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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

逆説の日本史21幕末年代史編IV / 井沢元彦

⭐️⭐️⭐️

   井沢元彦の逆説の日本史、幕末年代史編もいよいよ大詰めに入った。前巻の大混乱期に続いて1865年から1869年まで、日本史史上最高の激動期で、薩長同盟の成立、四境戦争(第二次長州征伐)、大政奉還王政復古鳥羽・伏見の戦い慶喜遁走、江戸城無血開城上野彰義隊の壊滅、会津戦争、そして明治への元号改元明治天皇即位と息つく暇もないほどその後の日本を決定する大事件が連続する。

 

  このあたり「尊王攘夷」~「薩長同盟」~「明治維新」と事実の羅列だけで学ばせられる社会の教科書に沿っただけの授業では本当にわかりにくい。敵味方、攘夷開国が目まぐるしく変化するのを把握するのは中学生であった私には本当に難しかった、というか謎であった。それを助けてくれたのは司馬遼太郎先生をはじめとする幾多の小説群であったが、いまならこの井沢氏の本を読むのが一番合理的にかつ脚色なしにこの激動の時代を把握できるのではないかと思う。

 

  そしてこの間、前巻に引き続いて多くの著名人が死んでいる。一番の大物は高杉晋作坂本龍馬中岡慎太郎であろうが、一番気の毒なのは赤報隊相良総三であろう。薩摩に踊らされ、騙されたうえでの惨死はそれこそ祟りを恐れても不思議はないのだが、「卑怯者、陰険な」薩摩の西郷大久保にとっては何ほどのものでもなかったようである。

 

  高杉晋作については病死で間違いないのだが、今でも犯人探しが盛んなのは坂本・中岡の方である。これに関しては中岡慎太郎の証言や、後年の今井某の供述によりなどにより見回り組の犯行とされている。それでは面白くない人々がいろいろと推理するのだが、井沢氏の論旨は面白みはないが明快で説得力がある。それは読んでのお楽しみということで。

 

  今回敢えて不満を挙げるとすれば、銀英伝を読み終わったばかりでもあり、幕末のヤン・ウェンリーともいえる大村益次郎の戦術をもう少し詳細に語ってほしかった。

 

  巻末が近づくにつれ、井沢氏得意の怨霊祟り信仰が今回は出てこないのかなと心配していたが、最後にどんと出てきた。孝明天皇の死後跡を継いだ明治天皇であるが、実は践祚しただけで、明治に元号改元したのは、ほぼ日本の趨勢が「新政府軍」に決定した2年後の慶応4年8月27日である。その前日8月26日が重要。この日は逆説の日本史思想を貫く「大魔王崇徳院の命日なのである。このあたりの詳細を述べて、幕末年代史編は幕を閉じる。

  賛否両論はあれ、井沢氏のぶれない日本史観に基く、見事な締めであった。

『怒濤の「幕末年代史編」堂々完結! 『週刊ポスト』誌上で好評連載中の歴史ノンフィクション『逆説の日本史』。ペリーによる黒船来航から始まった「幕末年代史編」最終章が、満を持して文庫化されました。 長州の高杉晋作が正義派(討幕派)を率いて功山寺で挙兵した1865年から、翌年の薩長同盟成立を経て、大政奉還そして王政の大号令へ。そしてついに明治維新がなった1868年までの激動の4年間を詳説。「高杉晋作は本当に“長州絶対主義者”だったのか?」「“犬猿の仲”であった薩長を接近させた坂本龍馬の“秘策”とは何だったのか?」「“孝明天皇暗殺説”は信じるに足る学説なのか?」「官軍に対する“江戸焦土作戦”とは勝海舟のブラフだったのか?」などなど、歴史の狭間に埋もれがちな数々の謎と疑問を、切れ味鋭い「井沢史観」で解き明かします。 維新から150年。「明治維新とは一体何だったのか?」について、あらためて考え直すための最良の一冊です。(AMAZON解説より)』

逆説の日本史20幕末年代史編III / 井沢元彦

⭐️⭐️⭐️

  井沢元彦の「逆説の日本史」、この度文庫版でも幕末編が完結したので、残っていた二冊をまとめて読んでみた。

 

  幕末史はあまりにも資料が多すぎ、事件や登場人物が多すぎ、全体像を把握するのがとても難しい時代である。それを井沢は年ごとに分けて検討し、それを貫くキーマン7人(勝海舟岩倉具視西郷隆盛大久保利通桂小五郎坂本龍馬高杉晋作)の動向を中心に据えることによって全体像をつかむ、という手法を用いて明快にまとめている。そして裏主人公として、ここまでややこしい内乱状態となってしまった原因思想である「朱子学」の害を常に念頭に置いている。

 

  さて、ペリーの来航から始まった未曽有の大混乱の時代、幕末もこのNo.20で第三巻目に入る。ラス前である。混乱の度はますます深まり、生麦事件や第一次寺田屋事件が起こった1862年、日本の一藩を相手にイギリス(薩英戦争)とフランス(馬関戦争)が戦争を仕掛けた1863年、西郷が赦免され長州が京都から追われ長州征伐が行われた1864年の3年間だけで一冊。ものすごく濃い。というか、これほど国の内部がバラバラになっていてよくもまあ欧州列強に日本が植民地化されなかったものだと、あらためて呆然としてしまう。

 

  もう尊王攘夷派対幕府開国派なんて単純な図式では語れない。尊王の中にも討幕派と公武合体派があり、攘夷を主張していても勝海舟に感化されて開国派に変わった者もいるし、攘夷を唱えていないと危ないので攘夷と言っているが内心は開国やむなしと思っている者もいた。そのあたりを井沢は手際よく解説しつつ、持論を展開している。高杉晋作はおそらくは内心開国やむなしと思っていたが、それを言うと確実に殺されるので言わなかったのだろう、という推論には私も賛成である。

