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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

風とともにゆとりぬ / 朝井リョウ

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  朝井リョウを読むシリーズ、ゆとり世代のトンデモ大学生活を綴った「時をかけるゆとり」に続く第二弾「風と共にゆとりぬ」です。堂々と巻頭に「マーガレット・ミッチェルに捧ぐ」と書いてあります。よう言うた、というか、どの口が言う、というか。。。

 

読んで得るもの特にナシ! 500枚超の楽しいことだけ詰まった大ボリュームエッセイ集。 対決!レンタル彼氏/ポンコツ!会社員日記/冒険!朝井家、ハワイへ/諦観!衣服と私 失態!初ホームステイ/本気!税理士の結婚式で余興/阿鼻叫喚!痔瘻手術、その全貌等

ダヴィンチBOOK OF THE YEAR 2017 2位

ブクログ大賞2018 ノミネート

読書メーター OF THE YEAR 2018 3位

桐島、部活やめるってよ』で鮮烈なデビューを飾り、 『何者』で戦後最年少直木賞作家となった著者のユーモアあふれるエッセイ集が待望の文庫化。 日経新聞「プロムナード」連載エッセイや、壮絶な痔瘻手術の体験をつづった「肛門記」を収録。 また、その顛末が読める「肛門記~Eternal~」書き下ろし!(AMAZON解説)

 

   とにもかくにも猫毛で馬面、胴長短足猫背で痔持ちのスットコドッカーさくらももこさんの「少し長め、かつ、メッセージ性皆無のくだらないエピソードばかりで編まれたエッセイ集」をお手本に仰ぐ朝井リョウの快進撃は続きます。今回は三部構成となっており、順番に見ていきます。

 

  第一部「日常」

小説に込めがちなメッセージや教訓を「込めず、つくらず、もちこませず」をモットーに綴ったエピソード12編

ですので、基本的に前回と同じノリ。前作でものすごい存在感を示した謎の眼科医の先生が再登場し、いきなり笑わせてくれます。

 

  とは言え、前作以降のエッセイですので必然的に大学卒業後就職生活についての記事が多くなりますので、学生時代とは違っておふざけ度はやや控えめとなっています。そんななかでもバレーボール愛に満ちた奮闘ぶりは微笑ましい。4人で出られるビーチバレー大会にエントリーしたらきっちり一人が大寝坊で間に合わず、「四人います」とウソをついた当の相手である受付けのオバサンをスカウトしてくる仲間の行動力には脱帽。

 

  それでも社会人生活にはそれなりにまあまあ大人の雰囲気が漂うわけですが、高校時代のエピソードは本領発揮、前作並みにおバカ度満開。

  インキンタムシをカナダにもたらしたホームステイ、高校卒業と大学入学のはざまのモラトリアム時期に友人と初体験するアルバイトが「結婚式場の披露宴フロア係」といういきなりハイレベルすぎる仕事でお決まりの大失敗する話など、楽しめました。

 

  ちょっと驚いたのは「ままならないから私とあなた」収録の短編「レンタル家族」を編集者と一緒に実地で実験しているくだり。レンタル家族っていう仕事、やっぱり本当にあるんだ〜、と妙に感心しました。

 

  第二部「プロムナード」

日本経済新聞で2015年下半期の半年間連載というフィールドオブドリームスに錯乱した著者が、新聞購読者を増やしたいという野心に司られつつ綴ったコラム21編

なのでさすがにマジメ度数アップ、ここまでの1.5巻ほどのバカ笑いはできませんが、相変わらずの面白さです。

 

  そして最後に地雷ならぬ「痔雷」が待っていました。第三部「肛門記」です。

  学生時代から痔と粉瘤に悩まされていたリョウですが、仕事の忙しさにかまけて痛くても治療を先延ばしにしていたところ、ついに一番厄介な「痔瘻」になっていることが判明。

お尻の穴が増えちゃう病気、こと、痔瘻。 発症、手術、入院、その全てを綴った肛門界激震の一大叙事詩

がこの第三部となっています。作者には悪いけど思いっきり笑わせてもらいました。

 

  いやあ、これだから朝井リョウはやめられない。  

 

 

時をかけるゆとり / 朝井リョウ

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 朝井リョウを読むシリーズ、小説を一通り読み終えたのでエッセイに入ります。畏れ多くも原田知世様の「時をかける少女」からお題をいただいた「時をかけるゆとり」です。風の噂でバカバカしいエッセイだとは聞いていたのですが、まあ予想をはるかに上回るバカっぷりでした。おそるべしゆとり世代

 

就職活動生の群像『何者』で戦後最年少の直木賞受賞者となった著者。初のエッセイ集では天与の観察眼を縦横無尽に駆使し、上京の日々、バイト、夏休み、就活そして社会人生活について綴る。「ゆとり世代」が「ゆとり世代」を見た、切なさとおかしみが炸裂する23編。『学生時代にやらなくてもいい20のこと』に社会人篇を追加・加筆し改題。 (AMAZON

 

  冒頭の(作者たっての希望で作ってもらった)年表によりますと、リョウは1989年生まれ、俗に1990年問題と言われる「ゆとり教育」世代です。岐阜県有数の大垣北高校という進学校で学んだくらいで決しておバカではないのですが、東京での大学(早稲田大学)生活は一言で言うと

 

浅慮無分別没常識

 

これはもう「銭形警部はルパン三世の父親(とっつぁん)だと思っていた」1979年生まれの森見登美彦や、「あの頃ぼくらはアホでした」1958年生まれの東野圭吾でさえ尻尾を巻いて逃げ出すくらいひどい。けど、無分別ゆえの行動力はある。故に余計に騒動は大きくなる。

 

  例えば東日本大震災で各地の花火大会は当然中止。しかしリョウたちは「自粛我慢」という言葉とは無縁。探しに探して伊豆諸島の御蔵島の花火大会にでかけることにしたのはいいが、出発当日太平洋上には三つも台風ができている。でもそんなこと気にせずダイジョブダイジョブと乗船。その結末は想像通りでもあり、越えているところさえあり。

 

  また、夏休みに北海道で行われる某フェスに仲間と車で出かける予定を綿密に立てたはいいが「青函トンネルは一般車は通れない」という基本的知識が欠如していた。。。それならとフェリーやら列車やらを予約しようとするが、これまた友人が留学先で教えられていた日本のOBONの大変さをなめていて。。。

 

  かと思えば、友達と東京から京都までサイクリング旅行する計画を立てたはいいが、ロードバイクを出発わずか二日前に購入するという無計画ぶり。まあそれでも死ぬような思いをしつつ達成してしまうところは凄い。

 

  まあそういうアホエピソードのオンパレードで当時真面目に働いていた社会人や東日本大震災で苦汁をなめていた人々からすると噴飯ものなんですが、「桐島、部活やめるってよ」「チア男子!!」に始まる一連の小説にその経験をきっちりと取り入れているところはえらい。

 

  にしても、大学二年生というまだ就職活動に関係ない時期に編集者の依頼で

・ ちゃっかり就活を取材し

・ 超知ったかぶりのエラそうな就活エッセイを書き上げ

・ その後の就職活動に役立て

・ 後年「何者」という小説にして直木賞をかっさらい

・ 再び「知りもしないで書いた就活エッセイを自ら添削する」エッセイを書く

 

一粒で5度おいしい思いをしているのは、賢いというか、ちゃっかりしているというか。。。

 

  そんな朝井リョウの紹介文が最後に載っていますが、そこでもシャレのめしていて、もういっそ清々しい(苦笑。一部抜粋して終わります。

 

2009年「桐島、部活やめるってよ」で第22回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。お腹が弱い。10年「チア男子!!」でスポーツ小説ならではの大人数の書き分けに失敗。13年「何者」で第148回直木賞を受賞し、一瞬で調子に乗る。14年「世界地図の下書き」で第29回坪田譲二文学賞を受賞するが、「イイ話書いてイイ人ぶってんじゃねえ」と糾弾されれる。

 

。。。。。「朝井リョウの優しさを感じさせる」と「世界地図の下書き」レビューのキャッチコピーに書いた私の立場が。。。。。(そんなものないって?) 

