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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

猫を捨てる 父親について語るとき / 村上春樹

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   先日紹介した村上龍の新作「MISSING」では、龍が初めて母の歴史を語っていましたが、この最新エッセイでは村上春樹がついに不仲だった父について重い口を開いています。

  あとがきで彼自身も語っていますが身内のことを書くのはけっこう気が重いことですし、やはりある程度の年齢に達して、ある程度達観しないと書けないものだと思います。

  かたや靄のかかったような幻想的な小説の中(龍)、かたや短い随筆の中での誠実な文章(春樹)での追想、という個性の違いは歴然としているものの、長年二人の作品に付き合ってきた読者としてはダブルMURAKAMIもそういう年齢に達したのだなという感慨がありました。

 

 子供の頃父と二人で海岸に猫を捨てに行ったら、自転車で往復した自分たちよりも早く家に帰っていた、という卑近なエピソードから始めて、父のひととなり、戦時体験とそのトラウマ、そして私との関係と順を追って重い問題にシフトしていくという随筆の基本と言うべき作法で語る。

  このあたりは「職業としての小説家」として誠実に仕事をこなす村上春樹らしいなと思います。ご本人は

どんなところからどんな風に書き始めれば良いのか、それがうまくつかめなかった

とおっしゃってますが、冒頭のエピソードはねじまき鳥クロニクルの猫ワタヤ・ノボルを思い出させますし、多少は戸惑ったにせよプロ中のプロの彼のこと、初めからある程度頭の中では出来上がっていたはず。

 

  ファンの間では長らく作品中での「父の不在」、実生活での父の不仲・確執は以前から語られていた事で、特に「1Q84」に於ける主人公天吾と父親の物語は村上春樹と実父に重ね合わせられていました。

  それについて彼もいつかは語らなければいけないと思っていたのでしょう。その語り口はいつもの彼独特の文体で柔らかく誠実なものですが、語り尽くそうという決意は見て取れます。

 

  出たばかりですし内容については敢えて語りませんが、終盤の

  我々親子は広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴にすぎないが、 一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという雨水の責務がある。

という彼にしては決然とした文章は、彼のこの随筆にかける強い思いが伝わってきてさすがにジーンとくるものがありました。

 

  短い随筆ですが、台湾人イラストレータGAO YANさんの昭和レトロ風の挿絵も素敵ですし、ハルキストをやめたはずの私も久々に楽しませていただきました。ジモティには今では信じられないような昭和30年代の夙川から香櫨園浜あたりののどかな情景描写も嬉しかったです。

 

  最後に結構ズシンときた、春樹らしい文章を一分だけ抜粋。

人には、おそらくは誰にも多かれ少なかれ、忘れることのできない、そしてその実態を言葉ではうまく人に伝えることのできない重い体験があり、それを十全に語りきることのできないまま生きて、そして死んでいくものなのだろう。

 

時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがある ある夏の日、僕は父親と一緒に猫を海岸に棄てに行った。歴史は過去のものではない。このことはいつか書かなくてはと、長いあいだ思っていた―――村上文学のあるルーツ (AMAZON解説より)

 

 

失われた時を求めて 11 / マルセル・プルースト

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  「失われた時を求めて」第五篇「囚われの女」も後半に入ります。まずは本篇の構成をおさらいしておきます。恋人アルベルチーヌの同性愛疑惑に駆られた「私」が、避暑地バルベックからパリに彼女を連れ帰り、自宅に半幽閉状態にした秋から春までが語られるのですが、流れとしては大体下記のようになります。

 

・ パリでのアルベルチーヌとの同棲の日々

   シャルリュス、モレル、ジュピアンの近況

   ゲルマント公爵夫人の近況

・ 作家ベルゴットの死 (以上第10巻)

・ スワン氏の死

・ パリのヴェルデュラン家訪問、壮大な夜会

   ヴァントゥイユの崇高な七重奏曲

   シャルリュス氏の追放

・ 再びアルベルチーヌとの日々

・ アルベルチーヌの出奔 (以上第11巻)

 

  前巻の最後で偉大な作家ベルゴットフェルメールの名画「デルフトの風景」の前での劇的な死を描いたプルーストですが、その余韻が冷めない本巻冒頭においてまたもや本作屈指の主要登場人物スワン氏の訃報を挿入してきました。

 

  「挿入」と書きましたが、訳者の吉川氏によりますとこの二人の死は元原稿にはなく新たに挿入されたものなのだそうです。そして二人にそれぞれ絵画をオマージュとして捧げているのですが、ベルゴットにはスワン氏の研究対象だった偉大な画家フェルメールをあてがっておきながら、そのスワン氏にはティソの「ロワイヤル通り」という社交人士の集団肖像画というあまり芸術的価値のない絵画を捧げたのみ。

 

  吉川氏はこの絵の対比を“社交と芸術、時間と永遠をめぐる対照的な主題”であると捉えておられます。晩年は病に苦しんだベルゴット、晩年の不幸が語られていた偉大な音楽家ヴァントゥイユ、本巻で死が示唆されている画家エルスチール、この物語における主要な芸術家三人は現世では恵まれてはいなかったもののその作品は永遠に残る、一方現世の成功者で芸術の良き理解者スワン氏であっても死後の命運ははかない。ということをこの二枚にプルーストは託したのだろうと。その社交と芸術、時間と永遠をめぐる思惟は最終章まで持ち越されることになります。

 

  もう一点だけ脱線しておくと、「私」が亡きスワン氏を偲んで、珍しく大上段に振りかぶってこう呼びかける場面があります。

親愛なるシャルル・スワンよ、私はまだ若造で、あなたは鬼籍に入る直前だったから、親しくつきあうことはできなかったが、あなたが愚かな若輩と思っておられたに違いない人間があなたを小説の一篇の主人公にしたからこそ、あなたのことが再び話題になり、あなたも生きながらえる可能性があるのだ。(p27)

 

これは驚きです。小説とはこの「失われた時を求めて」、「一篇」とは間違いなく第二巻の前半「スワン氏の恋」のことで、この部分は明らかに作者マルセル・プルーストがスワン氏のモデルとなったユダヤ人で当時社交界の花形であったシャルル・アースに呼びかけているのです。

 

  前巻で述べたように「囚われの女」以降はプルーストの死後に出版されました。最終章「見出された時」に至るまで彼は自身を表には出さないつもりだったのでしょうが、抑えきれない強い思いが筆を滑らせ、それが校正しきれず残ったということなのでしょう。

 

  さて、本巻の前半は長い長いヴェルデュラン家の夜会で占められます。その中核をなすのが、ヴァントゥイユの未発表の七重奏曲の初演。これには「ソドムとゴモラ」の面々が深く関わっています。

 

・ 晩年のヴァントゥイユを苦しめ、さらにはその同性愛現場を見てしまった「私」の心のトラウマとなった、ヴァントゥイユの娘とその女ともだち。この女ともだちが自責の念から彼の未発表メモを掘り起こしたのがこの七重奏曲

・ ホモ男爵シャルリュス。夜会をヴェルデュラン夫妻を差し置いて企画し招待客まで決め、大成功させたはいいがその傍若無人ぶりから夫妻の激しい怒りを買い策略によって追放されてしまう

・ シャルリュスの愛人であるヴァイオリン奏者モレル。七重奏曲の花形で一躍脚光を浴び、ヴェルデュラン夫妻の計略に自ら乗ってシャルリュス氏と訣別する

 

  このように有象無象の「ソドムとゴモラ」は登場しますが、そんな吉川氏曰くの「悪徳の世界」を越えて物語を止揚しているのが架空の傑作「ヴァントイユの七重奏曲」です。第二巻に登場したスワン氏とオデットの“愛の国歌”であった「ヴァントゥイユのソナタ」と対を成しており、その描写の見事なこと!

