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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

ドリームバスター / 宮部みゆき

⭐️⭐️⭐️

  久々の宮部みゆき。独り立ちした子供のクローゼットを整理していて二冊見つけ、せっかくなのでブックオフに売る前に読んでみることにした。一冊目は「ドリームバスター」。表紙絵からしてなにかジュブナイルもの、あるいは宮部が好きなRPG的な匂いがする。

 

『8歳のクリスマス・イブ、道子の隣家が火事で燃えた。炎の中で踊る奇怪な人影を、再び見たのは娘の真由と同じ夢の中だった。怖しい影は二人を追いかけてきた。その時助けが…。悪夢のなかで、追いかけられたことはありませんか?16歳のシェンと師匠のマエストロが、あなたとともに、あなたを救うために闘う愛と冒険の物語。(Amazon解説より)』

 

  所謂パラレルワールドものに近いSF。エヴァでいうファーストインパクト的なことが別の世界の地球型惑星で起こり、そこから「時間鉱山」的なところをすり抜けることができた人間はこの世界の人間の夢の中に入り込める、という設定。宮部みゆきだけに、やや荒唐無稽的なところはあっても、きっちりとその辺は説明され、第一部、第二部はこの世界の日本人の悪夢のケースレポート、第三部はあちらの世界が描かれる。

 

  が、もう本も終わりという段階になってきても、一向に物語は収斂する気配を見せない。。。単純に宮部みゆきの小説は作法にのっとり正しく進んでいき破綻なく完結する、という思い込みがあったのが間違いだった。

 

  なんと、この本「続く」で終わるのだ。急いで調べてみると、もう4巻出ており、そこで中断しているが、本人は6巻完結のつもりであるとのこと。せっかくの掘り出し物であったが、う~ん、面白いことは面白いけれど、あと三巻読むほどのことはないなあ。

 

 

『8歳のクリスマス・イブ、道子の隣家が火事で燃えた。炎の中で踊る奇怪な人影を、再び見たのは娘の真由と同じ夢の中だった。怖しい影は二人を追いかけてきた。その時助けが…。悪夢のなかで、追いかけられたことはありませんか?16歳のシェンと師匠のマエストロが、あなたとともに、あなたを救うために闘う愛と冒険の物語。(Amazon解説より)』

命売ります / 三島由紀夫

⭐️⭐️⭐️

  三島由紀夫の小説の主だったものは大体読んでいるが、未読のものも多く、時々読み足したくなる。今回は、これまたブックオフで目についた「命売ります」を読むことにした。

 

  下記のAMAZON解説を読むと何やらすごい小説のように思えるが、実質は十台で「花ざかりの森」を書いた天才平岡公威と同じ人間が書いたとはとても思えない陳腐な代物である。一言でいうと、ハードボイルドまがいのエンタメ小説。まあ「週刊プレイボーイ」に連載されたそうだから、その読者層にレベルをあわせた面は大いにあるだろう。物語前半の(プレイボーイにしては控えめではあるが)お色気サービスなんかは特にそう感じる。また、書かれた時期を調べてみると1968年5-10月、「豊饒の海」シリーズの「奔馬」と「暁の寺」の狭間の時期に当たっており、気分転換的なところもあったのかもしれない。

 

  それでも一応三島的なところは所々に顔を覗かせる。種村季弘の解説を引用すると

 

一口でいえば、没落とデカダンスへの意思。(中略)デカダンスの精神の脈絡からいえば、ノーベル賞候補の大作家の手すさびという社会的通念の裏をかいて落魄の身の境涯を娯しんでいる。

 

のかもしれない。その種村氏の解説の題名は「三島由紀夫の全能と無能」というこれまた辛辣な題名である。なお、今では考えられないような差別用語がバンバン出てくるが、これはまあ時代の違いで仕方がない。

 

 