 

 

楽しみと日々 / マルセル・プルースト

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  「失われた時を求めて」以外で岩波文庫版で手に入るマルセル・プルーストの作品はもう一つあり、これも読んでみました。「楽しみと日々」というヘシオドスの「仕事と日々」を衒った題名の第一作品集で、短篇、散文、詩などから成っており、一つ一つが短いので安心して読めました(笑。

 

プルースト(1871‐1922)が20代前半に書いた短篇小説・散文・詩をまとめた第一作品集。鋭敏で繊細な感受性、細部にわたる緻密な観察、情熱や嫉妬といった心理の微妙かつ執拗な探究、スノビスムへのこだわりなど、大作『失われた時を求めて』にも見られる特徴の数々が本書にはすでに現れている。作家プルーストの原点。 (AMAZON解説より)

 

  1892〜94年に彼が同人誌などに寄稿した作品を集め、師のアナトール・フランスに序文を、挿絵画家マドレーヌ・ルメールに花々の挿絵を依頼し作成された豪華本で、1896年にようやく完成しました。彼はこれを自費出版し、しかも買ってくれそうな友人知己には献呈したため、ほとんど売れなかったそうです。

 

  それ故に「社交界で有名な有閑作家が手遊びに書いて道楽で出版した」程度にしか思われず、文学界では話題にも登らなかったのですが、その評価が一変したのはやはり「失われた時を求めて」(「スワン家のほう」(1913)「花咲く乙女たちのかげに」(1919))で彼が一挙に有名になってからでした。

 

  雑多な作品を集めて詰め込んだと思われていたそうですが、構成を見るとおそらくそうではなくプルーストらしい美学が垣間見えます。

 

 序(アナトール・フランス

 献辞

シルヴァニー子爵バルダサール・シルヴァンドの死 *

ヴィオラントあるいは社交生活 *

イタリア喜劇序章 **

ブヴァールとペキュシュの社交趣味と音楽マニア *

ド・ブレーヴ夫人の憂鬱な別荘生活 *

画家と音楽家の肖像 ***

若い娘の告白 *

晩餐会 *

悔恨、時々に色を変える夢想 **

嫉妬の果て *

 

*: 短編小説

**: エチュード的散文

***: 詩

 

中央に詩集である「画家と音楽家の肖像」を配し、その前後に「小説ーエチュードー小説」を対称的に配置していることがわかります。選から漏れた作品も、この文庫版には収録されています。

 

付録

夜の前に

思い出

アレゴリー

つれない男

 

「夜の前に」は女性の同性愛をテーマとしてあるので外したと考えられています。「つれない男」は初出が1896年で長い間行方不明であったものを書簡研究家コルプ氏が執念で探し出し、なんと1978年になってようやく日の目を見たそうです。

 

  小説では愛、背徳、苦悩、嫉妬、死、スノビズム、芸術といったテーマが上流階級の社交界を舞台として描かれ、その背後にはプルーストの同性愛対象であったと言われる音楽家レーナード・アーン等の影がちらつき、散文では花、月、海、木立等々の自然描写がパリやノルマンディーといった「土地の名」とともに鮮やかに描かれています。

 

  どれもこれも全て「失われた時を求めて」において花開く材料ばかりで、この頃の修練があの大作につながっていくのだな、という感慨をいだきながら読んでいました。

 

  しかし、あの大作をもし彼が発表せずに亡くなっていたらどうだったか?

 

自意識過剰がプンプン鼻につく、華美な文章で埋め尽くされた、有閑作家の若書き

 

という評価のまま、文学史の彼方にうずもれてしまっても致し方のないところだったと思います。アナトール・フランスが序を書くのを嫌がったので出版が遅れたという話も(代筆という噂まであった)満更作り話でもないのでは、と思います。

 

  個人的には「庶民」の描写がほとんどないことに薄っぺらさを感じました。「失われた時を求めて」では女中のフランソワーズを始めとして多くの庶民階級を描いており、貴族、ブルジョア、庶民という三階層全てを登場させることにより作品に厚みをもたらしていたのだな、と今更ながらに再確認できました。

 

  以上のことを鑑みるに、やはりこれは「失われた時を求めて」を読んでから読む本なのでしょう。私にはクールダウンとしてちょうどよかったと思います。

  未読の方には、例えばエチュードの「悔恨、時々に色を変える夢想」の習作群あたりが、自分がプルーストの文章に親和性があるかどうか、「失われた時を求めて」を読み続けられそうかのリトマス試験紙になると思います。

 

  試しに、いかにもな文章を二つ挙げておきます。気に入ればこの本を踏み台にして「失われた時を求めて」にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

 

 僕は貴女の花を取りはずす。貴女の髪をもち上げる。宝石をちぎり取る。貴女の肉肌に届き、砂に打ち寄せる海のように、僕のキスがあなたの肉体を覆い、打つ。しかし貴女自身は僕の手を逃れ、貴女といっしょに幸福も去っていく。(p262、二十五 愛の光による期待の批判)

 

 現実だけでは満足できないことを予感したかのように、初めて悲しみを覚えるよりも前に、まず生を嫌悪し神秘の魅力に惹かれる人々。海はそういう人々を魅惑してやまないだろう。まだどんな疲れも覚えたことがないのに、もう憩いを必要とする人々を海は慰め、漠たる昂揚に誘うだろう。(p266、二十八 海)

 

 

太陽と乙女 / 森見登美彦

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   モリミーこと森見登美彦の「太陽と乙女」です。(いろんな意味で)衝撃のデビュー作「太陽の塔」と(乾坤一擲待望の女性ファンを一気に増やした)代表作「夜は短し歩けよ乙女」を合体させたような題名からして、またまた京大腐れ大学生と妄想不思議乙女が活躍するモリミー節全開の快作(怪作)かっ!?

  と期待したそこのあなた、、、残念

 

  ご本人曰く、小説家として出発した2003年以来約14年にわたって様々な媒体に発表してきた、現時点での「森見登美彦エッセイ大全集」です。この現時点とは平成29年なのですが、今回(R2年)文庫化され、それに当たって親本刊行後に書いた文章を新たに二篇収録したそうです。この文庫版が「新潮文庫の100冊2020」のリストに上がっており、この際再度モリミーの売り上げに寄与すべく文庫版を買ってきました(恩着せがましい)。

 

  いやあ、どこもかしこも面白い!どこかで読んだ話も多いのですが(親本読んでるから当たり前だろうというツッコミは無しね)、珍妙軽妙洒脱自虐のモリミー節が随所から立ち上り、抱腹絶倒とはいきませんが、クスクス笑えます。

 

  結構全体として分量があり内容も盛り沢山なので一つ一つ紹介するわけにもいきませんが、各章をさらっとみていきましょう。

 

第一章 登美彦氏、読書する

  書評集です。さすがプロ、読ませますし、この本買おうかな、という気にさせます。なんせ冒頭のつかみが上手い。例えば北野勇作の『カメリ』の解説の書き出し。

 

この小説『カメリ』には、ダンゴロイドというナイスな名前の存在が登場する。

 

ダンゴロイド」という名前を出すことでグッと興味をそそり、「ナイス」というベタな表現でたたみかける。聞いたことのない作家でも(とりあえずレビューは)読みたくなります。

  氏自身も、綿谷りさの「憤死」の解説中で

 

笑える話というものはさりげなく始めるといつまで経ってもへなへなするきらいがある。冒頭から思い切った一撃を加え、手前勝手に勝利を宣言することこそが勝利への道であると私は思う。

 

と書いておられます。自分のレビューもこうありたい、と思うのですがなかなか真似できないですわ。

 

第二章 登美彦氏、お気に入りを語る

  続いて映画評等々雑多なレビュー。ここでも「冒頭の一撃」の法則は生きています。特に日本映画史に燦然と輝く「砂の器」評の最初の一文、

 

 すごいという噂は聞いていた。

 

はすご過ぎる!「砂の器」をこれ以上簡潔明瞭に表現しきるのは不可能でしょう。   もちろん冒頭だけではありません、「ルパン三世」の思い出、

 

私がどれくらいぼんやりしていたかというと、銭形警部のことをルパンのお父さんとおもっていたぐらいである。なぜならルパンが「とっつぁん」と呼ぶからだ

 

は、もう天然なのかネタなのかわからない。

 

第三章 登美彦氏、自著とその周辺

  デビュー前後の出来事などなど大体知っている事ばかりでしたが、2011年連載仕事を引き受け過ぎて頭がパンクしてしまい、東京から都落ちして奈良にすっこんで一年ぶらぶら過ごした、ファンには有名な黒歴史を冷静に語っておられるのが印象的。立ち直られて何よりです。

 

  また京都という土地にこだわる続けているようにみえて、「失われた時を求めて」で「土地の名・名」という章まで設けたプルーストばりに

 

もし景色が変わっていても、我々には地名という心強い味方がある。じつのところ私は、地名さえあればなんとかなる、というふうに思っている。

 

と書いておられるあたりは、さすが作家だな、と感心。

 

第四章 登美彦氏、ぶらぶらする

  旅行記、近辺記など、個人的にはこの章が一番好きです。

 

  小説中のキャラのようなユニークな女性編集者矢玉さんとの東京ショートトリップや結構本格的な山陰行も読ませますが、何と言ってもモリミーと同じ奈良県人である私には、ご本人曰くの私なりの奈良のほそ道『2017年近所の旅』シリーズが嬉しい。   特に、奈良県人にとって

 

西大寺は寺の名前ではなく、近鉄の駅の名前である

西大寺からはどこへでもいける、近鉄西大寺駅は世界の中心

 

説には思わず拍手喝采

 

  中高6年間、N女子大付属に通っておられた登美彦氏は近鉄生駒ー奈良を利用、T大寺に通っていた私は車内全線路線図で唯一名前を載せてもらえない超弱小駅から西大寺経由で奈良まで通っていたので、氏の思い出の数々と共鳴しまくりました。

 

  特に、生駒―奈良であれば西大寺は通過するだけなのに、好きになった女子が西大寺で乗り換えするのでわざわざ降りて彼女に近づこうとするエピソードには爆笑。結構あるんですよ、そういう事例は。西大寺恋のハブ駅だったのです。

 

第五章 登美彦氏の日常

第六章 「森見登美彦日記」を読む

第七章 空転小説家

 

  奈良で興奮してしまい長くなり過ぎたのであと三章は割愛させていただきます(をいをい。

 

