィアのサン=マルコ洗礼堂の不揃いな二枚のタイルを踏んだ時の感覚だったのです。

 

  この幸福感を契機として、失われた時を求めて」いたこの作品の解決としての

 

 芸術作品こそが失われた「時」を見出すための唯一の手段である(p498)

 

という結論に至るまでの、奔流のように湧き出す「私」(=プルースト)の芸術観、文学観の凄いこと凄いこと!

 

  延々独白が続くこれまでの巻に比べれば客観的描写が多かった本巻でしたが、ここから約100Pに渡り怒涛の文学論が展開されます。これは本当に実際に読んでいただきたいところなのですが、そうするにはここまでの十二冊をも読まねばならない。まあそれは無理。。。

 

  という事で、できる限りプルーストの言葉を抜粋借用してそのエッセンスを説明したいと思います。

 

  まず、この幸福感は意識して思い出せるものではなく、何らかの類推の奇跡であり、

 

その存在のみが、私に昔の日々を、失われた時を見出させる力を持っていた(p441)

 

 

のです。そして、

 

 私の感じたものを考え抜くことによって(中略)ひとつひとつの感覚をそれぞれの法則と思考を備えた表徴として解釈しなければならなかったのである。ところで、これを成し遂げる唯一の方法と思われるのは芸術作品を作ること以外のなにであろう?(p455)

 

かくして私はすでに結論に達していた。(中略)芸術作品は自分好みにつくるものではなく(中略)先立って存在する必然的であると同時に隠されたものであるから、我々はそれを自然の法則を発見するように発見しなければならない、という結論である。(p460)

 

という思いを強くします。そしてそのことを確信したのは

 

写実主義を自称する芸術のうそ偽りによってである。この芸術が嘘八百になってしまうのは人生において自分の感じることにそれとはまるで異なる表現を与えていながら、しばらくするとそんな表現を現実そのものだと思いこんでしまうからである。(pp460ー1)

 

という写実主義の虚妄であり、私はサント=ブーブの理論や、ドレフュス事件〜大戦時の軽薄な文学理論を激しく糾弾し、ついには時間の秩序から抜け出した「一瞬の時」の「印象」を会得し「真の自我」に目覚めた人間のみが真の芸術家となり得るのであり、

真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である(p490)

との結論に達します。その上で

 私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。(p496)

 

と決意するのです。

 

  その啓示と決意の結実が、おフランスの「社交界」や「恋愛」や「同性愛」を延々と描き続ける、読みにくいことこの上ないこの作品なのか、というツッコミも入れたくなるところではあるのですが、

 

  敢えて言おう、

 

プルーストよ、あなたは偉大だ

 

と。これは彼の「文章」を(訳ではありますが)ここまで苦しみ悶絶しながら読んできた文章フェチの実感です。

 

  今回も長文おつきあいありがとうございました。

 

  最終巻はもう少し短くまとめたい。。。

 

幼年時代の秘密を明かすタンソンヴィル再訪。数年後、第一次大戦さなかのパリでも時代の変貌は容赦ない。新興サロンの台頭、サン=ルーの出征、「破廉恥の殿堂」での一夜…。過去と現在、夢と現実が乖離し混淆するなか、文学についての啓示が「私」に訪れる。 

 

 

世界地図の下書き / 朝井リョウ

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  デビュー作「桐島、部活やめるってよ」と螺旋プロジェクトの「死にがいを求めて生きているの」の間を埋める「朝井リョウを読むシリーズ」もこれで最後の作品となります。2013年の「世界地図の下書き」です。前年の「何者」での直木賞受賞に続き、この小説でも「坪田譲治文学賞」に輝いています。

 

  ただ、この二作は全く様相を異にしており、前作が就職活動をメインテーマとした大学生たちの物語、本作は児童養護施設を舞台にした児童小説です。彼の本領が「何者」路線であることは明らかで、本作品のような児童小説は珍しい、というか実質この一作のみ、敢えて言えば「星やどりの声」が似た路線かな、と思える程度です。

 

