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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

逆説の日本史20幕末年代史編III / 井沢元彦

⭐️⭐️⭐️

  井沢元彦の「逆説の日本史」、この度文庫版でも幕末編が完結したので、残っていた二冊をまとめて読んでみた。

 

  幕末史はあまりにも資料が多すぎ、事件や登場人物が多すぎ、全体像を把握するのがとても難しい時代である。それを井沢は年ごとに分けて検討し、それを貫くキーマン7人(勝海舟岩倉具視西郷隆盛大久保利通桂小五郎坂本龍馬高杉晋作)の動向を中心に据えることによって全体像をつかむ、という手法を用いて明快にまとめている。そして裏主人公として、ここまでややこしい内乱状態となってしまった原因思想である「朱子学」の害を常に念頭に置いている。

 

  さて、ペリーの来航から始まった未曽有の大混乱の時代、幕末もこのNo.20で第三巻目に入る。ラス前である。混乱の度はますます深まり、生麦事件や第一次寺田屋事件が起こった1862年、日本の一藩を相手にイギリス(薩英戦争)とフランス(馬関戦争)が戦争を仕掛けた1863年、西郷が赦免され長州が京都から追われ長州征伐が行われた1864年の3年間だけで一冊。ものすごく濃い。というか、これほど国の内部がバラバラになっていてよくもまあ欧州列強に日本が植民地化されなかったものだと、あらためて呆然としてしまう。

 

  もう尊王攘夷派対幕府開国派なんて単純な図式では語れない。尊王の中にも討幕派と公武合体派があり、攘夷を主張していても勝海舟に感化されて開国派に変わった者もいるし、攘夷を唱えていないと危ないので攘夷と言っているが内心は開国やむなしと思っている者もいた。そのあたりを井沢は手際よく解説しつつ、持論を展開している。高杉晋作はおそらくは内心開国やむなしと思っていたが、それを言うと確実に殺されるので言わなかったのだろう、という推論には私も賛成である。

 

  ちなみにサブタイトルは「西郷隆盛と薩英戦争の謎」となっているが、西郷隆盛勝海舟と言った「プラスのヒーロー」より、「マイナスのヒーロー長州藩一橋慶喜の方が目立ってしまう皮肉な巻となっている。

  一橋慶喜は「二心どの」と言われたほどころころ態度を変え、井沢に言わせれば「何もしなかったこと」「すぐに意見や態度を変えた事」により、結果論的に見れば日本を正しい方向に導いてしまった男として描かれる。徳川最後の将軍は実に情けない男であったからこそ日本は救われたのである。

 

  それよりはるかに「問題児」だったのは長州藩である。吉田松陰高杉晋作桂小五郎伊藤博文井上馨と言った英傑を輩出しながらも、この時代の長州はどうしようもなく過激な討幕攘夷に凝り固まっていた。久坂玄瑞あたりがその首謀であるのだが、もう考え方が無茶苦茶なのに本人たちは大真面目である。エキセントリックでアブナイ、実力差を見せつけられながらも精神論で列強に勝てると思い込んでいた集団が引っ張っていたのである。この時点では、人格者西郷隆盛にさえも見放されていた。

 

  この2年後に薩長同盟が締結された、というのはこの時点での事実の羅列を見ていると信じられない気がする。ちなみに薩長同盟の立役者は新劇の架空の人物月形半平太(一般には武市半平太と思われているが、井沢によれば実は月形洗蔵)だと思われていた。それが坂本龍馬であると広く知らしめたのは司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」の功績である。(ただ、このあたりには実はいろいろな経緯があり月形仙蔵も実際それを画策していた、それは本書と次巻で詳細に語られている。)

 

  その司馬先生は長州のエキセントリックさが嫌いだった。大日本帝国陸軍長州閥で握られたことにより無謀な太平洋戦争に突入し日本が破れた、という認識は本書でも随所に紹介されている。

 

  それにしてもこの時代、本当に多くの人材が切られて死に、割腹して死んだ。小説や漫画で読むとドラマチックであるが、こうして史実として列挙されると、無惨としか言いようがない。

  ちなみにるろうに剣心のモデルとされている熊本藩河上彦斎も本書で一度だけ登場する。佐久間象山を殺害した場面である。「人斬り」と呼ばれたほどの凄腕の殺し屋は五人だけだったそうだが、そのうち彦斎だけは後に佐久間象山について勉強し改心の上明治時代まで生き延びた。

 

『覚醒した薩摩、目覚めなかった長州 世にに言う「八月十八日の政変」で京を追われた長州は失地回復を狙って出兵を行なうも、会津・薩摩連合軍の前に敗走する。この「禁門(蛤御門)の変」以降、長州と薩摩は犬猿の仲となるが、その後、坂本龍馬の仲介で「薩長同盟」が成立。やがて両藩は明治維新を成し遂げるために協力して大きな力を発揮した――。 以上はよく知られた歴史的事実であるが、じつは禁門の変以前の薩長の関係は大変良好であった。策士・久坂玄瑞の働きにより、すでに「薩長同盟」は実質的に成立していた、と言っても過言では無い状態だったのである。 では、友好だった両藩が、「八月十八日の政変」「禁門の変」へと突き進み互いに憎しみあい敵対するようになったのはなぜなのか? そこには、兄・島津斉彬に対するコンプレックスを抱えた“バカ殿”久光を国父に戴き、生麦事件や薩英戦争を引き起こしながらも「攘夷」の無謀さに目覚めた薩摩と、“そうせい侯”毛利敬親が藩内の「小攘夷」派を抑えきれず、ついには「朝敵」の汚名を着ることにまでなってしまった長州との決定的な違いがあった。(AMAZON解説より)』