  とにかく、ご本人もまえがきで書いておられますが、これほど「寝る前に読むべき本」としてぴったりのものはない。奈良県人なら必読、そうでない方も是非枕元に置いて寝てください(寝るのか)。

 

少年の頃から物語を描いていた。我が青春の四畳半時代。影響を受けた小説、映画、アニメーション。スランプとの付き合い方と自作への想い。京都・東京・奈良をぶらり散策し、雪の鉄道旅を敢行。時には茄子と化したり、酔漢酔女に戸惑ったり。デビュー時の秘蔵日記も公開。仰ぎ見る太陽の塔から愛おしき乙女まで、登美彦氏がこれまで綴ってきた文章をまるごと収録した、決定版エッセイ大全集。(AMAZON) 

 

盤上の夜 / 宮内悠介

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 「宮内悠介を読もう」シリーズの五冊目はデビュー作「盤上の夜」です。本来なら真っ先に読まねばならないところなのですが、本作のテーマであるボードゲーム類が全く不得意であることと、紹介文やレビューで「盤上の夜」の主役の設定が嫌だったことで、故意に避けていました。しかし傑作である「ヨハネスブルグの天使たち」に出会えたことで吹っ切れ、本腰を入れて宮内悠介を読みたくなり、この処女作を手に取った次第です。

 

  前作でまとめた宮内悠介の短編集の特徴はこの処女作で既に確立されています。再掲しますと

 

・ ゆるやかに連関のある短編を重ねて全体として統一した世界観を提示する

・ 日本語題名にある程度統一性を持たせる

・ 英語のサブタイトルで内容を示唆する

・ 参考文献を提示する

 

となります。本作の場合は「ボードゲーム」がテーマで、取材記者である「わたし」が一作品を除いて語り手として登場し、最初の作品と最後の作品では主人公が共通しています。

 

  日本語と英語のタイトル、本文、参考文献という体裁も本作ですでにそのスタイルを確立しており、デビュー当初からかっちりとした構成のできる作家であったことがよくわかります。

 

  そして驚くべきは、練りに練られた完成度の高いプロットと、理系的なドライで分析的な文章。いわゆる「キレッキレ」な作品集で、これはデビューから注目を集めるわな、と感心しきりでした。敢えて言えば、ご本人が「超動く家にて」のあとがきで書いておられた

処女作がシリアス過ぎて、このままでは、洒落や冗談の通じないやつだと思われてしまわないだろうかというのがバカ小説執筆のきっかけ

という一節がよく理解できるような、あそびのない張り詰めすぎた展開、そしてややドロドロした設定があるのが気になったと言えば気になりました。また、最初に書いたようにボードゲーム類がからっきしダメなのが悔しかったです。詳しい人なら倍楽しめると思いますし、解説で沖方丁氏が書いておられるように、共通した語り手である「わたし」の心の動きもより理解しやすいのだろうと思います。

 

  それにしても「栴檀は双葉より芳し」という喩えがピッタリくるような処女作でした。

 

  以下、寸評です。

 

盤上の夜 Dark beyond the Weiqi 囲碁(Weiqiは中国語の囲碁の事)

  慰みものにするために海外旅行中の女性の四肢を切り取るという都市伝説を題材にしていると聞いていたので読むのを躊躇っていた作品。その辺はさらっと流し、四肢をもがれた天才女性棋士灰原由宇と彼女の棋風に魅入られた日本の元棋聖相田淳一が囲碁界に起こした嵐が、取材記者の目を通して極めてドライな筆致で淡々と綴られるので、意外に引っ掛かりなく読めました。

  特に彼女が盤上に「感じて」いた世界の描写が素晴らしい。そこから一捻りした上で沖方氏曰くの“本書における最も静かで美しいクライマックス”に持っていく技量は新人離れしています。囲碁をよく理解している人ならもっと深く感じるところがあるのでしょう、そこが悔しかった。

 

人間の王 Most Beautiful Program チェッカー

  実在した無敗のチェッカープレーヤー、マリオン・ティンズリー。彼は1992年にシェーファーというプログラマーが考案したシヌークというプログラムと対決したことでも有名だそうです。その人間チャンピオン対コンピューター最強プログラムの対戦についての、一問一答形式の取材という形式で話は進むのですが、インタビューに応じている人物が誰か、というのがこの話のミソでなかなか面白かったです。

 

清められた卓 Sharman versus Psychiatrist 麻雀

  麻雀は大体ルールがわかるので、面白く読めました。伝説の対局についての取材から浮かび上がってくる、透視能力があるとしか思えないシャーマン女性の真実。宮内悠介自身プロ麻雀試験に補欠合格した経歴の持ち主なので、麻雀理論の説明がすごいのですが、その一方で無敵のシャーマン女性の打つ手が無茶苦茶弱かった私がやるような手ばかり。その種明かしに笑ってしまいました、TVバラエティ番組「突破ファイル」MCのうっちゃんなら「惜しい!」と言ってくれてるかも(笑。

 

象を飛ばした王子 First Flying Elephant チャトランガ

  将棋やチェスの起源と言われる古代インドの盤上遊戯チャトランガの発案者として、家族を捨て出家した釈迦の息子を設定したところが宮内悠介の慧眼です。捨てられ小国の生き残りを任されてしまった王子が戯れに考えだし、大人になって、帰ってきたシッダルタと盤上対決する場面が感動的で、この作品は一個の独立した作品として素晴らしい。

 

千年の虚空 Pygmalion's Millenium 将棋

  これも作品としては素晴らしい出来栄えですが、そのドロドロさにはちょっと辟易。「盤上の夜」を最初に読んでいたら早々に宮内悠介から退散していたかも。そういう意味では、今になって読んで正解でした。

 

原爆の局 White Sands, Black Rain

  「盤上の夜」の主人公の二人由宇と相田、そしてを追いかける記者「わたし」と第一作で由宇に勝てなかった棋士井上隆太の四人が再登場、舞台はアメリカへと移ります。それと並行して昭和20年8月6日の広島で行われていた本因坊戦が描かれ、絶妙にリンクしてラストの由宇と井上の決戦に雪崩れ込みます。観戦している「わたし」が“このとき現実の底がぬけた。部屋は透明な海水に満ち、透明な魚の群れが音もなく横切っては消えた。”と感じてからのめくるめくような展開は見事なものでした。囲碁をよく知る人であれば最後の由宇の言葉

 

「 ーーー 九割の意思と、一割の天命です。」

 

に感じ入る事ができるのだろうと思います。

 

  以上、ボードゲームと人生の「完全解」を求め続ける人間たちの「さが」を描き尽くした短編集でした。( ← と、ボードゲームを知らぬ人間が結論づけてもいいのか? )

 

 相田と由宇は、出会わないほうがいい二人だったのではないか。彼女は四肢を失い、囲碁盤を感覚器とするようになった―若き女流棋士の栄光をつづり、第一回創元SF短編賞山田正紀賞を贈られた表題作にはじまる全六編。同じジャーナリストを語り手にして紡がれる、盤上遊戯、卓上遊戯をめぐる数々の奇蹟の物語。囲碁、チェッカー、麻雀、古代チェス、将棋…対局の果てに、人知を超えたものが現出する。二〇一〇年代を牽引する新しい波。(AMAZON解説)

プルーストと過ごす夏 / アントワーヌ・コンパニョン他

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  先日読了したマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」ですが、読み終わってホッとするかと思いきや、逆にズルズルあとを引いています。この化け物のような、この本の著者の一人に言わせれば“いささか奇怪で、見事な具合に失敗している”小説は一体何だったのか?それをずっと考えていますし、分かっていない部分や読み落としている部分があるんじゃないかという不安に駆られます。かと言って、じゃあもう一回読むかと気軽に再読できる長さと文章じゃない。

 

  もちろん訳者の高遠弘美氏や吉川一義氏の詳細で丁寧な解説はありがたいものでしたが、本国フランスの方の捉え方も参考になるんじゃないか、と思って手に取ったのがこの本です。

 

  2013年の夏、フランス・アンテノールのラジオ番組で8人の現代フランスを代表するプルースト研究者、作家たちが、それぞれの視点から『失われた時を求めて』の魅力、“自分の心にかかるテーマと自分を変えた1ページ”を選び、語った内容を、あらためて文章に起こしてもらったものだそうです。それを番組の聞き手で本書の編者ローラ・エル・マキが、各人の一小節ごとにテーマを提示しつつ上手くまとめています。

 

第一章 時間 アントワーヌ・コンニョン

第二章 登場人物 ジャン=イヴ・タディエ

第三章 プルースト社交界 ジェローム・プリウール

第四章 愛 ニコラ・グリマルディ

第五章 想像界 ジュリア・クリスティヴァ

第六章 場所 ミシェル・エルマン

第七章 プルーストと哲学者たち ラファエル・アント―ヴェン

第八章 プルーストと芸術 アドリアン・グーツ

 

  全く知らなかったことや特別に目新しい内容はなかったですが、ラジオ番組をもとにしただけあって親しみやすく、「そうそうそうなんですよ!」とか、「え、そうかな?」とか、「間違ってたら恥ずかしいから書かなかったけどやっぱりそうなのか!」とか、いろんなツッコミをいれながら読んでいました。

 

