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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

猫を捨てる 父親について語るとき / 村上春樹

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   先日紹介した村上龍の新作「MISSING」では、龍が初めて母の歴史を語っていましたが、この最新エッセイでは村上春樹がついに不仲だった父について重い口を開いています。

  あとがきで彼自身も語っていますが身内のことを書くのはけっこう気が重いことですし、やはりある程度の年齢に達して、ある程度達観しないと書けないものだと思います。

  かたや靄のかかったような幻想的な小説の中(龍)、かたや短い随筆の中での誠実な文章(春樹)での追想、という個性の違いは歴然としているものの、長年二人の作品に付き合ってきた読者としてはダブルMURAKAMIもそういう年齢に達したのだなという感慨がありました。

 

 子供の頃父と二人で海岸に猫を捨てに行ったら、自転車で往復した自分たちよりも早く家に帰っていた、という卑近なエピソードから始めて、父のひととなり、戦時体験とそのトラウマ、そして私との関係と順を追って重い問題にシフトしていくという随筆の基本と言うべき作法で語る。

  このあたりは「職業としての小説家」として誠実に仕事をこなす村上春樹らしいなと思います。ご本人は

どんなところからどんな風に書き始めれば良いのか、それがうまくつかめなかった

とおっしゃってますが、冒頭のエピソードはねじまき鳥クロニクルの猫ワタヤ・ノボルを思い出させますし、多少は戸惑ったにせよプロ中のプロの彼のこと、初めからある程度頭の中では出来上がっていたはず。

 

  ファンの間では長らく作品中での「父の不在」、実生活での父の不仲・確執は以前から語られていた事で、特に「1Q84」に於ける主人公天吾と父親の物語は村上春樹と実父に重ね合わせられていました。

  それについて彼もいつかは語らなければいけないと思っていたのでしょう。その語り口はいつもの彼独特の文体で柔らかく誠実なものですが、語り尽くそうという決意は見て取れます。

 

  出たばかりですし内容については敢えて語りませんが、終盤の

  我々親子は広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴にすぎないが、 一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという雨水の責務がある。

という彼にしては決然とした文章は、彼のこの随筆にかける強い思いが伝わってきてさすがにジーンとくるものがありました。

 

  短い随筆ですが、台湾人イラストレータGAO YANさんの昭和レトロ風の挿絵も素敵ですし、ハルキストをやめたはずの私も久々に楽しませていただきました。ジモティには今では信じられないような昭和30年代の夙川から香櫨園浜あたりののどかな情景描写も嬉しかったです。

 

  最後に結構ズシンときた、春樹らしい文章を一分だけ抜粋。

人には、おそらくは誰にも多かれ少なかれ、忘れることのできない、そしてその実態を言葉ではうまく人に伝えることのできない重い体験があり、それを十全に語りきることのできないまま生きて、そして死んでいくものなのだろう。

 

時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがある ある夏の日、僕は父親と一緒に猫を海岸に棄てに行った。歴史は過去のものではない。このことはいつか書かなくてはと、長いあいだ思っていた―――村上文学のあるルーツ (AMAZON解説より)