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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 12 / マルセル・プルースト

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  プルーストの「失われた時を求めて」いよいよ十二巻、第六篇「消え去ったアルベルチーヌ」に入ります。「消え去った」とあるように、前巻最後に出奔したアルベルチーヌの死が本巻のメインテーマとなります。

  一方で、元々の出版予告には「ソドムとゴモラ 三 第二部」と銘打たれており、男女それぞれの同性愛の諸相が「ソドムとゴモラ 一」から数えて五巻目の本篇にまで及んでいます。前半ではアルベルチーヌの「ゴモラ」の真相がほぼ解明されるとともに、後半にはシャルリス男爵から始まった「ソドム」がついにその甥である「私」の親友にまで及ぶことになります。

 

  と、簡単にまとめてはみましたが、本篇もプルーストが推敲を繰り返したまま亡くなったあとの刊行で、訳者の吉川一義氏が

 

失われた時を求めて』を構成する全七篇のなかで本篇ほど、初版から現在までに刊行された各種フランス語刊本に大きな異動のある巻はない。

 

  と述べられているほど、大変問題のあるパートだそうです。よって吉川氏は本篇を訳するにあたり

 

・ 本篇のタイトルは、従来の邦訳で普及している『逃げ去る女』でなく『消え去ったアルベルチーヌ』を採用した。

・本篇の終わりを多くの刊本のようにタンソンヴィル滞在の途中で区切るのではなく、直前で区切り、タンソンヴィル滞在はすべて最終篇へ回す処置をとった。

・本編に限り、プレイヤッド版ではなく(中略)リーブル・ド・ポッシュ版(LF版)を主たる底本とした。

 

 

とのことです。その理由についてはあとがきに詳細に書かれていますが、あまりにも長くなるので割愛します。すべての邦訳を読めるわけもなく、比較検討することは私には不可能ですが、ここは本作品の成立過程の研究がご専門の吉川氏を信用して読み進めます。

 

  そこでまずは吉川版の本篇の構成の概要をまとめてみます。

 

1:アルベルチーヌの出奔と事故死

  私の動揺

  サン=ルーの派遣

  アルベルチーヌの事故死

  エメの派遣

  アンドレの告白 1

2:忘却の第一段階

  ブーローニュの森の散策で見かけた三人の娘

  フィガロ誌についに掲載された私の文章

  ゲルマント侯爵夫人再訪

  ジルベルトとの再会

  オデットとフォルシュビルの再婚の経緯

3:忘却の第二段階

  六か月後、アンドレの告白 2

  アンドレオクターヴの結婚

  母の「客を招く日」

   モレルとシャルリス

   パルム大公妃

  その一週間後、アンドレの告白 3

4:忘却の第三段階

  母とのヴェネチア来訪

  サズラ夫人との夕食

  ヴィルパリジ夫人とノルポア氏

  アルベルチーヌが生きているという誤電報

5:帰路とパリにて

  二通の手紙に記された驚くべき二組の結婚

  サン=ルーの性癖

 

付録:プルーストの三通の手紙

 

 

  今回も600Pほどある、これだけで大長編と言える長さなのですが、なんと上記1-3の間、延々300Pも「私」のアルベルチーヌに関する独白が続きます。ここまで読んできた者にとっては「さもありなん」という感じで、辟易はしたもののなんとか読み進めることはできましたが、まあ前知識なしにいきなりこのパートを読まされれば「なんじゃこりゃ」の世界でしょう。さすがの吉川先生も“特異な文学”“レアリスム小説とは対極にある”と評しておられます。

  プルーストらしいと言えばらしいのですが、さすがのプルーストもこれはまずいと思ったのか、2-4あたりをバッサリと切り捨てた原稿(「タイプ原稿1」と呼ばれるそうです)を残していたため、先の述べた大混乱が起こったそう。。。さもありなん(w。

 

  閑話休題、アルベルチーヌの突然の失踪に「私」は慌てふためき、警察のご厄介になるほどの愚行をやらかすわ、

アルベルチーヌに別れの手紙を書き(中略)、一方で私は関与していないことにしてサン=ルーを派遣し、アルベルチーヌが早く戻ってくるようボンタン夫人に露骨な圧力をかけるのだ。

という卑怯極まりない手を使ってアルベルチーヌを怒らせるわの大慌てぶり。

 

  そしてボンタン夫人からのアルベルチーヌ乗馬中事故死の訃報とアルベルチーヌからの帰りたいとの本心を綴った手紙が同時に来るに至ってまたまた大ショック、大混乱。(この訃報と同時に手紙が届くという設定は付録のプルーストアゴスチネリの事故死の当日に出した手紙と合致しています)

