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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 8 / マルセル・プルースト、吉川一義

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  20世紀フランス文学の記念碑的大作「失われた時を求めて」もいよいよ後半、第四篇「ソドムとゴモラ」に入ります。ってか、これだけ読んできてまだ折り返し地点なのか、と思うと気が遠くなりそうなんですが。。。

 

  題名の「ソドムとゴモラ」は皆さんよくご存じの通り、聖書に登場する悪徳と罪業の都市です。そして本作では冒頭に

    天の劫火から逃れたソドム民の末裔たる男=女族の最初の出現。

 

   女はゴモラを持ち、男はソドムを持つだろう。(アルフレッド・ド・ヴィニー)

 と注釈が入っているように、ソドムは男性同性愛を、ゴモラは女性同性愛を表わしています。

 

  具体的に言えば、「ゲルマントのほう」で奇矯な振る舞いで強烈な印象を残したシャルリュス男爵が男性同性愛の代表格、そして私の目下の恋人であるアルベルチーヌに同性愛疑惑が持ち上がります。

 

  ただ、本巻で延々同性愛が描写され続けるわけではありません。むしろ拍子抜けするくらい少ないといってよいでしょう。なにしろ「無意識的記憶」によって不意にいろいろな思い出がよみがえるという主題で貫かれている作品ですから、本巻も様々な話題が次から次から出てきます。

 

  もちろんプルーストは周到に計算はしているわけで、本巻の構成を大筋で整理してみますとこうなります。

 

I

・ シャルリュス男爵と仕立て屋ジュピアンのゲルマント公爵邸中庭での出会いと情事 ・ 同性愛考察

II

第一章

・ ゲルマント大公邸の夜会

・ ドレフュス事件に関するスワンとゲルマント大公との和解

・ アルベルチーヌの深夜の来訪

・ 社交界の主人公交代の予感(貴族からプチブルへ)

心の間歇

・ バルベック再訪

・ 祖母の思い出と悲嘆

・ アルベルチーヌとの官能の日々

第二章

・ アルベルチーヌとアンドレの同性愛疑惑

・ カンブルメール夫人と若夫人との芸術談義

・ アルベルチーヌへの疑念の鎮静

・ ブロックの妹や従妹のあからさまな同性愛

・ アルベルチーヌへの疑念の再発

 

  中盤の芯となるゲルマント大公邸の夜会を挟んで前半にソドムを、後半にゴモラを配置する巧妙な構成となっていることが分かります。

 

  本書でプルーストは同性愛についてダーウィンメーテルランク等の植物学的な知識まで応用しその薀蓄の限りを尽くして考察しています。

  ただ、プルースト自身が同性愛者であったにもかかわらず、その筆致は同性愛に対して否定的であり、批判的です。これに関しては訳者の吉川氏の詳細な考察がありますが、当時同性愛を文学に著すだけでも大変なことであり、作者としてそういう態度をとらなければ出版できない、と言った裏事情もあったことと推察されます。

 

  とにもかくにもシャルリュス男爵とジュピアンの情事を

その音は騒々しく、あとにかならず一オクターブ高いうめき声が聞こえてこなかったら、私はすぐそばで男がもうひとりの男の首をかき切っているいるのではないか(中略)と思ったことであろう。

と「私」が描写したり、アルベルチーヌとアンドレのダンスをみたコタール医師が

あのふたりは間違いなく絶頂に達していますよ。あまり知られていませんが、女性はなにより乳房で快楽を感じるものなんです。ほらあのふたりの乳房がぴったりとくっついているでしょう。

と表現したりすることは当時では大変なことだったと思われます。吉川氏も本書が表現と理論双方を著した嚆矢であると書いておられます。

 

  そしても一つのタブーはユダヤ人差別問題。当時のドレフュス再審の流れを読んでゲルマント大公がそつなく親ドレフュス派に鞍替えし、親ドレフュス派を標榜したが故に疎んじられていたスワン氏と和解します。

 

  大貴族も政治や人種差別に無関心ではいられなくなった当時の世相が興味深いところですが、もう一歩踏み込んでプルーストは、この時期が反ドレフュス派貴族の没落と、親ドレフュス派プチブル台頭の転換点であったことを示します。

 

  そう、ここまでヴィルパリジ夫人ゲルマント公爵夫人オリヤーヌゲルマント大公妃マリーと三つもの貴族の大夜会を延々と描いてきたプルーストでしたが、なんと大公妃邸での夜会が終わったばかりの時点でもう

オリヤーヌのサロンは栄誉栄達にあぐらをかいて風前の灯火になりつつ

あること、懐かしのプチブルスワン家のほう」に出てきたヴェルデュラン夫人のサロン、そしてスワン夫人オデットのサロンが勢いを増している様をディアギレフのバレエ公演などを交えつつ活写しています。

 

  政治と階級社会の変化を見逃さずいち早く作品に取り入れたプルーストはやはり先見の明があったと言えるでしょう。

 

  さてこのように同性愛とユダヤ人問題をとりあげ、大きな時代の流れを感じさせつつも、いっこうにぶれないのは「私」です。

  あいもかわらずのマザコン、グランドマザコンでバルベックに到着するや否や亡き祖母の記憶が蘇ってきて悲嘆のあまり寝込んでしまうかと思いきや、

   恩知らずでエゴイストで冷酷きわまりない性格でアルベルチーヌを何週間にわたっていじめ、それが迫害に極みに達した

 

かと思えば嘘八百で篭絡し、

  そのくせそのアルベルチーヌが同性愛者ではないかと悩み、

  その一方でバルベックで13人の娘とひとときの快楽に耽る。

 

  女中頭フランソワーズやホテルの支配人、リフト係等々の下の階級の言葉遣いの間違いを散々に揶揄する。

 

  もうやり放題(笑。

 

  でも文学芸術への造詣は深く、仲の悪いカンブルメール夫人と若夫人の双方を簡単に丸め込んで自分の崇拝者にしてしまう。

 

  まったくいけ好かない主人公ではありますが、これからも延々付き合っていきしょう。

 

  長文になってしまいましたので、文学音楽演劇絵画等々の芸術に関するプルーストの蘊蓄は今回は割愛します。一点、当時ショパンがどういう風に見られていたのかが興味深かったです。 

 

  次回「ソドムとゴモラ」後半に続きます。

 

聖書に登場する悪徳と罪業の都市ソドムとゴモラ。本篇に入り、いよいよ同性愛のテーマが本格的に展開される。無意志的記憶により不意によみがえる祖母への想い。祖母を失ってしまった悲しみの感情に私は改めて強くとらえられる(「心情の間歇」)。私は再会したアルベルチーヌに同性愛の疑いをいだき、不安を覚える。(AMAZON解説)