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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

MISSING 失われているもの / 村上龍

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  私の世代には絶大な影響力のあったW・MURAKAMIの一人村上龍の、 「オールド・テロリスト」以来5年ぶりの長編となります。

 

  1976年の衝撃のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」以来、殆どの小説につきあってきましたが、今回は本当に驚きました。

 

  これほど内省的な龍の作品はおそらく初めてだと思います。

 

  以前「MURAKAMI―龍と春樹の時代」で龍と春樹を比較検討したことがありましたが、二人は時代を代表する作家で同姓でありながら全く対照的な作家です。

 

  村上龍の関心は常に時代とともにあり、外界に向かい、その文章はリアルで歯切れがよくかつ断定的で、作家としての自信に満ち溢れていました。

 

  一方の村上春樹はつねに「僕」の内面を見つめ続け、内省的でメタファーを多用しどこか曖昧模糊として敢えて断定調を避けた文章で読者を魅了してきました。

 

  そんな龍がこれほど自己の内面を見つめる作品を書くとは本当に驚きです。「龍流私小説」と言ってもいいでしょう、彼はそういう類の小説が大嫌いではなかったかと訝りつつも、さすがの筆力に引き込まれてあっという間に読んでしまいました。

 

    彼の文章を借りれば、

 

成功した作家は、昔の辛い日々を思い出す

 

のです。

 

  とにかく最初から最後まで悶々とした独白が延々と続きます。

 

  それも猫と女に誘導されるがままにはまりこんだ、

 

この世とあの世の境目のような、

 

現実と虚構のはざまで、

 

覚醒と睡眠の境界のような

 

どことも説明のつかない場所で、

 

抑うつと不安に苛まれながら、

 

自己の意識の中の母と語り合いながら、

 

知る筈のない母の記憶をたどり、

 

自分の記憶を掘り起こし、

 

母という他者から自己を見つめなおし、

 

母の父や自分への思いを知る。   

 

自分が知るはずのない母の記憶が何故蘇って来るのか、

 

母が知り得ないことを何故私に語りかけてくるのか、

 

自分はまだ生きているのかもう死んでいるのか。

 

  とめどもなく呼び起こされる記憶は、時には飛躍し、時には同じことを何度も何度も繰り返し、今までの龍では考えられないほど非論理的で観念的。

 

  しかしそれが決して苦痛ではなく、龍が撮りためた

 

母や自分や父や花や百日草や銀杏や犬や廊下やエスカレーター

 

などなどの興味深い写真の提示もあり、グイグイと読む者を引っ張っていきます。

 

  まだ出たばかりなので具体的な内容には敢えて踏み込まないでおきますが、龍の両親(特に母)の出自、龍の幼少時からあの衝撃的なデビュー作を書くまでの諸相、それらをこれほど赤裸々に告白した小説を読めたのは収穫でした。

 

  また、実際彼が大スランプに陥った時期があったのは周知の事実ですが、その時の混乱と不安はこうだったのかな、と思わせる終章には痛々しささえ覚えました。

 

  まあ、龍はあくまでも小説、フィクションだと嘯くでしょうが。。。

 

  あえて注文を付けるとすれば結末。龍にしてははっきりとしない終わり方でファンとしてはやや不満。まあその点を差し引いても☆4つは捧げたい驚きの新作でした。

 

  ちなみに本当のお母さんはあのあっけらかんとした青春小説「69 sixty nine」が大好きで何度も読み返しておられるそうです。

 

 この女優に付いていってはいけない──。 主人公の小説家は、なぜ「混乱と不安しかない世界」に迷い込んだのか? 予兆はあった。彼は制御しがたい抑うつや不眠に悩み、カウンセリングを受けていたのだ。 そして一人の女優が迷宮の扉を開け、小説家は母の声に導かれ彷徨い続ける……。(AMAZON解説)

 

 

もういちど生まれる / 朝井リョウ

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  朝井リョウを読むシリーズ、今回は2011年の「もういちど生まれる」です。大学4年時に書かれた「星やどりの声」(2010)の一年後、西加奈子さんの解説によると、サラリーマンと作家の兼業時代の作品ですが、前作から著しい進境を見せていると感じました。

  この後の「少女は卒業しない」、直木賞受賞作の「何者」にも引き継がれて朝井リョウの持ち味となる、互いに連関のある連作短編集という形式の始まりがこの作品であったことがわかります。

  ちなみにこの三作、微妙に年代をずらしています。本作が20歳、「少女は卒業しない」が18歳(高校卒業式)、「何者」が22歳(大学4年、就職活動)となっており、この三作を読むとこの2年刻みで驚くほど彼らを取り巻く環境が変化していくことが分かりますし、それを実にうまく朝井リョウは描き分けています。

 

  さて、この作品では大学生活のど真ん中、 

 

無責任を背負って、自由を装っている。未来どころか、三歩先のことだって本当は誰にも見えていない(「僕は魔法が使えない」)

 

高校時代「すごい」といわれた才能などもう通用しないけれど、かといって大学レベルでも通用するすごい才能の持ち主でさえまだ「何者」でもないモラトリアムの時期を、朝井リョウの代名詞ともいえる「瑞々しい感性」で描き切っていて見事です。

  主な舞台は結構偏差値の高い都内の私立大であるR大。おそらく朝井リョウが出た早稲田大学を想定していると思われます。   

  五編からなりますが、簡単に主要登場人物を紹介しますと、

 

ひーちゃんは線香花火

汐梨、ひーちゃん、風人、尾関(R大)

燃えるスカートのあの子

翔多、椿、結実子、オカジュン、礼生(R大)、ハル(ダンススクール、翔多とバイト仲間、椿と高校同級生)

僕は魔法が使えない

新、ナツ先輩(美大)、結実子

もういちど生まれる

梢(予備校二浪)、椿 、風人 (梢と椿は双子、三人は幼馴染)

破りたかったもののすべて

ハル(遥)、ナツ先輩(兄)、翔多、椿

 

・  尾関という恋人に物足りなさを感じている自他ともに認める美人汐梨。その汐梨以上の美人であるひーちゃん、彼女の友人(恋人?)である風人との不思議で微妙な四角関係。

・  チャラいけれど、バイトはしっかりこなし、飲み会がコミュニケーションツールであることになんとなく疑問を感じている翔多。バイト先でハルにちょっかいをかけては怒られ、同じサークルの美人椿にアタックしようとするも。