 

  ちなみにサブタイトルは「西郷隆盛と薩英戦争の謎」となっているが、西郷隆盛勝海舟と言った「プラスのヒーロー」より、「マイナスのヒーロー長州藩一橋慶喜の方が目立ってしまう皮肉な巻となっている。

  一橋慶喜は「二心どの」と言われたほどころころ態度を変え、井沢に言わせれば「何もしなかったこと」「すぐに意見や態度を変えた事」により、結果論的に見れば日本を正しい方向に導いてしまった男として描かれる。徳川最後の将軍は実に情けない男であったからこそ日本は救われたのである。

 

  それよりはるかに「問題児」だったのは長州藩である。吉田松陰高杉晋作桂小五郎伊藤博文井上馨と言った英傑を輩出しながらも、この時代の長州はどうしようもなく過激な討幕攘夷に凝り固まっていた。久坂玄瑞あたりがその首謀であるのだが、もう考え方が無茶苦茶なのに本人たちは大真面目である。エキセントリックでアブナイ、実力差を見せつけられながらも精神論で列強に勝てると思い込んでいた集団が引っ張っていたのである。この時点では、人格者西郷隆盛にさえも見放されていた。

 

  この2年後に薩長同盟が締結された、というのはこの時点での事実の羅列を見ていると信じられない気がする。ちなみに薩長同盟の立役者は新劇の架空の人物月形半平太(一般には武市半平太と思われているが、井沢によれば実は月形洗蔵)だと思われていた。それが坂本龍馬であると広く知らしめたのは司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」の功績である。(ただ、このあたりには実はいろいろな経緯があり月形仙蔵も実際それを画策していた、それは本書と次巻で詳細に語られている。)

 

  その司馬先生は長州のエキセントリックさが嫌いだった。大日本帝国陸軍長州閥で握られたことにより無謀な太平洋戦争に突入し日本が破れた、という認識は本書でも随所に紹介されている。

 

  それにしてもこの時代、本当に多くの人材が切られて死に、割腹して死んだ。小説や漫画で読むとドラマチックであるが、こうして史実として列挙されると、無惨としか言いようがない。

  ちなみにるろうに剣心のモデルとされている熊本藩河上彦斎も本書で一度だけ登場する。佐久間象山を殺害した場面である。「人斬り」と呼ばれたほどの凄腕の殺し屋は五人だけだったそうだが、そのうち彦斎だけは後に佐久間象山について勉強し改心の上明治時代まで生き延びた。

 

『覚醒した薩摩、目覚めなかった長州 世にに言う「八月十八日の政変」で京を追われた長州は失地回復を狙って出兵を行なうも、会津・薩摩連合軍の前に敗走する。この「禁門(蛤御門)の変」以降、長州と薩摩は犬猿の仲となるが、その後、坂本龍馬の仲介で「薩長同盟」が成立。やがて両藩は明治維新を成し遂げるために協力して大きな力を発揮した――。 以上はよく知られた歴史的事実であるが、じつは禁門の変以前の薩長の関係は大変良好であった。策士・久坂玄瑞の働きにより、すでに「薩長同盟」は実質的に成立していた、と言っても過言では無い状態だったのである。 では、友好だった両藩が、「八月十八日の政変」「禁門の変」へと突き進み互いに憎しみあい敵対するようになったのはなぜなのか? そこには、兄・島津斉彬に対するコンプレックスを抱えた“バカ殿”久光を国父に戴き、生麦事件や薩英戦争を引き起こしながらも「攘夷」の無謀さに目覚めた薩摩と、“そうせい侯”毛利敬親が藩内の「小攘夷」派を抑えきれず、ついには「朝敵」の汚名を着ることにまでなってしまった長州との決定的な違いがあった。(AMAZON解説より)』

銀河英雄伝説 全15巻BOX SET / 田中芳樹

⭐️⭐️⭐️⭐️

  銀河英雄伝説、通称「英伝」、SFファンのみならず、本好きアニメ好きの方なら知らぬ者はないだろう傑作大河スペースオペラ田中芳樹の代表作である。

  もともとは徳間書店から出ていたが、田中芳樹曰く「創元SF文庫を終の棲家と定めた」そうで、この全15巻(正伝10巻、外伝5巻)のBOX SETも創元社から出ている。

  もちろん私も徳間時代に正伝は読んでいたが、外伝で読んでいないものがいくつかあったので、星野宜之のイラストになるBOXのイラストにも惹かれて買ってみた。ちなみに創元SF文庫版のイラストは星野氏が担当されたそうである。

 

  もともとスペースオペラという単語には蔑称的な意味合いも含まれており、善悪がドンパチで対決する単純なストーリーを宇宙にもっていっただけ、というような代物を指したようである。

 

  ところが、この英伝や、それと機を一にする機動戦士ガンダムのあたりから、単純な善悪で判断しない深みのある物語が展開されるようになった。リアルタイムでその時代を知っているものからすると、はじめは善悪の対決として描かれた「宇宙戦艦ヤマト」の悪のボスだったデスラー総統の人気が高くなり、単純な善対悪の構図が崩れ始めたのがきっかけではないかと思う。

  そこへ、成熟期を迎えていた日本のSF小説の質の高さや独自のスタイル、価値観等を消化しつつ重厚長大な戦記物をかける才能が現れた、それが田中芳樹であった、ということだろう。

 

   だから正伝10巻に関しては

 

読むベし

 

の一言。

 

  ゴールデンバウム王朝自由惑星同盟フリー・プラネッツ)の何世紀にもわたる対立・戦争の中で双方に滓のように沈殿した堕落・腐敗を、稀代の天才ラインハルト・フォン・ローエングラムが一掃して誕生したローエングラム王朝、そして敗者として生き残り稀代の戦術家ヤン・ウェンリーの遺志を継いだ若きユリアン・ミンツを代表とする残党たちが守ろうとした共和・民主主義。