『 ある日、山田羽仁男なる27歳のコピーライターが自殺を図る。はっきりした理由はなかったが、あえて探れば、いつものように読んでいた夕刊の活字がみんなゴキブリになって逃げてしまったからだ。〈新聞の活字だってゴキブリになってしまったのに生きていても仕方がない〉と思った羽仁男は大量の睡眠薬を飲み、しかし救助されてしまう。 自殺未遂に終わった羽仁男は、もはや自分の命は不要と断じて会社を辞め、新聞の求職欄に「命売ります」という広告を出す。物語はここから動きはじめ、依頼人たちと羽仁男の命のやりとりが、三島らしからぬエンターテイメント小説風に展開していく。 大胆な設定からして確かに「怪作」に違いない。最後まで楽しく読める。だが、三島の晩年の活動と壮絶な死に様を知っている者としては、亡くなる2年前に「週刊プレイボーイ」に連載されたこの作品につい彼の死生観の断片を見つけてしまい、感じ入る。 〈世界が意味があるものに変れば、死んでも悔いないという気持と、世界が無意味だから、死んでもかまわないという気持とは、どこで折れ合うのだろうか。羽仁男にとっては、どっちみち死ぬことしか残っていなかった〉 羽仁男に託してちりばめられた三島の告白。娯楽性に富んだ作品なだけに、それらは余計に重く、読後に残る。(Amazon解説より)』

NHK「100分de名著」ブックス 夏目漱石 こころ / 姜尚中

⭐︎⭐︎⭐︎

  この頃どういうわけか、「本が好き!」に漱石の「こころ」のレビューが多いのでついつい読んでしまう。マーブルさんもそのお一人だが、そのつながりでエドガー・アラン・ポーの短編集のレビューの中で

 

こころ」を読むと「ウィリアム・ウィルソン」を思い起こすと書いた本がある

 

と書いておられたのが気になった。「ウィリアム・ウィルソン」はドッペルゲンガーをテーマとした小説の嚆矢とされる傑作だが、この同名二人とKと先生の関係が似ているとはとても思えない。

 

  で、Kindleで早速読んでみた。本全体としては生と死、真面目と卑怯を軸において平易且つ網羅的に解説されており、好ましい評論だと思う。姜先生の本は初めて読んだが、人柄が偲ばれる好もしい文章である。

 

  さて、ウィリアム・ウィルソンの項であるが、やはり違和感はぬぐえなかった。K=善、先生=悪とは単純に分けられないし、一心同体であるとも思えない。むしろそのあとに書いてあるプラトニックな同性愛的な関係の方が納得がいく。漱石がもしポーに影響を受けていたとするなら「夢十夜」あたりの方が論じる価値があるように思う。

 

  また著者はトーマス・マンの「魔の山」にも相似性を見出しておられる。確かに時代と思想に共通点があることには得心できるものがあるが、例えば三島や北杜夫のように漱石がマンに心酔していたわけではないと思う。姜先生も相似性があるとだけ書いておられるだけなので、それはそういう事でいいのではないかと思った。

 

  100分で名著と言うシリーズらしいが、「こころ」を読んでいる人なら小一時間あれば読めるので興味ある方はどうぞ。

『自由と孤独の時代に生きる「人間の自意識」を描いた、漱石不朽の名作『こころ』。それは今からちょうど百年前に、現代人の肥大化する自我を見通した先駆的小説でもあった。「あなたは腹の底から真面目ですか」。功利的な生き方を否定し、あえて“真面目さ”の価値を説いたこの作品を通して、人との絆とは何かを考え、モデルなき時代をより良く生きるための「心」の在り方を探る。 (AMAZON解説より)』

劫尽童女 / 恩田陸

⭐︎⭐︎⭐︎

  汲めども尽きぬ恩田陸の未読作品。今回は彼女お得意の超能力系ミステリー。題名は「こうじんどうじょ」と読む。「劫尽」の説明は物語中盤を過ぎた頃に起こる大厄災を象徴する言葉として出てくる。「こうじんか、劫尽火」、悪いことをすると地獄の劫火に焼かれるその火のこと。世界が崩壊する時に、世界を焼き尽くす火のことでもある。

