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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

吸血鬼 / 佐藤亜紀

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  佐藤亜紀を読むシリーズもこの作品でついに(小説は)終了である。2016年の「吸血鬼」。参った。ひれ伏す思い、とはこのことだ。

 

  この物語は限りなく陰鬱で限りなく寒々として限りなく残酷で限りなく狡猾で、そして限りなく美しい至高の佐藤亜紀の世界である。

 

  文章、文体、プロット、構成、時代考証、微妙な謎の残し方、余韻、すべてに完璧。佐藤亜紀がついにたどり着いた小説という表現形式の一つの極北。皆川博子はこう評している。

 

怪異の外衣を纏った、迫力と緊張感。流麗な文体のリズム。

読んでいる間、時折、私は文章で音楽を視たのです。

 

本作は詩の紹介で始まる。

詩人アダム・クワルスキは、代表作「すみれ」をこう始めている。

ー 野のすみれよ、可憐な紫紺の花よ

馥郁と香る小さな五弁の花よ

誰がお前のことを忘れるだろう

吹き荒ぶ冬の嵐を突いて

漂泊の旅路を彷徨う時にも、おお、すみれよ、

懐かしい野に咲くお前のことを忘れはしない

 

  この、クワルスキというポーランドの寒村の領主貴族が「吸血鬼」なのか? と思わせておきながら、安直な吸血鬼譚にはならない。佐藤亜紀だから、なり得ない、というべきか。

 息もつかせぬ展開で怒涛の如く話は進み、最後にクワルスキに文学青年としてあこがれを抱いていた役人のゲスラと、クワルスキの妻で土着の靭さを感じさせるウツィア二人のシーン。

 

 夕闇の中で殆ど見分けが付かないウツィアの顔を、ゲスラーは注視する。二人はそのまま動かない。穏やかな日暮れだ、と。暫くしてからゲスラーは呟く。- こんな薄闇があるとは考えた事もなかった。やっと落ち着いた気がするのは不思議ですよ。

 ウツィアの唇が細く息を洩らす。面紗が微かに動く。笑ったのか、溜息を吐いたのかはわからない。そうね、と彼女は言う。- もっと穏やかな闇も、私たちにはあるでしょう。

 

 佐藤流様式美の極致。この文章を彼女の作品の最後の最後で読めたことは私にとってこの上ない僥倖であった。

 

  一方で「一見さんお断り」作品でもある。上述したように、題名で想像するようなありきたりの(ドラキュラ伯爵のような)「吸血鬼」譚ではない。また、地の者の訛りを日本語でここまで読みにくくする必要があるのか、と思う執拗さは理由あってのことだが、完全について来れる者だけついてきなさいの世界。

 

     とても佐藤亜紀なら先ずこれを読みなさい、とは言えない。この本を本気で読むなら、下記の小説を全て読んでから。そうすれば至福の時を過ごせるだろうと思う。もちろん全ての小説を読んでいるわけではないが、21世紀の日本の小説の中で傑出した存在であると思う。

 

『独立蜂起の火種が燻る十九世紀のポーランド。 その田舎村に赴任する新任役人のヘルマン・ゲスラーとその美しき妻・エルザ。この土地の領主は、かつて詩人としても知られたアダム・クワルスキだった。 赴任したばかりの村で次々に起こる、村人の怪死事件――。 その凶兆を祓うべく行われる陰惨な慣習。 蹂躙される小国とその裏に蠢く人間たち。 西洋史・西洋美術に対する深い洞察と濃密な文体、詩情溢れるイメージから浮かび上がる、蹂躙される「生」と人間というおぞましきものの姿。(AMAZON解説より)

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法

鏡の影

モンティニーの狼男爵

1809

天使

雲雀

ミノタウロス

醜聞の作法

金の仔牛

スウィングしなけりゃ意味がない