   ちなみに翔多、椿、オカジュン、結実子、尾関は同じサークル、このサークルの河口湖合宿の時間帯が連作のキーとなる。

・  浪人して美大へ進んだ(あらた)は亡父への思いから脱せず、再婚を考えている母と上手くいっていない。そしてナツ先輩の圧倒的な才能にはとてもかなわないと思っている。絵のモデルになった結実子が新の絵の中に見出したものは。

・  高校時代から読者モデルをしながらもR大にするっと入り、学生映画の主演も決まった姉椿にコンプレックスを感じ続けている双子の妹・。二浪の身で予備校の教師に実らない恋をし、心を許せるのは幼馴染の風人だけ。コンプレックスと姉への反感から、ある日姉に成りすまして学生映画の撮影現場へ出かけるが。

・  高校時代は圧倒的なロックダンスで周囲を「すごい」と思わせていたハル(遙)。大学を捨てダンススクールに入るが、そこでは彼女の「すごい」など通用しない。それがわからない兄ナツに苛立つ一方、バイト先でちょっかいをかけてくるあいつに実は心惹かれている。

 

  風人、翔多、椿、結実子ナツハル兄妹をはじめ多くの登場人物が二編以上で顔を出し、連作を緊密に結びつけています。そして彼らはある作品では眩しく輝いていても、別の作品では内面に劣等感を感じています。この明暗二面の描き分けが見事で、群像劇を深いものにしています。

  この時期特有の風景もリアルに描かれています。一人暮らしの部屋、線香花火遊び、サークルの飲み会、合宿、学生映画、甘味喫茶、美大キャンパス、アトリエ、ダンススクール、夜の新宿のビル前のダンス練習、等々。

  そして物語はナツ先輩の美大ピロティに飾られた美術展受賞作が破られる結末へと収斂していきます。

作品の中で、様々に出会ういわゆる「黒い」感情は、著者のこの「すべてを書こう」とする決意の表れだと、私は思う。(中略)

自らの黒い感情に苦しんだ彼らには、必ず、ある光が待っている。

という西加奈子さんの見事な解説のとおり、朝井リョウも「学生作家」という華々しい肩書を得ながらもいろいろな苦悩葛藤があり、それがこの作品に結実したんだろうな、と思わせる佳作でした。

 

バベル九朔 / 万城目学

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  面白くてサクサクっと読める本がないかな、と探していてみつけたのがこの文庫本。モリミーのライバル、マキメーこと万城目学の「バベル九朔」です。2016年の作品で、昨年文庫化されました。

 

俺は5階建ての雑居ビル「バベル九朔」の管理人をしながら作家を目指している。巨大ネズミ出没、空き巣事件発生と騒がしい毎日のなか、ついに自信作の大長編を書き上げた。だが、タイトル決めで悩む俺を、謎の“カラス女”が付け回す。ビル内のテナントに逃げこんだ俺は、ある絵に触れた途端、見慣れた自分の部屋で目覚める―外には何故か遙か上へと続く階段と見知らぬテナント達が。「バベル九朔」に隠された壮大な秘密とは?(AMAZON解説)

 

  上記解説を読むと一種のパラレルワールドもののようで、ハラハラドキドキかつ抱腹絶倒のページターナーを期待して読んだのですが、

 

面白くなくはないがマキメーにしては登場人物がありきたり、笑えるところが無いではないが少なく、雰囲気が暗く、話の展開がステレオタイプな上に場面設定がやたらゴチャゴチャしていて読み進めにくい。

  

   ということでマキメーにしては面白くないなあというのが率直な感想です。ご自身もビル管理人をしながら小説家を目指しておられたそうなので思い入れタップリなんでしょうけど、ちょっと読む側の期待と乖離してるんじゃないかな。特殊キャラがカラス女だけじゃね〜。

 

  文庫版には「魔コ殺し」という、作中の小説家志望の主人公が書いた短編(掌編)小説がおまけについているのですが、これがまた読み始めて2、3分もしないうちにオチがわかってしまい、超絶つまらない。一次選考でさえ通ったことのないという設定に合わせた余興かもしれませんが、、、ないわ〜

 

  マキメーの小説ではあと一本、この翌年に書かれた「パーマネント神喜劇」が未読ですが、ちょっと心配。文庫化されてから読むかな。

 

  

約束された移動 / 小川洋子

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  久々の小川洋子。去年末に出た新刊です。

  「ブクレコ」や「本が好き!」などで私はこれまで、

 

「静謐で美しい」

「どこか狂っている世界」

「独特のエロティシズム」

小川洋子は細部に宿る」

 

といった表現で小川洋子を評価してきました。

  今回も例外ではなく、既レビューにあるように「エロに乏しい」ものの、一読してどれも小川洋子だなあとわかる作品が六作品並んでいて楽しめました。

  あえて言えば、文章やストーリー構成が達者になりすぎて、読みやすい分逆に強く印象に残る作品に乏しい、そんな気はしました。


  また、全体を通してのテーマは「移動」だそうですが、それに拘泥するとそれぞれの作品に集中できないので、あまり気にする必要はないと思います。敢えて言えば冒頭の表題作と最後の「巨人の接待」が「移動」というテーマに関しては出色の出来栄えだったと思います。
 

 

  以下寸評。

 

約束された移動 文藝2019秋季号

  表題作。

 ハリウッド俳優のBはすっかり落ちぶれてしまい、スクリーンで姿を見ることもなくなったが、昔は微笑むギリシャ彫刻と呼ばれ、世界中に熱狂的なファンを持つスターだった。

に始まり、

どれほどBが落ちぶれようと、世間から蔑まれようと、彼がいかに困難な道にも怯まない勇者であるか、私は知っている。(中略)彼は転落したのではない。象や無垢な少女や船長や、一家の名もない母に導かれ、行き着くべき場所に向かって、今も移動を続けているのだ。

 

に終わる、ロイヤルスイートルームの客室係の「私」の、宿泊するたびに本棚から一冊ずつ抜き取っていくハリウッド俳優への30年に渡る共感。

  

 ずばり、六作品中最高の出来だと思います。文章は精緻で破綻がなく、ストーリーに一切の無駄がない。処女作品集「完璧な病室」は不粗削りで不完全な文章が魅力でしたが、これはもう非の打ち所のない完璧な短編」。小川洋子の円熟を示す傑作だと思います。

  

  文学に関する知識が多いほど楽しめますが、映画「リバー・ランズ・スルー・イット」と1970年の大阪万博時の象の行進の映像(Youtubeに当時のニュース映像があります)を知っていれば、より楽しめます。

 