  一方童女とは伊勢崎遥のこと。下記AMAZON紹介にある伊勢崎博士の娘である。伊勢崎博士は米軍の特殊研究機関ZOOで「タカの視覚、 イルカの聴覚、豹の運動能力、渡り鳥の方向感覚等々の能力を人間にフィードバックし、新たな超人を誕生させる」研究をしており、まず犬(アレキサンダー)、次いで生まれてくる自分の子供(遥)に遺伝子操作と薬物投与を施し、超人として誕生させたのだった。

 

 『父・伊勢崎博士の手で容易ならぬ超能力を与えられた少女・遥。彼ら親子は、属していた秘密組織「ZOO」から逃亡していた。そして、七年を経て、組織の追っ手により、再び戦いの中へ身を投じることに!激闘で父を失った遥は、やはり特殊能力を持つ犬・アレキサンダーと孤児院に身を潜めるが―。殺戮、数奇な運命、成長する少女。彼女の行く手に待つのは何か。(AMAZON解説より) 』

 

  冒頭ZOOの「ハンドラー」を中心とする暗殺要員が、密かに帰国していた伊勢崎博士の別荘を監視、急襲するも、あえなく返り討ちにあうトリックは見事で、滑り出しは上々である。(VOLUME 1 化現)

 

  その伊勢崎博士も実は寿命が尽きかけており、超能力を付与されたデザイナーズ・ベビー、娘のと、デザイナーズ・ドッグである超能力犬アレキサンダーは、博士の遺言により肝いりのキリスト教施設に身を隠す。ある日そこに四人の外部の人間がやってくる。遥が警戒した通り、その中には伊勢崎博士側の人間とZOOの暗殺要員が混じっていて、、、とそこからの殺戮シーンも恩田陸快調だな、と思わせる。(VOLUME 2 化縁)

 

  その事件後、遙は施設を出て四人のうちの一人だったルポライター神崎と施設の一員だった高橋シスターと三人で都会のマンションで疑似家族として暮らしている。アレキサンダーは組織の別の老人に預けてあり、時折散歩で偶然を装って会う程度。しかしその町に「人食い犬」の噂が持ち上がり、実際一人の男が殺される。一方遥は初潮を迎え不安定な時期を超えてさらに能力が一段階上がり、人食い犬が実在することを感じ取る。一方その人食い犬も三人の存在と居場所を察知して偵察にやってくる。この犬は果たして敵か味方か?もうワンペアの超能力者+超能力犬の存在を示唆し、この二人の超能力が共鳴した際の破壊力の凄さを示唆して第三部は終わる。(VOLUME 3「化色 前編」)

 

さあいよいよ遥の超能力が開花したか、とここまで期待させておいて、VOLUME 4は急に話が変な方向に進み出し、挙句の果ては「劫尽火」の大厄災である。以下、ネタバレを含む。

 

 

 

  その劫尽火とは、アメリカ合衆国ニューメキシコ州の軍施設の廃棄核燃料貯蔵庫の大爆発であり遥も関与していた。だから当然生きているはずはない。此処までで話をとどめておいて、遙は劫尽火に焼かれて死んだ、ということにしておけばまだよかった、と思う。

  ところが終章で遥は生きている。そしてこれまた死んだはずのある男とある国で最後に対決する。そして自分の進むべき道を悟る。

 

  賛否両論はあるだろうが、あれだけの大厄災を引き起こしておいて、この展開は一体何なんだ、と言いたい。もう少しストレートな超能力合戦の末に最後の展開に持ち込めなかったものか?

