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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 9 / マルセル・プルースト、吉川一義

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   マルセル・プルーストの「失われた時を求めて岩波文庫版も第9巻に入ります。サブタイトルは「ソドムとゴモラ II」で、後半第二、三、四章が収められています。

 

  舞台は前巻に引き続き避暑先であるノルマンディー地方ですが、ホテルのあるバルベックから舞台はヴェルデュラン夫妻が借りた海を見下ろす別荘のあるラ・ラスプリエールと、そこへ向かう小鉄道に移ります。

 

  ヴェルデュランというのはまた懐かしい名前です。そう、第二巻「スワン家のほう II」においてスワン氏とオデットが付き合う場所となったのがパリのヴェルデュラン夫妻のサロンでした。

 

  「私」の生まれる前、まだプチブルに過ぎなかった夫妻のサロンは「社交界」とまで陰口を叩かれ、ゲルマント家をはじめとする貴族階級からは歯牙にもかけられなかったのですが、芸術サロンとして20年間歩みをとどめることなくのし上がり、栄誉栄達にあぐらをかいて風前の灯火になりつつあった貴族階級を凌駕するところまで来ていたのでした。

 

  本巻の舞台となるラ・ラスプリエールの別荘も、これまたお馴染みの地元貴族カンブルメール家から借りているのですが、ヴェルデュラン夫妻は田舎貴族など恐れるに足りずという態度を貫いており、カンブルメール侯爵夫妻との丁々発止のやり取りが前半の一つのハイライトとなっています。

 

  では、このヴェルデュラン夫妻の「少数精鋭」の芸術サロンが、「私」をうんざりさせた、ついでに言えば、わたしたち読者をもその長さ退屈さで散々うんざりさせた、ヴィルパリジ夫人・ゲルマント公爵夫妻・ゲルマント大公夫妻のサロンより格段に優れているのかと言えば、さにあらず!

 

  夫妻は20年前と変わらず底意地が悪く、メンバーのコタール医師夫妻、ソルボンヌ教授ブリショ、古文書学者サニエットと言った懐かしのメンバーたちも昔と変わらずプライドは高いものの退屈で小心者ばかり。このあたりの「人間喜劇」ぶりが本巻の最大の読みどころとなっています。

 

  訳者の吉川氏も指摘しておられますが、「失われた時を求めて」は決してとっつきにくくて難しい高尚な内容ばかりではなく、今回のような「喜劇」の面も持ち合わせているのです。

 

  さてその高級サロンに今回ずかずか入り込んでくるのが、そう、あのホモ男爵シャルリスです。お目当てはサロンにヴァイオリン奏者として呼ばれたモレル

 

  実はこのモレル、これまでも何回か登場しているのですが「私」の大叔父の従僕の息子です。その身分のことで私や上流階級にコンプレックスがあり、平身低頭して身分のことを黙っておいてほしいと頼み込み、それを「私」が承諾するや否や態度がでかくなる、というこれまた性根の腐った男なのですが、なんせ美貌の持ち主なもので、シャルリュスさん一目惚れ。彼目当てでヴェルデュラン夫妻のサロンへ入り込みます。

 

  最初はおどおどしていたものの、芸術に関しても階級にしても自分が優位に立つや、貴族としての自尊心や持ち前の傲慢な性格の本性があらわになっていきます。前半では自分も素養のある音楽、後半ではバルザックをはじめとする文学論などで「少数精鋭」や「私」を圧倒してしまいます。

 

  しかし、中身はなよっとした「男=女」のシャルリュスさん、結構モレルには振り回され、サロンでは陰口をたたかれ、モレルの浮気相手を探すべく高級娼館でのぞきをしようとして散々な目にあい(実はこの時のモレルの浮気相手はあのゲルマント大公なのですが)、果ては気を引こうと「決闘」まで仕組むほど。

 

  いやはや、この長大な物語の中でも格別キャラの立った人物であることは間違いないですね。同性愛者だったプルーストのこと、彼にも自らを投影しているのでしょう。

 