  その執筆動機は現実の事件にありました。彼曰く、高校バスケット部の部長が顧問からの体罰を受けて自殺したというニュースに触れて“『逃げる』という選択肢が彼の頭の中に浮かばなかったのはどうしてなのだろう”という考え、この物語の種が生まれたそうです。

 

  「逃げ場がない」という感覚、これは確かに今の日本の若者を覆う閉塞感なのでしょう。そしてそれは小さな子どもたちまで及んでいるのではないか。子どもたちに“今いる場所から逃げる、もとい、自分の生きる場所をもう一度探しに行く”という選択を教えてあげたいという思いから、敢えて自らの目指す路線から離れた作品を書こうとする。。。

 

朝井リョウってやさしいな、と思いますね。

 

    さて、物語を見ていきましょう。主人公太輔児童養護施設青葉おひさまの家」に入所するところから第一章「三年前」が始まります。彼が所属することになった「一班」のメンバー紹介を兼ねた序章です。

 

太輔: 小学三年生 両親が交通事故で死亡。伯父宅に引き取られるが伯父の家庭内暴力で入所。

佐緒里: 中学三年生 リーダー的存在、両親が離婚し弟だけ親戚が引き取る。

淳也、麻利兄妹: 小学三年、一年。関西から入所。兄は気が弱く、妹は甘えん坊。

美保子: 小学二年生、母の家庭内暴力で入所、おませ。

 

  第二章「晩夏」から最後の「」までの五章が本編で、序章の3年後、太輔は六年生になっています。太輔もすっかり「青葉おひさまの家」のみんなと打ち解けており、大学受験で忙しい佐緒里に代わって小学生たちのリーダー的存在になっています。とは言え、施設では守られている彼らですが、小学校というカースト社会、さらにその向こうにある大人の世界との軋轢に否応なくこの五人は翻弄されます。

 

太輔は戻ってきてほしいと願う伯母とやはりうまくいかず、

淳也、麻利は小学校でいじめを受け、

美保子の母のDVはおさまらず、

そして

佐緒里は北国の親戚の工場で働かねばならなくなり、あれほど頑張っていた大学受験を諦めることとなります。

 

  それぞれの嵐は第四章「暮秋」でまとめて最高潮に達し、絶望感が漂います。その中でも小学生四人、特に佐緒里に憧れている太輔はなんとか失意の佐緒里を慰めたいと思い、ある企画を考えつきます。それは無くなってしまった「蛍祭り」というお祭りにおける「願いとばし」という小さなランタンを熱気球のように飛ばすイベントを復活させて、遠い北国へ行ってしまう佐緒里に最後に見てもらおおうというものでした。

 

  ただこの「願いとばし」はとても小学生だけでできるものではありません。そこからの後半部は内緒で奔走する彼らの微笑ましい情景が描かれます。ちょっと犯罪的な行為もあり、これはよくないんじゃないかな、と思う箇所もありますが、ちゃんと朝井リョウはそのあたりフォローしています。

 

  なんだかんだでとにもかくにも「願いとばし」は成功し、明日には去ってしまう佐緒里と四人は町の高台にある神社からランタンが空に浮かぶ情景を目にすることができました。   しかし、その高台での会話の中で去っていくのは佐緒里だけではないことが次々とわかっていきます。動揺する太輔。涙する三人。

 

  ランタンで励ましてもらった佐緒里は、今度はみんなを励まします。

 

「大丈夫」「私たちは、絶対にまた、私たちみたいな人に出会える」 「いじめられたら逃げればいい。笑われたら、笑わない人を探しに行けばいい。(中略)逃げた先にも、同じだけの希望があるはずだもん」

 

  最初に書いた朝井リョウの思いが結晶した台詞に目頭が熱くなります。本作の苛烈なプロットはむしろ「人生はそんなに甘くない、どこに逃げてもつらい事ばかり」と言っているようにも思えますが、束の間の希望であっても希望があるうちは生きていけるはず、そんな思いで終わらせたことには拍手を送りたいと思います。

 

「希望は減らないよね」 。

 

チア男子!! / 朝井リョウ

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   朝井リョウを読むシリーズもあと二作、というところまできて#stayhomeで中断していました。6月に入り、ようやくブックオフにでかけてささっと二冊買ってきました。で、今回は「チア男子!!」です。