  前半の緊迫感がなかなか素晴らしかっただけに残念である。 

 

 

神去なあなあ日常 / 三浦しをん

⭐️⭐️⭐️

  これもブックオフで見かけて思わず手が伸びた。三浦しをんの「神去なあなあ日常」である。映画を観たかったが見逃していたので読んでみることにした。

 

『高校卒業と同時に三重県の山村に放り込まれた平野勇気19歳。林業の現場に生きる人々の1年間のドラマと勇気の成長を描く。 (Amazon解説より)』

 

  いやあ、久しぶりに小説らしい小説を読んだ気がする。平易な語り口、綿密な取材、四季を意識した真っ当な章立て、起承転結のあるストーリーではないがちゃんと用意されているクライマックス。そこそこ考えさせられる日本の現状と伝統のせめぎあい。

 

  映画化するには確かにもってこいの素材。CGなども必要だとは思うが、ぜひ見てみてみたいと思った。

 

 

 

ストレンジ・デイズ / 村上龍

⭐️

  ブックオフで買った二冊目の村上龍。これは長編だが未読だった。

 

  以前「MURAKAMI」のレビュー(たしかブクレコ)で書いたことがあるが、SM等の倒錯した性を露骨に扱い始めた龍に興醒めして一時離れていたことがあった。大長編でいうと、「愛と幻想のファシズム」(1987)と「希望の国エクソダス」(2000)の間で、この作品も1997年の発表でその最後の頃に当たる。

 

  中年の音楽プロモーション会社の社長反町がクソみたいな音楽しかできないやつらに絶望して引き籠りになり、妻子も実家へ帰らせ、無為の日々を過ごす。持っていたCDやらLPやらも、真の音楽をやっている15枚のアルバム以外はすべて捨ててしまった。そんなある日、深夜のコンビニで若い女性トラックドライバー、ジュンコと出会う。音楽テープを貸しているうちに、会話を交わすようになり、そして彼女が演技の天才であることを知り。。。

 

  と、いかにもな龍らしい設定で、序盤は進む。やや話があちこちする感じは否めないが、やっぱり場面場面の描写力は凄い。女性主人公ジュンコのセックスがギリギリのところで出てこないのもよい。唯一、アメリカ帰りの男が語る児童ポルノ撮影の話は反吐が出る。

 

  15枚のアルバムの名前、曲名で章立てしているが、それがちょっとおかしい。ジミヘンの「ブードゥー・チャイルド」は「ブードゥー・チャイルVoodoo Chile)」が正しいと思うし、ドアーズ、ビートルズローリング・ストーンズには正確には前に「ザ・(The)」がつく。そのビートルズの「アイ・ウィル・ビー・バック」は「アイル・ビー・バック(I'll be Back)」だし。日本語正式表記がたとえそうにしても、龍ならその辺は徹底的にこだわる筈だと思っていたのでとても残念だし、腑に落ちない。

 

  腑に落ちないと言えば、やはり一番の問題がストーリーのなげやり感。ジュンコがだんだんとその天才的な演技力を発揮していく辺りまでは面白いのだが、後半、物語は急速に失速する。そして何も大したことが起こらないのにドアーズではないが、ジ・エンドにしてしまう。

 

  一時期、龍の精神状態が良くなかったことは知っているが、この時期の龍がどんな状態だったのかはわからない。にしても、こんな駄作を書いて満足していたとは残念でならない。その当時の投げやり感絶望感を端的に表現したこの文章が皮肉にもこの作品自体に跳ね返ってきている気がする。

 

オレは文学なんてどうでもいいし、日本の小説なんてなくなってしまえばいいとずっと思ってたんだ、下らないとかそんな程度の問題じゃないよ、ほとんど犯罪だよ、どうでもいいことを、ひどい低級な技術で書いて、読者から金を取っているわけだろう?そういうのは犯罪だ。(「ブラウン・シュガー」)

私の中には等身大の虫が棲む!
雨の夜、深夜のコンビニで出会った反町とジュンコの奇妙な日々……。

絶望から狂気へと向かっていた反町は深夜のコンビニで天才的な演技力をもつ巨大トラックのドライバー・ジュンコに出会う。ゆるぎない眼差しをもつ彼女は血管の中にサナダ虫のような等身大の異生体を宿しているという。そして、2人の奇妙な生活が始まった──。現代社会の病理を予見する村上龍の傑作長編!! Amazon解説より)』