  それにしても「失われた時を求めて」という小説は如何様にも読めるし、如何様にもテーマを掘り起こせる。おまけに、語り手「私」が最終章で「もし事故死してしまえば自分の頭脳の中の鉱床がすべて失われかつ掘り起こすことができなくなってしまう」と危惧したように、彼は刊行途中で病死します。アントワーヌ・コンニョンは書いています。

 

もし彼がもっと長く生きていれば、この本は三千ページではなく四千ページになっていた可能性すらある。『囚われの女』と『消え去ったアルベルチーヌ』と『見いだされた時』はもっと増えてしたかもしれないのだ。(p26)

 

ですから、読み終えて「まだ何か読み残しているかもしれない」と思うのは私だけでないのかもしれません。とはいえ、まあ三千ページだけでも完読するのは大変。まして全てを理解するのは不可能に近い。ということで、この8人の言葉を借りて、私なりに通巻での「失われた時を求めて」の再検討を試みてみます。

 

以下レビュアー自己満足の長文ご容赦のほどを。 (ちなみに引用文が「だ・である調」(これについては訳者解説あり)なので地の文もそれに従います。)

 

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  まず、「失われた時を求めて」の一般認識はこうである。

失われた時を求めて』は、うまく分類することが永久に不可能な種類の本の一つである。それこそが、この本の力であり、深さなのだ。一度読んだ人は十年経ってからまたこの本を読み返すだろう。(中略)とはいえ、非常に有名なこの本を、全部通して読んだ人となるとまれだ。当初から変わらない法則が一つある。第一篇『スワン家のほう』を買った人のうち、半分だけが第二篇『花咲く乙女たちのかげに』を買い求め、『花咲く乙女たちのかげに』を買った人のさらに半分だけが『ゲルマントのほう』を買い求める。しかし、それからあとはもう挫折する読者はいない。『ソドムとゴモラ』『囚われの女』『消え去ったアルベルチーヌ』を経て、『見いだされた時』へとたどりつく。(pp16-8)

  この、ストーリーだけとってみれば要約するのに半ページも要らない物語が何故かくも多くの人を挫折させるのか?それはひとえに、長くて難解な文章のせいである。

モンテーニュプルーストは、どちらも息の長いセンテンスを好む。とはいえ、長くなってしまう理由は同じではない。モンテーニュは<引き伸ばし>のために長くなるのであり、プルーストの文の長いのは、本質的に<付け足し>によるものだ。言いかえれば、モンテーニュの文は内部で膨らむのであり、一方、プルーストの文は途方もなく外に延びていくのである。(p248)

 

プルーストの長い文は非常に特殊だ。(中略)だが、プルーストは短い文を書くのもうまい。(中略)第一文「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた」は、巻の幕開けとしてまさに天才の思い付きである。(p26-7)

  つまり文章の性質を把握し、読むのに慣れれば、通読は可能だしその文章を楽しむことがこの小説を読む楽しみにもなりうる。ハイレベルの読者はこんなことさえ言っている。

「短いのに長く感じさせる作品というのがある。プルーストの長い作品は、僕には短く感じられる」ジャン・コクトーは『失なわれた時を求めて』を、こんなふうに語ってみせた。(中略)この本を読むと、そこから抜け出したくないと思ってしまう(p24)

  ただ、その文章の性質ゆえに、流れがつかみにくいのは事実。時の流れ、時代の流れ、ストーリーの展開など、小説の技法を無視してひたすらダラダラ書いているように思える。しかし、それは違う。

彼は周到に物語を構成していた。 この本は、非常に周到に組み立てられている。さらさらと筆が流れるままに書いたかのような見かけにだまされた人もいたわけだが、この本は、あらかじめの準備と、いくども戻って考え直した末の賜物なのだ。(p42)

 

彼は知性よりも心情の間歇のほうを好んだ。知性は時にがっちりと構築されすぎた記念構造物のようになりがちだからだ。ジョン・ラスキンによれば、記念構造物には、錆や風化が必要だという。あの、石を輝かせる時の経過が必要だと。とても頑丈なああした建造物から、構造を消し去り、一目見ただけでは構造がわからないようにしなければならないのだ。知性は図面を引き、土台を造ることを可能にする。だが、プルーストの知性は、さらにその上をいく知性であるために、その図面を半ば消し去り、人が何も見抜けないようにしたのだ。なぜなら、最初にまず印象付けなければならないのは、だからである。そこにこそ、この小説の名作たるゆえんがある。(p307)

  つまり、流れのつかみにくさこそがプルーストの美意識そのものだったのだ。ただ、“本質的に<付け足し>によ”り長くなっていった故に、前後関係の齟齬や死後出版分の訂正しようのない間違いも多い。特に問題なのは

『スワン家のほう』と『見いだされた時』の結末の間には齟齬がある。このことは構造上の問題を生む。(p45)

なのだが、

最後まで読んだ読者はもうそのことについてはもうそのことについて理解し、折り合いが心の中でついている。 「優秀なる読者」には、そんな標識は必要ない。彼はもう文学の、生と死を贖ってくれる、贖罪の役割に気がついている。この意味で、『失われた時を求めて』は幸福な書物だ。幸せな終わりを迎える本なのである。(p45)

  そのようなエクリチュール(書く方法)は写実主義的とは相容れない。とは言え、無意識的記憶に従ってでも自らの人生を描こうとした以上、彼の生きた時代と全く無縁であったわけではない。

プルーストは社会的にも文化的にも宗教的にも、つねに二つの世界に属している。(中略)彼にとってのジレンマは、ハムレットのように「生きるべきか、死ぬべきか」ということではなく、「その中に属すべきか、属さざるべきか」ということなのだ。この態度をもって、彼はフランス社会を痛烈に批判する。(p193)

 

プルーストは、歴史上の出来事など、芸術にとって、鳥の歌声ほどに意味がないと主張していた。だから彼は写実主義的な小説は書かなかった。けれども(中略)物語の筋は、おおよそプルーストの生涯の年譜と対応しているわけだ。ただ、何人かの登場人物は、歳をとらない。たとえば女中のフランソワーズ。(pp34-5)

(このフランソワーズの指摘は面白い。)

プルーストは単なるスノッブで繊細な作家ではない。本当に読んだことのない人が、そう想像しているだけである。彼はからかい好きで残酷な書き手なのだ。その壮大な詩想と超敏感な感受性とは別に、何か奇妙でいびつな部分が彼のうちにあることは,頭に留めておく必要がある。『失われた時を求めて』は、キュビズムの絵画と同時代の作品なのだ。(p107)

  そう、この小説の主要登場人物や、彼らが集う社交界は語り手の目を通して、キュビズム的に特徴(彼の言葉を借りれば印象か)が強調されているように感じる。その一挙一動を執拗に観察し書き続ける語り手。それがこの物語の大きな特徴であると感じる。

けれども、私がとりわけ愛着をもっているのは、この物語の登場人物たちである。人はこの小説の語り手の声に、その人生に、還元しすぎるきらいがある。(中略)そこには巨大な登場人物のシステムー女たち、男たち、子どもたち、老人たち、使用人たち、大貴族たち、政治家たち、兵士たちーがあることを忘れてはならないのである。(p61)

 

プルーストの描く社会は非常に閉鎖的な社会だ。それはいわば<長く生き永らえ過ぎた者たち>の社会であって、それ自体パロディのようなものである。(中略)現実社会の中で、おとぎ話の世界を生きているのである。こういう世界を思い描くには、フェデリコ・フェリーニの映画を思い浮かべるのがいいのかもしれない。(p108)

  そのような登場人物で、最も代表的な人物は、実在の裕福なユダヤ人シャルル・アースをモデルにしたスワン氏であろう。

そもそもスワンは、その人生の挫折により、おそらくプルーストの作品の中でもっともニーチェ的な登場人物だと言っていいだろう。(中略) スワンの挫折は『失われた時を求めて』にとって必要なものだった。ツァラトゥストラの挫折がニーチェの待ち望む超人性にとって不可欠であったように。(中略)ニーチェの超人思想とは、要するに永劫回帰を望むほどまでに生を愛することだったのだが、プルーストもまた同じく生を愛していたのである。(p266)

  このスワン氏にしても、語り手にしても、とにかく恋人(それぞれオデット、アルベルチーヌ)への嫉妬に苦しめられるし、恋愛中は世間との関係を断ってしまいさえする。「苦痛」が愛することそのものであるかのように。それは厭世主義的な点においてショーペンハウワー的とさえ言えるが、安易にショーペンハウワーを持ち出すのはオリヤーヌにバカにされ激怒されるカンブルメール夫人の轍を踏む事になりかねない。

ショーペンハウワーは社交界の哲学者である。社交界、つまりスノッブたちの世界の。(中略)たとえば、カンブルメール夫人はショーペンハウワーをよく引き合いに出す。なぜなら、そうすることで安手に自分を輝かせることができるからだ。(中略)ショーペンハウワーは、その哲学をひけらかしに使う人のとっては実に魅力的なペシミストなのである。(p256)

 

プルーストにおいても、ショーペンハウワーにおいても、<私>だけにこだわるならば、存在は袋小路だということになってしまう。だが、一個人の小さな生が描き出す地平線を越えて、その向こうにまで眼差しを向ければ、厭世主義は乗り越えることができるのだ。(p259)