ダイアナとバーバラ 文藝2019夏季号

  漠然とですが、小川洋子の作品には「」の気配が希薄な気がします。この作品も祖母と孫娘の物語。

  孫娘はしっかりした子。祖母も元々キャリアウーマンでしっかりものでしたが、今はダイアナ妃が着ていたドレスを真似て自己流で洋裁して身にまとっては悲惨な目にあうというちょっとおかしいところがあります。この辺りの拘り方はまさに「小川洋子は細部に宿る」の典型。

 

  ということでダイアナは故ダイアナ妃ですが、バーバラはどうもこの老婆のことのよう。ば〜ばなんでしょうか?個人的にはこの呼び方大嫌いですが。


  兎にも角にも、その老婆から孫娘へ「わかりますよ、わかります」という口癖が受け継がれる物語。

 

元迷子係の黒目 文藝2019年冬季号

  出来立てのホヤホヤの作品ですね。これも少女と老婆のお話ですが、単なる祖母ではなく「ママの大叔父さんのお嫁さんの弟が養子に行った先の末の妹」というややこしい関係。こういうことを思いつくのも小川洋子ならでは。ちなみに初めての子が死産で子供はいない、ここにも母性の喪失が顔をのぞかせています。

 

  表通りに面した少女の家と、路地を挟んだ裏庭のこの老婆の家という狭い世界での二人の一夏の交流が描かれます。斜視という素材も、元キャリアウーマンで百貨店の迷子探しの達人という設定も、小川洋子らしくうまく料理はしていますが、正直それほどフックにはなっていないのが惜しい。

 

  むしろ熱帯魚飼育やグッピーの出産などの方が私も経験があるので面白かったですが、ちびまる子ちゃんにあったようなオチが来るんじゃないかな、と思って読んでいたらまさにその通りで、少女が気の毒ではあるのですが笑ってしまいました。

 

寄生 文藝2009年秋季号

  これは10年前の作品なので、他の収録作とはずいぶん雰囲気が違います。不条理とシュールが入り混じった気持ち悪さが魅力と言えば魅力で、かつ、珍しく若い男性が主人公のせいか、なんとなく村上春樹を連想させるところがありました。

 

黒子羊はどこへ 『どうぶつたちの贈り物』PHP 2016年一月号収録作が底本

  これは唯一テーマがあたえられて書いた小説だそうで、名前に動物が隠れた作家、それぞれの動物をテーマに書くという特集だったそうです。ということでお題は「洋子」のなかの「羊」。

  主人公は寡婦でやはり子供はいないのですが、何故か子供に好かれ、羊と子どもたちの面倒をみているうちに託児所「子羊の園」の園長となります。彼女のひそかな楽しみは夜になるとこっそり音楽を聴きにクラブへ出かけ、お目当ては歌手Jの歌を聴くこと。ただしライブ会場には入らず裏口の排気口から漏れてくる歌声に耳を傾けるだけ。なんとなく背徳的なにおいが立ち込めたかと思うと一転して死の匂いが。。。このあたりが小川洋子ファンにはたまらない魅力。

 

巨人の接待 文芸春樹2009年12月号初出、文春文庫「甘い罠」収録作が底本

  ヨーロッパアルプス東南端の地域言語でしか話さない有名作家とその通訳との日本での数日間を静謐な筆致で描き切り、「言葉を伝えていく事」の難しさ、大変さ、そして大切さ小川洋子独特の感性で描いていて、締めにふさわしい素晴らしい作品だと思いました。

 

  彼女が傾倒していた「アンネ・フランク」関係の作品や、人気作「ことり」にも通じる題材がこの作品にも取り入れられていて、そういった作品を好きな方にはより楽しめると思います。

  ということで、この作品だけは「移動」について引用しておきましょう。

 

 十五歳の時、戦争が起こった。(中略)一家は強制収容所に送られ、巨人一人だけが生き残った......バラックAからBへ。収容所Cから収容所Dへ、さらにEへ。家畜列車で、無蓋列車で、あるいは徒歩で、赤十字のキャンプから療養所へ、難民施設へ、簡易宿泊所から炭鉱へ、農場へ、四十歳でペン一本の生活に入り、生まれ故郷に戻ってくるまで、彼の人生は移動の連続だった。移動することが彼にとっての苦難の象徴となった。

 

  

 

 

こうして書棚の秘密は私とB、 二人だけのものになった―― ハリウッド俳優Bの泊まった部屋からは、決まって一冊の本が抜き取られていた。 Bからの無言の合図を受け取る客室係……「約束された移動」。 ダイアナ妃に魅了され、ダイアナ妃の服に真似た服を手作りし身にまとうバーバラと孫娘を描く…… 「ダイアナとバーバラ」。 今日こそプロポーズをしようと出掛けた先で、見知らぬ老女に右腕をつかまれ、占領されたまま移動する羽目になった僕…… 「寄生」など、“移動する"物語6篇、傑作短篇集。(AMAZON解説)

失われた時を求めて 7 / マルセル・プルースト、吉川一義訳

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  前回レビューに書きましたように、高遠弘美氏訳の光文社古典新釈文庫版「失われた時を求めて」は現在第六巻までしか刊行されていません。そこで、せめて第三篇「ゲルマントのほう」だけでも読みきっておこうと思い、進行を同じくする岩波文庫版で第七巻を読んでみました。訳は高遠氏もよく参考にされていた吉川一義氏です。

 

  三巻に分けられた「ゲルマントのほう」の第三部完結編、岩波文庫版では約540ページあります。第一部ではゲルマント公爵夫人をストーカーみたいに追いかけ、第二部ではついにヴィルパリジ夫人に招かれて社交界デビューを果たしたものの愛する祖母の死に涙した「私」でしたが、この第三部ではいよいよパリ社交界の花であり憧憬の的であるゲルマント公爵夫人の晩餐に招待されます。

  その晩餐、夜会の状況がなんと約200ページに渡り描かれるのですが、まあ当時のフランス人ならぬ私にとっては壮絶に退屈、というか、もう苦痛に近い。冒頭の「コンブレー」をはじめ、これまで何度となくあった難所ですが、これはもう極めつけ、よく読みきったと自分をほめてあげたいくらいです。

 

  とは言え、さすがはプルースト、難所はあれど無駄な章は作らない、どこを取っても不要な箇所などないわけで、この第七巻も周到で絶妙な構成となっています。簡単にまとめてみますと

 

1:アルベルチーヌの来訪と初めての接吻

2:ヴィルパリジ夫人邸再訪

3:ステルマリア夫人にふられる

4:サン・ルーとの再会、夕食

5:ゲルマント公爵邸での晩餐夜会

6:シャルリュス邸訪問

7:ゲルマント公爵邸再訪と同時のスワン氏の病状~大団円「公爵夫人の赤い靴」

 

