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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 2 第一篇「スワン家のほうへ II」

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  マルセル・プルースト畢生の大作「失われた時を求めて」、光文社古典新訳文庫高遠弘美訳)第二巻は第一篇「スワン家のほうへ」の残る二部

 

第二部 スワンの恋

第三部 土地の名・名

 

が収められている。超難解な第一部「コンブレー」に引き続き、文章は長く修飾譬喩に満ち、途切れがなくて読みにくいのは相変わらずだが、ストーリーがあるので少しは読み進めるのが楽になっている。

 

  第二部では「私」が生まれる前のスワン氏の恋が語られ、第三部ではそのスワン氏の娘であるジルベルトへの「私」の一方的な恋の思いが語られ、対をなしている。スワン氏の恋の方は当然ながら三人称で綴られているのだが、語っているのは「私」(=プルースト)であることが容易に読み取れる。私が知り得ないことまで詳細に語るのは不自然ではあるのだが、それを感じさせない語りの巧さがプルーストなのだろう。

 

第二部 スワンの恋

 

  さて、第二部のスワン氏の恋であるが、その結果は第一部「コンブレー」ですでに明かされている。富裕なユダヤ人で時の大統領やプリンス・オブ・ウェールズとも親しい最上流階級の美術研究家(フェルメールが専門ということになっている)スワン氏だが、高級娼婦(ココット)と結婚したために周囲のブルジョア階級の人からも色眼鏡で見られている。そのココットであるオデット・ド・クレシーとの出会いから恋の終わりまでを語り尽くしたのが第二部「スワンの恋」である。

 

  元々上流階級の女性には飽きて、そこに勤める使用人やお針子の女性を次々とつまみ食いしていた好色家スワン氏であったが、オデットを娼婦として買ったわけではない。クレシー夫人と名乗っていたオデットを知り合いから劇場で紹介され、その時はあまり好みでないと思っていたスワン氏であったが、オデットのほうから積極的にアプローチされ、ヴェルデュラン家という独特のブルジョア社交場(後に裏社交界ではないかという疑いも生じる)に於いての付き合いが続いていく。段々と惹かれていったスワン氏は、ある夜スレ違いになってしまったオデットをパリ中探し回る。ようやくオデットを見つけそのままの興奮状態で馬車でオデットの家へなだれこみ、初めてのコトに及ぶ。その馬車中の場面に「カトレア」が小道具として登場したため

 

カトレアする」 = 「セックスする」

 

の暗喩としてその後この言葉が独り歩きすることになる、大変有名な場面である。その後スワン氏はオデットに夢中になり、その他のことは手につかなくなり、周囲の忠告も聞き入れず、ヴェルデュラン家以外との付き合いを断ってしまう。もちろんオデットもスワン氏に夢中であったのだが、そのうちに飽きてきて別の男性フォルシュビルに色目を使うようになり、ヴェルデュラン家でもスワン氏を疎んじ始める。

  嫉妬に悩まされるスワン氏の苦悩が延々語られ、後半のハイライトである真の上流階級であるサン・トゥーベルト公爵夫人家の夜会に於いて、スワン氏は二人の思い出の曲である、ヴァントイユ(「コンブレー」に登場した薄幸の音楽家)のソナタに涙する。ちなみにこの夜会にはレ・ローム大公夫人、すなわち「コンブレー」において「私」が憧れたゲルマント家の奥方もスワン氏の親しい友人として登場する。

 

  この後、密告やオデットへのしつこい問いによりその素性が明らかとなって来る。オデットは少女の頃にニースで母により英国人に売られたらしい。そしてその後男女を問わず交際する女性となっていく。ヴェルデュラン夫人もその相手の一人らしい。そしてフォルシュビルとは実は昔からの付き合いで、あの「カトレア」の夜スワン氏が探し当てるまでは彼のところにいたらしい。なんと初めからオデットはスワン氏に嘘をつき続けていたのだ。

 

  安手のメロドラマみたいなストーリーだが、さすがにプルーストの筆になると典雅な雰囲気と豊富な芸術論と人間の紺限定な苦悩を描きつつ所謂「高尚」な文章で連綿と綴られていく、その中でスワン氏は徐々に悟っていく。