  さてさてそのような貴族とブルジョアとホモたちに取り囲まれつつ、あまりの浪費ぶりを母に注意されながらも二度目の避暑地を満喫している「私」。その行状や性格はあいかわらず褒められたものではないのですが、どういう訳か周囲の人から気に入られています。

  今回チョイ役で出てくる極貧貴族クレシー男爵もその一人。そう、スワン夫人オデットは以前オデット・ド・クレシーと名乗っていました。彼女とこの男の関係は次巻以後で明らかとなるようです。

 

  そしてなによりも目下の恋人アルベルチーヌ。彼女をものにしてからは好きに振り回し、「従妹」としてサロンに連れて行き、もう飽きて結婚する気もなくなったころから逆に性愛に溺れと、やりたい放題。

 

  最終第四章冒頭で母に「結婚しない決心をした」と告げ、アルベルチーヌにも嘘八百で別れを持ちかけ、一旦は成功したように見えたのですが、アルベルチーヌの一言

 

で!そのお友だちなんだけど、これが、なんと不思議なことに、どんぴしゃり、そのヴァントィユって人のお嬢さんの親友なのよ、それで、あたし、ヴァントィユのお嬢さんのほうもよく知ってるわけ。

 

で、封印されていた忌まわしい記憶、そう子供時代モンジュヴァンでのぞき見してしまったヴァントイゥユ嬢と親友の同性愛行為(第一巻「コンブレー」)が蘇ってしまい、アルベルチーヌの同性愛を再び悶々と疑い始めます。

 

  それからの「私」の嫉妬と動揺は、これまで好き勝手してきて彼女との結婚を愚の骨頂とまで思っていたことを知っている読者から見れば「ざまぁ」感が否めませんが、ついに最後の最後、「私」は母に一大決心を伝えます。

 

  と、大筋はそんなところで、この時代はまだフェミニズムも何もあったもんじゃなかったんだな感が強かったです。

 

  そしてプルーストさん、相変わらずフランス語やその語源、間違い、地口などなどに関する執着ウンチクをワンサカ盛り込んでいるので、 ホント、吉川先生大変だな というくらい注釈だらけです。特に第二巻の「土地の名・名」において夢想して楽しんでいたノルマンディー地方の土地名をブリショ教授がこれでもかというくらい解説するあたりはノルド語も入ってくるのでホントしんどい。

  「コンブレー」を乗り越えた読者が挫折するのが「ゲルマントのほう」と「ソドムとゴモラ」というのもうなづけます。

 

  一方、演劇音楽文学絵画芸術に関するプルーストの蘊蓄は本当に大したものだと思います。そのあたりは次巻でさらに凄くなるらしいです。

 

  そしてノルマンディー地方の自然の描写はさすがプルーストと言うべき色彩感覚に溢れ、思わずググって画像を探してしまうほど素晴らしいです。そして特筆すべきは前回と今回の心象風景の違い。例えば自動車という文明の利器の登場により、地理感覚・距離感覚が全く別物になってしまったという感慨を述べるあたり、中盤の読みどころとなっています。

 

  さて、次巻はいよいよプルースト死後刊行された「囚われの女」に入ります。舞台はパリに戻りますが、主人公に翻弄されるアルベルチーヌの運命や如何に?

 

 ヴェルデュラン夫妻が借りた海を見下ろす別荘と、そこへ向かう小鉄道で展開される一夏の人間喜劇。美貌の青年モレルに寄せるシャルリュス氏の恋心はうわさを呼び、「私」の恋人アルベルチーヌをめぐる同性愛の疑惑は思わぬ展開を見せる。

  シャルリュスと青年ヴァイオリン奏者のソドム的関係。その一方で描かれるゴモラのテーマ。アルベルチーヌの同性愛を疑う「私」の嫉妬と動揺。彼女からヴァントゥイユ嬢とその女友達と深くつながっていることを告げられた「私」は激しい苦悩をおぼえるが、にわかに彼女と結婚しなければならないとの思いに駆られる。 (AMAZON解説)