 

  「桐島」に続く第二作、朝井リョウはもちろんまだ早稲田大学在学中で、同大学の男子チアリーディングチーム「SHOCKERS」から着想を得た作品です。「桐島、部活やめるってよ」に次いで本作品も映画化されました。

 

  デビュー作が驚異の大ヒットとなった後で大変なプレッシャーがあったと思いますし、同路線で行くのか思い切って作風を変えるのか、随分悩んだことでしょう。あとがきを読んでみますと

「いつかスポーツものをやってみたい」と身の程知らずなことを言った私に、「じゃあ二冊目でやりましょう」と思いきったことを言ってくださった担当編集の高梨さん(注:集英社

とあり、本人の希望と学内にあった絶好の題材、そして編集者のサポートという幸運が重なってこの作品が出来上がったようです。もちろんその幸運をつかまえるだけの本人の努力があってこそですが、結果として本作品も彼の代表作の一つとなりました。

 

大学1年生の晴希は、道場の長男として幼い頃から柔道を続けてきた。だが、負けなしの姉と比べて自分の限界を悟っていた晴希は、怪我をきっかけに柔道部を退部する。同時期に部をやめた幼なじみの一馬に誘われ、大学チア初の男子チームを結成することになるが、集まってきたのは個性的すぎるメンバーで…。チアリーディングに青春をかける男子たちの、笑いと汗と涙の感動ストーリー。 (AMAZON解説)

 

  作品自体はもうこれ以上ないと言うくらいシンプルなスポ根ストーリー。男子チアに関して、今時ですから

 

早稲田 SHOCKERS

 

Youtubeを検索していただければいくらでも動画が出てきて実感がわきますので説明割愛(をいをい。

 

  まあとにかく活きのいいイケメンタレントたちにチアリーティングを特訓して主役を張らせれば若年(特に女子)層に大受けする映画が出来上がるわな〜、と思わせる直球ストレート勝負の作品で、プロットのひねりと屈折した心情表現が持ち味の朝井リョウとしては、(今から思えばですが)異色の作品です。

 

  まあ若書きですのでノリが軽すぎるし、主人公たちのバックグラウンドの描き方が浅過ぎるし、これで500P近く引っ張るの?と言う感じでダラダラ物語は進んでいきます。

  途中リョウらしいフックもあるにはありますが、あまり効いておらず、正直言って

 

これ本当にリョウの作品? 映画やTVドラマのシナリオライターさんのシノプシス程度じゃない?

 

という思いが拭えませんでした。

 

  そういう思いをようやくにして払拭してくれたのが最終章「二分三十秒の先」でした。朝井リョウの持ち味の一つである、ここ一番での爆発力はやっぱりすごい。

  二分三十秒のチアリーディングの演技の中でこれまで溜めに溜めていたエネルギーを存分に発散させるとともに、チームメンバーたちの心情の変化と成長をも鮮やかな手際で描き切り、痛快なフィニッシュを決めてくれました。

 

  結果後味の良い長編スポーツ小説となっています。だからと言って前半から中盤までの浅さ、冗長さが消えるわけではないですが、第二作でこれだけの長さのストーリーを書ききったことは評価したいと思います。

 

  ちなみに個人的には中国語教授の息子にして留学生の陳さんのけったいな京都弁風日本語と、高給料亭の息子溝口君の箴言集が気に入りました。

 

ドーモトはん、下克上どす(陳)

 

 【どんな馬鹿げた考えでも、行動を起こさないと世界は変わらない】マイケル・ムーア (溝口)

 

 

失われた時を求めて 12 / マルセル・プルースト

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  プルーストの「失われた時を求めて」いよいよ十二巻、第六篇「消え去ったアルベルチーヌ」に入ります。「消え去った」とあるように、前巻最後に出奔したアルベルチーヌの死が本巻のメインテーマとなります。

  一方で、元々の出版予告には「ソドムとゴモラ 三 第二部」と銘打たれており、男女それぞれの同性愛の諸相が「ソドムとゴモラ 一」から数えて五巻目の本篇にまで及んでいます。前半ではアルベルチーヌの「ゴモラ」の真相がほぼ解明されるとともに、後半にはシャルリス男爵から始まった「ソドム」がついにその甥である「私」の親友にまで及ぶことになります。