 

「自分の幸福はわからないものだ。人は自分で思っているほど不幸ではないということなんだ。」

「自分の不幸はわからないものだ。人は自分で思っていほど幸福ではないということなんだ」

 

 

スワン氏は自分に言い聞かせる。そしてある夜、オデットの出てくる夢の中火事が起こる。目覚めた後、スワン氏はこの恋の終わりを悟る。

 

スワンはこう自分に言い聞かせた。「自分の人生の何年も台無しにしてしまったとはね。とくに好きでもない、ぼくの趣味に合わないあんな女のために死のうと考えたり、これこそわが人生最大の恋だなんて考えたり。全く何ということだろう。」

 

  ここで第二部は終わる。なので、恋は終わった筈なのに何故その後やっぱりオデットと結婚し一人娘ジルベルトが生まれたのか、なぜ娼婦でありながらクレシー夫人と呼ばれるのか、そのあたりはこの章では全く分からない。このあたりの筆の止め方も考え抜かれていることが随分後になって判明することになる。

 

第三部 土地の名・名

 

  続く第三部は題名から推測されるように第二篇「花咲く乙女たちのかげに」第二部「土地の名・土地」と対応している。

  前者では土地の「名前」から「私」がその土地を思い描く様と、パリにおけるジルベルトとの初恋(ともに15歳)が語られ、後者では実際に訪れたノルマンディーのカルベック(架空の町)の描写や運命の女性アルベルチーヌとの出会いが語られる。

 

  章前半、病弱で出かけられない「私」がノルマンディー地方の様々な地名やイタリアのフィレンツェヴェネチアなどをその名から思い描く、そのイメージはとても鮮やかで美しい。とは言え、やはり名前から連想するという章なのでフランス語を日本語に置き換えることの難しさが一番際立ってくる部分でもある。このあたりは前回紹介したフランスコミック版の絵がある程度参考にはなる。

 

  後半はシャンゼリゼブーローニュの森などの美しい風景を背景にジルベルトとの出会いや「私」の一方的な思いが綴られる。この頃には「コンブレー」で出てきた大叔母の女中頭だったフランソワーズが「私」の家に勤めており、「私」の散歩係でたびたび顔を出すのは嬉しい読みどころである。

 

  それはさておき、「私」の父母のスワン氏への冷ややかな思いと、ジルベルトから派生したスワン夫妻への憧憬のギャップ、さらにはスワン夫妻自体が「私」をあまりよく思っていないところなどのさりげない描写がこの恋の行方を示唆している。そしてそもそもジルベルトのほうはさほど「私」に思いを寄せているわけではない。そのあたり大人の「私」の視点から見るとあきらかであるあたりの書き分けはうまい。

 

  そして大人になった私がブーローニュの森の主役を馬車から奪ってしまった無粋な自動車を嘆き、美しいスワン夫人オデットの面影と今の女性の違いをだぶらせて「失われた時」を偲びこの美しい章は終わりを告げる。

 

何かのイメージを回想するとは、何かの瞬間を愛惜することにほかならない。家々も、通りもみな、はかなく逃れ去ってゆく。そう、悲しいことに、歳月もまた。

 

  以上、第一部「コンブレー」を乗り越えればプルーストの描く古き良きフランスの土地と人々(主に上流社会)、そして恋愛模様を楽しめる。第二篇が楽しみになってきた。そのあたりの流れを解説した高遠氏の文章を引用して終わりとする。

 

「コンブレー」で語り手の過去に入り込み、多くの登場人物を登場させ、必要なテーマはたとえ萌芽の状態であってもかすめておいて、第二部「スワンの恋」に入る。ここを三人称とすることで、語り手がいなかった時代の男女の恋を、もっとも個別的な恋愛なのにどこからでも普遍に達しうる書き方で描き、第三部ではその恋の結果を、二人の間に生まれた娘と「私」の恋愛というかたちで取り上げ、時間というものが主人公の一つであることをさりげなく示し、第二篇「花咲く乙女たちのかげに」へと流れ込んでいゆくのだ(以下略)