Count No Count

続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

金の仔牛 / 佐藤亜紀

⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

   佐藤亜紀を読むシリーズ、いよいよ残り少なくなってきた。今回は2012 年の作品「金の仔牛」、元祖バブル、18世紀フランスでジョン・ローの施行した「ル・システム」という金融実験に踊り踊らされる人々を面白おかしく描いた群像劇である。

  佐藤流ユーモア小説「モンティニーの狼男爵」や「醜聞の作法」の系統に位置する話であるが、出てくるキャラが立っていて、ストーリー展開のテンポもよく、そして前二作以上に鮮やかなハッピーエンドは、当時の欧風喜劇、あるいはオペレッタを思わせる。

 

  ただ、フランスの歴史と経済に通暁している人を除けば、いきなりこの小説を読んでも訳が分からないと思う。まずは佐藤亜紀自身が巻末で珍しく詳細に解説している「覚書」のうちの「十八世紀の貨幣について」だけは先に読んでおいた方がいいだろう。とは言っても読んでもなお、この当時の貨幣紙幣の種類や価値はとてもややこしくて、理解がとても難しいが。

 

  とにもかくにも、金銀本位制だった中世から近代においてこの時期、紙幣は一つ間違えば「ただの紙切れ」で、信頼を置いてよいかどうかは微妙な問題であったことがよく分かる。

  これで思い出すのは、学生時代、社会・政経の先生が授業の始めにいきなり

 

君たちは日本という国を信頼しているか?

 

という質問を投げかけたことだ。何を言いたいのか全く分からなかったのだが、

 

紙幣を何の疑いも持たずに使っているかぎり、それは意識しているいないにかかわらず国を信用しているという事

 

というのがその先生の論旨だった。その時はそんなことで国を信用していることになるのかとポカンとしてしまったが、超インフレで紙幣が紙くずになる国などを見ているとなるほどそういうことかと思ったし、円ドル交換レート自由化の後の激しい円高円安の繰り返しを見て円紙幣の価値は一定ではないのだなと思い知らされることもあった。何しろ私の幼い頃は1ドル360円が常識だったのだから。

 

  そういう目でこの小説を読むと本当にスリリングだ。ちんけな追いはぎルノーがたまたま襲った相手がフランス有数の投資家カトルメールという胆力のある大物で、こんなことやってないでもっと金を稼がないかと持ち掛けられてある紙切れを渡されたところから、物語が始まる。

 

  一言、上手い。

 

  で、そのアルノーが思わぬ才能を発揮して、あれよあれよという間に時代の寵児的な株屋にのし上がっていく様は痛快でかつ株の勉強にもなる。

 

  そこに、恋人ニコルのおやじで結婚に大反対の怪しい故買屋ルノーダン、泥棒集団の親玉ヴィクトール親方狂言回し的に儲け話を操る三つ子のヴィゼンバック三兄弟青髭のような残忍な貴族オーヴィリエが絡んできて、このマネーゲームは実に込み入ったややこしい様相を呈し始める。アルノ―にとっては大成功か破滅か二つに一つの乾坤一擲の勝負だが、その周囲の者は様々な形で自らの財産を確保する手段を講じていく。ねずみ講あり、空売りあり、マネーロンダリングあり、リスクヘッジあり。

 

  さらにこの話に深みを与えているのは金銀本位制の温和で安定した世界から紙幣経済、更には証券相場と変遷していくこの時代に、単なる数字のやり取りだけで世界中の人間が同時に瞬時に取引する時代が来ると空想している人物が出てくることだ。もちろんこのあたりは佐藤亜紀の手腕ではあるが、そういう天才的発想を持つものが、それに必要な手段や通信機械(やウェブ社会)を産み出し、今現実となっているのだなと納得してしまう。

 

  ちなみに「ミノタウロス」にミノタウロスが出てこないように、「金の仔牛」に金の仔牛は出てこない。元は旧約聖書のモーゼの章の偶像崇拝の対象であるが、この作品にあっては「拝金主義」の象徴である。

 

 

 

『18世紀初頭のパリ。追い剥ぎのアルノーは、襲撃した老紳士に逆に儲け話を持ちかけられる。ミシシッピ会社の株を利用すれば大儲けができるというのだ。アルノーは話に乗り、出資者集めを引き受ける。当初300リーブルほどだったミシシッピ株は翌月に1000リーブルを突破し、投資者への返済は順調に履行される。株価はこれから4000まで上がると期待され、相場は過熱していく。アルノーはいまや羽振りのいい青年実業家に。―それは、株取引という名の「ねずみ講」だった。ルイ王朝下、繁栄をむさぼる18世紀初頭のパリを活写した傑作長編。(AMAZON解説より)

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法

鏡の影

モンティニーの狼男爵

1809

天使

雲雀

ミノタウロス

醜聞の作法

スウィングしなけりゃ意味がない