マイブック 2018年の記録

  「ブクレコ」や「本が好き!」でやっていた年末恒例行事、その年の読書総括である。今年はこちらですることにした。

  2018/12/20現在、公開レビューが111本、下書き中が9本ある。下書きからはおそらく選ぶことはないと思うので、この時点で思いつくままに選んでみた。

 

邦書 ベスト1: 吸血鬼 佐藤亜紀

  全く迷うことなく選んだ最高の作品。今年は佐藤亜紀の作品を読めたことが最大の収穫であった。ただ、佐藤亜紀は文章至上主義でそれを濁らせる一切の余計な説明をしないなので、それを知らない人がいきなりこの作品を読むべきではないだろう。「バルタザールの遍歴」から順に読んで西欧史を学びつつ、ここまで至るのが良いと思う。少なくとも「バルタザール」「天使」「1809」「ミノタウロス」を読んでから挑んでほしい。

 

邦書 次点: 真鶴 川上弘美

  川上弘美といえば、提督もお勧めの「センセイの鞄」が最も有名だが、しばらく追ってみてこの「真鶴」に行きあたり、底なし沼に引きずり込まれるように作品世界の中に惹き込まれてしまった。読後しばらくは呆然としたし、今でもずっと引きずっている。それほどの力と暗い魅力のある作品である。

 

洋書 ベスト1: The Crossing Cormac McCarthy

  今年初めの目標として彼のBorder Trilogyを読むことを挙げていた。何とか読破したが、予想以上にハードだった。そして彼の真価を知ることができた。

  その三部作の中でもとりわけ長大重厚で内容の濃いのがこの「The Crossing」である。次点が第一作「All The Pretty Horses」、三作目の「Cities Of The Plain」はやや読者サービス的なところがないでもないが、それでも本年読んだ洋書の中ではこの三作品が飛び抜けていた。

 

コミックス ベスト1: ふうらい姉妹 長崎ライチ

  当然萩尾望都と言いたいところだが、インパクトの強かったホノボノ系ギャグ漫画「ふうらい姉妹」を選んだ。あかつき姐さんのレビューの「いでんこのなせるわざよ」にビビッときたのだが、正解だった。

 

ベストSF: ハーモニー 伊藤計劃

  ずっと読みたいと思っていた伊藤計劃にようやく手を付けた。処女長編「虐殺器官」もすごかったが、「ハーモニー」の完成度には舌を巻いた。余命が限られていたなかで執筆活動を始めたとはいえ、まことに惜しい才能である。

 

ベストライトノベル: なんて素敵にジャパネスク2 氷室冴子

  これも夭逝の作家氷室冴子。今年は没後十年に当たるそうで、あかつき姐さんのお勧め。第一巻から笑わせてくれてほろりとさせて平安時代の雰囲気を味わって、この第二巻の最終章でまことに見事なエンディング。感嘆した。

 

ベストミステリー&ファンタジー: 沙門空海唐の国にて鬼と宴す 全四巻 夢枕獏

  映画を観てややガッカリで、夢枕獏先生の原作がこんなにつまらないはずがない、と読み始めてはまった。さすが獏先生である。ご本人も「ド傑作を書いてしまった」と自画自賛

 

  続いては、セミンゴの会恒例、読む方はこちらの方が面白いであろうネガティブ方面。

 

新刊残念賞: 熱帯 森見登美彦

  私が必ず新刊を買う作家はそう多くない。高村薫、W村上(もうハルキは買わない)、伊坂幸太郎、Paul Auster、Kazuo Ishiguro、そしてこのモリミンあたり。そのモリミンの待望の新刊「熱帯」は、ウェブサイト連載途中でモリミンがダウンしたため日の目を見ることはないだろうと思われていた作品だっただけに嬉しかったが、新たに書き下された後半がなんじゃこりゃ状態で残念至極。「我ながら呆れるような怪作である」、言うてる場合か!

