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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

MISSING 失われているもの / 村上龍

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  私の世代には絶大な影響力のあったW・MURAKAMIの一人村上龍の、 「オールド・テロリスト」以来5年ぶりの長編となります。

 

  1976年の衝撃のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」以来、殆どの小説につきあってきましたが、今回は本当に驚きました。

 

  これほど内省的な龍の作品はおそらく初めてだと思います。

 

  以前「MURAKAMI―龍と春樹の時代」で龍と春樹を比較検討したことがありましたが、二人は時代を代表する作家で同姓でありながら全く対照的な作家です。

 

  村上龍の関心は常に時代とともにあり、外界に向かい、その文章はリアルで歯切れがよくかつ断定的で、作家としての自信に満ち溢れていました。

 

  一方の村上春樹はつねに「僕」の内面を見つめ続け、内省的でメタファーを多用しどこか曖昧模糊として敢えて断定調を避けた文章で読者を魅了してきました。

 

  そんな龍がこれほど自己の内面を見つめる作品を書くとは本当に驚きです。「龍流私小説」と言ってもいいでしょう、彼はそういう類の小説が大嫌いではなかったかと訝りつつも、さすがの筆力に引き込まれてあっという間に読んでしまいました。

 

    彼の文章を借りれば、

 

成功した作家は、昔の辛い日々を思い出す

 

のです。

 

  とにかく最初から最後まで悶々とした独白が延々と続きます。

 

  それも猫と女に誘導されるがままにはまりこんだ、

 

この世とあの世の境目のような、

 

現実と虚構のはざまで、

 

覚醒と睡眠の境界のような

 

どことも説明のつかない場所で、

 

抑うつと不安に苛まれながら、

 

自己の意識の中の母と語り合いながら、

 

知る筈のない母の記憶をたどり、

 

自分の記憶を掘り起こし、

 

母という他者から自己を見つめなおし、

 

母の父や自分への思いを知る。   

 

自分が知るはずのない母の記憶が何故蘇って来るのか、

 

母が知り得ないことを何故私に語りかけてくるのか、

 

自分はまだ生きているのかもう死んでいるのか。

 

  とめどもなく呼び起こされる記憶は、時には飛躍し、時には同じことを何度も何度も繰り返し、今までの龍では考えられないほど非論理的で観念的。

 

  しかしそれが決して苦痛ではなく、龍が撮りためた

 

母や自分や父や花や百日草や銀杏や犬や廊下やエスカレーター

 

などなどの興味深い写真の提示もあり、グイグイと読む者を引っ張っていきます。

 

  まだ出たばかりなので具体的な内容には敢えて踏み込まないでおきますが、龍の両親(特に母)の出自、龍の幼少時からあの衝撃的なデビュー作を書くまでの諸相、それらをこれほど赤裸々に告白した小説を読めたのは収穫でした。

 

  また、実際彼が大スランプに陥った時期があったのは周知の事実ですが、その時の混乱と不安はこうだったのかな、と思わせる終章には痛々しささえ覚えました。

 

  まあ、龍はあくまでも小説、フィクションだと嘯くでしょうが。。。

 

  あえて注文を付けるとすれば結末。龍にしてははっきりとしない終わり方でファンとしてはやや不満。まあその点を差し引いても☆4つは捧げたい驚きの新作でした。

 

  ちなみに本当のお母さんはあのあっけらかんとした青春小説「69 sixty nine」が大好きで何度も読み返しておられるそうです。

 

 この女優に付いていってはいけない──。 主人公の小説家は、なぜ「混乱と不安しかない世界」に迷い込んだのか? 予兆はあった。彼は制御しがたい抑うつや不眠に悩み、カウンセリングを受けていたのだ。 そして一人の女優が迷宮の扉を開け、小説家は母の声に導かれ彷徨い続ける……。(AMAZON解説)