  プルーストが心酔していたベートーベン弦楽四重奏曲フランク交響曲ニ短調シューマンの「子供の情景」「ウィーン 謝肉祭の道化」間奏曲など様々な楽曲の部分部分をイメージしつつ構築してあり、プルーストの天才ぶりが遺憾無く発揮された、本作でも屈指の名場面となっています。

 

  このように、本巻はとりわけ彼の芸術論が際立っており、前半ではこの音楽論が、後半では「私」がアルベルチーヌに語る文学論(バルベー・ドールヴィイ、トマス・ハーディ、スタンダールドストエフスキー等)が、ストーリーとは別に物語の骨格を形成する双璧をなしています。最初に述べたプルーストの「作者を超えて芸術は永遠性を獲得する」というテーゼが最終篇を待たずして横溢してきた印象を受けます。

 

  もちろんここに至るまで諸所で少しずつ語られてはいたことで、もっと遡るならば、そもそもこの物語を書く発端となった、作品の中に作家の人生を読み取ろうとするサント=ブーブの思想への反論であった「サント=ブーブに反論する」の論旨でもありました。

 

  そういう意味ではこの篇は「ソドムとゴモラ」という現実界の「悪徳」と抽象界の「芸術」が併存しせめぎ合う、プルースト文学の最大の魅力を放つ部分なのかもしれません。

 

  さてさて、その荘厳な演奏が成功裡に終わった後の人間喜劇。

  自分が主催者の如くにはしゃぎ回り、挙句の果てに「私」やブリショに古今東西の王侯貴族や有名人の「ソドムとゴモラ」についての蘊蓄を語りまくるシャルリュス男爵と、彼にすっかりコケにされ激怒したヴェルデュラン夫人がこのホモ男爵を追放すべくモレルとの分断を図るあたりのドタバタ喜劇は、音楽の高尚さと「どいつもこいつも」な現実の人間の低俗さが見事な対比をなしていて、読むのが苦しい本作にあって屈指の躍動感に満ちています。

 

  読んでのお楽しみというところですが、一点だけ、シャルリュス氏がスワン夫人オデットの本性について語る場面に触れておきます。

  冒頭訃報が伝えられたスワン氏とオデットの恋は第二巻「スワン氏の恋」で語り尽くされましたが、実は知り合う前のみならず結婚後もオデットは手当たり次第ともいうべき肉体関係を様々な男たちと持っていたことが彼によって明かされます。前巻で登場した貧乏貴族クレシーもそのうちの一人に過ぎなかったようです。

 

  このスワン氏とオデットの関係と対をなすのが、「私」と謎の女アルベルチーヌ。

 

  アルベルチーヌを「囚われの女」にして、前巻では煩悶しながらもしっかりと性愛に耽っていた「私」ですが、本巻後半ではひたすら彼女の同性愛疑惑と嫉妬で苦しみ、つなぎ止めておこうとして母に叱られるくらいに散財し、挙げ句の果ては彼女のせいで憧れのヴェネツィアへも行けない、と立場は見事逆転して自らが「囚われの男」状態に。 私にとってアルベルチーヌはとの生活は、

 

一方で私が嫉妬していないときは退屈でしかなく、他方で私が嫉妬しているときは苦痛でしかなかった。たとえ幸福な時があったとしても、長続きするわけがなかった。(中略)これ以上ひき延ばしてもなにも得られないと悟った私は、アルベルチーヌと別れたいと思っていた。(p 469−470)

 

 

 

と、もう「どないやねん」状態に。そんな気分のぶれまくる「私」を通してしかアルベルチーヌは描かれないので、本当に嘘つきなのか、同性愛(私ともしっかりやっているのでバイセクシャルということになりますが)者なのか、判然としないままここまで話は延々と続いてきました。

  しかし、本巻において彼女がうっかり口を滑らせた

 

割ってもらえ・・・・・。(p335)

 

という言葉。これは男であればワギナを、女であれば肛門を割ってもらう(これが「壺を割る」)という意味での性行為を意味するようです。そして次から次へと出てくる女性同性愛者とことごとく知り合いである(あのスワン氏の娘ジルベルトまでも!)ことなどから、どうもバイセクシャルなのは間違いないよう。

 

  そして彼女が大人しく「私」に従ってパリについてきたその裏にある真相が明らかとなり二人は大喧嘩、仲直りはするもののこの時点で決定的な亀裂ができたことは間違いないと思わせます。案の定“アルベルチーヌに無関心”になったと「私」が油断していたある朝、女中頭フランソワーズからアルベルチーヌが早朝荷物をまとめて出ていったと聞かされ、愕然とします。

 

私の手は(中略)、一度も経験したことのない冷や汗でぐっしょり濡れ、私はこんなことしか言えなかった、「ああそうかい、ありがとう、フランソワーズ、もちろんぼくを起こさなくてよかったんだよ。しばらく一人にしてほしい、あとで呼ぶから。」(p514)

 

  そんなことなら同性愛疑惑なんかほっといてもっと大事にしてやればよかったのに、と苦笑するほどの「私」の動揺ぶりを最後にさらっと描いて本篇は終了。次篇「消え去ったアルベルチーヌ」に続きます。

 

ヴェルデュラン邸での比類なきコンサートを背景にした人間模様。スワンの死をめぐる感慨、知られざる傑作が開示する芸術の意味、大貴族の傲慢とブルジョワ夫妻の報復。「私」は恋人への疑念と断ち切れぬ恋慕に苦しむが、ある日そのアルベルチーヌは失踪する。

 

失われた時を求めて 10 / マルセル・プルースト

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  岩波文庫版の「失われた時を求めて」も第10巻、第5篇「囚われの女」に入ります。ここから先はプルーストの死後、遺稿を元にして出版が続けられたので、本文の解読や配列、改行の有無、イタリック体使用の有無等、刊本による異同がかなりあるそうです。幸い訳者の吉川一義氏は博士論文のテーマが

未発表草稿に基づく『囚われの女』成立過程の研究

 

だったそうで、その研究の成果を最大限盛り込んだとあとがきに書いておられ最大限盛り込んだとあとがきに書いておられます。
  例えばこの巻において初めて「」が「マルセル」と呼ばれるシーンが登場します。これもプルーストが校正しきれないまま亡くなり、隠し通せなかったからだそうで、こういう破綻は今後もいくつか見受けられます。まあそういうところも一興ではあるのですが、とにもかくにも吉川先生の注釈が格段に増えております。
 