 

落胆度ハンパナイで賞 「天子蒙塵」シリーズ 浅田次郎

  浅田次郎先生の「蒼穹の昴」は日本文学史に残る傑作だったと思う。ところが龍玉シリーズとなった「中原の虹」四巻、「マンチュリアンリポート」と話が進むにつれてどんどん質が落ちていった。この「天子蒙塵」シリーズ全四巻も浅田節だけが健在で、ストーリー自体がつまらないこと甚だしい。敢えて山場を挙げるとすれば、第二巻の馬占山の反抗「還我山河」事件あたりのみ。おそらく今後も西安事件中華人民共和国建国あたりまで続くのだろうが、つなぎで四巻は長過ぎないか?

 

本年度ワースト1: イー・イー・イー タオ・リン

  いよいよワーストワン。本が好き!の「#はじめての海外文学 vol.3応援読書会」の掉尾を飾ったレビューであるが、言い換えれば誰も怖くて手を出せなかったゲテモノ。予想通りネット弁慶マスターベーション的ファッキン・クレイジーな小説であった。それと知って読めば意外に面白いかも。

 

  あ、最後にもう一つ。

 

立つ鳥跡を濁したで賞: 最後の物たちの国で ポール・オースター

  大見得を切って「本が好き!」にバイバイしたレビュー。実質上ヤーチャイカ一派批判だっただけに、Twitterヤーチャイカさんの怒ること怒ること。この件については今更何を言うつもりもないが、とりあえず立つ鳥思いっきり跡を濁した記念碑的レビューではあった。

 

  というわけで来年もボチボチとこのブログで読書レビューは続くのだろう。多分。

 

 

 

空港にて / 村上龍

⭐️⭐️⭐️

  先日ブックオフ村上龍を二冊買った。その一冊が「空港にて」。龍はよく読んでいるが、殆どが長編大作ばかりで、短編集はあまり読んでいない。これはその一冊。

 

  一読して、ああ、村上龍らしいな、と思った。彼の文体には特にこれといった特徴や個性はない。敢えて言うとすれば、

 

彼の文章には逡巡がない

 

  歯切れよく断定調で畳みかけてゆく。こういう短編になるとそれが際立ち、文章に工夫を凝らしたりはせず、内容をバシバシ書き続けていってスパッと終わる感じが快い。

 

  勿論内容が心地よいわけではない。むしろ反感を覚える人も多いだろう。この時期は龍が日本という、慢性的不況で人々がゴチャゴチャイジイジしている島国に飽き飽きしていて、キューバを音楽の理想郷のように思っていた頃に当たる。端的に表現している場所を抜粋すると、

 

「普通の人生というカテゴリーには全く魅力がない」(披露宴会場にて)

「私はこの公園とこの国から出るの」(居酒屋にて)

 

ということになる。そして最初の三篇では登場人物が海外へ出るつもりであることが明記されている。

  「コンビニにて」では、ごく平凡な家庭で育った青年が、大学へ行って幻滅して中退した兄の轍を踏まぬように音響スタジオに就職し、来年サンディエゴの映画技術学校へ行くつもりでいる。

  「居酒屋にて」では、水商売から運送会社に就職した女性が、絵を描くことへの憧れを捨てられず、2~3か月南仏のアルルへ行こうとしている。アルルには、ゴッホが収容されていた精神病院を作り変えた若い文筆家や芸術家のための施設がある。

  「公園にて」では、ママ友の陰湿な勢力争いの場になっている公園で疎外され陰口をたたかれているある母親が、夫のボストンへの赴任についていく決心をしている。それが上記した台詞だ。

 

  そういう話を連ねていくのかな、と思ったがそのあとは必ずしもそうではない。ただ、あくせく底辺で働き続け愚痴をこぼし続け、リストラや倒産で酒に溺れているような人間に龍は同情しない。一方でポムロール・ペトリュス(ランク外の至高のフランス赤ワイン、一本数十万、あのハンニバル・レクター氏も飲んでいた)を平気で毎日飲めるような、自らの才覚や海外での経験で富裕層に辿り着いた余裕のある人物を登場させて、さあどっちになりたいんだ、と読むものを煽っている感じは常にする。

