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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 11 / マルセル・プルースト

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  「失われた時を求めて」第五篇「囚われの女」も後半に入ります。まずは本篇の構成をおさらいしておきます。恋人アルベルチーヌの同性愛疑惑に駆られた「私」が、避暑地バルベックからパリに彼女を連れ帰り、自宅に半幽閉状態にした秋から春までが語られるのですが、流れとしては大体下記のようになります。

 

・ パリでのアルベルチーヌとの同棲の日々

   シャルリュス、モレル、ジュピアンの近況

   ゲルマント公爵夫人の近況

・ 作家ベルゴットの死 (以上第10巻)

・ スワン氏の死

・ パリのヴェルデュラン家訪問、壮大な夜会

   ヴァントゥイユの崇高な七重奏曲

   シャルリュス氏の追放

・ 再びアルベルチーヌとの日々

・ アルベルチーヌの出奔 (以上第11巻)

 

  前巻の最後で偉大な作家ベルゴットフェルメールの名画「デルフトの風景」の前での劇的な死を描いたプルーストですが、その余韻が冷めない本巻冒頭においてまたもや本作屈指の主要登場人物スワン氏の訃報を挿入してきました。

 

  「挿入」と書きましたが、訳者の吉川氏によりますとこの二人の死は元原稿にはなく新たに挿入されたものなのだそうです。そして二人にそれぞれ絵画をオマージュとして捧げているのですが、ベルゴットにはスワン氏の研究対象だった偉大な画家フェルメールをあてがっておきながら、そのスワン氏にはティソの「ロワイヤル通り」という社交人士の集団肖像画というあまり芸術的価値のない絵画を捧げたのみ。

 

  吉川氏はこの絵の対比を“社交と芸術、時間と永遠をめぐる対照的な主題”であると捉えておられます。晩年は病に苦しんだベルゴット、晩年の不幸が語られていた偉大な音楽家ヴァントゥイユ、本巻で死が示唆されている画家エルスチール、この物語における主要な芸術家三人は現世では恵まれてはいなかったもののその作品は永遠に残る、一方現世の成功者で芸術の良き理解者スワン氏であっても死後の命運ははかない。ということをこの二枚にプルーストは託したのだろうと。その社交と芸術、時間と永遠をめぐる思惟は最終章まで持ち越されることになります。

 

  もう一点だけ脱線しておくと、「私」が亡きスワン氏を偲んで、珍しく大上段に振りかぶってこう呼びかける場面があります。

親愛なるシャルル・スワンよ、私はまだ若造で、あなたは鬼籍に入る直前だったから、親しくつきあうことはできなかったが、あなたが愚かな若輩と思っておられたに違いない人間があなたを小説の一篇の主人公にしたからこそ、あなたのことが再び話題になり、あなたも生きながらえる可能性があるのだ。(p27)

 

これは驚きです。小説とはこの「失われた時を求めて」、「一篇」とは間違いなく第二巻の前半「スワン氏の恋」のことで、この部分は明らかに作者マルセル・プルーストがスワン氏のモデルとなったユダヤ人で当時社交界の花形であったシャルル・アースに呼びかけているのです。

 

  前巻で述べたように「囚われの女」以降はプルーストの死後に出版されました。最終章「見出された時」に至るまで彼は自身を表には出さないつもりだったのでしょうが、抑えきれない強い思いが筆を滑らせ、それが校正しきれず残ったということなのでしょう。

 

  さて、本巻の前半は長い長いヴェルデュラン家の夜会で占められます。その中核をなすのが、ヴァントゥイユの未発表の七重奏曲の初演。これには「ソドムとゴモラ」の面々が深く関わっています。

 

・ 晩年のヴァントゥイユを苦しめ、さらにはその同性愛現場を見てしまった「私」の心のトラウマとなった、ヴァントゥイユの娘とその女ともだち。この女ともだちが自責の念から彼の未発表メモを掘り起こしたのがこの七重奏曲

・ ホモ男爵シャルリュス。夜会をヴェルデュラン夫妻を差し置いて企画し招待客まで決め、大成功させたはいいがその傍若無人ぶりから夫妻の激しい怒りを買い策略によって追放されてしまう

・ シャルリュスの愛人であるヴァイオリン奏者モレル。七重奏曲の花形で一躍脚光を浴び、ヴェルデュラン夫妻の計略に自ら乗ってシャルリュス氏と訣別する

 

  このように有象無象の「ソドムとゴモラ」は登場しますが、そんな吉川氏曰くの「悪徳の世界」を越えて物語を止揚しているのが架空の傑作「ヴァントイユの七重奏曲」です。第二巻に登場したスワン氏とオデットの“愛の国歌”であった「ヴァントゥイユのソナタ」と対を成しており、その描写の見事なこと!