  また先日レビューした「収容所のプルースト」でも指摘があったように、プルーストは安易に「」を持ち出さない。

プルースト以後、彼が小説の中で探し求めたこの「無神論の美徳」は失われてしまったのではないだろか。シュルレアリストたちは狂気の愛を探し求めた。実存主義者たちは政治革命の熱狂に身を投じた。ヌーヴォー・ロマンは耽美主義を復権させた。そして「自伝的小説」は今日、超自我のスキャンダルを神聖なものとして特別視している。しかし、一つの立場に立つのでも、その反対の立場に立つのでもなく、常に横断的で俯瞰的な姿勢を貫くプルーストに比べると、彼以後の文学は全て局地主義的なものに見え、色あせてしまう。(pp196-7)

 

  敢えて言えばプルーストは芸術至上主義者である。スワン氏と並ぶ重要人物であるシャルリュス男爵はその奇矯な性格と倒錯した性愛の嗜好にもかかわらず、芸術への造詣の深さにより燦然と輝いている人物であるし、そのすべてを書き続ける語り手「私」の文学、音楽、絵画、演劇等々の造詣の深さはただものではない。

 

  そして架空の人物であるヴァントィユ(作曲家)の音楽、エルスチール(画家)の絵画、ベルゴット(作家)の作品、それらを文字で表現していくプルーストの凄さもただものではない。

小説の中で、プル-ストは音楽のフレーズ―ヴァントィユの楽句ーについて、ほとんど文体論的なコメントを書き綴っているが、それはまさにそれ自体一つの文学的小品と言っていいようなコメントである。(中略)プルーストはこうして小説の中で一人の音楽家を創造しているのだ(以下略)(p288)

 

ベルゴットはフェルメールの絵の前で死ぬ。もしかしたら、「アナトール・フランス風の」偉大な作家が他界することが、新しい作家の誕生のために必要だったのかもしれない。(中略)ベルゴットは死に、やがて生まれるべき本がようやくその扉を開くことになる。(p304)

 

この本を通して、プルーストは創作に取り組む芸術家の姿を見せてくれている。それは彼自身の鏡でもある。彼は、自分の数々の彫刻作品をたった一つの作品「地獄の門」の中に集めたロダンや、「睡蓮」の連作を描いたクロード・モネと同じ意思に突き動かされているのだ。それはワーグナー的な計画だと言ってもいい。それ自体一個の世界となりうるかもしれないような作品を作るということである。プルーストはサン=シモンの『回想録』の系譜に連なると同時に、またバルザックシャトーブリアンの末裔でもある。(p282)

 

結論:

 

プルーストは読みやすい作家ではない。その文は一つ一つが長く、描かれる社交界の夜会はいつ終わるともしれない。恐ろしくなる。だが、本を恐れるのは当然なのだ。なぜなら、本というものは、私たちを変えてしまうものだから。プルーストの作品のような小説に飛び込み、それを本当に読んだなら、その最後まで行き着いたなら、人は違う自分になってそこから出てくる。(p18) 

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二十世紀文学の最高峰と言われる、プルースト失われた時を求めて』。この大作に挑戦するには、まばゆい日差しのもと、ゆったりとした時間が流れる夏休みが最適だ―。本書は、現代フランスを代表するプルースト研究者、作家などが、それぞれの視点から『失われた時を求めて』の魅力をわかりやすく語った、プルースト入門の決定版である。(AMAZON解説)

 

空の青さを知る人よ / 額賀澪

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   人気アニメ制作チーム超平和バスターズの、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(通称「あの花」)」「心が叫びたがってるんだ(通称「ここさけ」)」に続いて昨秋公開された「空の青さを知る人よ」のノベライズ作品で、書いておられるのは超平和バスターズではなく、額賀澪という作家さんです。映画は公開時に観ており、今回 #カドフェス2020 のリストにあったので読んでみました。

 

  舞台は「あの花」「ここさけ」とこの作品を入れて秩父三部作と呼ばれている通り、今回も脚本担当の岡田麿里の故郷秩父市です。山に囲まれた風光明媚な土地ではあるけれど、都会志向の若者にとっては山に囲まれた盆地が“牢獄”のように思える田舎町。

 

  主人公は相生あかね(31)、あおい(17)姉妹。小説はあおいの語りで終始進められます。

 

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映画館で買ったクリアファイル。左からじゅん(ここさけ)、あおい(空青)、めんま(あの花)

 

  二人は13年前に交通事故で両親を亡くし、あかねが親代わりとなりあおいを育ててきました。あかねその当時高3で、当時つきあっていた金室慎之助(通称「しんの」)と二人で上京し専門学校へ進学するつもりだったのですが、そういう事情で故郷に残りました。「しんの」はバンドを組んでいたのでギタリストとして成功する夢を持って上京し、それきりになっていました。あおいは当時4歳で、バンドに差し入れにいくあかねにくっついて練習場所の寺のお堂にいっては「しんの」に可愛がられ、将来バンドのベーシストにしてやると言われていました。

 

  時は流れ現在、あおいはこれ以上あかねの負担になりたくないと、高校卒業後進学せず上京する決意を固めています。そしてベーシストとして音楽業界での成功を夢見て、今もあのお堂で練習を重ねています。あかねは役場に勤め堅実な生活をしつつ、あおいの送迎までしています。高校時代のバンドのドラマーであったバツイチコブツキの中村正道はあかねに気があり、あわよくば結婚したいと思っていますが、あかねはいつもはぐらかしています。

 

  そんなお膳立てをした上でのある日、お寺のお堂で練習するあおいの前に、13年前そのまんまの「しんの」が現れたからさあ大変!

 

  しかも同じ日にあかねとあおい、正道親子の前に、正道が町おこしイベントで招聘した大物演歌歌手のバンドの専属ギタリストとして、本物の慎之助が現れた!

 

  お堂の「しんの」は「生き霊」なのか?にしても何故?

 

  そこからあおいとあかね、「しんの」と慎之助の奇妙な四角関係騒動が始まります。超平和バスターズお得意の不思議でちょっと切なくて「大人でも泣ける」物語、あとは読んでのお楽しみ。

 

  全体に丁寧にノベライズされており、作家としての個性は消してうまく各シーンを文字で再現していく額賀澪さんの筆致には好感が持てます。ゴダイゴガンダーラの音楽とともに、どのページをめくっても半年以上前に見たきりであった映画のシーンが鮮明に蘇ってきました。あかねが卒業文集に書いた

 

井の中の蛙 大海を知らず されど 空の青さを知る

 

の意味、そして使われ方もうまく再現されています。

 

  敢えて言えば、あおいの語りで話が進むため、他の人物、特に今回は正道の掘り下げ方が浅かったように思いました。

 

     それでも映画をしっかり追体験でき、映画ではエンドロール中の絵での紹介でしか見られなっかった「その後」についても「エピローグ」でしっかり書かれていますので、映画が好きな方にはお勧めです。映画がまだの方でも一日あれば十分読めますし、イラストもたくさん挿入されているので楽しめます。ストーリーが気に入ればぜひ映画もご覧ください。

 

  これからも超平和バスターズからは目が離せません! ( ← 額賀澪さんじゃないのか )

 

『あの花』『ここさけ』の長井龍雪監督が贈る、最新映画の小説版 山間の街に住む高校生・相生あおい。進路を決める時期なのに大好きな音楽漬けの日々を送る。 そんな彼女を心配する姉・あかねの昔の恋人で、高校卒業後に上京したきりだった慎之介が、街に帰ってきた。 時を同じくして、あおいの前に、高校時代の姿のままの慎之介こと「しんの」が現れる! やがてあおいは、しんのに恋心を抱いていくが……。 一方、あかねと慎之介も13年ぶりに再会を果たす。 過去と現在をつなぐ、「二度目の初恋」が始まる。(AMAZON解説より)

収容所のプルースト / ジョセフ・チャプスキ

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  マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」を完読できれば読みたいと思っていた本です。光文社古典新釈文庫版の翻訳をされている高遠弘美氏が第三巻「失われた時を求めて〈3〉第二篇・花咲く乙女たちのかげに I」の解説でこの書に言及し、手もとにテキストがあるわけでないのに

プルーストの表現を一旦自分のなかにいれて咀嚼し(中略)あまりにも見事に綴り直すチャプスキの「記憶」は、フローベールボードレールについて、本そのものが手もとになかったために、記憶だけで引用してすばらしい批評を書いたプルーストその人を想起させる。(中略)勘所を外さないその「引用」と原文を比べると、言いようのない感動に襲われる。(中略)何かの作品を愛するとはまさにこういうことでなければならない。

と絶賛されていたので、これは読まねばと思っていました。

 

  一方で根本的な疑問も二点ありました。

 

1: 収容所という極限の状況下で軍人が何故フランスの社交界と恋愛を延々と描き続けるこの作品を選んだのか?軍人捕虜たちがそれを本当に喜んで聞いていたのか?

2: 本当にテキストなしでこの数千ページに渡る長編小説を講義できるのか?