となります。

 

  祖母の死から半年後の秋の日曜日から話は始まるのですが、超過保護おぼっちゃまの「私」は意外にも祖母の死をひきずらず、

 

  その日は秋の単なる日曜日にすぎなかったが、私は生まれ変わったばかりで、目の前には真っ新な人生が広がっていた。

 

と見事に場面転換。このあたり、プルーストはやはりうまい。

  そして「花咲く乙女たち」の中でも一際ご執心だったアルベルチーヌがパリの私の家を訪れる流れとなります。バルベックではあっさり「私」を拒絶したアルベルチーヌでしたが、この時期には心身ともに成熟しており、彼女の方から積極的にアタックを仕掛けてもらって「私」は初めての接吻を交わします。

  とは言え、あいかわらずゴタクの多い「私」のこと、アルベルチーヌの誘いに容易には応じず、延々と心理描写情景描写が続きます。そしてく頬に接吻するだけなのに、その短い行程の間にズームアップ効果で「無数のアルベルチーヌ」が見えるというのですからまあ凄い。まあ吉川氏も絶賛されているとおり、このあたりがプルーストの巧い所でもあり、狙っているところでもあるわけなんですが。

 

  この例に限らず、熱烈に欲しいと焦がれる時には手に入らず、興味が失せた途端に向こうから寄って来るというのが「失われた時を求めて」の法則。

  バルベックで見染て憧れていたテルマリア夫人にあっさり振られてしまう(まあ向こうにとっては振ったという意識もないのですが)エピソードも然り。ちなみにその絶望感をあらわすこういう一節はプルーストの天賦の才でしょう。

 

やがて冬なのだ。窓の隅には、ガレのガラス器のようにひと筋の雪が凍りつくだろう。シャンゼリゼには、待ちのぞむ少女たちのすがたは見えず、ただ、スズメのむればかりとなるだろう。

 

  そして「ストーカーはやめて!」と母に説得されてあっさりとゲルマント公爵夫人の追っかけをやめ、ヴィルパリジ夫人邸からの招きにも応じなくなった途端、そのゲルマント夫人から興味を抱かれて、晩餐に招かれるという流れとなります。

 

  最初に書いたように、まあここからの200Pが凄い。晩餐の様子は殆ど描かれず、まずはゲルマント公爵夫人オリヤーヌの機知や会話術、そして「フォーブール・サン=ジェルマン」最高のサロンであるゲルマント家と並みの貴族であるクールヴォアジエ家の差異、数世紀にわたって延々と受け継がれてきた「ゲルマント家の精霊」についての薀蓄などが延々100ページに渡って描かれます。

  そして次の100ページでは、オリやーヌの地口、毒舌、逆説満載の会話術が引き立て役である夫ゲルマント公爵や聞き手であるゲルマント大公妃などの絶妙な反応とともに語られます。

  ヴィクトール・ユゴーバルザック、ワグナーやベートーベン、フェルメールやエルスチール(印象派のアイコンたる架空画家)などあらゆる分野の芸術論が縦横に散りばめられていると言うものの、その実態として、オリアーヌはそれを演出の道具としかみなしていないし、夫に至っては真贋の区別さえできない。

  「私」はこのパリ社交界最高の晩餐会でその凄さとその下に隠された虚妄を知る事になります。

 

  そしてそれは読者も同じ。もう勘弁してくださいよ~と言いたくなるほど、いつ終わるとも知れぬ庶民にとってはどうでもいい話が延々と続きますので、読まれる方は覚悟してお読みください。でなきゃすっ飛ばして読んでもいいと思いますけどね。

 

  実はだいぶ後で、帰宅した「私」が使用人の珍妙な手紙を読む場面が唐突に出てくるのですが、プルーストは結局は上流階級の文学に関する理解度だって同じようなもんじゃないか、と揶揄してるように思えます。

 

  さて話を戻して、謎の男シャルリュス男爵との約束があった「私」は公爵夫妻の引き留めを振り切って夜遅くにシャルリュス邸を訪問します。

  そこでまた不機嫌な男爵が大暴れ!怒鳴り散らすわ、もうお前とは終わりだと喚くわ、そのわりに「私」にご執心だわで、訳が分かりません。まあ巷間よく知られているように、彼の正体は次篇「ソドムとゴモラ」で明らかとなっていくのでしょう。

 

  最終章では晩餐会に同席したゲルマント大公妃から招待状が来て半信半疑の「私」が本当かどうかを問いにゲルマント公爵邸に押し掛けるのですが、ここでの公爵夫妻の対応は先程の晩餐会をおさらいしているよう機知と軽薄と高慢と韜晦に満ち満ちていて、短い分だけ内容が濃くて分かりやすく読み応えがあります。

  吉川氏も絶賛されている、オリヤーヌの底意地の悪さと茶目っ気が同居した、気に入らない新参者の某伯爵夫人への意趣返しの方法の面白いこと。
  その他にも招待された晩餐会に出かけるため、危篤の従兄を何とか死んでいないことにしたい公爵のドタバタ模様、真っ赤な衣装に身を包んだ公爵夫人の鮮烈な印象など、最後に来て読みどころ満載です。

 

  そしてそこに登場するスワン氏の真摯さとこの夫妻の軽薄さとの対比も見事。そしてこの章の大団円「公爵夫人の赤い靴」へとなだれ込んでいきます。

  スワン氏は最後に自分が余命いくばくもないことを告白するのですが、夫妻は招待された晩餐会が気になって気もそぞろ。最終章の最初の一文。

 

公爵は瀕死の病人を前にして、なんら気兼ねなく妻と自分の体調不良のことを語った。自分たちの体調不良のほうがよっぽど気にかかり、相手の病状よりそのほうが重大事に思えたのである。

 

 「私」は明らかに怒っていますね。第六巻の最後で祖母の死に慟哭したのと見事な対比となってこの「ゲルマントのほう」は終わりを告げます。

 

  ここで思い出すのが、第三巻でのスワン氏の、オデットとジルベルトをゲルマント公爵夫人に引きわわせるためだけに結婚したのだ、という強い思い。なるほどパリ社交界の最高レベルにあるこのサロンのことを意味していたのだな、と今更ながらに理解できますし、この場面でのスワン氏の心中は察するに余りあります。

 

  さて、吉川一義氏の翻訳は高遠弘美氏に比べてやや硬い気はしますが、古典の翻訳としては常識的な範囲内で考証も高遠氏に負けず劣らず精緻を極めており、このまま岩波文庫で読みすすめてもいいと感じました。とは言ってもこの作品、これでまだちょうど半分。。。