  その凄まじい戦いが繰り広げられた激動の数年間を、歴史書的に俯瞰したスタイルで描き尽した田中芳樹の筆力には改めて脱帽した。

  その物語に貫かれた、軸のぶれない政治論・統治論・戦略論・戦術論には初読当時圧倒されたものだった。今回は読むペースが早過ぎ、繰り返し繰り返し同じことが語られ続けるので辟易しないでもなかったが、やはりこれがないとこの物語はただのヒーローものの単純なスぺオペに堕してしまうだろう。

 

  さて、その「英雄」たち。完全無欠とも言えるラインハルト・フォン・ローエングラムと、欠点だらけだが憎めない、そして戦術家としては天才的なヤン・ウェンリーを対立軸として

 

ラインハルトと大勢の忠臣たち」 VS 「ヤンと少しの愉快な仲間たち

 

一人一人の個性の描き方は、これだけ多くの人物像をよく描き分けたな、というくらい面白い。前者ではやはりヘテロクロミアオスカー・フォン・ロイエンタールが傑出している。次いでミッターマイヤーオーベルシュタインが双璧だが、他にも語りつくせないほどの人材の宝庫。後者ではユリアンは勿論、キャゼルヌシェーンコップアッテンボローポプランあたりの悪口雑言皮肉合戦が読みどころだろう。

 

  また、悪役っぽいキャラにも、老犬を可愛がらせたり(オーベルシュタイン)、報奨金をあっさり全額慈善寄付してしまったり(ラング)といった意外な一面を見せるあたりも憎い。

 

  一方女性キャラは田中芳樹があまり得意とするところではないのかもしれない。ラインハルトの姉アンネローゼ、妻となるヒル、ミッターマイヤーの妻エヴァンゼリン、ヤンの初恋の人ジェシ、妻となるフレデリカ、いずれも「女性」としては描き方が浅い。むしろキャゼルヌも頭の上がらない奥様のオルタンスさんがこの物語では一番の好キャラである。

 

  さて、スぺオペものである以上、戦闘シーンが如何に残酷なものであっても華になってしまうのは仕方のないところ。どんな無益な戦いであろうと、いかに戦略と補給と情報が大事と言っても、戦術による勝負の決し方が面白くないと、物語としては凡庸になってしまう。その点、この「銀英伝」は見所一杯である一方で、批判も山とある。戦いが二次元的であるとか、なんで広大な宇宙で両陣営の通れるのがイゼルローン回廊フェザーン回廊の二か所しかないんだ、とか。今回再読してみてこれはいかんなあと思ったのは、劣化ウラン弾をガンガン使いまくっていること。廃絶宣言が出されている現在からみるとさすがの田中も先見の明がなかったな、と思わざるを得なかった。

 

  しかし、そのような瑕疵があるとは言え、結局のところ、やはり面白い。特にラクル・ヤンマジカル・ヤンの腕の見せ所である、二回に渡るイゼルローン要塞乗っ取りはその白眉であろう。二回目の攻略時の暗号二種類は最高に笑える。

  敢えて文句を言わせてもらえば、二人の英雄の死をどう描くか、エンディングでユリアンをどう活かすか、この点についてはやや不満がある。ネタバレになるが、死に方が見事だったのは、ロイエンタールオーベルシュタインビュコックメルカッツシェーンコップの5人だと思う。

 

  ジークフリートキルヒアイスが入ってないじゃないか、というご意見もあるだろう。田中芳樹も第二巻でキルヒアイスを死なせてしまったのを相当後悔していたらしい(ちなみにこれは当時の編集者金城氏の指示だったとのこと)。

  それゆえ外伝5巻ではキルヒアイス大活躍で、「ユリアンのイゼルローン日記」にさえも顔を出すくらい、キルヒアイス・オン・パレードである。田中芳樹の罪滅ぼし、といったところか。

 

  ただ、私としてはアンネローゼ、ラインハルト、キルヒアイスの濃厚すぎる関係には正伝でも食傷気味だったのが、さらに鼻につくほどになってしまった。

 

  よって外伝で一番面白かったのは第2巻「ユリアンのイゼルローン日記」。次点でローゼンリッター(薔薇の騎士団)が活躍する第3巻「千億の星、千億の光」というところ。

  それにしても、無名のヤンが一躍英雄となり、後の参謀で妻となるフレデリカと知り合うきっかけともなった「エル・ファシルの脱出劇」だけで一冊の本にしてくれるのじゃないかと期待していたのが、外伝4「螺旋迷宮」で最初にちょっとふれられただけで、その後あまり面白くもない探偵劇になってしまったのは残念の極みだった。

 

  外伝を読破するためだけに大人買いしたのは、う~ん、ちょっともったいなかったかな。でも正伝が読めてよかったので、まあ後悔はしていない。

 

  この文庫版15冊にも、外伝最終巻の「田中芳樹のロング・インタビュー」を除いてすべて錚々たるメンバーの解説がついている。にもかかわらず、ここを触れていない、という不満があるところを二点最後にあげておきたい。

 

#1:田中芳樹ユーモア・センス: これだけ重い物語を一気に読ませてくれるのは、笑わせるツボを心得た会話や、歴史記述を装ってしれっと書く彼のユーモア・センスである。10巻で笑いどころのない巻は全くない。にもかかわらず誰も彼のユーモアについて触れていない。これは不思議だ。

 