 

  と、簡単にまとめてはみましたが、本篇もプルーストが推敲を繰り返したまま亡くなったあとの刊行で、訳者の吉川一義氏が

 

失われた時を求めて』を構成する全七篇のなかで本篇ほど、初版から現在までに刊行された各種フランス語刊本に大きな異動のある巻はない。

 

  と述べられているほど、大変問題のあるパートだそうです。よって吉川氏は本篇を訳するにあたり

 

・ 本篇のタイトルは、従来の邦訳で普及している『逃げ去る女』でなく『消え去ったアルベルチーヌ』を採用した。

・本篇の終わりを多くの刊本のようにタンソンヴィル滞在の途中で区切るのではなく、直前で区切り、タンソンヴィル滞在はすべて最終篇へ回す処置をとった。

・本編に限り、プレイヤッド版ではなく(中略)リーブル・ド・ポッシュ版(LF版)を主たる底本とした。

 

 

とのことです。その理由についてはあとがきに詳細に書かれていますが、あまりにも長くなるので割愛します。すべての邦訳を読めるわけもなく、比較検討することは私には不可能ですが、ここは本作品の成立過程の研究がご専門の吉川氏を信用して読み進めます。

 

  そこでまずは吉川版の本篇の構成の概要をまとめてみます。

 

1:アルベルチーヌの出奔と事故死

  私の動揺

  サン=ルーの派遣

  アルベルチーヌの事故死

  エメの派遣

  アンドレの告白 1

2:忘却の第一段階

  ブーローニュの森の散策で見かけた三人の娘

  フィガロ誌についに掲載された私の文章

  ゲルマント侯爵夫人再訪

  ジルベルトとの再会

  オデットとフォルシュビルの再婚の経緯

3:忘却の第二段階

  六か月後、アンドレの告白 2

  アンドレオクターヴの結婚

  母の「客を招く日」

   モレルとシャルリス

   パルム大公妃

  その一週間後、アンドレの告白 3

4:忘却の第三段階

  母とのヴェネチア来訪

  サズラ夫人との夕食

  ヴィルパリジ夫人とノルポア氏

  アルベルチーヌが生きているという誤電報

5:帰路とパリにて

  二通の手紙に記された驚くべき二組の結婚

  サン=ルーの性癖

 

付録:プルーストの三通の手紙

 

 

  今回も600Pほどある、これだけで大長編と言える長さなのですが、なんと上記1-3の間、延々300Pも「私」のアルベルチーヌに関する独白が続きます。ここまで読んできた者にとっては「さもありなん」という感じで、辟易はしたもののなんとか読み進めることはできましたが、まあ前知識なしにいきなりこのパートを読まされれば「なんじゃこりゃ」の世界でしょう。さすがの吉川先生も“特異な文学”“レアリスム小説とは対極にある”と評しておられます。

  プルーストらしいと言えばらしいのですが、さすがのプルーストもこれはまずいと思ったのか、2-4あたりをバッサリと切り捨てた原稿(「タイプ原稿1」と呼ばれるそうです)を残していたため、先の述べた大混乱が起こったそう。。。さもありなん(w。

 

  閑話休題、アルベルチーヌの突然の失踪に「私」は慌てふためき、警察のご厄介になるほどの愚行をやらかすわ、

アルベルチーヌに別れの手紙を書き(中略)、一方で私は関与していないことにしてサン=ルーを派遣し、アルベルチーヌが早く戻ってくるようボンタン夫人に露骨な圧力をかけるのだ。

という卑怯極まりない手を使ってアルベルチーヌを怒らせるわの大慌てぶり。

 

  そしてボンタン夫人からのアルベルチーヌ乗馬中事故死の訃報とアルベルチーヌからの帰りたいとの本心を綴った手紙が同時に来るに至ってまたまた大ショック、大混乱。(この訃報と同時に手紙が届くという設定は付録のプルーストアゴスチネリの事故死の当日に出した手紙と合致しています)

  この情けない「私」を描いた1は動的でとても面白いですが、そんな「私」を冷静に見つめるもう一人の「私」の蘊蓄は相変わらず冗長、しかしこれがなくてはプルーストと言えません。