  ここから先はプルースト死後の出版となり、彼以外の人間の手が編集に入っていますが、さて読み進められるかどうか。ボチボチと焦らずにやっていきたいと思います。

 

  

 冬に向かうパリ、「私」をめぐる景色は移ろう―「花咲く乙女」とベッドで寄り添い、人妻との逢い引きの夢破れ、ゲルマント夫人の晩餐には招待される。上流社交界の実態、シャルリュス男爵の謎、予告されるスワンの死…。人間関係の機微を鋭く描く第七巻。(AMAZON解説)

 

星やどりの声 / 朝井リョウ

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  朝井リョウを読むシリーズ、今回は「星やどりの声」です。

 

星になったお父さんが残してくれたもの―喫茶店ビーフシチュー、星型の天窓、絆、葛藤―そして奇跡。東京ではない海の見える町。三男三女母ひとりの早坂家は、純喫茶「星やどり」を営んでいた。家族それぞれが、悩みや葛藤を抱えながらも、母の作るビーフシチューのやさしい香りに包まれた、おだやかな毎日を過ごしていたが…。(AMAZON解説より)

 

  建築士である亡父が残してくれた喫茶店星やどり」を守りながらも三男三女はそれぞれに成長していき、母は疲れていく。

 

  章ごとに子供たち6人の名前がつけられ、その名前にも一工夫あるあたりはいかにも朝井リョウなんですが、典型的なホームドラマで、最後はビターハッピーな終わり方。デビュー作「桐島」は文章が荒かった分かえって斬新さがあったんですが、この作品は文章が整って内容に破綻がない分だけ、朝井リョウらしさを求めて読む分にはつまらない印象を受けます。

 

  最新作「死にがいを求めて生きているの」とデビュー作「桐島、部活やめるってよ」を読み朝井リョウという作家に大いに興味が湧いてその間の作品を読み進めているわけなんですが、本作は相当若書きの印象を受けます。

 

   Wikipediaで調べてみると、この作品は予想通り初期も初期大学四年生の時に書いて、なんと卒論として提出した作品だそうです。この程度の作品でよく通ったなと思いますが、なんとゼミの指導教授だった堀江敏幸氏がこの文庫版の解説を書いておられます。なるほど、そういう風にこの卒論を解釈されたのか、と眼から鱗でした。(ってか、深掘りしすぎ?)

 

  まあ後年の朝井リョウの成長を知っているので微笑ましくは読めました。逆に言えば、もし時系列で読んでたらここで挫折したかも。。。 

 

 

少女は卒業しない / 朝井リョウ

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  朝井リョウを読むシリーズ、今回は朝井リョウが本領を発揮する学園群像劇「少女は卒業しいない」です。

 

  今回は舞台を廃校が決定した田舎の高校の卒業式の一日に絞り込み、その早朝から次の夜明けまでに起こる七つの物語で、七人の少女の七つの別れを描いています。デビュー作「桐島、部活やめるってよ」と同じ学園ものですが、その頃より文章は遥かにうまくなっており、特に第一話に入っていく冒頭の文章は素晴らしい。

 

伸ばした小指のつめはきっと、春のさきっぽにもうすぐ届く。つめたいガラス窓のむこうでは風が強く吹いていて、葉が揺れるのを見ているだけでからだが寒くなる。

 

  見事に卒業式の未明の情景を少女の心情と重ね合わせ、以後時系列に沿って次の夜明けまで、七つの情景を切り取っていきます。

 

第一話:エンドロールが始まる 

  卒業式の早朝、図書室

  京都の女子大へ進学する少女と図書館の先生

 

第二話:屋上は青

  卒業式開始直前、幽霊が出るという噂の東棟屋上

  地元国立大へ進学する真面目な少女とダンスの道を選び中途退学した幼馴染

 

第三話:在校生代表

  卒業式会場

  答辞を読む高校二年の少女、大胆にも答辞で憧れの先輩へ愛の告白をする、その文章のみで構成。

 

第四話:寺田の足の甲はキャベツ

  卒業式が終わって卒業式後ライブが始まるまでの体育館

  バスケ部部内公認の二人。少女は東京の大学へ、男子は浪人。

 

第五話:四拍子をもう一度

  卒業式ライブのバンド控室

  ビジュアル系バンドのボーカリストと彼の本当の歌声の美しさを知る少女二人

 

第六話:ふたりの背景

  ライブ中の美術室

  美術部の卒業生二人。帰国子女でアメリカの大学へ進学する少女と、パン屋で働くことになった知的障害学級の少年。

 

第七話:夜明けの中心

  真夜中の校内

  剣道部の天才の恋人だった料理研究部の少女と、剣道部主将。

 

  この七つの物語を絶妙に少しずつリンクさせながら話を進め、高校特有の細かなガジェットを活かしつつ、女子高生の心情を鮮やかに表現する。第二話で「幽霊」の正体をあっさり暴いておきながら、最後の二篇で「死」の匂いを漂わせ、終文で夜明けの光が校舎から夜の波を引かせる。。。

  朝井リョウはどうしてこんなにうまいんだ、と感嘆するしかない完璧な短編集です。

 

  個人的には寒色系の透明感が全体を支配する第一話「エンドロールが始まる」と第六話「二人の背景」が特に素晴らしいと思います。不覚にも涙腺が緩んでしまいました。

  第一話の冒頭を最初に紹介しましたが、最後は第六話において、知的障害の少年の疑問という形で朝井リョウがこの物語にこめた想いを引用して終わりとします。

 

「ぼくは不思議なんだ。」

「どうして、ぼくの大切な人はみんな、遠くへいってしまうのだろう。」

「ずっと、ふしぎなんだ。みんな、いなくなってしまう」

 

 

 

今日、わたしは「さよなら」をする。図書館の優しい先生と、退学してしまった幼馴染と、生徒会の先輩と、部内公認の彼氏と、自分だけが知っていた歌声と、たった一人の友達と、そして、胸に詰まったままの、この想いと―。別の高校との合併で、翌日には校舎が取り壊される地方の高校、最後の卒業式の一日を、七人の少女の視点から描く。青春のすべてを詰め込んだ、珠玉の連作短編集。  (AMAZON解説)

 

巴里マカロンの謎 / 米澤穂信

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  本が好き!で風竜胆さんがレビューしておられて、え、今頃新作?と驚きました。私の大好きな米澤穂信の11年ぶりの「小市民」シリーズ新作「巴里マカロンの謎(THE PARIS MAKARON MYSTERY)」です。

 