 

  先週(2020/6/26)ようやく「失われた時を求めて」を読み終えましたので、さっそく読んでみました。

 

1939年のナチスソ連による相次ぐポーランド侵攻。このときソ連強制収容所に連行されたポーランド人画家のジョゼフ・チャプスキ(1896 - 1993)は、零下40度の極寒と厳しい監視のもと、プルースト失われた時を求めて』の連続講義を開始する。その2年後にチャプスキは解放されるが、同房のほとんどが行方不明となり、「カティンの森」事件の犠牲になるという歴史的事実の過程にあって、『失われた時を求めて』はどのように想起され、語られたのか? 現存するノートをもとに再現された魂の文学論にして、この長篇小説の未読者にも最適なガイドブック。(本の帯の解説より)

 

  まず最初にお断りしておきますが、訳者によりますと、本書が本当に収容所内の講義の忠実な記録であるのかどうかに関しては多くの疑問があり、真相はわからないのだそうです。その上でですが一応は収容所内の講義録として上記1,2の疑問を検討していきたいと思います。

 

1について: 「収容所という極限の状況下で軍人が何故フランスの社交界と恋愛を延々と描き続けるこの作品を選んだのか?軍人捕虜たちがそれを本当に喜んで聞いていたのか?」

 

  まず状況については理解できました。この講義はチャプスキだけが行ったものではなく、皆がそれぞれの得意分野を講義しあったのです。その中にはイギリスの歴史、移民の歴史、建築の歴史、南米のことなど様々なテーマがあり、チャプスキ自身も

フランスとポーランドの絵画について、そしてフランスの文学について一連の講義(p016)

を行ったと書いています。

 

  「失われた時を求めて」は主要なテーマではあったのでしょうが、一連の講義の一部に過ぎなかった。それであれば、素直に頷けるところです。

 

  その目的は本書の原題名に端的に表れています。「(Proust) contre la decheance」は「精神の荒廃に抗する」(高遠氏)、「精神の『堕落』への抵抗」(岩津氏)という意味であり、人間性を失わないための捕虜たちの必死の努力だったのでしょう。チャプスキは端的に

精神の衰弱と絶望を乗り越え、何もしないで頭脳が錆びつくのを防ぐために(p014)

この知的作業に取りかかったと述べています。

 

  次に、「軍人が」という点は私に大きな誤解がありました。チャプスキは軍人である前に画業を始めとして様々な分野に通暁した当時一流の文化人であり、パリ滞在歴もありフランス語も堪能、療養中に「失われた時を求めて」を読破しその評論も著していました。

 

  また、彼がパリに滞在していた時期、プルーストはまだ亡くなったばかりで、「失われた時を求めて」はまだ刊行が続いており、プルーストの生きた時代の名残が強く残っていました。講義を行うにはうってつけの人物であったわけです。

 

2について: 「本当にテキストなしでこの数千ページに渡る長編小説を講義できるのか?」

 

  ではそんな彼ですから、テキストなしでも完璧な作品の解題ができたのでしょうか?

 

  答えは一方ではNO、一方ではYES、というのが私の読んだ感想です。

 

NOに関して:   まずはチャプスキの覚え違いが多いです。分厚い書物に見えて講義録の部分は100P程度なのですが、その注釈が約30P,81点にものぼっており、その多くはチャプスキの記憶と本来の内容の齟齬の訂正です。

 

  読んだ者の実感から言うと、いくら注釈で訂正を読んでも未読の方には実感がわかないと思います。例えば「消え去ったアルベルチーヌ」の内容に触れた部分。

そして、一年もたたないうちに、旅先のヴェネツィアで彼女(=アルベルチーヌ)の突然の死を知らされたときには、ほかの女との短い恋に心を奪われていて、ほとんど気にも留めませんでした。(p095)

は二重三重に間違いを重ねていて、これはちょっとひどい。 注釈で訂正はされていますが、全体の流れの中で読まないとその間違いのこみいり方がよく分からないと思います。

 

  次に、この講義録だけで物語のあらすじを追うことは不可能である、ということです。断片的にあちこちで内容は提示されますが、ほんのサワリに過ぎずそれも時系列で追っておらず、これだけで全体のストーリーを知るのは不可能です。

 

  もちろんテキストなしで数千ページを完全に覚えられるわけもなく、覚え違いは仕方ない事ですし、系統的に内容を追って行くだけの時間も資料もなかったことは明白です。卑俗な言葉で言えば「チャプスキに罪はない」。

 

  ただ、それであれば本書の宣伝として 「この長篇小説の未読者にも最適なガイドブック」 と書くのは正しくない。ただの煽りに過ぎません。この点は出版社側に再考を求めたいところです。

 

 

  さあ、ここから本番!(またかよ、という声が聞こえそう)

 

 

YESに関して:   これはもう、チャプスキの講義内容のすばらしさに尽きます。さすが高遠弘美氏が絶賛するだけのことはあります。プルーストの人となりや交友関係、思想見識のバックグラウンドなどを十二分に把握したうえで、「失われた時を求めて」に関する文学論を展開していく様は圧巻です。いやむしろ、この本を叩き台にしてプルーストその人を論じている、とさえ感じます。

 

  まずは冒頭部、チャプスキがはじめて「失われた時」に出会った当時の回想から、その文体の特殊性を浮き彫りにしていくあたりには深く共感しました。

 

  フランス語習得の過程で、簡単なフランス語で書かれた二流小説から始まって1924年当時の流行だったコクトーやモランなどの電報みたいに短く乾いた文体を読んでいたチャプスキは、全く異質のプルーストの文体に驚きます。当時のチャプスキのフランス語の知識では

 

 無数の「ところで」を含み、多様で離れ合った要素を、思いがけない連想によって繋いでいきます。複雑にからみ合った主題を、まるで上下関係がないみたいに扱っていく奇妙な方法、このきわめて的確で豊かな文体がもつ価値を、わたしはほとんど感じ取ることができませんでした。

 

  彼がプルーストに目覚めるには1年後手に取った「消え去ったアルベルチーヌ」まで待たなければなりませんでした。そして病気療養中に全巻を読破し、その真価を体得したチャプスキは、ボイ・ジェレンスキポーランド語訳があまりにも「読みやすい」事を優先したためにプルーストの意図した正確な文体を伝えていない、と批判できるまでになっていました。

 

  このあたり、日本語訳でしか読めない私には耳の痛いところですが、とにかくプルーストの文体はフランスを始めとする欧州の人々にとっても特殊であり難解なのだ、と理解できました。

 

  そこからチャプスキはどんどん思索を深めていき、

 

・ プルーストとフランス芸術(特に画家ドガとの類似性)

・ 病弱なプルーストと生涯彼を愛し続けた母

・ 母方の従兄であるベルグソンの哲学の影響

・ トルストイとの類似性と異質性

・ 第一次世界大戦の影響、戦争前に出版された「スワン家の方へ」二冊の構成の完成度の高さ(これは私も強く感じました)

・ 貴族とスノビズムについて、特にそちらに引き寄せられていたスノブなバルザックとの比較

・ 肉体の愛の問題、変態や倒錯を美化も卑下もせず描写する態度

・ ポーランド作家との比較(これは率直に言って分かりませんでした)

 

等々の検討を経て

 

 『失われた時』の思想的な結論はほとんどパスカル的である

 

という、逆説的とさえ思える結論を導き出します。このあたり、本当にスリリングで読んだばかりの内容を反芻しつつ楽しめました。また、

あの長大な数千ページのなかに、「神」という言葉は一度も出てきません。にもかかわらず、というよりも、むしろだからこそ、過ぎ行く人生の快楽の礼賛は、パスカル風の苦い灰の味わいを残すのです。

という指摘には、驚きを禁じ得ませんでした。「一度も出て」来ないというのは厳密に言うと正確ではないのですが、たしかに主人公がすべてから去るのは、神の名のもと、宗教の名のもとにではない。巻単位でレビューしているとついつい見逃しがちな、西欧思想にとって最も重大な本質であるこの事実を教えてくれたチャプスキに感謝したいと思います。

 

  終盤で圧巻なのは「失われた時を求めて〈10〉第五篇・囚われの女 I」で描かれた偉大な作家ベルゴットの死についての考察です。フェルメールの「デルフトの眺望」を観に行きその前で死んだこの作家に関する文章の中にこそプルーストの真の芸術観があるとし、ドストエフスキの「カラマーゾフ」のゾシマ長老の 「人生の多くの事柄が、私たちの目には隠されている」 という台詞まで引用し論じます。

 

  そしてベルゴットの死をプルーストの死と重ね合わせ、晩年のプルーストとその仕事中の死について述べ、この講義は終了します。

 

 

  これだけの内容をテキストなしで論じたチャプスキ、それを筆記した二人の同僚、そして聞き手の捕虜たちの驚くべき知的水準の高さ。そのような将来の指導者層を葬りポーランドを弱体化すべくソ連は「カティンの森」(アンジェイ・ワイダ映画で有名)においておよそ2万5千人を虐殺したのです。 

 

失われた時を求めて 14 / マルセル・プルースト

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   マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」最終第14巻です。前巻「見出された時 I」の後半と本巻「II」全体を占めるゲルマント大公邸の午後のパーティーでこの長大な物語はついに完結し、主人公の「私」は「失われた時」を見出し、自らの物語を紡ぎ始めます。

 

  ゲルマント大公邸中庭で啓示を受けた「私」は文学を志す決意を固め、本巻においていよいよパーティー会場のサロンに入っていきます。しかしそこで「時」の流れの残酷さを目の当たりにし、驚愕することとなります。

 

  「仮面舞踏会」かと思うほど人々の外見は変貌していました。この物語を彩ってきたゲルマント公爵夫人オリヤーヌ、サン=ルー夫人ことジルベルト、フォルシュビル夫人ことジルベルトの母オデットもその例外ではありません。

