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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 14 / マルセル・プルースト

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   マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」最終第14巻です。前巻「見出された時 I」の後半と本巻「II」全体を占めるゲルマント大公邸の午後のパーティーでこの長大な物語はついに完結し、主人公の「私」は「失われた時」を見出し、自らの物語を紡ぎ始めます。

 

  ゲルマント大公邸中庭で啓示を受けた「私」は文学を志す決意を固め、本巻においていよいよパーティー会場のサロンに入っていきます。しかしそこで「時」の流れの残酷さを目の当たりにし、驚愕することとなります。

 

  「仮面舞踏会」かと思うほど人々の外見は変貌していました。この物語を彩ってきたゲルマント公爵夫人オリヤーヌ、サン=ルー夫人ことジルベルト、フォルシュビル夫人ことジルベルトの母オデットもその例外ではありません。

  オリヤーヌはまだゲルマント一族の「守護神」の化身たる宝石をちりばめた神聖な老魚の如き風貌を保っていましたが、誰だか分からなかったジルベルトには「わたしのこと母だと思ったでしょ」と図星を突かれます。

  逆に言うと「私」も老化していたわけで、オリヤーヌの言葉からそれを痛感させられます。

 

  変わったのは人々の風貌だけではありません。内面にも「劣化」を「私」は敏感に感じ取ります。オリヤーヌにしてもジルベルトにしてもオデットにしても人の悪口ばかり言い合いますし、かつて娼婦で二流俳優だったサン=ルーの元恋人ラシェルはそれほどの才能もないのに大女優にのし上がっており、かつての大女優で「私」の憧れでもあったラ・ベルマの没落を意地悪く楽しんでいます。

 

  そして最も変わったのは社交界の勢力図でしょう。ブルジョア勢力がかつての上流階級の貴族を凌駕したのがこの半世紀(1800年代後半~20世紀前半)だったのだ、ということが本書の主要テーマであったことがここではっきりします。それは下記の二点で明瞭に描かれます。

 

  まずはヴェルデュラン夫人の栄華。

 

  ゲルマント大公邸のパーティーとはいうもののこれは「ゲルマントのほう」で描かれた壮麗な夜会とは根本的に異なっています。主人である大公妃はかつてオリヤーヌとその美貌を競った従姉妹のマリーではないのです。マリーはすでに亡くなっており、第一次世界大戦で破産してしまったゲルマント大公と結婚して大公妃の座についたのはなんとヴェルデュラン夫人なのでした。

 

  思えば半世紀前の「スワン氏の恋」においてプチブル・ヴェルデュラン家のパーティーでこの物語は幕を開けたわけで、ゲルマント大公妃にまで登りつめたこの上昇志向の塊のようなプチブル女性は半世紀を貫いて描かれた裏主人公と言えるのではないでしょうか。

 

  私が「スワン氏の恋」を読んだ時はここだけで終わる意地悪な小物だとしか思えませんでしたが、プルーストの周到な計画には舌を巻く思いです。

 

  そしてもう一点は、少年時代の「私」が「コンブレー」において正反対の方向と思っていた「スワン家のほう」と「ゲルマントのほう」の融合。

 

  これは前巻でジルベルトの思い出話として示唆されていましたが、今回は現実に「スワン家(ブルジョア)」が「ゲルマント家(上流貴族)」を乗っ取る構図としてはっきり示されます。

 

  ゲルマント公爵はコンブレーのゲルマント家に愛人としてオデット(故スワン氏夫人)を住まわせ、

 

  ゲルマント家の貴公子サン=ルーと結婚したジルベルト(スワン氏の娘)はサン=ルー亡きあともゲルマント一族の一員、サン=ルー夫人として居座っています。

 

  そしてスワン家とゲルマント家の融合の象徴として最後の最後に登場する、本巻の真打ともいえるのがサン=ルーとジルベルトの娘、両家の特徴を併せ持った美貌のサン=ルー嬢

 