  ご存知ない方のために一応説明しておきますと、このシリーズは過去三作

 

「春季限定いちごタルト事件」

「夏季限定トロピカルパフェ事件」

「秋季限定栗きんとん事件」

 

と出ているので「冬季限定なんちゃら事件」を期待しているファンは多いのですが、今回は題名から推定できるように番外編的なものです。そして収録されているうちの

 

「巴里マカロンの謎」

「紐育チーズケーキの謎」

「伯林あげぱんの謎」

 

の三篇は随分前に雑誌に掲載されたもので、私も読んでいました。新作は

 

花府シュークリームの謎

 

一本のみ。ちなみに花府とはフィレンツェのことです。

 

  ちなみに本編三作は題名の甘ったるさとは裏腹に相当ブラックな作品なのですが、本作は比較的お気楽に読めます。

 

 

 

       と、これだけ語ってきて今更ながら的に、とってつけたように「小市民シリーズ」をごく簡単に説明しますと、

 

「恋人の関係では全くない船戸高校生小鳩常悟朗小佐内ゆき。かたや鋭すぎる推理力を封印するため、かたや見かけとは正反対のトンデモな性癖を封印するため、互恵関係を結び、大人しく目立たず「小市民」たらんと行動を共にする。が、どういうわけか、というか、お約束というか、事件に巻き込まれてしまう。そこには小佐内さんの大好きなスイーツが必ず絡む。」  

 

 ということになります。米澤穂信らしく本編三作は題名の甘ったるさとは裏腹に相当ブラックな作品なのですが、本作は小佐内さんのブラックな部分が抑えられているため、比較的お気楽に読めます。そしてキーパーソンは高名なパティシエの娘古城秋桜(こぎこすもす、すごいネーミング)です。

 

  「巴里マカロンの謎」では名古屋にできた秋桜の父の店で、小佐内さんが頼んだより一つ多くマカロンが出てきて二人でその謎を解きます。当初スピンオフ的に単発で出た作品ですが、今回の構成では秋桜の紹介的な役割を担っています。

 

  「紐育チーズケーキの謎」では秋桜の中学の文化祭で、とある体育系クラブの事件にふたりが巻き込まれます。ちょっと無理がありすぎる気がします。

 

  「伯林あげぱんの謎」は唯一秋桜が関与しません。船戸高校新聞部で起きたどうでもいいような事件を小鳩がクソ真面目に解決します。犯人(=ある意味被害者)は容易に想像がつきますがそのネタあかしには、なる程と首肯。

 

  「花府シュークリームの謎」では未成年飲酒という無実の罪を着せられた秋桜のためにふたりが奔走します。四作の中でも比較的出来がよく、かつ古城家で燻っていた某家庭事情まで解決してあげることになります。

 

  こう書いてしまうと、他愛無い作品集のように思えますが、実際そうかもしれませんが、そこはそれ、そうですな~、 いきなりの突飛な比喩で恐縮ですが、 南海キャンディーズの山ちゃんのような、一見自嘲的でいて実はシニカルな小鳩常悟朗の語り口はクセになること請け合い。

 

  あとはほんと「冬季限定なんちゃら」だけですね。「時の娘」へのオマージュとなる事だけは宣言している米澤穂信ですが、歴史推理とスイーツの整合性を取るのに苦労してるのかも。。。

 

 

11年ぶり、シリーズ最新刊!創元推理文庫オリジナル
そしていつか掴むんだ、あの小市民の星を。
謎に遭遇しがちな小佐内さんと、結局は謎解きに乗り出す小鳩君
手に手を取って小市民を目指すふたりの高校生が帰ってきました!

ここにあるべきではない四番目のマカロンの謎、マスタードが入った当たりのあげパンの行方。なぜかスイーツがらみの謎に巻き込まれがちな、小鳩君と小佐内さんの探偵行。「小佐内先輩が拉致されました! 」「えっ、また」?お待たせしました、日々つつましく小市民を目指す、あの互恵関係のふたりが帰ってきます。人気シリーズ11年ぶりの最新刊、書き下ろし「花府シュークリームの謎」を含めた番外短編集。四編収録。(AMAZON解説)

 

 

世にも奇妙な君物語 / 朝井リョウ

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  もう「その昔」と呼ばないといけないのかと時代の流れを感じますが、フジテレビが隆盛を誇っていた頃の看板番組の一つに、タモさんが司会進行役をつとめる「世にも奇妙な物語」がありました。日本版「ヒッチコック劇場」とでもいうべき内容で、君塚良一三谷幸喜をはじめとして錚々たるメンバーが脚本を担当していました。

 

  朝井リョウもこの番組が好きでよく観ていたそうです。そして自分でもそういうコンセプトで書いてみたいということでできたのがこの「世にも奇妙な君物語」です。二時間ドラマ原作程度の内容ですので当然短編集となり、

シェアハウさない

リア充裁判

立て!金次郎

13・5文字しか集中して読めな

脇役バトルロワイヤル

の五篇が収録されています。

 

  ブラックあり、ツイストあり、キレの良いオチありで確かにこれは二時間ドラマにすれば面白いだろうなという作品ばかりでした。ただ、時間に制約のあるテレビドラマを意識しているので小説としてはやや荒っぽい印象を受けます。ただそういう四編が続いた後に種明かし的でコミカルな作品で締めるあたりはリョウらしいうまい構成です。

 

  もちろん上にあげた脚本家をはじめとしてこれくらいの作品を書ける人はゴマンといると思いますが、どの作品を読んでもやっぱり朝井リョウだなあ、と思わせる個性、これがリョウファンにとっては魅力ですね。

 

  それは例えば題名の付け方のうまさ(「13・5文字しか集中して読めな」などは特に秀逸)だったり、ツイストのタイミングのうまさ(「リア充裁判」の二段階ツイストはうまい)だったり、彼独特の視点の転換だったりします。シェアハウス、SNS、モンペ、ネットのジャンクニュースなどのいかにも現代的な流行をテーマとしても、一見批判的に話を進めていきながら、ある時はちょっと見る角度を変えて読者を戸惑わせ、ある時は180度転換して主人公の背後から襲いかかってみる。紛れもない朝井リョウの個性がそこには現れています。

 

  ですから、朝井リョウファンには安心してお勧めできますし、「世にも奇妙な物語」的なライトミステリを読みたい方にもお勧めです。

 

  そうそう、二時間ドラマと言えば常連の脇役俳優がいますよね、この脇役にあの俳優をあててみればどうかな、とか思いつつ読んでおくと、「脇役バトルロワイヤル」がより楽しめますよ。