  オリヤーヌはまだゲルマント一族の「守護神」の化身たる宝石をちりばめた神聖な老魚の如き風貌を保っていましたが、誰だか分からなかったジルベルトには「わたしのこと母だと思ったでしょ」と図星を突かれます。

  逆に言うと「私」も老化していたわけで、オリヤーヌの言葉からそれを痛感させられます。

 

  変わったのは人々の風貌だけではありません。内面にも「劣化」を「私」は敏感に感じ取ります。オリヤーヌにしてもジルベルトにしてもオデットにしても人の悪口ばかり言い合いますし、かつて娼婦で二流俳優だったサン=ルーの元恋人ラシェルはそれほどの才能もないのに大女優にのし上がっており、かつての大女優で「私」の憧れでもあったラ・ベルマの没落を意地悪く楽しんでいます。

 

  そして最も変わったのは社交界の勢力図でしょう。ブルジョア勢力がかつての上流階級の貴族を凌駕したのがこの半世紀(1800年代後半~20世紀前半)だったのだ、ということが本書の主要テーマであったことがここではっきりします。それは下記の二点で明瞭に描かれます。

 

  まずはヴェルデュラン夫人の栄華。

 

  ゲルマント大公邸のパーティーとはいうもののこれは「ゲルマントのほう」で描かれた壮麗な夜会とは根本的に異なっています。主人である大公妃はかつてオリヤーヌとその美貌を競った従姉妹のマリーではないのです。マリーはすでに亡くなっており、第一次世界大戦で破産してしまったゲルマント大公と結婚して大公妃の座についたのはなんとヴェルデュラン夫人なのでした。

 

  思えば半世紀前の「スワン氏の恋」においてプチブル・ヴェルデュラン家のパーティーでこの物語は幕を開けたわけで、ゲルマント大公妃にまで登りつめたこの上昇志向の塊のようなプチブル女性は半世紀を貫いて描かれた裏主人公と言えるのではないでしょうか。

 

  私が「スワン氏の恋」を読んだ時はここだけで終わる意地悪な小物だとしか思えませんでしたが、プルーストの周到な計画には舌を巻く思いです。

 

  そしてもう一点は、少年時代の「私」が「コンブレー」において正反対の方向と思っていた「スワン家のほう」と「ゲルマントのほう」の融合。

 

  これは前巻でジルベルトの思い出話として示唆されていましたが、今回は現実に「スワン家(ブルジョア)」が「ゲルマント家(上流貴族)」を乗っ取る構図としてはっきり示されます。

 

  ゲルマント公爵はコンブレーのゲルマント家に愛人としてオデット(故スワン氏夫人)を住まわせ、

 

  ゲルマント家の貴公子サン=ルーと結婚したジルベルト(スワン氏の娘)はサン=ルー亡きあともゲルマント一族の一員、サン=ルー夫人として居座っています。

 

  そしてスワン家とゲルマント家の融合の象徴として最後の最後に登場する、本巻の真打ともいえるのがサン=ルーとジルベルトの娘、両家の特徴を併せ持った美貌のサン=ルー嬢

 

  切歯扼腕するオリヤーヌを尻目に、スワン家の三代に渡る女性陣は由緒正しきフランス貴族ゲルマント家に深く浸食していたのでした。

 

  そのような「時」の流れを目の当たりにした私は「いよいよ創作のとりかかる時だ」ということを実感するとともに、体力記憶力に自信をなくしてもおり、千夜一夜物語ほどもかかるであろう作品を生きているうちに完成させられるだろうか、との不安にも苛まれれます。

 

  そのような創作意欲と不安の葛藤を最後に30Pにもわたり吐露し、

 

 なによりもまず人間を、空間のなかで人間に割り当てられたじつに狭い場所に比べれば、逆にきわめて広大な場所を時間のなかに占める存在として描くだろう。(中略)人間の占める場所はかぎりなく伸び広がっているのだ - 果てしない「時」のなかに。  完 (p303)

 

 

と締めてこの長大な物語は終わります。ここから「私」は物語を紡ぎ始めるわけで、そこでもおそらく

 

 「私」マルセル、 母、祖母、フランソワーズ、レオニ叔母、スワン氏、オデット、ジルベルト、ゲルマント公爵夫妻、ゲルマント大公夫妻、サン=ルー、シャルリュス男爵、アルベルチーヌ、アンドレ、モレル、ブロック、ベルゴット、ヴァントィユ、ヴェルデュラン夫妻

 

たちが物語を彩るのでしょう。この小説が「円環をなす」と言われる所以です。

 

失われた時を求めて』とは、この物語がいかに書かれるに至ったかの遍歴談であり、この「天職」発見の物語には、『失われた時を求めて』の成り立つ根拠が至るところに提示されている。『失われた時を求めて』は、みずからの根拠を提示する小説であり、小説の小説なのである。(吉川一義氏)(p338)

 

 

 

 

  う~ん、感無量(苦笑。

 

 

 

  最後にお二人の訳者に謝辞を述べさせていただきます。

 

  まずは光文社古典新釈文庫版において新訳で私を6巻まで導いていただいた高遠弘美氏に感謝します。氏の

 

斜め読みせずに、一行一行を丁寧に読んでゆくことである。というより、私たち読者の義務はそこにしかない。

 

という示唆は大変貴重なもので、その教えを守って読み進めることにより

 

プルーストを読む行為が私たちに与えてくれるものはすこぶる豊穣である。生彩あふれる自然描写、皮肉でいながら深みと立体感に満ちた人物造型、増殖する譬喩の連鎖、豊富な語彙、こうしたすべてがプルーストの美質として私たちの眼前に次々と現れてくる。

 

ことを体感できました。

 

  続いては第7巻以降の岩波文庫版で最後まで導いてくださった吉川一義氏に感謝します。特にプルーストの死により未推敲となってしまった「囚われの女」以後の底本の選択と邦訳は大変なご苦労だったと推察します。未推敲ゆえの矛盾や間違いだらけの文章を我慢して読み進めることができたのは一重に吉川氏の丁寧な注釈のおかげでした。

 

 

 

  大袈裟な言い方になりますが、長年の読書人生の中でも稀有な体験でした。この年齢になってこのような文学の方法論もあることを新たに知ることができ、再挑戦した甲斐があったと思いますし、真面目な話、生きているうちに完読できて本当に良かったと胸をなでおろしています。

 

 

  正直言って、レビューを書くのも本当に大変でした。高遠先生と吉川先生の詳細なあとがきに比べれば児戯に等しいような感想文でしたが、少なくとも自分の考えをまとめることで少しはこの小説の理解も深まったのかなと思います。

 

 

 ゲルマント大公邸のパーティーに赴いた「私」は驚愕した。時は、人びとの外見を変え、記憶を風化させ、社交界の勢力図を一新していたのだ。老いを痛感する「私」の前に、サン=ルーの娘はあたかも歳月の結晶のように現れ、いまこそ「作品」に取りかかるときだと迫る。

 

 

失われた時を求めて 13 / マルセル・プルースト

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   読書好きなら誰もがその名前は知っている「A la recherche du temps perdu 失われた時を求めて」、フランスの作家マルセル・プルーストが1922年に亡くなるまでの約15年間をこの一作のためだけに費やし、その原稿枚数たるや3000枚以上、日本の400字詰め原稿用紙10,000枚に該当するという畢生の大作、「二十世紀文学の金字塔」との誉れも高い作品です。(拙レビュー第一巻)

という、今から思えば仰々しい文章で始まったこのレビューも最終第七篇「見出された時」に入ります。岩波文庫版の本篇は二冊からなり、本第13巻はその前半にあたります。

 

  求めていた「失われた時」を「見出す」解決篇であるわけですが、この長い長い物語の果てに「私」=プルーストは何を見出したのか?

 

  訳者吉川氏の解説(pp549ー511)の助けも借りて整理しますと

第一の概念は人間や人物を変貌させ破壊させてしまう、長い歳月にわたる「時」の発現

(お馴染みの面々の死、そして第一次世界大戦における破壊、その象徴としてのランス大聖堂崩壊など)

 

第二の意味(中略)想い出された「時」という意味

(ジルベルトの告白、タンソンヴィル再発見など)

 

そして

 

過去があるがままによみがえる現象、プルーストが無意識的記憶と呼んだ現象によって現出した「時間を超越した瞬間」いわば「永遠の時」

(かつての「紅茶にマドレーヌ」と同じ啓示が私に訪れ、ついに文学を志す) となります。

 

  「長い歳月」と吉川氏がお書きになっているように、これまでの12巻ではあり得なかった約20年という時が本巻では流れ、大きく分けて三部構成となっています。簡単に整理しますと

 

1:タンソンヴィル再訪

  ジルベルトの告白

  ゴンクール兄弟の未発表原稿

(療養所生活約10年)

2:第一次世界大戦下のパリ

  ヴェルデュラン夫人とボンタン夫人という二人のパリの女王

  サン=ルーの語る戦争

  シャルリュス男爵の語る戦争

  ジュピアンの娼館でのシャルリュス男爵の痴態

(またまた療養所生活約10年)

3:ゲルマント大公邸訪問

  シャルリュス男爵の落魄

  突然訪れた啓示と文学論

 

となります。

 