  またまた前置きが長くなりました。ではまず「囚われの女」の構成を見ていきましょう。この篇も岩波文庫版で二冊に分かれるほどの分量(一冊約500P)があります。
  前巻の最後でアルベルチーヌの同性愛疑惑がまた持ちあがり大ショックを受けた「私」は発作的に結婚すると母に告げ、彼女をバルベックからパリに連れ帰り自宅に閉じ込めてしまおうと決意します。そして本篇はバルベックからパリに戻った秋から冬を経て春にかけての約半年が描かれます。概要を箇条書きにしてみますと、
 
・ パリでのアルベルチーヌとの同棲の日々
   シャルリュス、モレル、ジュピアンの近況
   ゲルマント公爵夫人の近況

・ 作家ベルゴットの死
(以上第10巻)

・ スワン氏の死

・ パリのヴェルデュラン家訪問、壮大な夜会
   故ヴァントゥイユの崇高な未発表七重奏曲
   シャルリュス氏の追放

・ 再びアルベルチーヌとの日々

・ アルベルチーヌの出奔
(以上第11巻)

 


という感じになります。こう書くときっちりと物語が進むように思われるかもしれませんが、「無意識的記憶」に任せるままに描かれる本作のこと、時系列に忠実に描かれるわけではなく、一日が100P以上に渡ったり、突然時間が飛んだりと相変わらず読者泣かせです。
 
  特に前半部分となる本巻は、ひたすら自分勝手な「私」の煩悶を聞かされ続けて一巻が終わってしまう感じで、読んでる間は時間経過もよく分かりません。一応冬の始まりの二日間と、春になりかけの一日(その夜に後半の大部分を占めるヴェルデュラン家の夜会がある)の三日間だけが描かれるていることになるそうです。
 
  三日間で400P超。。。。。(呆
 
  勿論その間に
 
・ 秋から冬にかけてのパリの情景、時代の移り変わりの鮮やかな描写がなされ、
 
・ シャルリュス男爵が、音楽家にして性格最悪なモレルと街の仕立て屋ジュピアン二人のホモだちを支配下に置こうと企む人間喜劇で楽しませ、
 
・ 最早憧憬の対象ではなくなり、アルベルチーヌのファッションアドバイザーとして冷静に付き合えるようになったゲルマント公爵夫人の現況を描いて時代の変遷を感じさせ、
 
・ ヴァントゥイユ(架空の音楽家)からワグナー、ニーチェバルザックユゴーミシュレ等々へ飛ぶ音楽、文学、歴史に関する芸術観を延々と開陳し、
 
・ 最後には偉大な作家ベルゴットの、フェルメールの名画「デルフトの眺望」の前での劇的な死を描いて
 
大向こうをうならせてはくれます。
 
  とは言え、現代女性やフェミニストならもう途中で本を叩きつけてしまうであろう、「私」の勝手な恋愛観、アルベルチーヌへの嘘つき呼ばわり、果てしのない同性愛への疑いと嫉妬とその姑息な対抗策、ほぼそれだけに紙面は費やされます。
 
  一方でアルベルチーヌとの性愛はしっかり楽しんでおり、そればかりか、彼女の裸の寝姿を楽しむ方が快感であるという変態的一面もねっちょりと描かれております。今回はそのサワリを引用して終わりとしましょう。
 私のベッドのうえに全身を横たえたアルベルチーヌは、とうてい故意にはつくりだせない自然な姿勢でいて、花をつけた長い茎がそこに置かれているように見えた。

 

こうして漏れてくるアルベルチーヌの眠りという不思議なつぶやき、海の微風のように穏やかで月の光のように夢幻的なつぶやきに私は耳を傾けた。

 

・・・そっとベッドの上へあがり、アルベルチーヌに寄り添って身を横たえ、その腰を片腕で抱きかかえ、頬や胸に唇を押しあて、それから空いている方の手をアルベルチーヌの身体のありとあらゆる箇所へ置くと、その手も真珠(のネックレスのこと)と同様、呼吸に応じてもちあげられ、その規則正しい動きによって私自身もかすかに揺れた。

 

ここから先は読んでのお楽しみ、ということで相変わらず文章は天才的で蘊蓄は半端ないですが、ストーリー的には前巻で難所は乗り越えたと思ったのにまたまたこれかよ、という第10巻でした。
 

超動く家にて / 宮内悠介

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 宮内悠介を読もう、三作目は前作に続きお笑い系作品「超動く家にて」です。宮内さん待望の初「あとがき」によりますと、

これまで未収録であった短編やショートショートのうち、ネタに偏った作を集めた 16編

が収められています。

 

  最初にちょっと真面目に「おバカ系ネタ」についての個人的意見を述べておきますと、宮内さんが「あとがき」で書いておられる、

「 処女作がシリアス過ぎて、このままでは、洒落や冗談の通じないやつだと思われてしまわないだろうかというのがバカ小説執筆のきっかけ 」

というのはどうなのかな~、って思いました。もちろん100%本気ではないんでしょうけど、そういう風に恣意的に笑いを取ろうとする作品は個人的にはあまり好みではない。

 

  例えば同じように、真面目作品が主流で時々お笑い系作品を出す人に東野圭吾がいますが、やっぱりそこは関西人、あの頃ぼくらはアホでしたみたいなナチュラルボーン系お笑いはやっぱり文句なしに面白いです。

 

 というわけでこの作品を通読してみますと皮肉なことにお笑い系ではない、シリアスでペーソスを主体とした「アニマとエーファ」が最高に素晴らしかった。あとは 面白くもあり、面白くもなし。玉石混交。

  もちろんネタの好き好きがあって読む方それぞれに評価は違うと思います。

 

  ということで以前レビューした「人工知能の見る夢は」に収録されていた「夜間飛行」を標準の☆3つ、「アニマとエーファ」を最高の☆五つ、ミステリの法則なんかにはあまり興味がないので「法則」を最低の☆1つとして各作品を採点してみます。

 

トランジスタ技術の圧縮」 ☆☆☆

  雑誌の広告部分を間引くと随分すっきりする、アルアル系ネタ。求道バトルにするのもアルアルだな。

 

文学部のこと」 ☆☆

  円城塔もやしもんパスティーシュやってるみたいだな、と思ってたらマジであとがきにその旨が書いてあってビックリした。

 

アニマとエーファ」 ☆☆☆☆☆

  希少言語で文章を自動生成するためにある爺さんが手作りしたAIの数奇な運命。素晴らしいの一言、宮内版近未来ピノキオかな。

 

今日泥棒」 ☆

  ネタは悪くないがオチが弱い。

 

エターナル・レガシー」 ☆☆☆

  囲碁AIに負けた棋士と大昔の8ビットコンピューターの奇妙な共同生活。棋士の彼女の「乗算もできない分際で」ってのが愉快。

 

超動く家にて」 ☆☆☆

  ネパールのマニのような円形の動く家での密室殺人事件。「そして誰もいなくなった」、「インシテミル」、「11人いる!」のチャンポンみたいな。萩尾望都様の名作をもちだしたところはよろしいが、出来としては中途半端。