#2:ゲルマン的名前はやはりヒトラーナチス・ドイツを連想させる:これは初代ガンダムにも通じるところがあるが、帝国軍はゲルマン系の名前で統一され、雰囲気的にもナチス的な印象が強い。だからナチスを賛美しているというわけでもないし、ゲルマン的名前を用いたことについて田中芳樹は一応説明している。しかし、ナチス・ドイツの人名や制服が何となくかっこいいという、いかにも日本人的な歴史認識の浅さが根底にあるのではないか、という危惧がぬぐえない。

『銀河系に一大王朝を築きあげた帝国と、民主主義を掲げる自由惑星同盟が繰り広げる飽くなき闘争のなか、若き帝国の将“常勝の天才"ラインハルト・フォン・ローエングラムと、同盟が誇る不世出の軍略家“不敗の魔術師"ヤン・ウェンリーは相まみえた――。 日本SF史にその名を刻む壮大な宇宙叙事詩銀河英雄伝説』正伝10巻と外伝5巻を、特製文庫BOXに収納してセット販売します。BOXのイラストは、創元SF文庫版を飾った星野之宣氏のカバーイラストを使用。外側に5点、内側に6点をあしらいました。(AMAZON解説より)』

吸血鬼 / 佐藤亜紀

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  佐藤亜紀を読むシリーズもこの作品でついに(小説は)終了である。2016年の「吸血鬼」。参った。ひれ伏す思い、とはこのことだ。

 

  この物語は限りなく陰鬱で限りなく寒々として限りなく残酷で限りなく狡猾で、そして限りなく美しい至高の佐藤亜紀の世界である。

 

  文章、文体、プロット、構成、時代考証、微妙な謎の残し方、余韻、すべてに完璧。佐藤亜紀がついにたどり着いた小説という表現形式の一つの極北。皆川博子はこう評している。

 

怪異の外衣を纏った、迫力と緊張感。流麗な文体のリズム。

読んでいる間、時折、私は文章で音楽を視たのです。

 

本作は詩の紹介で始まる。

詩人アダム・クワルスキは、代表作「すみれ」をこう始めている。

ー 野のすみれよ、可憐な紫紺の花よ

馥郁と香る小さな五弁の花よ

誰がお前のことを忘れるだろう

吹き荒ぶ冬の嵐を突いて

漂泊の旅路を彷徨う時にも、おお、すみれよ、

懐かしい野に咲くお前のことを忘れはしない

 

  この、クワルスキというポーランドの寒村の領主貴族が「吸血鬼」なのか? と思わせておきながら、安直な吸血鬼譚にはならない。佐藤亜紀だから、なり得ない、というべきか。

 息もつかせぬ展開で怒涛の如く話は進み、最後にクワルスキに文学青年としてあこがれを抱いていた役人のゲスラと、クワルスキの妻で土着の靭さを感じさせるウツィア二人のシーン。

 

 夕闇の中で殆ど見分けが付かないウツィアの顔を、ゲスラーは注視する。二人はそのまま動かない。穏やかな日暮れだ、と。暫くしてからゲスラーは呟く。- こんな薄闇があるとは考えた事もなかった。やっと落ち着いた気がするのは不思議ですよ。

 ウツィアの唇が細く息を洩らす。面紗が微かに動く。笑ったのか、溜息を吐いたのかはわからない。そうね、と彼女は言う。- もっと穏やかな闇も、私たちにはあるでしょう。

 

 佐藤流様式美の極致。この文章を彼女の作品の最後の最後で読めたことは私にとってこの上ない僥倖であった。

 

  一方で「一見さんお断り」作品でもある。上述したように、題名で想像するようなありきたりの(ドラキュラ伯爵のような)「吸血鬼」譚ではない。また、地の者の訛りを日本語でここまで読みにくくする必要があるのか、と思う執拗さは理由あってのことだが、完全について来れる者だけついてきなさいの世界。

 

     とても佐藤亜紀なら先ずこれを読みなさい、とは言えない。この本を本気で読むなら、下記の小説を全て読んでから。そうすれば至福の時を過ごせるだろうと思う。もちろん全ての小説を読んでいるわけではないが、21世紀の日本の小説の中で傑出した存在であると思う。

 

『独立蜂起の火種が燻る十九世紀のポーランド。 その田舎村に赴任する新任役人のヘルマン・ゲスラーとその美しき妻・エルザ。この土地の領主は、かつて詩人としても知られたアダム・クワルスキだった。 赴任したばかりの村で次々に起こる、村人の怪死事件――。 その凶兆を祓うべく行われる陰惨な慣習。 蹂躙される小国とその裏に蠢く人間たち。 西洋史・西洋美術に対する深い洞察と濃密な文体、詩情溢れるイメージから浮かび上がる、蹂躙される「生」と人間というおぞましきものの姿。(AMAZON解説より)

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法

鏡の影

モンティニーの狼男爵

1809

天使

雲雀

ミノタウロス

醜聞の作法

金の仔牛

スウィングしなけりゃ意味がない

夢違 / 恩田陸

⭐️⭐️⭐️

  提督とあかつき姐さんがレビューしてたので、興味を惹かれた。なんにせよ、恩田陸さんだし。

  ちなみに題名は「ゆめたがい」ではなく、「ゆめちがい」だそうだ。終章で出てくるある有名な仏像の名前から題名がとられていると考えてよいと思う。となると、常識的には「ゆめたがい」だろう。ただ、ネットで調べると「ゆめちがいとも読む」と書いてあって、どちらでもいいと言えばいいようである。しっくりこないけど。

 

  さて、それはさておき、今回は陸さんにしてはきっちりとした構成で、得意技大風呂敷広げっぱなし、投げっぱなしジャーマンといった展開を期待する向きにはは残念と言えば残念。(まあ細かいところではツッコミどころ満載ではあるが。)

 

  夢を可視化できるようになったら、そして予知夢を見る能力が強い女性がいたら、という「If」は面白い設定であるし、それを陸さんならではの言葉を用いて独自の世界を構築していく力量はさすが。 

  ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」から「沈める寺」までの三連の前奏曲、和水仙八咫烏等の小道具も前半は効果的に用いられていると思う。

 

  ただ、いやな予感がしていた通り、後半奈良県が主舞台となって来ると(奈良県出身の私には)違和感を強く感じるようになる。「まひるの月を追いかけて」もそうだったが、陸さんが書くとどうも現実の奈良県と乖離してしている感が強い。それこそ夢の中の奈良県か、という感じ。途中で出てくるH市(=郡上八幡)の方にも是非ご意見を伺いたいものである。

 

  まあそれはともかく、集団無意識・集合的無意識タイムリープの扱いにかなりの無理があるとは思うが、旅情SFミステリーとしてはまずまずうまくフィニッシュしたと思う。

  提督がこだわっておられたエピローグ的な最終章とその前の真の最終章の結末の齟齬については、古藤結衣子が「夢違」に成功した、ということでいいのではないかと思う。

 

夢の映像を記録した「夢札」、それを解析する「夢判断」を職業とする浩章のもとに、奇妙な依頼が舞い込む。各地の小学校で頻発する、集団白昼夢。浩章はパニックに陥った子供たちの面談に向かうが、一方で亡くなったはずの女の影に悩まされていた。日本で初めて予知夢を見ていると認められた、結衣子。災厄の夢を見た彼女は―。悪夢が現実に起こるのを、止めることはできるのか?戦慄と驚愕の新感覚サスペンス! (AMAZON解説より)

激しく、速やかな死 / 佐藤亜紀

⭐︎⭐︎⭐︎

     今のところ、「天使」のスピンオフ集「雲雀」を除けば唯一の短編集である。例によって舞台はフランス革命前後の欧州がメインだが、珍しく当時の新天地アメリカも登場する。もちろん佐藤亜紀流で、ではあるが。なお本作も本文中では余計な説明一切なしなので、巻末に「作者による解題」がついている。

 

弁明:   ご存知マルキ・ド・サド侯爵の一人語りで繰り広げられるドタバタ劇。短編集のしゃれたアペリティフとなっている。あのサド侯爵をここまで笑い飛ばせる作家はってのはそういないだろう。さすが佐藤亜紀である。

 

激しく、速やかな死: この作品のみ書き下ろし。題名はカエサルの言葉だそうだが、それをもたらしてくれる「主役」はフランス革命の象徴ともいえるあの「ギロチン」。ギロチンにかかる前の収容所施設の中の陰鬱、そして延々としゃべり続ける男。なかなかに幻想的な佳作である。アメリカの作曲家ココリアーノの「ヴェルサイユの幽霊」へのオマージュだそうである。

 

荒地: フランス革命でギロチンにかかる前にアメリカへ逃れたフランス貴族。しかしそのアメリカも「不毛」の一言だった。本作品集の中でも屈指の力作ではあるが、佐藤亜紀を読み続けた来たファン以外には難解で退屈そのものだろう。ちなみに主人公の名前は一切明かされないが、解題においてフラオー伯爵夫人への書簡であると書いてあるところからしタレイランである。

 

フリードリヒ・Sのドナウへの旅: ウィーンはシェーンブルンのナポレオン閲兵時におきた、突発的なナポレオン暗殺未遂。ゆえに周到な準備と計画をもって行われたもう一つのナポレオン暗殺未遂事件「1809」のスピンオフとも言える。

  十七歳のドイツ人青年の狂信がもたらしたごく単純で無計画な単独犯行。何の打算もなく、だれに吹き込まれたわけでもなく、フランス皇帝ではなくナポレオン・ボナパルトという男を殺さねばならないと考えてやってくる暗殺者。こちらのほうがよほど厄介だ。故にナポレオンはこの事件をなかったことにせねばならなかった。

 

金の象嵌のある白檀の小箱: オーストリアの高名な政治家メッテルニヒの夫人がパリから夫に宛てた書簡、という形式をとっている。夫の浮気相手のロール・ジュノとその夫ジュノ将軍の夫婦喧嘩の顛末を皮肉たっぷりに書き送っている。自分の過去の浮気も隠さない豪胆なメッテルニヒ夫人。きっとメッテルニヒもニヤニヤ笑いながら読んでいるのだろう。哀れなのはジュノ将軍、ナポレオンに訴えても

一々連中の妻敵(めがたき)を討ってやっていたら、まともな仕事をする暇がないだろうが

と一蹴される始末。げに強気は女性なり。「内容はロール・ジュノの回想録による」と解題しているので本当にあった話らしい。

 

アナトーリとぼく: ぼくはくまである。くまだからひらがなとカタカナしかかけないのでぶんしょうはひらがなとカタカナでつづられていく。アナトーリというなまえからわかるように、これはトルストイの「せんそうとへいわ」をてっていてきにわらいとばしたさとうあきりゅうのかいしゃくである。さとうあきはかいだいでこういっている。

何度読んでもピエールは道徳フェチの糞ナルシストであり、救い難き利己主義者である。

 あのながいはなしをなんどもよんでいるんだ(わらい。

 

漂着物: ボードレールに寄せた散文詩である。見事な締め方に感服する。

 

『危険を孕まぬ人生は、生きるに値しない。サド侯爵、タレイランメッテルニヒ夫人、ボードレールetc.―歴史の波涛に消えた思考の煌きを華麗な筆で描き出した傑作短編集。 (AMAZON解説より)』

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法

鏡の影

モンティニーの狼男爵

1809

天使

雲雀

ミノタウロス

醜聞の作法

金の仔牛

スウィングしなけりゃ意味がない

蛍、納屋を焼く、その他の短編 / 村上春樹

⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

     村上春樹の初期短編集で、特に「」は好きな作品である。この作品はよく知られているように、後に大ベストセラーとなった「ノルウェイの森」の導入部に丸ごと底本として使われた短編である。