  この情けない「私」を描いた1は動的でとても面白いですが、そんな「私」を冷静に見つめるもう一人の「私」の蘊蓄は相変わらず冗長、しかしこれがなくてはプルーストと言えません。

 

  そしてそこからの忘却に至るまでの過程が長い長い。死んでしまったことにより自分の心の中に実在してしまったアルベルチーヌへの思慕の情と、あらためて沸き起こった彼女の同性愛疑惑への煩悶と嫉妬模様が何百ページと続くわけです。さらには実地調査にエメ(バルベックホテルの元給仕頭)を派遣し、「花咲く乙女たち」の一人でアルベルチーヌとの同性愛疑惑のあるアンドレをネチネチ追及する、その執念の凄さ、いやらしさ。

 

  その結果、アルベルチーヌの同性愛は本物、というかとんでもなく「淫乱」だったことが判明します。そこにはあのバイオリン奏者にしてシャルリュス男爵とのホモホモ関係を断絶したモレルまで関与しているのでした。

 

  しかしあれほど出奔には動転した「私」がこの段階に至ってもう動転しません。人間は必ず忘却する、「私」も例外ではなかった。その過程をこれほどまで綿密に書かれると納得せざるを得ない、というくらいプルーストは恋人を失った悲しみからの治癒過程を描き切っています。

 

  そこにはやはり、秘書兼運転手で飛行機事故で死亡した同性愛相手であるアゴスチネリとの愛と別れの経験があったのは明らかです。

  付録の二番目の手紙は恋人の事故死について心配する友人に宛てたプルーストの手紙ですが、そこに“心痛から解放される第一段階”という表現が見られます。吉川先生によると本作とどちらが先かはわからないとのことですが、それでも

『消え去ったアルベルチーヌ』の骨格がプルーストアゴスチネリをめぐる愛情と悲嘆に触発されたことは疑いえない。

と述べられているように、本篇はプルーストアゴスチネリに捧げた挽歌と言える章なのでしょう。

 

 

 

 

  は〜、これで内容の約半分。しかも無意識的記憶の文章の醍醐味はレビュー困難。つくづく思うに、容易なレビューを許さない誠に難しい小説ではあります。。。

 

 

 

 

  さて、そんな読むには難いなっが〜い独白の合間にも外界描写が諸所で挟まれているのですが、とりわけ重要な二点を挙げておきます。

 

  一点は、ついに「私」の文章が「フィガロ」紙に掲載されたこと。

  今となっては忘却の彼方に近い第一巻、子供時代の私がマルタンヴィルの鐘楼の印象を描いた文章に手を入れ投稿するもなかなか掲載してもらえず、イライラしながらもついには忘れていたあの原稿です。

 

  嬉しくてたまらず、感想をそれとなく聞くためゲルマント公爵夫人のところまでノコノコ出かけていくスノビズムぶりを発揮している「私」ですが、これが最終章「見出された時」で文学を志す大団円につながっていくものと思われます。

 

  もう一点は、スワン氏の忘形見ジルベルトとの再会です。あっと驚くことに、スワン氏が生涯望んで叶わなかった娘ジルベルトとゲルマント公爵夫人との面会場面に「私」は出くわしたのでした。(滑稽な伏線もあるにはあるのですが、長くなるのでここでは省略します)

 

  悲しいことにゲルマント公爵夫人が許可したのは、スワン氏の娘としてではなく、「フォルシュヴィル嬢」としてのジルベルトでした。そう、スワン氏の死後、未亡人オデットはちゃっかりと「スワン氏の恋」に出てきた浮気相手の貴族フォルシュビルと再婚(お互いウィンウィンではあるのですが)したのです。

  そしてジルベルト本人も父の思いとは裏腹に、ユダヤ人という出自を敢えて意識はせず「フォルシュヴィル嬢」として振る舞います。

 

  このあたり、さらには後半でのジルベルトの結婚式の仲人をこれまたオデットの浮気相手シャルリュスが務めるなど、当時の貴族の高慢ぶりとユダヤ人差別を描くプルーストの筆は容赦ないものがあります。

 

  さて、好色を絵に描いたような「私」ですが、もうジルベルトにはなんの感慨もわかず、あれほど憧れていたオデットにももう嫌悪感しかありません。しかし後半、意外な人物と結婚したジルベルトを懐かしのタンソンヴィル(第一巻コンブレーに出てきたスワン氏の別荘のある地方)に訪ねていくところから次巻は始まります。と言うか、そこをこの篇に入れている刊本もあるわけですが、兎にも角にもアルベルチーヌの死後再び本作においてジルベルトは復活し、重要な役割を果たすことになるのでした。

 

 

 

 

  もうここで終わろうかしら、、、とも思ったのですが、もう少し書かねば。

 

 

 