 

オチがすごい! いくつもの書店で週間ランキング1位に輝いた話題の小説!異様な世界観。複数の伏線。先の読めない展開。想像を超えた結末と、それに続く恐怖。もしこれらが好物でしたら、これはあなたのための物語です。待ち受ける「意外な真相」に、心の準備をお願いします。各話読み味は異なりますが、決して最後まで気を抜かずに――。では始めましょう。朝井版「世にも奇妙な物語」。 オチがすごい・・・! いくつもの書店で週間ランキング1位に輝いている話題作★ 異様な世界観。 複数の伏線。 先の読めない展開。 想像を超えた結末と、それに続く恐怖。 もしこれらが好物でしたら、これはあなたのための物語です。 待ち受ける「意外な真相」に、心の準備をお願いします。 各話読み味は異なりますが、決して最後まで気を抜かずに――。 では始めましょう。朝井版「世にも奇妙な物語」。

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【ミステリ書評家・村上貴史氏】 世界の異様さ、息苦しさで読む者の心をとらえ、先の読めない展開でページをめくらせ、 その展開について終盤で「なるほど」と納得させる。 実に鮮やかで巧妙な読者コントロールだ。そしてそれだけでは終わらない。 最後にもうひと味。いやはや、恐れ入った。やるせない衝撃に圧倒される。

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Tender Is the Night / F. Scott Fitzgerald

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Already with thee! tender is the night,

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 But here there is no light,
  Save what from heaven is with the breezes blown
   Through verdurous glooms and winding mossy ways.
(Ode to a Nightingale by John Keats)

 

すでにして汝(なれ)と共に!夜はやさし

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  されどここには光なし、
 ただあるものは空の偏り木の下闇をくぐりぬけ
  うねりまがりて苔むす道に吹き通う
   そよ風の伴い生きたるもののみ。
  「夜鶯に寄する詩」 (谷口陸男訳 上巻 p8)

 


  このところ、読書スランプで本を読む気が起きないという状況なのですが、そんな時は何度も読み返している作品をぼっと流し読みしながら回復を待つことにしています。それは例えば漱石であったり太宰であったりオースターであったり、そしてこのフィッツジェラルドであったり。というわけでこの一月ほどはずっとこの「Tender is The Night」を流し読みしていました。

 

  この作品はスコット・フィッツジェラルドがもう落ち目となり全盛期の浪費で経済的に困窮、おまけに妻ゼルダの精神病院入院費も稼がねばならずといった状況で起死回生をかけて書き上げた作品です。


  キーツの詩の一節から題名を取るあたり、本人としては相当の自負と自信があり、ゼルダも絶賛したのですが、残念ながらもう時代遅れの作家のレッテルを貼られていた彼に追い風は吹きませんでした。

  そこでやけにならないのがスコットの自分の作品に対して誠実なところでもあり、わかっていないところでもあったのですが、彼はこの小説の構成が読者には分かりにくかったのだと考え、再構成にかかります。残念ながらその途中で彼は急死してしまい、代わりに文芸評論家マルカム・カウリーがスコットの遺した指示に従って編集したものがいわゆる「カウリー版」として流布することになります。ちなみにオリジナル版が三部構成であるのに対して、カウリー版は五部構成となり、時系列を整理したのが特徴です。

 

  この辺りの経緯は村上春樹氏の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」に詳しく書かれているのですが、氏もこの作品がベタなメロドラマだと認めた上で「不思議な徳がある」作品だと評しておられたと記憶しています。

  確かに「The Great Gatzby」のような完璧な構成でもないし、鳥肌が立つような修辞を尽くした終文でフィニッシュを決めるわけでもない。構成がオリジナル版からカウリー版になったからといって特段良くなったわけでもない。それでもやっぱり何度も読み返したくなる、不思議といえば不思議な小説です。スコットとゼルダ二人の盛衰という悲しいバックグラウンドを知っているから故のことかもしれませんが、確かに「不思議な徳がある」小説です。

 

  とにもかくにも稀代の美文家であったフィッツジェラルドの文章はさすがの一言、逆にいえばかなり長い原文を読み通すことは結構骨です。そこで私が困ったのは、今述べた二つの版の存在。私が昔買ったWordsworth Classicsのペイパーバックはオリジナル版、そして唯一の邦訳、もう絶版になっていますが谷口陸夫先生訳の角川文庫版はカウリー版なのです。

 

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私の持っているペイパーバックの表紙

  そこで今回はオリジナル版の三部構成の冒頭を紹介しつつ、私見を述べたいと思います。

 

Part I Chapter I

On the pleasant shore of the French Riviera, about half-way between Marseilles and the Italian border, stands a large, proud, rose-colored hotel. Deferential palms cool its flushed facade, and before it stretches a short dazzling beach......

フランス領リヴィエラの海岸で、ほぼマルセイユとイタリア国境の中間に、堂々たるばら色の大ホテルがある。きらきら輝くその正面には棕梠の木立がうやうやしくかしずき、ホテルの前にはせまくてまばゆい浜辺が広がっている。(第二部 ローズマリーの視角 一九一九年−一九二五年 第二章 上巻p95)

 


  オリジナル版では真夏の陽光が眩しく降り注ぐ南仏リヴィエラを舞台として幕を開けます。私はこの明るい幕開けの方が断然好きですね。それがカウリー版になると、時系列に沿うため、第二部第二章という目立たない場所に収納されるため、この文章のインパクトが随分損なわれている印象を受けます。

 

one June morning in 1925 a victoria brought a woman and her daughter down to Gausse's Hotel......

一九二五年七月のその朝、一台の四輪車が一人の夫人とその娘をガウス・ホテルに運んで行った。(同p96)

 

However, one 's eyes moved quickly to her daughter, who had magic in her pink palms and her cheeks lit to a lovely flame, like the thrilling flush of children after their cold bath in the evening. Her fine high forehead sloped gently up to where her hair, bordering it like an armorial shield, burst into lovelocks and waves and curlicues of ash blonde and gold. Her eyes were bright, big, clear, wet, and shining, the color of her cheeks was real, breaking close to the surface from strong young pump of her heart. Her body hovered delicately on the last edge of childhood - she was almost eighteen, nearly complete, but the deep was still on her.