 

夜間飛行」 ☆☆☆

  基準作。アイデア、オチがきっちりとしている。

 

弥生の鯨」 ☆☆☆☆☆

  これはよかったなあ。やっぱりまじめな方がいい作品書けるね、宮内さん。海女がメタンハイドレートを海中からとってくるというアイデアが秀逸で話の展開もスムーズ。

 

法則」 ☆

  ヴァン・ダインの20の法則と言われても、そう言うのに興味がないもんで、申し訳ない。

 

ゲーマーズ・ゴースト」 ☆☆☆

  スカタン系ボニー&クライド風の話は凄く面白いんだけど、わざわざSF風につけたオチがイマイチ。惜しい。

 

犬か猫か?」 ☆☆☆

  ぬいぐるみが犬なのか猫なのか議論するショートショート。シュレジンジャーの猫かい、と思ってたら最後に種明かしあり、ニヤリ。

 

スモーク・オン・ザ・ウォーター」 ☆☆☆☆

  ディープ・パープルとは何の関係もない、まじめなSF短編。脳腫瘍末期の父に隕石のペンダントをあげたら突然失踪した。そのあとの展開がホノボノ系でハッピーエンドな後味のよい作品。

 

エラリー・クイーン」 ☆

  Wiki風の構成が物珍しいが、面白くはなかった。

 

かぎ括弧のようなもの」 ☆

  すでに清水義範が「バールのようなもの」を書いてるし。

 

ローム再襲撃」 ☆☆☆

  その清水義範の十八番のパスティーシュをやってみました的な。村上春樹ギブソンをパクりまくり。「ジェイズ・バー」「やみくろ」「千葉市」あたりにニヤリ。

 

星間野球」 ☆☆☆☆☆

  宇宙ステーションで「帰還」をかけて二人の乗組員が野球盤で真剣勝負。お笑い系SFとして一番良かったと思う。

 

  というわけで、合計46、平均2.87となりました。全体として星三つと言う感じだったので、大体あってますね。

 

  さあ次は何を読もうか?

 

 雑誌『トランジスタ技術』を「圧縮」する謎競技をめぐる「トランジスタ技術の圧縮」、ヴァン・ダインの二十則が支配する世界で殺人を企てる男の話「法則」など全16編。日本SF大賞吉川英治文学新人賞三島由紀夫賞受賞、直木・芥川両賞の候補になるなど活躍めざましい著者による初の自選短編集。(AMAZON

 

 

失われた時を求めて 9 / マルセル・プルースト、吉川一義

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   マルセル・プルーストの「失われた時を求めて岩波文庫版も第9巻に入ります。サブタイトルは「ソドムとゴモラ II」で、後半第二、三、四章が収められています。

 

  舞台は前巻に引き続き避暑先であるノルマンディー地方ですが、ホテルのあるバルベックから舞台はヴェルデュラン夫妻が借りた海を見下ろす別荘のあるラ・ラスプリエールと、そこへ向かう小鉄道に移ります。

 

  ヴェルデュランというのはまた懐かしい名前です。そう、第二巻「スワン家のほう II」においてスワン氏とオデットが付き合う場所となったのがパリのヴェルデュラン夫妻のサロンでした。

 

  「私」の生まれる前、まだプチブルに過ぎなかった夫妻のサロンは「社交界」とまで陰口を叩かれ、ゲルマント家をはじめとする貴族階級からは歯牙にもかけられなかったのですが、芸術サロンとして20年間歩みをとどめることなくのし上がり、栄誉栄達にあぐらをかいて風前の灯火になりつつあった貴族階級を凌駕するところまで来ていたのでした。

 

  本巻の舞台となるラ・ラスプリエールの別荘も、これまたお馴染みの地元貴族カンブルメール家から借りているのですが、ヴェルデュラン夫妻は田舎貴族など恐れるに足りずという態度を貫いており、カンブルメール侯爵夫妻との丁々発止のやり取りが前半の一つのハイライトとなっています。

 

  では、このヴェルデュラン夫妻の「少数精鋭」の芸術サロンが、「私」をうんざりさせた、ついでに言えば、わたしたち読者をもその長さ退屈さで散々うんざりさせた、ヴィルパリジ夫人・ゲルマント公爵夫妻・ゲルマント大公夫妻のサロンより格段に優れているのかと言えば、さにあらず!

 

  夫妻は20年前と変わらず底意地が悪く、メンバーのコタール医師夫妻、ソルボンヌ教授ブリショ、古文書学者サニエットと言った懐かしのメンバーたちも昔と変わらずプライドは高いものの退屈で小心者ばかり。このあたりの「人間喜劇」ぶりが本巻の最大の読みどころとなっています。

 

  訳者の吉川氏も指摘しておられますが、「失われた時を求めて」は決してとっつきにくくて難しい高尚な内容ばかりではなく、今回のような「喜劇」の面も持ち合わせているのです。

 

  さてその高級サロンに今回ずかずか入り込んでくるのが、そう、あのホモ男爵シャルリスです。お目当てはサロンにヴァイオリン奏者として呼ばれたモレル

 

  実はこのモレル、これまでも何回か登場しているのですが「私」の大叔父の従僕の息子です。その身分のことで私や上流階級にコンプレックスがあり、平身低頭して身分のことを黙っておいてほしいと頼み込み、それを「私」が承諾するや否や態度がでかくなる、というこれまた性根の腐った男なのですが、なんせ美貌の持ち主なもので、シャルリュスさん一目惚れ。彼目当てでヴェルデュラン夫妻のサロンへ入り込みます。

 

  最初はおどおどしていたものの、芸術に関しても階級にしても自分が優位に立つや、貴族としての自尊心や持ち前の傲慢な性格の本性があらわになっていきます。前半では自分も素養のある音楽、後半ではバルザックをはじめとする文学論などで「少数精鋭」や「私」を圧倒してしまいます。

 

  しかし、中身はなよっとした「男=女」のシャルリュスさん、結構モレルには振り回され、サロンでは陰口をたたかれ、モレルの浮気相手を探すべく高級娼館でのぞきをしようとして散々な目にあい(実はこの時のモレルの浮気相手はあのゲルマント大公なのですが)、果ては気を引こうと「決闘」まで仕組むほど。

 

  いやはや、この長大な物語の中でも格別キャラの立った人物であることは間違いないですね。同性愛者だったプルーストのこと、彼にも自らを投影しているのでしょう。

 

  さてさてそのような貴族とブルジョアとホモたちに取り囲まれつつ、あまりの浪費ぶりを母に注意されながらも二度目の避暑地を満喫している「私」。その行状や性格はあいかわらず褒められたものではないのですが、どういう訳か周囲の人から気に入られています。

  今回チョイ役で出てくる極貧貴族クレシー男爵もその一人。そう、スワン夫人オデットは以前オデット・ド・クレシーと名乗っていました。彼女とこの男の関係は次巻以後で明らかとなるようです。

 