  後半のハイライトは、子供のころから憧れ続けながら病弱のため行けなかった、イタリアの水の都ヴェネツィア。アルベルチーヌという軛から解き放たれた「私」はついにその念願を叶えるのですが、さすがのマザコン、やっぱり母と出かけたのでした。

 

  ヴェネツィア大好きのプルーストの筆は冴えわたり、余すところなくこの街を描き尽くします。訳者の吉川氏も大忙し、注釈や図版(絵画や写真)満載で、全巻通しても屈指の読みどころと言えましょう。

 

  もちろんヴィルパリジ夫人とノルポア氏という懐かしのカップルも登場して楽しませてくれますが、まあそれは読んでのお楽しみ、ここではアルベルチーヌにまつわる二つのエピソードを紹介しておきます。

 

  一つはアルベルチーヌから“友へ、きっと私が死んだとお思いでしょう、お赦しください、私はいたって元気です。”云々という謎の電報が届く事件。

 

  この電報の真相は帰路に判明するのですが、プルーストシャーロック・ホームズばりの謎解きを用意していて面白いです。(実際プルーストコナン・ドイルの小説を読んでいます)

 

  しかし大事なのはそういうことではなく、「私」がもう忘却の第三段階に入っていてこの電報を何とも思わなかったこと。せっせとイタリア美女を物色したかと思えば、帰る段になってビュトビュス夫人ご一行が滞在していると知り、その小間使いとの情事を楽しみたくて出立を渋ったりと相変わらずのわがままし放題。アルベルチーヌに悶々としていた頃の「私」はもう過去のものとなっていたのでした。

 

  第二点はそんな「私」がアルベルチーヌを思い出して胸を痛める場面。

  アカデミア美術館のカルパッチョの「悪魔に憑かれた男を治療するグラドの総主教」という絵画に描かれた“カルツァ同信会員のひとりの背中”のコートが、アルベルチーヌのフォルトゥーニのコートと同じだと気づき、「私」は胸に“軽い痛み”を覚えるのでした。

 

  フォルトゥーニとは実在の高名なヴェネツィアのデザイナーで、件のコートは「私」がわざわざゲルマント夫人の助言を得てアルベルチーヌに買い与えた大変高価な一品でした。プルーストはこのデザイナーが大変お気に入りで、その衣裳は本作品において重要なモチーフなのです。

  正確を期すためにプルーストはフォルトゥーニの親戚マゾラッゾ夫人に書簡を送り、モチーフとカルパッチョの絵画の関連性について質問しています。それが付録の第三番目の書簡です。

 

  いつかはこのフォルトゥーニの名前を出さないと、とずっと思っていたのですが、ようやく出せました。

 

 

 

 

  そして終盤(まだあるのか!)。。。。。

 

 

 

  パリへの帰途、「私」への手紙と母への手紙の二通で、二人があっと驚く結婚が報告されます。これをネタあかしするのはさすがに興醒めになってしまうと思うので、本巻のレビューでは伏せておきます。

 

  ただ一点、ある人物の同性愛の件だけは言及しておかなければなりません。

 

  それは「私」の親友で好色家と思われれていた、あのサン=ルー(ロベール)!彼までもが「ソドム」のお仲間だったのです。彼をその道に引き込んだのは、なんとまたまたあのモレルなのでした。

 

  このモレル、最初登場した時はほんのチョイ役かと思われたのですが、シャルリュス男爵との関係のみならず、ジュピアン、アルベルチーヌ、そしてこのサン=ルーと次々と重要人物に関わってきました。吉川氏によりますと、プルーストは「ボードレールについて」という評論中で

私はソドムとゴモラのこの「結合」を自作の終わりの方で(中略)シャルル・モレルという粗野な男に委ねた

と述べています。プルーストの同性愛者に関する「男=女」理論は、「ソドムとゴモラ I」のシャルリュス男爵に始まり、このモレル、そしてサン=ルーに引き継がれて「ソドムとゴモラ 三 第二部」は終わりを告げるのでした。

 

、、、、、って、やっぱり「どいつもこいつも」感は否めない。。。。。

 

  ああ、虚脱状態。でもこれだけ長文でも、本巻のほんのサワリだけを紹介したに過ぎないんですよね。何度でも言いますが、

 

プルースト、畏るべし!

 

  いよいよ次回は最終篇「見出された時」に入ります。泣いても笑ってもあと二巻だっ!

 

アルベルチーヌの突然の出奔、続く事故死の報。なぜ出ていったのか、女たちを愛したからか?疑惑と後悔に悶える「私」は「真実」を暴こうと狂奔する。苦痛が無関心に変わるころ、初恋のジルベルトに再会し、その境遇の変転と念願のヴェネツィア旅行に深い感慨を覚える。