失われた時を求めて 13 / マルセル・プルースト
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読書好きなら誰もがその名前は知っている「A la recherche du temps perdu 失われた時を求めて」、フランスの作家マルセル・プルーストが1922年に亡くなるまでの約15年間をこの一作のためだけに費やし、その原稿枚数たるや3000枚以上、日本の400字詰め原稿用紙10,000枚に該当するという畢生の大作、「二十世紀文学の金字塔」との誉れも高い作品です。(拙レビュー第一巻)
という、今から思えば仰々しい文章で始まったこのレビューも最終第七篇「見出された時」に入ります。岩波文庫版の本篇は二冊からなり、本第13巻はその前半にあたります。
求めていた「失われた時」を「見出す」解決篇であるわけですが、この長い長い物語の果てに「私」=プルーストは何を見出したのか?
訳者吉川氏の解説(pp549ー511)の助けも借りて整理しますと
第一の概念は人間や人物を変貌させ破壊させてしまう、長い歳月にわたる「時」の発現
(お馴染みの面々の死、そして第一次世界大戦における破壊、その象徴としてのランス大聖堂崩壊など)
第二の意味(中略)想い出された「時」という意味
(ジルベルトの告白、タンソンヴィル再発見など)
そして
過去があるがままによみがえる現象、プルーストが無意識的記憶と呼んだ現象によって現出した「時間を超越した瞬間」いわば「永遠の時」
(かつての「紅茶にマドレーヌ」と同じ啓示が私に訪れ、ついに文学を志す) となります。
「長い歳月」と吉川氏がお書きになっているように、これまでの12巻ではあり得なかった約20年という時が本巻では流れ、大きく分けて三部構成となっています。簡単に整理しますと
1:タンソンヴィル再訪
ジルベルトの告白
ゴンクール兄弟の未発表原稿
(療養所生活約10年)
2:第一次世界大戦下のパリ
ヴェルデュラン夫人とボンタン夫人という二人のパリの女王
サン=ルーの語る戦争
シャルリュス男爵の語る戦争
ジュピアンの娼館でのシャルリュス男爵の痴態
(またまた療養所生活約10年)
3:ゲルマント大公邸訪問
シャルリュス男爵の落魄
突然訪れた啓示と文学論
となります。
1は前巻の続きです。前巻ではあえて伏せましたが、故スワン氏の愛娘ジルベルトは母オデットの再婚により「フォルシュビル嬢」という貴族の仲間入りをし、そしてついに私の親友にしてゲルマント一族の御曹司サン=ルーと結婚してゲルマント一族の仲間入りまでしたのでした。
しかし、モレルによって男色に目覚めてしまったサン=ルーはそれを隠すためにわざと女性の愛人をたくさん作ってジルベルトを悲しませます。
傷心のジルベルトを慰めるべく、第1巻「コンブレー」において「私」が彼女を見染めたタンソンヴィルの故スワン氏の別荘を訪れるところから本巻は始まります。
そこでの散策においてジルベルトは、実はあの時「私」に恋していたこと、幼い「私」にとって正反対の象徴であった「ゲルマントのほう」と「スワン家のほう」はつながっていたことなどを「私」に語ります。
これが吉川氏のいう第二の想い出された「時」という意味にあたります。この辺りは読みはじめの頃を懐かしめるなかなか心温まる箇所です。またサン=ルーとジルベルトの結婚により「ゲルマントのほう」と「スワン家のほう」が長い時を経てつながってしまったこととの対比も見事です。
さてこのパートの最後。話題は一変して滞在の最終日前夜、たまたまゴンクール兄弟の未発表原稿を読んで「私」は己が文学的才能の無さを痛感します。
パスティーシュの名手であったプルーストが書くヴェルデュラン家の夜会のシーンはとても面白く、こういう風に書いてくれればすんなり楽しめるのに、とさえ思ってしまうのですが、それがプルーストの罠(笑。
最終部での文学論において「価値がない」とする浅くて些事にこだわる写実主義の見本として書いたのが明らかで、逆転への布石だったと後で知る痛快な策略となっています。吉川氏はもっと深く考察されていますが、ここで立ち止まっているとまたまた超長文となってしまいますので、先を急ぎましょう。
第2部は長い療養所生活を挟んだ約10年後の第一次世界大戦下のパリ(1914,1916)です。ランス大聖堂が破壊され、パリにまでドイツ軍の足音が聞こえてくる状況下、貴族からブルジョア、庶民にまで戦争を語らせ、プルーストの戦争観が読み取れる興味深い構成となっているのですが、これも語り始めるとキリがなくなるので割愛し、重要な二点にだけ触れておきます。
一点はパリ社交界の変遷。第二巻で貴族階級から「裏社交界」と揶揄されていたプチブルヴェルデュラン夫妻のサロンが、第四篇「ソドムとゴモラ」で貴族階級と比肩しうるほどにのし上がっていましたが、ついには(これまた初めはパッとしなかったボンタン夫人(アルベルチーヌの伯母)とともに)「戦時下のパリの女王」と呼ばれるまでになっています。
残念ながらヴェルデュラン氏は大戦中に亡くなってしまうのですが、夫人は次回最終巻のゲルマント邸夜会において、さらに驚くべき変貌を遂げています。性格の悪さやスノビスムは生涯かわらないものの、「人間の変貌」という意味では長大な本作において最も劇的な人物であり、そのあたりは最終巻でまた紹介したいと思います。
もう一点は、ゲルマント一族である二人、サン=ルーとシャルリュス男爵の対比。 サン=ルーはソドミーという問題はあるものの、立派な軍人であり、望んで出征し、私がまた療養のためパリを発つ日に悲報が届きます。
その知らせとはロベール・ド・サン=ルーの死で、ロベールは前線に戻った翌日、部下の退却を援護して戦死したのだ。ロベールほど他の民族に憎悪をいだかなかった人間はいないだろう。(p387)
「花咲く乙女たち」においてバルベックに颯爽と登場し、親友として良くも悪くも「私」に関わり続けた本作でも最も印象深い人物の死には、プルーストも多くの枚数を割いています。
そしてもう一人はご存知ホモ男爵シャルリュス。サン=ルーと同じく戦争を冷静に見つめ、フランス嫌いドイツ贔屓を公言します。その私への高邁な講釈とは裏腹に、その後彼が向かったのはジュピアンにやらせている娼館、通称「破廉恥の殿堂」。
ここに男爵はモレル(ふられた美貌のバイオリニスト)似の若い男を集め、鎖で縛らせて鋲入りの鞭で自分を打たせるのでした。まあはやい話がSMプレイで悦楽に溺れていたわけです。
このシャルリュス男爵、またまた長い時を経た第3部冒頭にも登場し、老化と脳卒中でよぼよぼになった落魄の姿を読者の前に晒し、最後まで本作のキーパーソン、トリックスターとして顔を出し続けます。
この男もまた「貴族の上流社交界」「芸術」「ソドムとゴモラ」という本作の複数のテーマの根幹をなす主人公であったと言えるでしょう。
さて、いよいよ本巻の白眉である第3部です。
え、まだあるのかって?