  しかし、その膨らませ方は私にはあまり好ましいものとは思えなかった。性描写や文章に抑制の効いたこの作品の方が私は好きである。

 

  舞台は主人公の「」が大学生となり上京し入った学生寮。「文京区の高台にある」この寮のことを、

あるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されている

と書いているが、これは彼が実際に入った和敬塾をそのままモデルにしている。ちなみに右翼的な人物とは前川昭一のことで、先日加計学園問題で物議をかもした前川喜平前文部科学事務次官の父親である。

 

  彼はその気風と共同生活になじめず、ほんのわずかの期間いただけで退寮したそうだが、この小説の冒頭ではその当時の寮の日常を的確に描写し、くそまじめでいいやつだが、ややはた迷惑な「同居人」をユーモラスに語っている。(この人物は「ノルウェイの森」では「突撃隊」というニックネームをもらっており、しかも唐突に姿を消す。それについては様々な議論がある。村上春樹自身が語るところによれば実在のモデルがいたそうだ)

 

   そして場面は切り替わり、半年ぶりに四谷で会った「彼女」とのエピソードが語られ始める。

  高校時代の彼女の恋人は僕の親友で、いつも三人でつるんで遊んでいた。その親友は僕とビリヤードをした後N360の中で排ガス自殺した。動機は全く不明。彼女は最後に会っていたのが自分ではなく僕であったことに腹を立てていた。

できることならかわってあげたかったと思う。しかしそれは結局のところ、どうしようもないことなのだ。一度起こってしまったことは、どんなに努力しても消え去りはしないのだ。

 僕も悩んだが高校を卒業して東京に出てきた時、はっきりと決めたのは

あらゆるものごとを深刻に考えすぎないようにすること

だった。そして時が経つにつれ、僕の中にある何かしらぼんやりとした空気のようなものは言葉に置き換わった。

 

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 

  それまでの一連の彼の作品に漂う空気を一息で言語化したものでもあり、その後の作品の一つの道標となっていく重要な文章である。

 

  僕は死はすでに僕の中にあると考えている。だからこそあらゆる物事を深刻には考えないようにしているのだ。

  そしてより深く死にとらわれているのが「彼女」である。それを村上春樹

 

彼女の眼は不自然なくらいすきとおっていた。

 

と表現している。そしてその透明度は後半ますます増していく。

 

  そして彼女の二十歳の誕生日にある出来事があり、彼女は姿を消す。僕は彼女に手紙を書き、彼女から返事がある。村上春樹文学で最も有名なヒロイン「直子」の雛型がここにある。

 

  この短編は、同居人から貰った蛍が寮の屋上の給水塔の暗闇の中でうすぼんやりとした光を放ちながら、長い時間僕に見つめられ続けたのちに、ようやく飛び立っていく姿を描いて終わる。

 

  僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指には何にも触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった。

 

続く「納屋を焼く」は全く違った物語だが、ここでも僕の彼女は最後に姿を消す。

 

夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。

 

なんとなく共通項が見えてくる。この時期の村上春樹は喪失と死についてとても敏感な感性を有していた。そしてそれをうまく暗闇の中の「」の光や「納屋を焼く」イメージに投影していた。

 

  「踊る小人」も面白い作品で、これもラストが見事である。「めくらやなぎと眠る女」は後年の短編集「レキシントンの幽霊」でもう一度書いているので比較して読むと面白い。「三つのドイツ幻想」はやや散文的だが、第一章はその後横溢していく彼のセックス描写の原点を示すものなのかもしれない。

 

  何はともあれ、村上春樹の作品を未読の方に「まず試しに読むならどれがいいか」と尋ねられたら、私は迷わず「」と答える。

  

 

金の仔牛 / 佐藤亜紀

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   佐藤亜紀を読むシリーズ、いよいよ残り少なくなってきた。今回は2012 年の作品「金の仔牛」、元祖バブル、18世紀フランスでジョン・ローの施行した「ル・システム」という金融実験に踊り踊らされる人々を面白おかしく描いた群像劇である。

  佐藤流ユーモア小説「モンティニーの狼男爵」や「醜聞の作法」の系統に位置する話であるが、出てくるキャラが立っていて、ストーリー展開のテンポもよく、そして前二作以上に鮮やかなハッピーエンドは、当時の欧風喜劇、あるいはオペレッタを思わせる。

 

  ただ、フランスの歴史と経済に通暁している人を除けば、いきなりこの小説を読んでも訳が分からないと思う。まずは佐藤亜紀自身が巻末で珍しく詳細に解説している「覚書」のうちの「十八世紀の貨幣について」だけは先に読んでおいた方がいいだろう。とは言っても読んでもなお、この当時の貨幣紙幣の種類や価値はとてもややこしくて、理解がとても難しいが。

 

  とにもかくにも、金銀本位制だった中世から近代においてこの時期、紙幣は一つ間違えば「ただの紙切れ」で、信頼を置いてよいかどうかは微妙な問題であったことがよく分かる。

  これで思い出すのは、学生時代、社会・政経の先生が授業の始めにいきなり

 

君たちは日本という国を信頼しているか?