  そしてなによりも目下の恋人アルベルチーヌ。彼女をものにしてからは好きに振り回し、「従妹」としてサロンに連れて行き、もう飽きて結婚する気もなくなったころから逆に性愛に溺れと、やりたい放題。

 

  最終第四章冒頭で母に「結婚しない決心をした」と告げ、アルベルチーヌにも嘘八百で別れを持ちかけ、一旦は成功したように見えたのですが、アルベルチーヌの一言

 

で!そのお友だちなんだけど、これが、なんと不思議なことに、どんぴしゃり、そのヴァントィユって人のお嬢さんの親友なのよ、それで、あたし、ヴァントィユのお嬢さんのほうもよく知ってるわけ。

 

で、封印されていた忌まわしい記憶、そう子供時代モンジュヴァンでのぞき見してしまったヴァントイゥユ嬢と親友の同性愛行為(第一巻「コンブレー」)が蘇ってしまい、アルベルチーヌの同性愛を再び悶々と疑い始めます。

 

  それからの「私」の嫉妬と動揺は、これまで好き勝手してきて彼女との結婚を愚の骨頂とまで思っていたことを知っている読者から見れば「ざまぁ」感が否めませんが、ついに最後の最後、「私」は母に一大決心を伝えます。

 

  と、大筋はそんなところで、この時代はまだフェミニズムも何もあったもんじゃなかったんだな感が強かったです。

 

  そしてプルーストさん、相変わらずフランス語やその語源、間違い、地口などなどに関する執着ウンチクをワンサカ盛り込んでいるので、 ホント、吉川先生大変だな というくらい注釈だらけです。特に第二巻の「土地の名・名」において夢想して楽しんでいたノルマンディー地方の土地名をブリショ教授がこれでもかというくらい解説するあたりはノルド語も入ってくるのでホントしんどい。

  「コンブレー」を乗り越えた読者が挫折するのが「ゲルマントのほう」と「ソドムとゴモラ」というのもうなづけます。

 

  一方、演劇音楽文学絵画芸術に関するプルーストの蘊蓄は本当に大したものだと思います。そのあたりは次巻でさらに凄くなるらしいです。

 

  そしてノルマンディー地方の自然の描写はさすがプルーストと言うべき色彩感覚に溢れ、思わずググって画像を探してしまうほど素晴らしいです。そして特筆すべきは前回と今回の心象風景の違い。例えば自動車という文明の利器の登場により、地理感覚・距離感覚が全く別物になってしまったという感慨を述べるあたり、中盤の読みどころとなっています。

 

  さて、次巻はいよいよプルースト死後刊行された「囚われの女」に入ります。舞台はパリに戻りますが、主人公に翻弄されるアルベルチーヌの運命や如何に?

 

 ヴェルデュラン夫妻が借りた海を見下ろす別荘と、そこへ向かう小鉄道で展開される一夏の人間喜劇。美貌の青年モレルに寄せるシャルリュス氏の恋心はうわさを呼び、「私」の恋人アルベルチーヌをめぐる同性愛の疑惑は思わぬ展開を見せる。

  シャルリュスと青年ヴァイオリン奏者のソドム的関係。その一方で描かれるゴモラのテーマ。アルベルチーヌの同性愛を疑う「私」の嫉妬と動揺。彼女からヴァントゥイユ嬢とその女友達と深くつながっていることを告げられた「私」は激しい苦悩をおぼえるが、にわかに彼女と結婚しなければならないとの思いに駆られる。 (AMAZON解説)

 

 

 

逆ソクラテス / 伊坂幸太郎

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   私のお気に入りの作家伊坂幸太郎待望の新作で、少年少女の学校生活の思い出を描いたライトな作品集となっています。

 

  あいかわらず飄々とした筆致なのでファンとしては安心して読めるのですが、彼にしては珍しく低年齢層を主人公に持って来たな、と思いました。そのあたりが今回の伊坂のねらいであったようで、あとがきで

 

少年や少女、子供を主人公にする小説を書くのは難しい、と思っていました。今も思っています。子供が語り手になれば、その年齢ゆえに使える言葉や表現が減ってしまいますし、こちらにその気がなくとも子供向けの本だと思われる可能性があります。懐古的な話や教訓話、綺麗事に引き寄せられてしまうのは寂しいですし、かと言って、後味の悪い話にするのもあざとい気がします。

 

と語ったうえで、どうしたら自分だからこそ書ける物語ができるのかああだこうだと悩みながら考えた結果この五編の作品が出来上がったとのことです。そして今回は

 

「デビューして20年、この仕事をしてきたひとつの成果だと思っています!」

 

と珍しく矜持を露わにしています。確かにそれだけのことはある作品だと思います。

 

  小学生時代という、感受性の強い一方で大人の世界をまだよく理解できない時期に起きる様々な出来事。子供同士のいじめ、頼りなさそうな先生への嫌がらせ、指導者の高圧的態度、親の過干渉、片親問題、わけありの転校等々。

 

     どの問題もそんな簡単に解決するわけがない。簡単に善悪で分けられるものでもない。いじめる側や、犯罪を犯す側であっても何らかの事情があるのかもしれない。

 

  だから伊坂は旧来の強制的指導や感情的叱責をよしとしません。びしっと叱りつけないから子供がつけあがるし、いじめや学級崩壊が起こるのだ、なんてよくある意見にも同調しません。

 

  一見軟弱優柔不断、飄々として定見がないように見えて、実はその思考はしなやかでかつ芯は靭(つよ)い。これぞ伊坂幸太郎

 

  と、ファンは思うわけです。ファンでない方には異論はあると思いますが、後味のよい作品ばかりですので、伊坂入門にもいいと思います。

 

  以下寸評。

 

ソクラテス   「ソクラテス」とは無知の知のこと。自分は何でも知っているという態度で、こいつはできないと決めつけて生徒を一方的に見下す先生。敵はその先生自身ではなく、その「先入観」。それをひっくり返すべく立ち上がる生徒たち。武器は僕は、そうは、思わないという一言。

 

  先に後年の結果を提示して、胸のすくような結末にもっていくところが痛快。

 

スロウではない   めだたない転校生はどうもいじめをうけて逃げてきたらしい。足も遅い。でも足の速くない主人公たちリレーメンバーのために速くなる方法をインターネットで調べてきて教えてくれる。これでビリを脱出できそうだ。でも、リレー直前にメンバーの女の子がけがをして絶体絶命のピンチ。その時転校生が起死回生の手を打つ。題名通り「スロウではない」胸のすくような場面だが、それが却ってクラスのボス女子を怒らせて。。。

 

  二転三転する展開や、主人公「僕」と友達の「ドン・コルレオーネ」問答が面白い、五編の中でも印象に残る作品です。

 

  そしてもう一つ、未来の僕が見舞いに行き会話する「磯憲」という先生。あとがきによると、伊坂幸太郎の小学生時代、3年間担当していただいた磯崎先生がモデル。勉強とはまた違う、大事なことを教えてくれた先生だそうで、伊坂の人格形成にも明らかに影響しているようです。あと二作品にも登場しています。

 