 

  それをいやらしいと否定する人もいれば、憧れる若者もいるだろう。少なくとも現実に不満を持ち鬱屈している人には刺激的な物語ばかりだ。

 

  あとがきを読んでなるほどと思った。幻冬舎編集の留学誌のために書き始めたのだそうだ。

 

日本のどこにでもある場所を舞台にして、時間を凝縮した手法を使って、海外に留学することが唯一の希望であるような人間を書こうと思った。考えてみれば閉塞感の強まる日本の社会において、海外に出るというのは残された数少ない希望であるのかもしれない。

 

  まあそういう事だ。そのテーマ以外で出てくるエピソードでは、箱根アフロディーテに出演したピンクフロイドの話が懐かしかった(「駅前にて」)。

 

 

『コンビニ、居酒屋、公園、カラオケルーム、披露宴会場、クリスマス、駅前、空港―。日本のどこにでもある場所を舞台に、時間を凝縮させた手法を使って、他人と共有できない個別の希望を描いた短編小説集。村上龍が三十年に及ぶ作家生活で「最高の短編を書いた」という「空港にて」の他、日本文学史に刻まれるべき全八編。(Amazon解説より)』

バナナ剝きには最適の日々 / 円城塔

⭐︎⭐︎

  円城塔の作品の中では比較的わかりやすい短編集だというので読んでみた。

 

。。。。。どこが?。。。。。

 

まあ、「Self-Reference ENGINE」は短編集といっても相互連関があるのでなかなか途中ではやめにくい。でも、この作品集はそれぞれが独立した作品なので、いつでも放り出すことができる。そこが救いか。と言いつつ最後まで読んでしまったわけだが。

 

パラダイス行」 うん、いきなりきましたね。右が生まれると左も生まれる。ZENの話ではない。

 

巻き尺と水平器と分度器の連合軍と、人間はどちらが正気だろうか?

 

これは筒井康隆に訊いてもらったほうがいいな。

 

バナナ剥きには最適の日々」 この作品集の中では一番読みやすい、というか理解しやすいSF。もちろんサリンジャーの「バナナフィッシュにはうってつけの日」のパロディ的な題名なのだが、サリンジャーのは主人公シーモア・グラースの行動が不可解だったわけだが、この主人公は不可解ではない。ただ、星々に旗を置いていくだけ。それがちょっとほろ苦いところがよかった。

 

このお話を、あなたがどうして手に入れるのか。それは知らない。(中略)

あなたの裡の何かの宇宙が、僕のいるこの宇宙と繋がっている。少なくとも、まだ想像が及ぶ程度には。

そう願いたい。

 

祖母の記録」 これも故意にわかりにくくしているが理解は比較的容易だ。植物状態になってしまった祖父を使って、ストップモーションアニメ的に祖父を爆走させる話。

 

『AUTOMATICA』

『円状塔』

  いよいよきましたね、理論をもてあそぶ円城流が。簡単に言うと「文章の自動生成について」の解説もしくは講演録。本文も『』でくくられており、

それぞれ二重括弧に挟まれたタイトルと作者名と本文と。どれがそれぞれタイトル、作者名、本文なのか、どれがどれを書き記しているものだのだか、全く無縁のものなのか、それを判定すべき基準は、慣習以外に全く存在していないのです

よ。

 

equal」 縦書きの極小フォントで私のKindleでは拡大できず、パス。

 

捧ぐ緑」 ゾウリムシは信仰を持つか?オートガミーもすれば老衰死もする。有り得るんじゃないのか? → ないない。

 

まあこのへんにしておこう。ここから先はある意味禁断のフラクタルなような、量子物理学的でもあるようなないようなSF世界。SF的変質者御用達の世界が待っている。

 

『どこまで行っても、宇宙にはなにもなかった―空っぽの宇宙空間でただよい続け、いまだ出会うことのないバナナ型宇宙人を夢想し続ける無人探査機を描く表題作、淡々と受け継がれる記憶のなかで生まれ、滅びゆく時計の街を描いた「エデン逆行」など全10篇。円城作品はどうして「わからないけどおもしろい」のか、その理由が少しわかるかもしれない作品集、ついに文庫化。ボーナストラック「コンタサル・パス」を追加収録。 (AMAZON解説より)』