(夫人の色香の失せた顔を描写したあと)とはいえ、見る人の眼はたちまちその娘にとび移ってしまう、彼女のピンク色に見えるてのひらと両頬は、不思議な美しさをもっていて、まるで夕方の冷水浴をすませた子供の紅潮した肌みたいに、かわいいほのおを燃やしている。その美しくて広い額が品のいいスロープを描いて上がりきったところに、紋章のようにくっきりと、うす色の金髪があり、それが突如としてウェーブとなり、カールとなりラヴロック(つくった巻毛)をつくっている。眼は明るく、大きく、澄みきって、ぬれ輝いているし、頬の色はいきいきとして、彼女の若々しい心臓の鼓動がじかにあふれ出たように見えた。彼女のからだは子供が大人になりきろうとするところで、ほとんど大人ではあったが、子供らしさもまだ消え去ってはいない。(同p96-7)

 

  そして、そのリヴィエラにやってきた若手女優の Rosemaryローズマリー)の紹介文が続きます。フィッツジェラルドとしては自信たっぷり思い入れたっぷりなのが笑えるくらいよくわかる長文ですが、もうそれが小説としては時代遅れになっていることを世間の反応で思い知らされることになる。。。ちょっと痛々しい気もします。


  しかしその煌めくような原文は見事なもので、この心地よいリズム感は邦訳が極めて困難で、さすがの谷口氏をもってしてももったりとした文章にならざるを得なかったことがこの引用文でわかっていただけるかと思います。

 

  さて、このローズマリーがこの地でディックとニコル夫妻と知り合い、華やかな雰囲気のなか交流を深める間に美男の精神科医ディックにローズマリーは惹かれていきます。一方、美しく神秘的な妻ニコルの驚愕の秘密を第一部の最後にローズマリーは知ることとなります。
  これがカウリー版だと、それまでにニコルの病気とディックとの結婚の経緯などがわかってしまっているので、ストーリー展開が分かりやすい分、ミステリー 的な要素が損なわれています。私としてはミステリアスな雰囲気を持つオリジナル版第一部を推します。


Part II Chapter I

In the spring of 1917, when Doctor Richard Diver first arrived in Zurich, he was twenty-six years old, a fine age for a man, indeed the very acme of bachelorhood. Even in war-days, it was a fine age for Dick, who was already too valuable, too much of a capital investment to be shot off in gun.

一九一七年の春、ドクター・リチャード・ダイヴァーは初めてチューリッヒにあらわれた、ときに年二六歳、男として申し分のない年齢であり、まさしく独身時代の最盛期にあたる。戦時下ではあったが、ディック(リチャード)にとっては申し分のない年齢にかわりはなかった。すでに彼の体には莫大な投資がおこなわれ、値打ちがつきすぎて、銃丸の的にはむかなくなっていたからだ。(第一部 診断資料 一九一七年−一九一九年 第一章 冒頭 上巻p8)

 

Switzerland was an island, washed on one side by the waves of thunder around Gorizia and on another by the cataracts along the Somme and the Aisne.

そのころスイスは孤島のごとき存在で、一方の岸にはゴリーツィア争奪戦の怒涛がうちよせ、反対側はソンム河とアンヌ河のこう水にさらされていた。(同 p8-9)

 


  オリジナル版では真夏のリヴィエラから一転して第一次大戦後のスイスに舞台を移すこととなります。この暖色から寒色への舞台転換は見事だと思うのですが、カウリー版ではこの文章から始まることで時系列に沿って起承転結を整理しています。


  この章で美男頭脳明晰な完璧な男性として登場するディック・ダイヴァーが、同僚医師がさじを投げた精神疾患患者である美貌の富豪の娘ニコルを立ち直らせ恋仲となる、この作品中でもハイライトとなる美しく切ないパートで、ここを先に持ってきたスコットの意図は十分うなづけるところではあります。

 

  カウリー版での第一部の最後、この禁断の恋の果てにディックが彼女と生涯を共にする決心をする場面はこの小説の一つのハイライトです。

 

They made no love that day, but he felt her outside the sad door on the Zurichsee and she turned and looked at him he knew her problem was one they had together for good now. (Part II Chapter IX p138)

その日二人は愛を語ることはなかったが、チューリッヒ湖畔の物悲しい戸口の外に彼女をおろし、相手が振り向いて彼をじっと見たとき、この人の問題は二人が永久にいっしょにになうべき問題なのだと彼はさとった。(上巻 p89)

 


  'for good'という熟語の例文にしたいほどのいい文章です。

 

Part III Chapter I

Frau Kaethe Gregrovious overtook her husband on the path of their villa. 'How was Nicole?' she asked mildly; but she spoke out of breath, giving away the fact that she had held the question in her mind during her run.
Frantz looked at her in surprise.
'Nicole is not sick. What makes you ask, dearest one?'
'You see her so much. - I thought she must be sick.'
'We will talk of this in the house.'

ケーテ・グレゴロヴィウス夫人は自宅の小路で夫に追いついた。
「ニコルの容態はどうでしたの?」その聞き方は控え目だったが、息をきらせながらしゃべっているところを見ると、走っているときからその質問を胸にもっていたことがわかった。
フランツはびっくりして彼女を見つめた。
「ニコルは病気じゃないよ。どういうわけでそんなことをきくんだい、君は?」
「あなたがしょっ中かかりっきりでしょーだから病気にちがいないと思ったの」
「そのことは家に入ってから話そうよ」
(第五部 帰郷 一九二九年 ー 一九三〇年 第一章 下巻p120)

 
  オリジナル盤では第三部冒頭、カウリー版では第五部途中となる文章です。イタリアで酒と女で不始末をしでかし帰れないディックの代わりにニコルの面倒を見ているのが、同僚医師のフランツです。


  転落していくディック・ダイバー、対照的に精神疾患から離脱していくニコル、二人が対照的に描かれていきます。二人は結局離れ離れになり、ニコルはトミーという男性と結婚します。それでも彼女はディックと連絡を取りあい、渡米したディックのその後が簡潔に報告されて物語は終わります。

 

  ギャッツビーのような悲劇的な最後に終わらないことで、ギリギリ安直なメロドラマに堕していない。そこがスコット・フィツジェラルドの最後の矜恃であったのでしょう。

 

When she said, as she often did, 'I loved Dick and I'll never forget him,' Tommy answered 'Of course not - why should you?'

 

  

  以上、第一世界大戦後の欧州を舞台とした’Tender'で悲しくも美しいフィツジェラルド渾身の長編小説で、個人的には原書をオリジナル版で読まれることをお勧めしますが、谷口先生の平仮名を多用した分かりやすい訳も秀逸です。図書館やオークションなどで手に入ると思いますので是非ご一読ください。

  オリジナル版とカウリー版の比較、原文と邦訳の比較をしながらの紹介でまた随分長くなってしまいました。お付き合いありがとうございました。

 

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角川文庫 谷口訳 上下二巻