オプティマ   オプティマスとは、映画「トランスフォーマー」の司令官オプティマス。カッコよく変身して事件を解決するヒーロー(でも、実は「いい案がある」は大抵裏目に出る)。

 

  授業妨害を厳しく咎められない、たよりない新任の先生。僕と友達はなんとかその問題を解決してあげようといろいろやってみるが、やっぱり上手くいかない。一方その頼りなさそうな先生にはいろいろ秘密がありそうで。。。

 

  終盤授業参観でその先生の教育論が炸裂するところがクライマックス、そこからまたツイストがあるあたりはいかにも伊坂。

 

アンスポーツマンライク   アンスポーツマンライクとは、ミニバスケットのルールで、相手の足を引っかけて倒したりする「アンスポーツマンライクファウル」のこと。  

 五人のミニバスメンバーの小学生、学生、社会人時代を描いて印象に残る作品で、そこには磯憲の

 

 試合は俺や親のためじゃなくて、おまえたちのものだ。自分の人生で、チャレンジするのは、自分の権利だよ。

 

 

という教えが息づいていた。

 

逆ワシントン   ワシントンとは有名な子供時代の桜の木のエピソード、正直に認めるということ。どう逆になるのかは読んでのお楽しみ。

 

  ストーリーに直接関係はないが「アンスポーツマンライク」で主人公たちに取り押さえられた犯人が最後に涙する場面が泣かせます。

 

  やっぱり伊坂幸太郎はいい。これからもずっと読み続けたいと思います。先生、作家生活20周年おめでとうございます。

 

 デビュー20年目の真っ向勝負!
無上の短編5編(書き下ろし3編を含む)を収録。 敵は、先入観。
世界を
ひっくり返せ!
伊坂幸太郎史上、最高の読後感。
デビュー20年目の真っ向勝負!
無上の短編5編(書き下ろし3編を含む)を収録。

 

 

 

・逆ソクラテス

 

・スロウではない

 

・非オプティマ

 

・アンスポーツマンライク

 

・逆ワシントン

 

失われた時を求めて 8 / マルセル・プルースト、吉川一義

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  20世紀フランス文学の記念碑的大作「失われた時を求めて」もいよいよ後半、第四篇「ソドムとゴモラ」に入ります。ってか、これだけ読んできてまだ折り返し地点なのか、と思うと気が遠くなりそうなんですが。。。

 

  題名の「ソドムとゴモラ」は皆さんよくご存じの通り、聖書に登場する悪徳と罪業の都市です。そして本作では冒頭に

    天の劫火から逃れたソドム民の末裔たる男=女族の最初の出現。

 

   女はゴモラを持ち、男はソドムを持つだろう。(アルフレッド・ド・ヴィニー)

 と注釈が入っているように、ソドムは男性同性愛を、ゴモラは女性同性愛を表わしています。

 

  具体的に言えば、「ゲルマントのほう」で奇矯な振る舞いで強烈な印象を残したシャルリュス男爵が男性同性愛の代表格、そして私の目下の恋人であるアルベルチーヌに同性愛疑惑が持ち上がります。

 

  ただ、本巻で延々同性愛が描写され続けるわけではありません。むしろ拍子抜けするくらい少ないといってよいでしょう。なにしろ「無意識的記憶」によって不意にいろいろな思い出がよみがえるという主題で貫かれている作品ですから、本巻も様々な話題が次から次から出てきます。

 

  もちろんプルーストは周到に計算はしているわけで、本巻の構成を大筋で整理してみますとこうなります。

 

I

・ シャルリュス男爵と仕立て屋ジュピアンのゲルマント公爵邸中庭での出会いと情事 ・ 同性愛考察

II

第一章

・ ゲルマント大公邸の夜会

・ ドレフュス事件に関するスワンとゲルマント大公との和解

・ アルベルチーヌの深夜の来訪

・ 社交界の主人公交代の予感(貴族からプチブルへ)

心の間歇

・ バルベック再訪

・ 祖母の思い出と悲嘆

・ アルベルチーヌとの官能の日々

第二章

・ アルベルチーヌとアンドレの同性愛疑惑

・ カンブルメール夫人と若夫人との芸術談義

・ アルベルチーヌへの疑念の鎮静

・ ブロックの妹や従妹のあからさまな同性愛

・ アルベルチーヌへの疑念の再発

 

  中盤の芯となるゲルマント大公邸の夜会を挟んで前半にソドムを、後半にゴモラを配置する巧妙な構成となっていることが分かります。

 

  本書でプルーストは同性愛についてダーウィンメーテルランク等の植物学的な知識まで応用しその薀蓄の限りを尽くして考察しています。

  ただ、プルースト自身が同性愛者であったにもかかわらず、その筆致は同性愛に対して否定的であり、批判的です。これに関しては訳者の吉川氏の詳細な考察がありますが、当時同性愛を文学に著すだけでも大変なことであり、作者としてそういう態度をとらなければ出版できない、と言った裏事情もあったことと推察されます。

 

  とにもかくにもシャルリュス男爵とジュピアンの情事を

その音は騒々しく、あとにかならず一オクターブ高いうめき声が聞こえてこなかったら、私はすぐそばで男がもうひとりの男の首をかき切っているいるのではないか(中略)と思ったことであろう。

と「私」が描写したり、アルベルチーヌとアンドレのダンスをみたコタール医師が

あのふたりは間違いなく絶頂に達していますよ。あまり知られていませんが、女性はなにより乳房で快楽を感じるものなんです。ほらあのふたりの乳房がぴったりとくっついているでしょう。

と表現したりすることは当時では大変なことだったと思われます。吉川氏も本書が表現と理論双方を著した嚆矢であると書いておられます。

 

  そしても一つのタブーはユダヤ人差別問題。当時のドレフュス再審の流れを読んでゲルマント大公がそつなく親ドレフュス派に鞍替えし、親ドレフュス派を標榜したが故に疎んじられていたスワン氏と和解します。

 

  大貴族も政治や人種差別に無関心ではいられなくなった当時の世相が興味深いところですが、もう一歩踏み込んでプルーストは、この時期が反ドレフュス派貴族の没落と、親ドレフュス派プチブル台頭の転換点であったことを示します。

 

  そう、ここまでヴィルパリジ夫人ゲルマント公爵夫人オリヤーヌゲルマント大公妃マリーと三つもの貴族の大夜会を延々と描いてきたプルーストでしたが、なんと大公妃邸での夜会が終わったばかりの時点でもう

オリヤーヌのサロンは栄誉栄達にあぐらをかいて風前の灯火になりつつ

あること、懐かしのプチブルスワン家のほう」に出てきたヴェルデュラン夫人のサロン、そしてスワン夫人オデットのサロンが勢いを増している様をディアギレフのバレエ公演などを交えつつ活写しています。

 

  政治と階級社会の変化を見逃さずいち早く作品に取り入れたプルーストはやはり先見の明があったと言えるでしょう。

 

