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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 7 / マルセル・プルースト、吉川一義訳

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  前回レビューに書きましたように、高遠弘美氏訳の光文社古典新釈文庫版「失われた時を求めて」は現在第六巻までしか刊行されていません。そこで、せめて第三篇「ゲルマントのほう」だけでも読みきっておこうと思い、進行を同じくする岩波文庫版で第七巻を読んでみました。訳は高遠氏もよく参考にされていた吉川一義氏です。

 

  三巻に分けられた「ゲルマントのほう」の第三部完結編、岩波文庫版では約540ページあります。第一部ではゲルマント公爵夫人をストーカーみたいに追いかけ、第二部ではついにヴィルパリジ夫人に招かれて社交界デビューを果たしたものの愛する祖母の死に涙した「私」でしたが、この第三部ではいよいよパリ社交界の花であり憧憬の的であるゲルマント公爵夫人の晩餐に招待されます。

  その晩餐、夜会の状況がなんと約200ページに渡り描かれるのですが、まあ当時のフランス人ならぬ私にとっては壮絶に退屈、というか、もう苦痛に近い。冒頭の「コンブレー」をはじめ、これまで何度となくあった難所ですが、これはもう極めつけ、よく読みきったと自分をほめてあげたいくらいです。

 

  とは言え、さすがはプルースト、難所はあれど無駄な章は作らない、どこを取っても不要な箇所などないわけで、この第七巻も周到で絶妙な構成となっています。簡単にまとめてみますと

 

1:アルベルチーヌの来訪と初めての接吻

2:ヴィルパリジ夫人邸再訪

3:ステルマリア夫人にふられる

4:サン・ルーとの再会、夕食

5:ゲルマント公爵邸での晩餐夜会

6:シャルリュス邸訪問

7:ゲルマント公爵邸再訪と同時のスワン氏の病状~大団円「公爵夫人の赤い靴」

 

となります。

 

  祖母の死から半年後の秋の日曜日から話は始まるのですが、超過保護おぼっちゃまの「私」は意外にも祖母の死をひきずらず、

 

  その日は秋の単なる日曜日にすぎなかったが、私は生まれ変わったばかりで、目の前には真っ新な人生が広がっていた。

 

と見事に場面転換。このあたり、プルーストはやはりうまい。

  そして「花咲く乙女たち」の中でも一際ご執心だったアルベルチーヌがパリの私の家を訪れる流れとなります。バルベックではあっさり「私」を拒絶したアルベルチーヌでしたが、この時期には心身ともに成熟しており、彼女の方から積極的にアタックを仕掛けてもらって「私」は初めての接吻を交わします。

  とは言え、あいかわらずゴタクの多い「私」のこと、アルベルチーヌの誘いに容易には応じず、延々と心理描写情景描写が続きます。そしてく頬に接吻するだけなのに、その短い行程の間にズームアップ効果で「無数のアルベルチーヌ」が見えるというのですからまあ凄い。まあ吉川氏も絶賛されているとおり、このあたりがプルーストの巧い所でもあり、狙っているところでもあるわけなんですが。

 

  この例に限らず、熱烈に欲しいと焦がれる時には手に入らず、興味が失せた途端に向こうから寄って来るというのが「失われた時を求めて」の法則。

  バルベックで見染て憧れていたテルマリア夫人にあっさり振られてしまう(まあ向こうにとっては振ったという意識もないのですが)エピソードも然り。ちなみにその絶望感をあらわすこういう一節はプルーストの天賦の才でしょう。

 

やがて冬なのだ。窓の隅には、ガレのガラス器のようにひと筋の雪が凍りつくだろう。シャンゼリゼには、待ちのぞむ少女たちのすがたは見えず、ただ、スズメのむればかりとなるだろう。

 

  そして「ストーカーはやめて!」と母に説得されてあっさりとゲルマント公爵夫人の追っかけをやめ、ヴィルパリジ夫人邸からの招きにも応じなくなった途端、そのゲルマント夫人から興味を抱かれて、晩餐に招かれるという流れとなります。

 

  最初に書いたように、まあここからの200Pが凄い。晩餐の様子は殆ど描かれず、まずはゲルマント公爵夫人オリヤーヌの機知や会話術、そして「フォーブール・サン=ジェルマン」最高のサロンであるゲルマント家と並みの貴族であるクールヴォアジエ家の差異、数世紀にわたって延々と受け継がれてきた「ゲルマント家の精霊」についての薀蓄などが延々100ページに渡って描かれます。