 

  そしてそこからの忘却に至るまでの過程が長い長い。死んでしまったことにより自分の心の中に実在してしまったアルベルチーヌへの思慕の情と、あらためて沸き起こった彼女の同性愛疑惑への煩悶と嫉妬模様が何百ページと続くわけです。さらには実地調査にエメ(バルベックホテルの元給仕頭)を派遣し、「花咲く乙女たち」の一人でアルベルチーヌとの同性愛疑惑のあるアンドレをネチネチ追及する、その執念の凄さ、いやらしさ。

 

  その結果、アルベルチーヌの同性愛は本物、というかとんでもなく「淫乱」だったことが判明します。そこにはあのバイオリン奏者にしてシャルリュス男爵とのホモホモ関係を断絶したモレルまで関与しているのでした。

 

  しかしあれほど出奔には動転した「私」がこの段階に至ってもう動転しません。人間は必ず忘却する、「私」も例外ではなかった。その過程をこれほどまで綿密に書かれると納得せざるを得ない、というくらいプルーストは恋人を失った悲しみからの治癒過程を描き切っています。

 

  そこにはやはり、秘書兼運転手で飛行機事故で死亡した同性愛相手であるアゴスチネリとの愛と別れの経験があったのは明らかです。

  付録の二番目の手紙は恋人の事故死について心配する友人に宛てたプルーストの手紙ですが、そこに“心痛から解放される第一段階”という表現が見られます。吉川先生によると本作とどちらが先かはわからないとのことですが、それでも

『消え去ったアルベルチーヌ』の骨格がプルーストアゴスチネリをめぐる愛情と悲嘆に触発されたことは疑いえない。

と述べられているように、本篇はプルーストアゴスチネリに捧げた挽歌と言える章なのでしょう。

 

 

 

 

  は〜、これで内容の約半分。しかも無意識的記憶の文章の醍醐味はレビュー困難。つくづく思うに、容易なレビューを許さない誠に難しい小説ではあります。。。

 

 

 

 

  さて、そんな読むには難いなっが〜い独白の合間にも外界描写が諸所で挟まれているのですが、とりわけ重要な二点を挙げておきます。

 

  一点は、ついに「私」の文章が「フィガロ」紙に掲載されたこと。

  今となっては忘却の彼方に近い第一巻、子供時代の私がマルタンヴィルの鐘楼の印象を描いた文章に手を入れ投稿するもなかなか掲載してもらえず、イライラしながらもついには忘れていたあの原稿です。

 

  嬉しくてたまらず、感想をそれとなく聞くためゲルマント公爵夫人のところまでノコノコ出かけていくスノビズムぶりを発揮している「私」ですが、これが最終章「見出された時」で文学を志す大団円につながっていくものと思われます。

 

  もう一点は、スワン氏の忘形見ジルベルトとの再会です。あっと驚くことに、スワン氏が生涯望んで叶わなかった娘ジルベルトとゲルマント公爵夫人との面会場面に「私」は出くわしたのでした。(滑稽な伏線もあるにはあるのですが、長くなるのでここでは省略します)

 

  悲しいことにゲルマント公爵夫人が許可したのは、スワン氏の娘としてではなく、「フォルシュヴィル嬢」としてのジルベルトでした。そう、スワン氏の死後、未亡人オデットはちゃっかりと「スワン氏の恋」に出てきた浮気相手の貴族フォルシュビルと再婚(お互いウィンウィンではあるのですが)したのです。

  そしてジルベルト本人も父の思いとは裏腹に、ユダヤ人という出自を敢えて意識はせず「フォルシュヴィル嬢」として振る舞います。

 

  このあたり、さらには後半でのジルベルトの結婚式の仲人をこれまたオデットの浮気相手シャルリュスが務めるなど、当時の貴族の高慢ぶりとユダヤ人差別を描くプルーストの筆は容赦ないものがあります。

 