 

という質問を投げかけたことだ。何を言いたいのか全く分からなかったのだが、

 

紙幣を何の疑いも持たずに使っているかぎり、それは意識しているいないにかかわらず国を信用しているという事

 

というのがその先生の論旨だった。その時はそんなことで国を信用していることになるのかとポカンとしてしまったが、超インフレで紙幣が紙くずになる国などを見ているとなるほどそういうことかと思ったし、円ドル交換レート自由化の後の激しい円高円安の繰り返しを見て円紙幣の価値は一定ではないのだなと思い知らされることもあった。何しろ私の幼い頃は1ドル360円が常識だったのだから。

 

  そういう目でこの小説を読むと本当にスリリングだ。ちんけな追いはぎルノーがたまたま襲った相手がフランス有数の投資家カトルメールという胆力のある大物で、こんなことやってないでもっと金を稼がないかと持ち掛けられてある紙切れを渡されたところから、物語が始まる。

 

  一言、上手い。

 

  で、そのアルノーが思わぬ才能を発揮して、あれよあれよという間に時代の寵児的な株屋にのし上がっていく様は痛快でかつ株の勉強にもなる。

 

  そこに、恋人ニコルのおやじで結婚に大反対の怪しい故買屋ルノーダン、泥棒集団の親玉ヴィクトール親方狂言回し的に儲け話を操る三つ子のヴィゼンバック三兄弟青髭のような残忍な貴族オーヴィリエが絡んできて、このマネーゲームは実に込み入ったややこしい様相を呈し始める。アルノ―にとっては大成功か破滅か二つに一つの乾坤一擲の勝負だが、その周囲の者は様々な形で自らの財産を確保する手段を講じていく。ねずみ講あり、空売りあり、マネーロンダリングあり、リスクヘッジあり。

 

  さらにこの話に深みを与えているのは金銀本位制の温和で安定した世界から紙幣経済、更には証券相場と変遷していくこの時代に、単なる数字のやり取りだけで世界中の人間が同時に瞬時に取引する時代が来ると空想している人物が出てくることだ。もちろんこのあたりは佐藤亜紀の手腕ではあるが、そういう天才的発想を持つものが、それに必要な手段や通信機械(やウェブ社会)を産み出し、今現実となっているのだなと納得してしまう。

 

  ちなみに「ミノタウロス」にミノタウロスが出てこないように、「金の仔牛」に金の仔牛は出てこない。元は旧約聖書のモーゼの章の偶像崇拝の対象であるが、この作品にあっては「拝金主義」の象徴である。

 

 

 

『18世紀初頭のパリ。追い剥ぎのアルノーは、襲撃した老紳士に逆に儲け話を持ちかけられる。ミシシッピ会社の株を利用すれば大儲けができるというのだ。アルノーは話に乗り、出資者集めを引き受ける。当初300リーブルほどだったミシシッピ株は翌月に1000リーブルを突破し、投資者への返済は順調に履行される。株価はこれから4000まで上がると期待され、相場は過熱していく。アルノーはいまや羽振りのいい青年実業家に。―それは、株取引という名の「ねずみ講」だった。ルイ王朝下、繁栄をむさぼる18世紀初頭のパリを活写した傑作長編。(AMAZON解説より)

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法

鏡の影

モンティニーの狼男爵

1809

天使

雲雀

ミノタウロス

醜聞の作法

スウィングしなけりゃ意味がない

空海「三教指帰」-ビギナーズ日本の思想

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  先日読んだ「空海の風景」で司馬遼太郎先生が数々の空海の著作や口伝を詳説されていた。そのうちの一つでも読んでみたいと思っていたが、「三教指帰(さんごうしいき)」が角川ソフィア文庫の「ビギナーズ日本の思想」から出ていた。著者は大正大学講師、千葉・金乗院住職の故加藤純隆(じゅんりゅう)氏と慶應義塾大学名誉教授、高野山大学客員教授、東京・南蔵院住職の加藤精一氏。

 

  精一氏の解説によると祖父加藤精神師が岩波文庫で訳注を出し、父純隆師が世界聖典刊行協会から口語訳を出版、それを精一氏がソフィア文庫側からの依頼で思い切った意訳にしたのが本書であるとのこと。本書はその意訳と訓み下し文の双方が掲載されており、とても分かりやすく親切な内容となっている。

 

  空海19歳の初著作で、内容はよく知られているように儒教道教仏教(大乗)の三つを比較してどれが一番優れているかを検討したものとなっている。儒学色の濃い大学にいた空海が何故こういうものを書く必要があったのか?

  

  それは、当時周囲の努力もあり晴れて大学生となった空海であったが、その教育内容が

 

単に世に処するためだけのもので人生の真理を探究するものでない

 

ことに不満を抱き、さる僧侶から「虚空蔵求聞持法」を伝えられたことをきっかけに仏教の道を選ぶ決心をした。しかし、当然苦労して大学に入学させ将来を嘱望していた周囲の者から反対される、特に一番お世話になり、漢学の基礎を叩き込んでくれた阿刀大足(あとのおおたり)を説得せねばならない、そのために著したのがこの書である、とされている。

 

  このあたりを司馬遼太郎先生は「空海の風景」で詳説されていて大変面白かった。その中でも触れられているが、この書ががちがちの堅い論文ではなく、戯曲構成で面白く読めるようになっているところ、当時日本では全く浸透していなかった道教までわざわざ入れているところ、あたりに空海の陽性な茶目っ気があり、阿刀大足に対する配慮もあったものと思われる。

 

  前置きが長くなってしまったが、登場人物は5人。

蛭牙公子: 放蕩三昧のバカ息子で父の兎角公を悩ませている

兎角公: 名家の名士で息子の放蕩に悩み説得できそうな人物を呼ぶ

亀毛先生: 儒学者阿刀大足がモデルと言われている。

虚亡隠士: 道教の道士。

仮名乞児: ぼろを着て食うや食わずの状況で仏道の修業をしている。たまたま托鉢に訪れた兎角公宅で前二人の論争を耳にして自分も参加する。もちろん空海その人のカリカチュアである。

 

  というわけで、だれがこのバカ息子を説得できるかで優劣を決するわけであるが、論争といっても三人がそれぞれの意見・見識を披露するだけで、質疑応答的な論争はなく、肩透かしを食ったような感じだった。亀毛先生、虚亡隠士、仮名乞児の順番で発言し前者を論破していくのだから、後出しじゃんけんのようなもの。