  1は前巻の続きです。前巻ではあえて伏せましたが、故スワン氏の愛娘ジルベルトは母オデットの再婚により「フォルシュビル嬢」という貴族の仲間入りをし、そしてついに私の親友にしてゲルマント一族の御曹司サン=ルーと結婚してゲルマント一族の仲間入りまでしたのでした。

  しかし、モレルによって男色に目覚めてしまったサン=ルーはそれを隠すためにわざと女性の愛人をたくさん作ってジルベルトを悲しませます。

 

  傷心のジルベルトを慰めるべく、第1巻「コンブレー」において「私」が彼女を見染めたタンソンヴィルの故スワン氏の別荘を訪れるところから本巻は始まります。   

  そこでの散策においてジルベルトは、実はあの時「私」に恋していたこと、幼い「私」にとって正反対の象徴であった「ゲルマントのほう」と「スワン家のほう」はつながっていたことなどを「私」に語ります。

 

  これが吉川氏のいう第二の想い出された「時」という意味にあたります。この辺りは読みはじめの頃を懐かしめるなかなか心温まる箇所です。またサン=ルーとジルベルトの結婚により「ゲルマントのほう」と「スワン家のほう」が長い時を経てつながってしまったこととの対比も見事です。

 

  さてこのパートの最後。話題は一変して滞在の最終日前夜、たまたまゴンクール兄弟の未発表原稿を読んで「私」は己が文学的才能の無さを痛感します。

  パスティーシュの名手であったプルーストが書くヴェルデュラン家の夜会のシーンはとても面白く、こういう風に書いてくれればすんなり楽しめるのに、とさえ思ってしまうのですが、それがプルーストの罠(笑。

 

  最終部での文学論において「価値がない」とする浅くて些事にこだわる写実主義の見本として書いたのが明らかで、逆転への布石だったと後で知る痛快な策略となっています。吉川氏はもっと深く考察されていますが、ここで立ち止まっているとまたまた超長文となってしまいますので、先を急ぎましょう。

 

  第2部は長い療養所生活を挟んだ約10年後の第一次世界大戦下のパリ(1914,1916)です。ランス大聖堂が破壊され、パリにまでドイツ軍の足音が聞こえてくる状況下、貴族からブルジョア、庶民にまで戦争を語らせ、プルーストの戦争観が読み取れる興味深い構成となっているのですが、これも語り始めるとキリがなくなるので割愛し、重要な二点にだけ触れておきます。

 

  一点はパリ社交界の変遷。第二巻で貴族階級から「裏社交界」と揶揄されていたプチブルヴェルデュラン夫妻のサロンが、第四篇「ソドムとゴモラ」で貴族階級と比肩しうるほどにのし上がっていましたが、ついには(これまた初めはパッとしなかったボンタン夫人(アルベルチーヌの伯母)とともに)「戦時下のパリの女王」と呼ばれるまでになっています。

 

  残念ながらヴェルデュラン氏は大戦中に亡くなってしまうのですが、夫人は次回最終巻のゲルマント邸夜会において、さらに驚くべき変貌を遂げています。性格の悪さやスノビスムは生涯かわらないものの、「人間の変貌」という意味では長大な本作において最も劇的な人物であり、そのあたりは最終巻でまた紹介したいと思います。

 

 もう一点は、ゲルマント一族である二人、サン=ルーシャルリュス男爵の対比。 サン=ルーはソドミーという問題はあるものの、立派な軍人であり、望んで出征し、私がまた療養のためパリを発つ日に悲報が届きます。

 

 その知らせとはロベール・ド・サン=ルーの死で、ロベールは前線に戻った翌日、部下の退却を援護して戦死したのだ。ロベールほど他の民族に憎悪をいだかなかった人間はいないだろう。(p387)

 

 

  「花咲く乙女たち」においてバルベックに颯爽と登場し、親友として良くも悪くも「私」に関わり続けた本作でも最も印象深い人物の死には、プルーストも多くの枚数を割いています。

 

  そしてもう一人はご存知ホモ男爵シャルリュス。サン=ルーと同じく戦争を冷静に見つめ、フランス嫌いドイツ贔屓を公言します。その私への高邁な講釈とは裏腹に、その後彼が向かったのはジュピアンにやらせている娼館、通称「破廉恥の殿堂」。

 

  ここに男爵はモレル(ふられた美貌のバイオリニスト)似の若い男を集め、鎖で縛らせて鋲入りの鞭で自分を打たせるのでした。まあはやい話がSMプレイで悦楽に溺れていたわけです。

 

  このシャルリュス男爵、またまた長い時を経た第3部冒頭にも登場し、老化と脳卒中でよぼよぼになった落魄の姿を読者の前に晒し、最後まで本作のキーパーソン、トリックスターとして顔を出し続けます。

  この男もまた「貴族の上流社交界」「芸術」「ソドムとゴモラ」という本作の複数のテーマの根幹をなす主人公であったと言えるでしょう。

 

 

  さて、いよいよ本巻の白眉である第3部です。

  え、まだあるのかって?

  ここからが本番でございます(笑。

 

  長い時を経て(研究では1925年頃)療養所からパリへ帰る「私」。その列車の中でまたしても「私」は、車中から眺める木々に何の感銘も覚えなかったことから、文学的才能が枯渇していると再確認し落胆します。

 

  これがゴンクール兄弟に続く第二の伏線。

 

  そんな私に、ついに、ついに、ついに、深いところに隠されていた「無意識的記憶」からくる幸福感が蘇ります。

  それは夜会に招かれたゲルマント邸の中庭を歩いていた時のこと。

 

ところが、転ばぬよう身体を立て直そうとして、片足をその敷石よりもいくぶん低くなった敷石のうえに置いたとたん、それまでの落胆は跡形もなく消え失せ、私はえも言われぬ幸福感につつまれた。(p430)

 

 

それは第一巻「コンブレー」等、早々に「私」が体験してした

 

バルベックの周辺を馬車で散策していたとき以前見たことのある気がした木々の眺めとかマルタンヴィルの鐘塔の眺めとか、ハーブティー(一巻では紅茶)に浸したマドレーヌの味とか(p430)

 

と同じ啓示でした。

 

  しかしてその敷石の感覚の正体はヴェネツィアのサン=マルコ洗礼堂の不揃いな二枚のタイルを踏んだ時の感覚だったのです。

 

  この幸福感を契機として、失われた時を求めて」いたこの作品の解決としての

 

 芸術作品こそが失われた「時」を見出すための唯一の手段である(p498)

 

という結論に至るまでの、奔流のように湧き出す「私」(=プルースト)の芸術観、文学観の凄いこと凄いこと!

 

  延々独白が続くこれまでの巻に比べれば客観的描写が多かった本巻でしたが、ここから約100Pに渡り怒涛の文学論が展開されます。これは本当に実際に読んでいただきたいところなのですが、そうするにはここまでの十二冊をも読まねばならない。まあそれは無理。。。

 

  という事で、できる限りプルーストの言葉を抜粋借用してそのエッセンスを説明したいと思います。

 

  まず、この幸福感は意識して思い出せるものではなく、何らかの類推の奇跡であり、

 

その存在のみが、私に昔の日々を、失われた時を見出させる力を持っていた(p441)

 

 

のです。そして、

 

 私の感じたものを考え抜くことによって(中略)ひとつひとつの感覚をそれぞれの法則と思考を備えた表徴として解釈しなければならなかったのである。ところで、これを成し遂げる唯一の方法と思われるのは芸術作品を作ること以外のなにであろう?(p455)

 

かくして私はすでに結論に達していた。(中略)芸術作品は自分好みにつくるものではなく(中略)先立って存在する必然的であると同時に隠されたものであるから、我々はそれを自然の法則を発見するように発見しなければならない、という結論である。(p460)

 

という思いを強くします。そしてそのことを確信したのは

 

写実主義を自称する芸術のうそ偽りによってである。この芸術が嘘八百になってしまうのは人生において自分の感じることにそれとはまるで異なる表現を与えていながら、しばらくするとそんな表現を現実そのものだと思いこんでしまうからである。(pp460ー1)

 

という写実主義の虚妄であり、私はサント=ブーブの理論や、ドレフュス事件〜大戦時の軽薄な文学理論を激しく糾弾し、ついには時間の秩序から抜け出した「一瞬の時」の「印象」を会得し「真の自我」に目覚めた人間のみが真の芸術家となり得るのであり、

真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である(p490)

との結論に達します。その上で

 私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。(p496)

 

と決意するのです。

 

  その啓示と決意の結実が、おフランスの「社交界」や「恋愛」や「同性愛」を延々と描き続ける、読みにくいことこの上ないこの作品なのか、というツッコミも入れたくなるところではあるのですが、

 

  敢えて言おう、

 

プルーストよ、あなたは偉大だ

 

と。これは彼の「文章」を(訳ではありますが)ここまで苦しみ悶絶しながら読んできた文章フェチの実感です。

 

  今回も長文おつきあいありがとうございました。

 

  最終巻はもう少し短くまとめたい。。。

 

幼年時代の秘密を明かすタンソンヴィル再訪。数年後、第一次大戦さなかのパリでも時代の変貌は容赦ない。新興サロンの台頭、サン=ルーの出征、「破廉恥の殿堂」での一夜…。過去と現在、夢と現実が乖離し混淆するなか、文学についての啓示が「私」に訪れる。