  さて、好色を絵に描いたような「私」ですが、もうジルベルトにはなんの感慨もわかず、あれほど憧れていたオデットにももう嫌悪感しかありません。しかし後半、意外な人物と結婚したジルベルトを懐かしのタンソンヴィル(第一巻コンブレーに出てきたスワン氏の別荘のある地方)に訪ねていくところから次巻は始まります。と言うか、そこをこの篇に入れている刊本もあるわけですが、兎にも角にもアルベルチーヌの死後再び本作においてジルベルトは復活し、重要な役割を果たすことになるのでした。

 

 

 

 

  もうここで終わろうかしら、、、とも思ったのですが、もう少し書かねば。

 

 

 

  後半のハイライトは、子供のころから憧れ続けながら病弱のため行けなかった、イタリアの水の都ヴェネツィア。アルベルチーヌという軛から解き放たれた「私」はついにその念願を叶えるのですが、さすがのマザコン、やっぱり母と出かけたのでした。

 

  ヴェネツィア大好きのプルーストの筆は冴えわたり、余すところなくこの街を描き尽くします。訳者の吉川氏も大忙し、注釈や図版(絵画や写真)満載で、全巻通しても屈指の読みどころと言えましょう。

 

  もちろんヴィルパリジ夫人とノルポア氏という懐かしのカップルも登場して楽しませてくれますが、まあそれは読んでのお楽しみ、ここではアルベルチーヌにまつわる二つのエピソードを紹介しておきます。

 

  一つはアルベルチーヌから“友へ、きっと私が死んだとお思いでしょう、お赦しください、私はいたって元気です。”云々という謎の電報が届く事件。

 

  この電報の真相は帰路に判明するのですが、プルーストシャーロック・ホームズばりの謎解きを用意していて面白いです。(実際プルーストコナン・ドイルの小説を読んでいます)

 

  しかし大事なのはそういうことではなく、「私」がもう忘却の第三段階に入っていてこの電報を何とも思わなかったこと。せっせとイタリア美女を物色したかと思えば、帰る段になってビュトビュス夫人ご一行が滞在していると知り、その小間使いとの情事を楽しみたくて出立を渋ったりと相変わらずのわがままし放題。アルベルチーヌに悶々としていた頃の「私」はもう過去のものとなっていたのでした。

 

  第二点はそんな「私」がアルベルチーヌを思い出して胸を痛める場面。

  アカデミア美術館のカルパッチョの「悪魔に憑かれた男を治療するグラドの総主教」という絵画に描かれた“カルツァ同信会員のひとりの背中”のコートが、アルベルチーヌのフォルトゥーニのコートと同じだと気づき、「私」は胸に“軽い痛み”を覚えるのでした。

 

  フォルトゥーニとは実在の高名なヴェネツィアのデザイナーで、件のコートは「私」がわざわざゲルマント夫人の助言を得てアルベルチーヌに買い与えた大変高価な一品でした。プルーストはこのデザイナーが大変お気に入りで、その衣裳は本作品において重要なモチーフなのです。

  正確を期すためにプルーストはフォルトゥーニの親戚マゾラッゾ夫人に書簡を送り、モチーフとカルパッチョの絵画の関連性について質問しています。それが付録の第三番目の書簡です。

 

  いつかはこのフォルトゥーニの名前を出さないと、とずっと思っていたのですが、ようやく出せました。

 

 

 

 

  そして終盤(まだあるのか!)。。。。。

 

 

 

  パリへの帰途、「私」への手紙と母への手紙の二通で、二人があっと驚く結婚が報告されます。これをネタあかしするのはさすがに興醒めになってしまうと思うので、本巻のレビューでは伏せておきます。

 

  ただ一点、ある人物の同性愛の件だけは言及しておかなければなりません。

 

  それは「私」の親友で好色家と思われれていた、あのサン=ルー(ロベール)!彼までもが「ソドム」のお仲間だったのです。彼をその道に引き込んだのは、なんとまたまたあのモレルなのでした。

 

  このモレル、最初登場した時はほんのチョイ役かと思われたのですが、シャルリュス男爵との関係のみならず、ジュピアン、アルベルチーヌ、そしてこのサン=ルーと次々と重要人物に関わってきました。吉川氏によりますと、プルーストは「ボードレールについて」という評論中で