  これで仏教の優位性を説かれても、後世の我々にはちょっと納得できないが、阿刀大足は納得したようであるし、「続日本後記」によると朝廷に献上された後は貴族を中心に広く読まれ、任官試験対策としても重要な書となっていたそうである。

 

  しかし、結局どんな栄華を誇ろうが、どんなに悟達しようが、結局誰でも死んで体は滅び、地獄へ落ちればあんなことこんなことやら、とにかく阿鼻叫喚の責め苦の数々が待ち受けているのだぞ、ってのは単に脅しているだけ、これで四人ともが説得されるのか?という気がしないでもないが。。。

 

  とにもかくにも、この書に詰め込まれた情報量は圧倒的であり、訓み下し文でもわかる四六駢儷体の華麗な文章は19歳で書いたものとは到底信じがたいほどのもの。さらには司馬先生が書いておられたように、仮名乞児が乞食のなりでござをかかえ、背中に椅子を背負っているのは

 

兜率天へゆく旅姿だ

 

とみずから説明しているように、その後の空海の人生は兜率天へゆく旅そのものであった。仮名乞児に託した自らの抱負で人生を貫いたところに空海の真の偉大さがある。天才空海の決意表明文として凄みのある書であった。

 

  最後に一つだけ。中国の戦国時代に扁鵲という医師がいて心臓移植をしたそうである。まじか!

  

『日本に真言密教をもたらした空海が、渡唐前の青年時代に著した名著。放蕩息子を改心させようと、儒者・道士・仏教者がそれぞれ説得するが、息子を納得させたのは仏教者だった。空海はここで人生の目的という視点から儒教道教・仏教の三つの教えを比較する。それぞれの特徴を明らかにしながら、自分の進むべき道をはっきりと打ち出していく青年空海の意気込みが全編に溢れ、空海にとって生きるとは何かが熱く説かれている。(AMAZON解説より)』

醜聞の作法 / 佐藤亜紀

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  佐藤亜紀を読むシリーズ、今回は2010年発表の「醜聞の作法」。革命前のフランスはパリで起こる騒動を、いかにも翻訳フランス文学的な文章と書簡体小説という形式で描き出す。

  実際ディドロの小説のパスティーシュ的な部分もあり、これを当時のフランスの小説の翻訳だと言われてもそのまま信じてしまいそうなくらい、佐藤亜紀の文章は相変わらず上手い、上手過ぎるといっていいくらいだ。

 

  梗概については下記AMAZON解説を参考にしていただければいい。そして数多くのレビューで語りつくされているので詳しくは述べないが、今の世のSNS炎上と同じく、当時流行ったという「パンフレット」という形での「煽り文」で世間が炎上していく様を描いて、いつの世も変わらぬ

 

彼らが何を真実と考え何を出鱈目だと考えるかは、どちらということにした方がより面白いか次第、なのでございます。

 

という「醜聞の作法」をテーマとしている。もちろん、どこに落としどころを持ってきて、庶民を納得させるかも「醜聞の作法」ではあるが。

 

  そしてそこに当時のフランス庶民の鬱屈した貴族への反感が含まれているのが、この小説のキモであり、こんなくだらない悲喜劇もフランス革命へ至る要因の一つなのだ、ということを佐藤亜紀は暗に示唆しているのだろう。

  例えばB***とルフォンが連れていかれるV***の部屋の描写。

 

ルフォンは茫然と口を開けて(中略)天井に描かれたシテールの洞窟の風景を見上げ、私(B****)は幕を上げられたままのヴェニュスの嬌態に見入りました。(中略)この部屋を丸ごと売りに出したら、一体どれほどの値が付くものか。

 

という、当時の中身のない貴族の贅沢を容赦なく抉り出す。

 

  技法的にもうまい。書簡体小説の形をとっているが、この小説の語り手といえるB***が依頼を受けた侯爵夫人へ送る「現実」の手紙と、うだつの上がらない弁護士ルフォンが描く「パンフレット」の「創作」をアトランダムに配置することにより、読む者は何が真実で何が虚構なのかが次第に分からなくなってしまう。騙されていると分かっていて騙される快感がそこにはある。それが頂点に達するのは、インド系の美少女で侯爵夫人の養女ジュリーを自分の囲い者にしようと侯爵に働きかける極悪貴族V****の正体が明らかになる部分だろう。

 

 

   佐藤流の説明なしの衒学的文章も健在。例えばかの有名な、シャン・ゼリゼ通りにしてもChamps-Élysées(エリュシオンの園)という意味を分かっていないと、文章が理解できない。

 

  以上、一見軽い小品に見えてまぎれもなく、佐藤亜紀、である。ファンにはやはりマストであるし、ファンであろうがなかろうが、この雰囲気を楽しまない手はないだろう。ある程度勉強が必要だけれど。

 

『さる侯爵が、美しい養女ジュリーを、放蕩三昧の金持ちV***氏に輿入れさせようと企んだ。ところが、ジュリーには結婚を誓い合った若者がいる。彼女を我が子同然に可愛がり育ててきた侯爵夫人は、この縁談に胸を痛め、パリのみならずフランス全土で流行していた訴訟の手管を使う奸計を巡らせた。すなわち、誹謗文を流布させ、悪評を流して醜聞を炎上させるのだ。この醜聞の代筆屋として白羽の矢が立ったのは、腕は良いがうだつの上がらない弁護士、ルフォンだった。哀れルフォンの命運やいかに―。猛火に包まれたゴシップが、パリを駆けめぐる。『ミノタウロス』の著者が奏でる、エッジの効いた諷刺小説。(AMAZON解説より)』 

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法

鏡の影

モンティニーの狼男爵

1809

天使

雲雀

ミノタウロス

スウィングしなけりゃ意味がない