ここからが本番でございます(笑。
長い時を経て(研究では1925年頃)療養所からパリへ帰る「私」。その列車の中でまたしても「私」は、車中から眺める木々に何の感銘も覚えなかったことから、文学的才能が枯渇していると再確認し落胆します。
これがゴンクール兄弟に続く第二の伏線。
そんな私に、ついに、ついに、ついに、深いところに隠されていた「無意識的記憶」からくる幸福感が蘇ります。
それは夜会に招かれたゲルマント邸の中庭を歩いていた時のこと。
ところが、転ばぬよう身体を立て直そうとして、片足をその敷石よりもいくぶん低くなった敷石のうえに置いたとたん、それまでの落胆は跡形もなく消え失せ、私はえも言われぬ幸福感につつまれた。(p430)
それは第一巻「コンブレー」等、早々に「私」が体験してした
バルベックの周辺を馬車で散策していたとき以前見たことのある気がした木々の眺めとかマルタンヴィルの鐘塔の眺めとか、ハーブティー(一巻では紅茶)に浸したマドレーヌの味とか(p430)
と同じ啓示でした。
しかしてその敷石の感覚の正体はヴェネツィアのサン=マルコ洗礼堂の不揃いな二枚のタイルを踏んだ時の感覚だったのです。
この幸福感を契機として、「失われた時を求めて」いたこの作品の解決としての
芸術作品こそが失われた「時」を見出すための唯一の手段である(p498)
という結論に至るまでの、奔流のように湧き出す「私」(=プルースト)の芸術観、文学観の凄いこと凄いこと!
延々独白が続くこれまでの巻に比べれば客観的描写が多かった本巻でしたが、ここから約100Pに渡り怒涛の文学論が展開されます。これは本当に実際に読んでいただきたいところなのですが、そうするにはここまでの十二冊をも読まねばならない。まあそれは無理。。。
という事で、できる限りプルーストの言葉を抜粋借用してそのエッセンスを説明したいと思います。
まず、この幸福感は意識して思い出せるものではなく、何らかの類推の奇跡であり、
その存在のみが、私に昔の日々を、失われた時を見出させる力を持っていた(p441)
のです。そして、
私の感じたものを考え抜くことによって(中略)ひとつひとつの感覚をそれぞれの法則と思考を備えた表徴として解釈しなければならなかったのである。ところで、これを成し遂げる唯一の方法と思われるのは芸術作品を作ること以外のなにであろう?(p455)
かくして私はすでに結論に達していた。(中略)芸術作品は自分好みにつくるものではなく(中略)先立って存在する必然的であると同時に隠されたものであるから、我々はそれを自然の法則を発見するように発見しなければならない、という結論である。(p460)
という思いを強くします。そしてそのことを確信したのは
写実主義を自称する芸術のうそ偽りによってである。この芸術が嘘八百になってしまうのは人生において自分の感じることにそれとはまるで異なる表現を与えていながら、しばらくするとそんな表現を現実そのものだと思いこんでしまうからである。(pp460ー1)
という写実主義の虚妄であり、私はサント=ブーブの理論や、ドレフュス事件〜大戦時の軽薄な文学理論を激しく糾弾し、ついには時間の秩序から抜け出した「一瞬の時」の「印象」を会得し「真の自我」に目覚めた人間のみが真の芸術家となり得るのであり、
真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である(p490)
との結論に達します。その上で
私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。(p496)
と決意するのです。
その啓示と決意の結実が、おフランスの「社交界」や「恋愛」や「同性愛」を延々と描き続ける、読みにくいことこの上ないこの作品なのか、というツッコミも入れたくなるところではあるのですが、
敢えて言おう、
プルーストよ、あなたは偉大だ
と。これは彼の「文章」を(訳ではありますが)ここまで苦しみ悶絶しながら読んできた文章フェチの実感です。
今回も長文おつきあいありがとうございました。
最終巻はもう少し短くまとめたい。。。
幼年時代の秘密を明かすタンソンヴィル再訪。数年後、第一次大戦さなかのパリでも時代の変貌は容赦ない。新興サロンの台頭、サン=ルーの出征、「破廉恥の殿堂」での一夜…。過去と現在、夢と現実が乖離し混淆するなか、文学についての啓示が「私」に訪れる。