私はソドムとゴモラのこの「結合」を自作の終わりの方で(中略)シャルル・モレルという粗野な男に委ねた

と述べています。プルーストの同性愛者に関する「男=女」理論は、「ソドムとゴモラ I」のシャルリュス男爵に始まり、このモレル、そしてサン=ルーに引き継がれて「ソドムとゴモラ 三 第二部」は終わりを告げるのでした。

 

、、、、、って、やっぱり「どいつもこいつも」感は否めない。。。。。

 

  ああ、虚脱状態。でもこれだけ長文でも、本巻のほんのサワリだけを紹介したに過ぎないんですよね。何度でも言いますが、

 

プルースト、畏るべし!

 

  いよいよ次回は最終篇「見出された時」に入ります。泣いても笑ってもあと二巻だっ!

 

アルベルチーヌの突然の出奔、続く事故死の報。なぜ出ていったのか、女たちを愛したからか?疑惑と後悔に悶える「私」は「真実」を暴こうと狂奔する。苦痛が無関心に変わるころ、初恋のジルベルトに再会し、その境遇の変転と念願のヴェネツィア旅行に深い感慨を覚える。

ヨハネスブルグの天使たち / 宮内悠介

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  宮内悠介を読むシリーズ、今回は「ヨハネスブルグの天使たち」を選んでみました。2013年に発表された第二作となりますが、いやあ凄かったです、私がこれまで読んだ宮内作品中最高の出来でした。

 

  伊藤計畫の「虐殺器官」「ハーモニー」を彷彿とさせる筆致でディストピアを描き、しかも、より深く現実の宗教・政治問題に踏み込んでいる。これだけのものがデビュー第二作にして書ける、ポスト伊藤計畫という呼び声は伊達ではないな、と思いました。

 

戦災孤児のスティーブとシェリルは、見捨てられた耐久試験場で何年も落下を続ける日本製ホビーロボット・DX9の捕獲に挑むが―泥沼の内戦が続くアフリカの果てで懸命に生きる少年少女を描いた表題作、9・11テロの悪夢が甦る「ロワーサイドの幽霊たち」など、日本製の玩具人形を媒介に人間の業と本質に迫る連作5篇。デビュー作『盤上の夜』に続く直木賞候補作にして、日本SF大賞特別賞に輝く第2短篇集、文庫化。(AMAZON解説)

 

  ここまで宮内作品を読んできて、だいたい彼の作法というものが見えてきました。

 

・ ゆるやかに連関のある短編を重ねて全体として統一した世界観を提示する

・ 日本語題名にある程度統一性を持たせる

・ 英語のサブタイトルで内容を示唆する

・ 参考文献を提示する

 

という感じです。今回の作品は「○○の〜たち」という題名に統一されており、○○には地名が入ります。その題名・サブタイトル・地名を先にまとめておきますと

 

ヨハネスブルグの天使たち」(City in Plague Time)  南アフリカヨハネスブルグ

「ロワーサイドの幽霊たち」(Our Brief Eternity)USA・ニューヨーク

「ジャララバードの兵士たち」(The Frequency of Silence)アフガニスタン・ジャララバード

ハドラマウトの道化たち」(To Patrol the Deep Faults) イエメン・ハドラマウト

「北東京の子供たち」(How we survive, in the flat (killing) field) 日本・東京

 

となります。近未来を想定したSFであるものの人種問題、イスラム過激派問題等々の社会問題に踏みこまざる得ない地域を選んでおり、現在を生きる私たちに切実にリアルに迫ってきます。

 

  そしてその五編に共通して登場するガジェットが、日本製の少女型ボーカロイドDX9、もともと日本企業が金持ち向けに開発したロボットです。初音ミクをロボットにしたようなイメージでしょう。

  輸出用として便宜的に「楽器」製品として申請され、海外の面倒な商標権問題を回避するためにわざと「DX9」という味気ない製品名にしてあり、通称は「歌姫」。このあたりの作り込みには作者の徹底したこだわりが見て取れます。

 