  プルーストが心酔していたベートーベン弦楽四重奏曲フランク交響曲ニ短調シューマンの「子供の情景」「ウィーン 謝肉祭の道化」間奏曲など様々な楽曲の部分部分をイメージしつつ構築してあり、プルーストの天才ぶりが遺憾無く発揮された、本作でも屈指の名場面となっています。

 

  このように、本巻はとりわけ彼の芸術論が際立っており、前半ではこの音楽論が、後半では「私」がアルベルチーヌに語る文学論(バルベー・ドールヴィイ、トマス・ハーディ、スタンダールドストエフスキー等)が、ストーリーとは別に物語の骨格を形成する双璧をなしています。最初に述べたプルーストの「作者を超えて芸術は永遠性を獲得する」というテーゼが最終篇を待たずして横溢してきた印象を受けます。

 

  もちろんここに至るまで諸所で少しずつ語られてはいたことで、もっと遡るならば、そもそもこの物語を書く発端となった、作品の中に作家の人生を読み取ろうとするサント=ブーブの思想への反論であった「サント=ブーブに反論する」の論旨でもありました。

 

  そういう意味ではこの篇は「ソドムとゴモラ」という現実界の「悪徳」と抽象界の「芸術」が併存しせめぎ合う、プルースト文学の最大の魅力を放つ部分なのかもしれません。

 

  さてさて、その荘厳な演奏が成功裡に終わった後の人間喜劇。

  自分が主催者の如くにはしゃぎ回り、挙句の果てに「私」やブリショに古今東西の王侯貴族や有名人の「ソドムとゴモラ」についての蘊蓄を語りまくるシャルリュス男爵と、彼にすっかりコケにされ激怒したヴェルデュラン夫人がこのホモ男爵を追放すべくモレルとの分断を図るあたりのドタバタ喜劇は、音楽の高尚さと「どいつもこいつも」な現実の人間の低俗さが見事な対比をなしていて、読むのが苦しい本作にあって屈指の躍動感に満ちています。

 

  読んでのお楽しみというところですが、一点だけ、シャルリュス氏がスワン夫人オデットの本性について語る場面に触れておきます。

  冒頭訃報が伝えられたスワン氏とオデットの恋は第二巻「スワン氏の恋」で語り尽くされましたが、実は知り合う前のみならず結婚後もオデットは手当たり次第ともいうべき肉体関係を様々な男たちと持っていたことが彼によって明かされます。前巻で登場した貧乏貴族クレシーもそのうちの一人に過ぎなかったようです。

 

  このスワン氏とオデットの関係と対をなすのが、「私」と謎の女アルベルチーヌ。

 

  アルベルチーヌを「囚われの女」にして、前巻では煩悶しながらもしっかりと性愛に耽っていた「私」ですが、本巻後半ではひたすら彼女の同性愛疑惑と嫉妬で苦しみ、つなぎ止めておこうとして母に叱られるくらいに散財し、挙げ句の果ては彼女のせいで憧れのヴェネツィアへも行けない、と立場は見事逆転して自らが「囚われの男」状態に。 私にとってアルベルチーヌはとの生活は、

 

一方で私が嫉妬していないときは退屈でしかなく、他方で私が嫉妬しているときは苦痛でしかなかった。たとえ幸福な時があったとしても、長続きするわけがなかった。(中略)これ以上ひき延ばしてもなにも得られないと悟った私は、アルベルチーヌと別れたいと思っていた。(p 469−470)

 

 

 

と、もう「どないやねん」状態に。そんな気分のぶれまくる「私」を通してしかアルベルチーヌは描かれないので、本当に嘘つきなのか、同性愛(私ともしっかりやっているのでバイセクシャルということになりますが)者なのか、判然としないままここまで話は延々と続いてきました。

  しかし、本巻において彼女がうっかり口を滑らせた

 

割ってもらえ・・・・・。(p335)

 

という言葉。これは男であればワギナを、女であれば肛門を割ってもらう(これが「壺を割る」)という意味での性行為を意味するようです。そして次から次へと出てくる女性同性愛者とことごとく知り合いである(あのスワン氏の娘ジルベルトまでも!)ことなどから、どうもバイセクシャルなのは間違いないよう。

 

  そして彼女が大人しく「私」に従ってパリについてきたその裏にある真相が明らかとなり二人は大喧嘩、仲直りはするもののこの時点で決定的な亀裂ができたことは間違いないと思わせます。案の定“アルベルチーヌに無関心”になったと「私」が油断していたある朝、女中頭フランソワーズからアルベルチーヌが早朝荷物をまとめて出ていったと聞かされ、愕然とします。

 

私の手は(中略)、一度も経験したことのない冷や汗でぐっしょり濡れ、私はこんなことしか言えなかった、「ああそうかい、ありがとう、フランソワーズ、もちろんぼくを起こさなくてよかったんだよ。しばらく一人にしてほしい、あとで呼ぶから。」(p514)

 

  そんなことなら同性愛疑惑なんかほっといてもっと大事にしてやればよかったのに、と苦笑するほどの「私」の動揺ぶりを最後にさらっと描いて本篇は終了。次篇「消え去ったアルベルチーヌ」に続きます。

 

ヴェルデュラン邸での比類なきコンサートを背景にした人間模様。スワンの死をめぐる感慨、知られざる傑作が開示する芸術の意味、大貴族の傲慢とブルジョワ夫妻の報復。「私」は恋人への疑念と断ち切れぬ恋慕に苦しむが、ある日そのアルベルチーヌは失踪する。