  さてこのように同性愛とユダヤ人問題をとりあげ、大きな時代の流れを感じさせつつも、いっこうにぶれないのは「私」です。

  あいもかわらずのマザコン、グランドマザコンでバルベックに到着するや否や亡き祖母の記憶が蘇ってきて悲嘆のあまり寝込んでしまうかと思いきや、

   恩知らずでエゴイストで冷酷きわまりない性格でアルベルチーヌを何週間にわたっていじめ、それが迫害に極みに達した

 

かと思えば嘘八百で篭絡し、

  そのくせそのアルベルチーヌが同性愛者ではないかと悩み、

  その一方でバルベックで13人の娘とひとときの快楽に耽る。

 

  女中頭フランソワーズやホテルの支配人、リフト係等々の下の階級の言葉遣いの間違いを散々に揶揄する。

 

  もうやり放題(笑。

 

  でも文学芸術への造詣は深く、仲の悪いカンブルメール夫人と若夫人の双方を簡単に丸め込んで自分の崇拝者にしてしまう。

 

  まったくいけ好かない主人公ではありますが、これからも延々付き合っていきしょう。

 

  長文になってしまいましたので、文学音楽演劇絵画等々の芸術に関するプルーストの蘊蓄は今回は割愛します。一点、当時ショパンがどういう風に見られていたのかが興味深かったです。 

 

  次回「ソドムとゴモラ」後半に続きます。

 

聖書に登場する悪徳と罪業の都市ソドムとゴモラ。本篇に入り、いよいよ同性愛のテーマが本格的に展開される。無意志的記憶により不意によみがえる祖母への想い。祖母を失ってしまった悲しみの感情に私は改めて強くとらえられる(「心情の間歇」)。私は再会したアルベルチーヌに同性愛の疑いをいだき、不安を覚える。(AMAZON解説)

 

スペース金融道 / 宮内悠介

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  宮内悠介を読もうシリーズ2本目は面白いのが読みたくて「スペース金融道」にしました。なにわ金融道スペース篇みたいなベタな作品かと思いきや、SFと経済小説を融合させて結構ドライでシニカルな笑いをかぶせた、かなりハイブロウな作品になっていました。

 

  五編からなる短編集(最後の作品は書き下し)ですが、設定は共通しています。

 

  舞台は人類最古の太陽系外の植民惑星、通称二番街

 

  主人公はユーセフぼく(本名不詳、通称ケイジ)。二人は

 

バクテリアだろうとエイリアンだろうと、返済さえしてくれるなら融資をする、そのかわり高い利子をいただきます

 

 

という方針で

 

宇宙だろうと深海だろうと、核融合炉内だろうと零下一九〇度の惑星だろうと取り立てる

 

情け容赦ない宇宙闇金新星金融」二番街支社の社員。

 

  このユーセフのキャラが立ってます!

 

  闇金を体現したような非情でパワハラで愛想がなくていつもぼくにあり得ない無理難題を押し付けて難事件を解決してしまう不思議で厄介な切れ者。金貸しでありながらムスリムイスラム教は金利を禁じていた)。

 

  もとは物理と経済の学位を持ち、量子金融工学なる分野のエキスパートで専門は多宇宙ポートフォリオを中心とする量子デリバティブというエリートだったが、この理論での多宇宙ポートフォリオが10年前に惑星規模の経済破綻を起し、野に下った、らしい。

 

  いくらその説明を聞いてもぼくには「いま、何か、呪文のようなものが聞こえました」としか言いようがない。

 

  しかしてこのぼくは、元宇宙エレベーター建設技師でありながらどういうわけか地獄(アビス)の女王につかまりタダ働きでサーバー管理させられていたところを、女王の借金取り立てに来たユーセフに目をつけられて拾われたという経歴の持ち主。ユーセフにいいように使われてぶつぶつ文句言いながらもストックホルム症候群的についていってしまう結果名コンビとなってしまっております。

 

  この二人のルーティン。ありえないところまでありえない債権者を追いかけていき、

 

    ユーセフ 「企業理念」

  ぼく 「はい。わたしたち新星金融は、多様なサービスを通じて人と経済をつなぎ、豊かな明るい未来を目指します。期日を守ってニコニコ返済ー」

 

 

と言い終えて借金を取り立てるわけです。その多くは社会的弱者で大手が手を出さないアンドロイド。このアンドロイドと人類の共生がこの物語に通底するテーマとなっています。

 

  それにしても僕の悲惨な目にあうことあうこと。たいていの場合、冒頭でぼくが悲惨な状況に置かれているところが提示され、そこから時間を遡って物語が始まる展開となっています。よくあるパターンではありますが、笑いとサスペンスが同居して実にうまい。

 

スペース金融道(Chain of Responsibility)」では、宇宙ステーションの事故現場までユーセフに引っ張っていかれ、最後は二番街一の大物の500年前の債権取り立てに付き合わされ、

 

スペース地獄篇(The Composited Inferno)」ではユーセフに無理矢理注射を打たれてサイバースペースまで取り立てに行かされ、戻ってきたと思えば地獄(アビス)へ道連れ、

 

スペース蜃気楼(Factory of Nothing)」では、冒頭どこかのカジノでぼくは<心肺>を賭けなければいけないほど追い詰められ、

 

スペースサンゴ礁(Memento Caretaker」ではぼくが「ミトコンドリア病」にかかってしまい別人格に乗っ取られてこともあろうにユーセフに借金をするわ、憧れの女性教授リュセにセクハラメールを送りまくるわ。。。

 

スペース決算期(to Bridge Everything)」この書き下し終章にいたっては、大統領ゲベィエフ二選の奸計のためにユーセフからアンドロイド排他主義人間原理党>党首に無理矢理させられてアンドロイドたちから白眼視され行動が逐一ウェブで報道されてしまいろくに外食も出来ません。

 

  そんなこんなの窮地を何とか切り抜けるさまが面白おかしく語られるわけですが、不思議な植物や不思議なサンゴ礁や、アンドロイドの新三原則や動植物との婚姻関係などなどのSFガジェットもいたるところの散りばめられており、なかなか面白い読み物となっていました。残念ながら経済学の分野は半分も理解できませんでしたが(これでも見えを張ってる)、それでも十分楽しめます。

 

人類が最初に移住に成功した太陽系外の星―通称、二番街。ぼくは新生金融の二番街支社に所属する債権回収担当者で、大手があまり相手にしないアンドロイドが主なお客だ。直属の上司はユーセフ。この男、普段はいい加減で最悪なのに、たまに大得点をあげて挽回する。貧乏クジを引かされるのは、いつだってぼくだ。「だめです!そんなことをしたら惑星そのものが破綻します!」「それがどうした?おれたちの仕事は取り立てだ。それ以外のことなどどうでもいい」取り立て屋コンビが駆ける!新本格SFコメディ誕生。(AMAZON)

 

彼女がエスパーだったころ / 宮内悠介

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  ポスト伊藤計劃として注目され、今や日本を代表するSF作家となっておられる宮内悠介さん。以前「人工知能の見る夢は」というアンソロジー集でショートショートを読んだだけだったのですが、最近efさんが精力的にレビューされておられるので気になっていました。

 