ぐるりのこと / 梨木香歩

⭐︎⭐︎

  「海うそ」がよかったので、続けて梨木香歩を読んでみたが、う~ん、こんなはずじゃなかった、というのが二点あった。

 

  まずは自分の勘違い。以前「ぐるりのこと」といううつ病を扱った映画を見ていたので、それの原作だと思っていた。これが全くの間違いで、調べてみると映画原作者は橋口亮輔氏であった。本作は全然関係ない、それも小説でなくエッセイなのであった。

 

  梨木香歩のエッセイといえば以前「春になったら苺を摘みに」を読んで「本が好き!」にレビューしたことがある。この本は梨木が英国留学の際にホームステイでお世話になったウェスト夫人の思い出を中心とした、比較的明るい作品であった。

   ところが、このエッセイ第二弾は結構重くて深い思索で、え、梨木さんってこんな人だったの、と驚くようなところもあった。これが第二の点。

 

  表題の「ぐるりのこと」についての文章は中盤に出てくる。茸の観察会の指導者として知られていた吉見昭一氏が、

こういう菌糸類は身の回りに沢山あります。自分のぐるりのことにもっと目を向けて欲しい

と語られたその「ぐるりのこと」という言葉に一瞬心を奪われ、この言葉を連載のタイトルとして決め、この一連の文章を書き続けたそうだ。


 「ぐるり」は(おそらく関西弁だと思うが)「自分の身の回りのこと」という程度の意味だが、そこから考えを発展させ、梨木は逆に「境界」ということを深く思索していく。境界の向こうは、どうなっているのだろうか、どうすれば越えられるのか。そして最後には

「ぐるりのこと」は中心へ吸収され、充実した中心はぐるりへ還元されてゆく。(「物語を」)

 

  そこに至るまでには本当に様々な事象が俎上に挙げられる。文字通りぐるりのことから始めて、イスラーム女性のヘジャーブ、イングランドセブンシスターズでの思索、ブッシュ政権イラク進攻、長崎で起こった中学生による幼児殺害事件、武士道の極端な異端思想「葉隠」、西郷隆盛の実像、カズオ・イシグロの無国籍性、環境問題等々へ話は次々と飛んでいく。

 

  とりとめのない話題の羅列のように思えるが、一貫しているのは「考えること」の大切さを重んじる姿勢。大きすぎる、重すぎる話題についてはそこまで思いつめなくても、と思わないでもないが、彼女は言う。

 

  一人で考えてどうなるものでもなくても

しょうがないなあ

と失望しながらでも、向き合っていかねばならないと。そのための武器であり道具となるのは彼女の場合、当然「言葉」だ。

 

確かに言葉は扱いに困る、厄介な代物だ。けれど私は言葉という素材を使って、光の照射角度や見る位置によって様々な模様や色が浮かび上がる、物語という一枚の布を織り上げることが、自分の仕事だと思っている。(「風の巡る場所」)

 

   ここに書いてあることを知らなくても梨木香歩の小説は十分に楽しめるし、逆にこのエッセイは足枷になりかねない危険性も孕んでいると思う。そういう意味では熱心なファン限定かもしれない。私もしばらくは彼女の作品に集中するつもりだったが、今はちょっと離れてから、と思っている。

  

 

『旅先で、風切羽の折れたカラスと目が合って、「生き延びる」ということを考える。沼地や湿原に心惹かれ、その周囲の命に思いが広がる。英国のセブンシスターズの断崖で風に吹かれながら思うこと、トルコの旅の途上、へジャーブをかぶった女性とのひとときの交流。旅先で、日常で、生きていく日々の中で胸に去来する強い感情。「物語を語りたい」――創作へと向う思いを綴るエッセイ。(AMAZON解説より) 』