  そして次の100ページでは、オリやーヌの地口、毒舌、逆説満載の会話術が引き立て役である夫ゲルマント公爵や聞き手であるゲルマント大公妃などの絶妙な反応とともに語られます。

  ヴィクトール・ユゴーバルザック、ワグナーやベートーベン、フェルメールやエルスチール(印象派のアイコンたる架空画家)などあらゆる分野の芸術論が縦横に散りばめられていると言うものの、その実態として、オリアーヌはそれを演出の道具としかみなしていないし、夫に至っては真贋の区別さえできない。

  「私」はこのパリ社交界最高の晩餐会でその凄さとその下に隠された虚妄を知る事になります。

 

  そしてそれは読者も同じ。もう勘弁してくださいよ~と言いたくなるほど、いつ終わるとも知れぬ庶民にとってはどうでもいい話が延々と続きますので、読まれる方は覚悟してお読みください。でなきゃすっ飛ばして読んでもいいと思いますけどね。

 

  実はだいぶ後で、帰宅した「私」が使用人の珍妙な手紙を読む場面が唐突に出てくるのですが、プルーストは結局は上流階級の文学に関する理解度だって同じようなもんじゃないか、と揶揄してるように思えます。

 

  さて話を戻して、謎の男シャルリュス男爵との約束があった「私」は公爵夫妻の引き留めを振り切って夜遅くにシャルリュス邸を訪問します。

  そこでまた不機嫌な男爵が大暴れ!怒鳴り散らすわ、もうお前とは終わりだと喚くわ、そのわりに「私」にご執心だわで、訳が分かりません。まあ巷間よく知られているように、彼の正体は次篇「ソドムとゴモラ」で明らかとなっていくのでしょう。

 

  最終章では晩餐会に同席したゲルマント大公妃から招待状が来て半信半疑の「私」が本当かどうかを問いにゲルマント公爵邸に押し掛けるのですが、ここでの公爵夫妻の対応は先程の晩餐会をおさらいしているよう機知と軽薄と高慢と韜晦に満ち満ちていて、短い分だけ内容が濃くて分かりやすく読み応えがあります。

  吉川氏も絶賛されている、オリヤーヌの底意地の悪さと茶目っ気が同居した、気に入らない新参者の某伯爵夫人への意趣返しの方法の面白いこと。
  その他にも招待された晩餐会に出かけるため、危篤の従兄を何とか死んでいないことにしたい公爵のドタバタ模様、真っ赤な衣装に身を包んだ公爵夫人の鮮烈な印象など、最後に来て読みどころ満載です。

 

  そしてそこに登場するスワン氏の真摯さとこの夫妻の軽薄さとの対比も見事。そしてこの章の大団円「公爵夫人の赤い靴」へとなだれ込んでいきます。

  スワン氏は最後に自分が余命いくばくもないことを告白するのですが、夫妻は招待された晩餐会が気になって気もそぞろ。最終章の最初の一文。

 

公爵は瀕死の病人を前にして、なんら気兼ねなく妻と自分の体調不良のことを語った。自分たちの体調不良のほうがよっぽど気にかかり、相手の病状よりそのほうが重大事に思えたのである。

 

 「私」は明らかに怒っていますね。第六巻の最後で祖母の死に慟哭したのと見事な対比となってこの「ゲルマントのほう」は終わりを告げます。

 

  ここで思い出すのが、第三巻でのスワン氏の、オデットとジルベルトをゲルマント公爵夫人に引きわわせるためだけに結婚したのだ、という強い思い。なるほどパリ社交界の最高レベルにあるこのサロンのことを意味していたのだな、と今更ながらに理解できますし、この場面でのスワン氏の心中は察するに余りあります。

 

  さて、吉川一義氏の翻訳は高遠弘美氏に比べてやや硬い気はしますが、古典の翻訳としては常識的な範囲内で考証も高遠氏に負けず劣らず精緻を極めており、このまま岩波文庫で読みすすめてもいいと感じました。とは言ってもこの作品、これでまだちょうど半分。。。

  ここから先はプルースト死後の出版となり、彼以外の人間の手が編集に入っていますが、さて読み進められるかどうか。ボチボチと焦らずにやっていきたいと思います。

 

  

 冬に向かうパリ、「私」をめぐる景色は移ろう―「花咲く乙女」とベッドで寄り添い、人妻との逢い引きの夢破れ、ゲルマント夫人の晩餐には招待される。上流社交界の実態、シャルリュス男爵の謎、予告されるスワンの死…。人間関係の機微を鋭く描く第七巻。(AMAZON解説)