  切歯扼腕するオリヤーヌを尻目に、スワン家の三代に渡る女性陣は由緒正しきフランス貴族ゲルマント家に深く浸食していたのでした。

 

  そのような「時」の流れを目の当たりにした私は「いよいよ創作のとりかかる時だ」ということを実感するとともに、体力記憶力に自信をなくしてもおり、千夜一夜物語ほどもかかるであろう作品を生きているうちに完成させられるだろうか、との不安にも苛まれれます。

 

  そのような創作意欲と不安の葛藤を最後に30Pにもわたり吐露し、

 

 なによりもまず人間を、空間のなかで人間に割り当てられたじつに狭い場所に比べれば、逆にきわめて広大な場所を時間のなかに占める存在として描くだろう。(中略)人間の占める場所はかぎりなく伸び広がっているのだ - 果てしない「時」のなかに。  完 (p303)

 

 

と締めてこの長大な物語は終わります。ここから「私」は物語を紡ぎ始めるわけで、そこでもおそらく

 

 「私」マルセル、 母、祖母、フランソワーズ、レオニ叔母、スワン氏、オデット、ジルベルト、ゲルマント公爵夫妻、ゲルマント大公夫妻、サン=ルー、シャルリュス男爵、アルベルチーヌ、アンドレ、モレル、ブロック、ベルゴット、ヴァントィユ、ヴェルデュラン夫妻

 

たちが物語を彩るのでしょう。この小説が「円環をなす」と言われる所以です。

 

失われた時を求めて』とは、この物語がいかに書かれるに至ったかの遍歴談であり、この「天職」発見の物語には、『失われた時を求めて』の成り立つ根拠が至るところに提示されている。『失われた時を求めて』は、みずからの根拠を提示する小説であり、小説の小説なのである。(吉川一義氏)(p338)

 

 

 

 

  う~ん、感無量(苦笑。

 

 

 

  最後にお二人の訳者に謝辞を述べさせていただきます。

 

  まずは光文社古典新釈文庫版において新訳で私を6巻まで導いていただいた高遠弘美氏に感謝します。氏の

 

斜め読みせずに、一行一行を丁寧に読んでゆくことである。というより、私たち読者の義務はそこにしかない。

 

という示唆は大変貴重なもので、その教えを守って読み進めることにより

 

プルーストを読む行為が私たちに与えてくれるものはすこぶる豊穣である。生彩あふれる自然描写、皮肉でいながら深みと立体感に満ちた人物造型、増殖する譬喩の連鎖、豊富な語彙、こうしたすべてがプルーストの美質として私たちの眼前に次々と現れてくる。

 

ことを体感できました。

 

  続いては第7巻以降の岩波文庫版で最後まで導いてくださった吉川一義氏に感謝します。特にプルーストの死により未推敲となってしまった「囚われの女」以後の底本の選択と邦訳は大変なご苦労だったと推察します。未推敲ゆえの矛盾や間違いだらけの文章を我慢して読み進めることができたのは一重に吉川氏の丁寧な注釈のおかげでした。

 

 

 

  大袈裟な言い方になりますが、長年の読書人生の中でも稀有な体験でした。この年齢になってこのような文学の方法論もあることを新たに知ることができ、再挑戦した甲斐があったと思いますし、真面目な話、生きているうちに完読できて本当に良かったと胸をなでおろしています。

 

 

  正直言って、レビューを書くのも本当に大変でした。高遠先生と吉川先生の詳細なあとがきに比べれば児戯に等しいような感想文でしたが、少なくとも自分の考えをまとめることで少しはこの小説の理解も深まったのかなと思います。

 

 

 ゲルマント大公邸のパーティーに赴いた「私」は驚愕した。時は、人びとの外見を変え、記憶を風化させ、社交界の勢力図を一新していたのだ。老いを痛感する「私」の前に、サン=ルーの娘はあたかも歳月の結晶のように現れ、いまこそ「作品」に取りかかるときだと迫る。