鏡の影 / 佐藤亜紀
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佐藤亜紀第三作。舞台は再び欧州、時代はバルタザールよりはるかに遡り16世紀。異端の学僧ヨハネスの見る中世キリスト教社会の諸相。後に平野啓一郎パクリ疑惑、新潮社引き上げ事件をも引き起こした難解な書。
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佐藤亜紀の第三作は「鏡の影」、場外乱闘で有名になってしまった作品ですが、「戦争の法」から一転して中世欧州へ舞台を移し、彼女の本領を発揮している作品です。
場外乱闘とは、後年平野啓一郎が芥川賞を受賞した「日蝕」を佐藤亜紀がこの作品の第10-15章の「パクリ」だと糾弾したことに始まる騒動ですが、いったん収まりかけたところに新潮社がこの作と「戦争の法」を絶版にしたことで佐藤亜紀の怒りにまた火がついて「バルタザールの遍歴」の版権を引き上げるという騒動に至りました。
ですので、下記写真の初版本(図書館からのおさがりです)は今では手に入らないレアものですね。ちなみに表紙絵はヒエロニムス・ボスの有名な「快楽の園」の一部「世界の創造」です。彼の作品は聖書からの寓話を元にした、当時にしては奇抜過ぎるほどシュールな絵が多く、その多くが宗教改革で喪失したと言われており、まさしくこの「鏡の影」の内容にふさわしいと言えます。
というわけでこの作品の舞台は16世紀欧州、カソリックの「贖宥状(いわゆる免罪符)」などの堕落を受けてマルチン・ルターが起こした宗教改革の嵐、福音主義の台頭、異端審問等々が起こっていたキリスト教激動の時代。
百姓の子倅のヨハネスは、親兄たちとは異なり「世界の摂理」に興味を持っています。
ヨハネスはもう随分と長いこと、ひとつのことしか考えて来なかったような気がしていた ー こうである世の中とこうでない世の中は実はさほど違うものではなく、ただどこか一点だけが、決定的に違うのではなかろうか。とすれば、全世界を変えるにはその一点を変えれば充分な筈だ。
その摂理を知るために叔父について錬金術を見習っていましたが、その叔父の自殺によってその夢も頓挫してしまいます。「世界を一点で覆すべく」彼はプラハ、クラカウ、バーゼル、パリと渡り歩き、神学、哲学、医学を学び、更にはバーゼルからローマに。そこでチェルターニ枢機卿という男色家の男の家に日参し、書庫の本を写本する毎日を送ります。しかしチェルターニが男色にまつわるトラブルで殺され、そのゴタゴタの結果、結局彼の手元には未完成の奇妙な図表だけが残されます。それは
完成したならば世界の姿をーそれがヨハネスに理解できるものであるが否かは別にしてー示す筈のものだった。
ここで第一章は終了し、第二章ではシュピーゲルグランツという小悪魔のような少年に出会い、それ以後の旅と冒険を一緒にすることになります。この二人はまさにゲーテのファウスト博士とメフィストテレスの組み合わせそのもの。
一方あるルター派の修辞学教師がヨハネスの「新しきアダム」という落書きのような書に興味を持って書き写し、それを「世界ノ在リ得ベキ様態ニツイテ」と題して知人の間で回覧したところ、結構な評判を呼び、それに尾鰭がついて「最も危険な印刷物」となり、ヨハネスは図らずも異端の学僧として名を馳せてしまいます。
そこからの俗世間の旅が一章ごとに語られていき、恋愛、ペスト、百姓一揆、妖術師扱い、そして福音主義の権化のようなマールテンという男が支配する町での異端審問と話は進んでいきます。
作品全体を覆う中世の陰鬱さ、隠微さ、極端な宗教改革等々、かなり難解で散文的な構成で、ストーリーを追うには結構苦労しますが、逆に一章一章を佐藤亜紀流衒学的修辞を積み重ねたアレゴリーとして楽しむのも一興。
最後には色と悪魔の囁きに人間は勝てるのかという感じの寓話となり、牢獄の中でヨハネスが突如閃き、完成させた世界の全てを説明可能な図式は、論敵の手に渡る前に白紙と化す。ヨハネスも書いた翌日には理解不能となり、これもシュピーゲルクランツ以上の悪魔のような女フィリッパに飼い殺しにされる運命となる。そして彼が惚れいていた眠れる美女はあの小悪魔が目覚めさせる。
見事な落とし前のつけ方にもう感服するしかない、という佐藤亜紀の力量。
まあ、そんじょそこらの小説家が太刀打ちできるような内容ではないのですが、ホントに平野啓一郎はパクったのか?興味が湧いてきます。
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