  冒頭作でこのDX9の数千のプロトタイプが、内戦のため日本企業が撤退したヨハネスブルグのビルの屋上から耐久性試験のため自律的に毎日夕立のように落下を繰り返します。

夕立の時間だ。(中略)風を切る音がした。まもなく幾千の少女らが降った。あるものはまっすぐに、あるものは壁にぶつかり弾けながら、ビルの底へ呑まれていく。(中略)雨は四十五分間つづいた。

  そして、第二編以降もDX9が落下するシーンが必ずあり、全作の通奏低音となっています。

 

  文明社会の行き着く先をディストピアとして描く上で、SFファンにはたまらなく鮮烈なイメージ提起です。このアイデアと個人の意識人格をDX9に転写移植することが可能であるという活用方法がこの作品に深みを与えており、宮内悠介のとんでもない才能を見る思いがしました。

 

  ここまでで随分長くなってしまったので、以下短く各編の感想を記しておきます。

 

ヨハネスブルグの天使たち」   ネルソン・マンデラアパルトヘイトを終わらせたもののその後も人種・貧富・地域格差などの問題がこじれてついに南北戦争に陥っている南アフリカが舞台。戦争孤児となった黒人の少年と白人の少女が暮らすスラムと化したビル中央の吹き抜けを、毎日毎日夕立のように数多くのDX9が落ちていく。そのうちの一台に意識があると見抜いた少年がその個体をレスキューしようとするが失敗。その後結婚した二人は大学に進み、男は政治家を志し内戦を終わらせようとするが。。。

 

  最後に迫害された白人たちをDX9を利用して疎開させるシーンがこれまた印象的。あの個体も再登場し最後に歌い出すところが感動的です。短編なのでやや拙速なところも見受けられはしますが、この世界観の提起だけでもう十分傑作だと思います。

 

ロワーサイドの幽霊たち」   わざと分かりにくくしたストーリーの合間に頻繁に9.11に関連のある人物の紹介が挟まれる、実験的な作品です。最初はとっつきにくいですが、息子を9.11で喪った集団心理学者が、あの日の犠牲者の人格を悉くDX9にインストールしてもう一度あの事態を再現しようとしている、というカラクリがわかってくると俄然面白くなります。面白くといっては不謹慎なのかもしれない題材をギリギリのところでうまく処理したその手腕は見事です。ツインタワーの間の空間は一体なんなのか、という問いかけも印象的。

 

ジャララバードの兵士たち」「ハドラマウトの道化たち」   この二作は共通した登場人物が二人いること、どちらも部族抗争で無政府化しアメリカの介入を許している場所であること、DX9が武器として使われていること、生物兵器にまつわるミステリ仕立てであることなどの共通点があり、連作であるといえます。

 

  日本人主人公ルイは、中央アジアからアラブ地方への放浪歴がある作者を彷彿とさせます。二作品ともリアリティが半端でないのはそのためなのでしょう。またミステリファンの作者らしく、名前を出さずにアフガンで銃弾に斃れた中村哲氏やポリスの「Every Breath You Take」などに触れている箇所があるのでお読み逃しなく。

 

  それにしても、自爆テロに関する思いもかけなかったDX9の使い方には唖然としました。是非お読みいただき、戦慄してください。

 

北東京の子供たち」   かつては繁栄の象徴だった北東京の団地が閉塞感しかないような場所となり、現実逃避の道具としてDX9は使われ毎夜屋上から落下を続けています。DX9にハッキングしている輩は飛び降りを毎夜バーチャル体験する遊びに耽っているわけで、人の命が塵のように軽いアフガンとはまた違った意味で、救いようのない世界です。

 

  主人公の少年(ルイの弟)と少女は、少女の母親のその現実逃避の遊びをやめさせたくて、そのDX9たちをある部屋に閉じ込めることに成功しますが、その結果は無残なものでした。

 

  最後にほんのわずかではありますが救いのある情景を描いて話は終わりを告げます。とうの昔に閉店してしまった団地一階の薬屋が置き去りにしたためそこで毎日毎日歌い続けるDX9がそのシーンにも登場します。哀しくも印象的なエンディングであるとともに、五作品で落ち続け、散っていった無数のDX9に向けて挽歌を歌っているような気もしました。

 

 傍らでDX9は歌い続ける。  

 まるで、愛する人を待っているかのように。

 

 

  迷わず星五つです。