  で、そろそろ手を付けてみるかと思い、まずはefさんのレビューが印象的だった「彼女がエスパーだったころ」を選んでみました。2016年の作品で、直木賞候補となり、吉川英治文学新人賞を受賞しています。

 

  六編からなる短編集ですが、期待していたSF風味には乏しく、むしろミステリ・サスペンス小説という印象を受けました。

 

  どの作品も語り手はある「記者」で、取材の過程で対象に深く入り込み過ぎて自らも転落し病んでいき、第二作に出てきた墜ちた「美しすぎるエスパー」と最後の事件で再び関わり合いになることにより立ち直っていく、という構成になっています。

 

  共通するテーマはご本人があとがきで述べておられるように「疑似科学」です。具体的に言うと、

 

百匹目の火神 ( The Blakiston Line ): シンクロニシティ

彼女がエスパーだったころ ( The Discoverie of Witchcraft ) : 超能力

ムイシュキンの脳髄 ( The Seat of Violence ): ロボトミー

水神計画 ( Solaris of Words ): 気や念による水の浄化

薄ければ薄いほど ( Get Ready for the Remedy ): 終末医療ホメオパシー

沸点 ( The Buddhing Point ): アルコール依存症治療団体の偽治療(ティッピングポイント

 

ということになります。頭から否定はできないが犯罪スレスレの場合もある、扱いのとても難しい問題ばかりですが、著者は巻末の参考文献を見てもわかるように多くの文献を読み込んでできる限りのニュートラルな立ち位置で切り込んでおられます。

  私の専門分野である脳外科手術や終末医療だけをとってみても、かなり正確でよく勉強されているな、と思いました。

 

  残念だったのは全体的に雰囲気が暗く、文章が硬いこと。記者の視点ということである程度やむを得ないとは思いますが、随所に散りばめられているシニカルなユーモアも全体的なトーンに引っ張られてあまり効いているとは思えませんでした。

 

  完成度は高いのにちょっと楽しみきれなかった、というのが率直な感想です。

 

  それでも、暗い物語の中にも

世界は酷薄なのに、そのくせ、腹の立つことに存外に優しい

という世界観でほんのりと光明が見える展開にしてあるところは作者の人柄も感じさせてくれ良かったと思います。特に最終話のラスト、レニングラードの記者の眼前に美人過ぎるエスパーがテレポートで現れるところは素晴らしかったです。

 

  個々の物語についてはefさんが上手くまとめておられますので、屋上屋を重ねることはやめておきます。個人的には「百匹目の火神」の「猿が火を起こすことを覚えたら」というテーマが秀逸だと思いました。これをテーマにしてもっと壮大な長編SFを書いて欲しいなと思うのは、本書における宮内氏の実力をみれば、決してないものねだりではないと思います。

 

  また、読むのが楽しみな作家を見つけられたのは嬉しいです。これからもぼちぼちとレビューしていきたいと思います。efさんによると抱腹絶倒の面白い作品もあるそうなので、次はそっちにいってみたいです。

 

スプーンなんて、曲がらなければよかったのに―。百匹目の猿エスパー、オーギトミー、代替医療…人類の叡智=科学では捉えきれない超常現象を通して、人間は再発見される。進化を、科学を、未来を―人間を疑え。SFとミステリの枠を超えたエンターテインメント短編集。吉川英治文学新人賞受賞作。 (AMAZON 解説)

 

時代へ、世界へ、理想へ 同時代クロニクル2019→2020

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  私が尊敬してやまない孤高の作家高村薫女史の新刊である。今回は小説ではなく評論集、週刊サンデー毎日誌の「サンデー時評」に2019年1月から2020年3月まで掲載された時評の単行本化である。  歯に衣着せぬ高村薫女史のこと、帯からして煽ること煽る事。

 

破局を見つめ、希望を取りかえせ。

政治腐敗は極を越え、社会システムは破綻寸前。ウィルスが、災害が、気候変動が、 地球環境から個人の肉体、精神までおびやかす。人倫の軸が揺らぐ、かつてない時代2019→2020を、理想を手放さぬ作家の幻視力が見透かす。根底的な思考による、よりよく今を生きるための時評集。

 

  内容も一言で言えば激越、読み終えて暗澹たる気持ちになった。

 

  日本は経済大国と言われた最盛期を過ぎ、少子高齢化と人口減少により国力は衰退の一途をたどっていて最早回復は望めない。

 

  政治は無策と腐敗の極みにあり、誰一人責任を取ろうとしない。1000兆円を越える借金を抱えながらも、繰り返される大災害の復興のため財政出動を繰り返し、この状況が続けば必ず日本経済は破綻する。

 

  世界はGAFAに牛耳られ、アメリカは良識のかけらもない男が3年も政権を握り世界をおもちゃにし、中国の台頭は民主主義社会を揺るがす。

 

  どんなにCO2排出を規制しようと世界は動いてももう地球温暖化に歯止めはかからない。

 

  私たち庶民が漠然と感じてはいても、日々の多忙に流されて敢えて触れずにいる日本の、世界の傷口を高村女史は遠慮なく抉る。

  高村女史のモットーは「いかなるイデオロギーにも与しない」だが、さすがにこれだけ安倍政権批判(否定)をサンデー毎日という媒体で繰り返せば「左翼(今風に言えばパヨクか)」のそしりを免れないとは思う。

  しかし、問題なのは左翼であろうが右翼であろうが、否定のしようのない「事実」を徹底的に検証した結果がこの時評集だということだ。

 

  それにしても、日々溢れかえる情報の洪水に何と多くの未解決の問題が流し去られ、忘却の彼方に消え去っていることか。

  辺野古問題しかり、日産という企業の失態と傲慢な逃亡者しかり、日韓問題しかり、原発事故しかり、風水害しかり、モリカケしかり、東京オリンピック問題しかり、、、

 

  これだけ山積みの未解決の課題が残されている上に、今回の新型コロナ禍である。さすがの女史も今の猛威を予言しえていない。

 

  それでなくても日本はあと2,3年で沈みゆく運命だったことがこの時評をよめばわかる。1000兆円以上の赤字国債はデフォルトを免れ得ないと思わせる数字だが、今回の新型コロナ対策の100兆円規模の緊急対策はそのとどめを刺すかもしれない。

 

  こんな政権を許したのは、国民の無関心と好きな情報しか見えないSNSの台頭である。もう手遅れかもしれないが、この書を読むことでこの流れにせめても逆らおうではないか。

 

  高村薫ファンには嬉しい、高村節健在を示す文章を二つだけ抜粋しておこう。

 

   あなたは、生産性と称して少ない数の従業員を酷使するような旧態依然の企業に未来があると思うか。地域の未来をカジノにかけるような自治体に住みたいと思うか。子どもの教育費や住宅ローンがあるから現状に耐えるしかないというのは、ほんとうにそうだろうかー(p29)

 

 

  私たちがグレタ・トゥンベリを通して幻視する異形とは、過酷な気候変動の下で生存の危機にさらされた未来の人類の姿である。かつてないほど低劣で傲慢な指導者があふれかえる今日の世界で、その対極に突然舞い降りた少女は、しかし救世主ではない。(p177)