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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 3 第二篇・花咲く乙女たちのかげに(1) / マルセル・プルースト

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  マルセル・プルースト畢生の大作「失われた時を求めて」も第三巻に入り、第二篇「花咲く乙女たちのかげに」が始まる。本巻には第一部「スワン夫人のまわりで」が収録されている。

  まだ「花咲く乙女たち」は登場せず、第一部の「土地と名 ー名ー」の続き的な内容で、「私」の初恋の人ジルベルト・スワンへのひたすら悶々とした思慕の思いと、スワン家に出入りできるようになり知ったスワン夫妻や夫人のサロンでの上流階級の人々の様子が描かれている。

 

若者になった「私」はジルベルトへの恋心をつのらせ、彼女の態度に一喜一憂する…。19世紀末パリを舞台に、スワン家に出入りする「私」の心理とスワン家の人びとを緻密に描きつつ、藝術と社会に対する批評を鋭く展開した第二篇第一部「スワン夫人のまわりで」を収録。(AMAZON

 

  主人公「私」は十代半ばを過ぎた頃だが、その頃を思い返す後年の「私」の一人称というこれまでと同じ形式で話は綴られていく。

  相変わらず取り留めなく、あちらこちらへ脱線し、外交官ノルポア氏や「私」の憧れの作家ベルゴットの口も借りて、ラ・ベルマ(サラ・ベルナールがモデルと思われる)、フェルメールカント等々の芸術の蘊蓄が随所に撒き散らされ、更にはお馴染みの女中フランソワーズの作るノルポア氏絶賛のキュイジーヌの数々を描写しつつ、話はのろのろとだが進む。

  上流階級ユダヤ人と高級娼婦の組み合わせであるスワン夫妻を快く思わないノルポア氏の予測に反して「私」はジルベルトとの付き合いを許され、待望のスワン家への訪問や、ベルゴットとの面会も果たす。

  そして後半はある諍いがもととなり、ジルベルトとの仲に暗雲が立ち込める。後半殆どのページを費やして、自分勝手なジルベルトへの思慕と反感の間で揺れ動く「私」の心理描写が延々と続くので、一言で言うと「読むのは相変わらず大変」である。辟易もする。

  しかし、若い頃片思いに悶々とした記憶は誰にでもあるだろう。プルーストの、そのあたりの心理を徹底的に抉り出した描写や人間観察眼、さらには芸術に対する造詣には敬服せざるを得ないものがある。

 

  そして翻訳越しの文章ではあるが、ここまで読んでくるとさすがにその魅力にはまってしまう。いみじくも訳者の高遠弘美氏が反プルースト派のフランス人に

 

時代も国も文化も違う日本人のあなたがどうして、第三共和国政下の社交界を描いた作家であるプルーストをそれほど愛して、かつその翻訳までしようと思うのか

 

と訊かれたことがあると書いておられるが、たしかに不思議ではある。

  プルーストの文章のどこが魅力的なのかは説明がとても難しいが、彼自身がこの巻で「私」の憧れの作家ベルゴットの文章の魅力を語らせている部分があり、そこにプルーストの文章の魅力もある気がしたので、少し長いが引用してみよう。

 

ベルゴットの書物の中には、話されている言葉以上に抑揚があり響きがある。その響きは文体の美から独立していて、著者のもっとも内奥にある人格と不可分の関係にあるがゆえに、著者自身はおそらくそれに気がつかない。書物の中でベルゴットがまったく自然のままでいるとき、彼の綴るしばしば無意味としか思えない言葉にリズムを与えるのはこの響きである。この響きは文章のなかに記されていないし、そこでこれが響きだと示すものは何もないのだが、響きは自ずと言葉につけ加わって、それ以外の言い方が出来なくなる。それは作家のうちでもっとも脆く消え去るものでありながら、もっとも深いところに根ざすものである、それこそが作家の本性を示す証拠となるだろう。

 

  閑話休題、結局ジルベルトとの初恋は叶わぬまま断腸の思いで「私」は彼女を諦めるのだが、実を言うとそのジルベルトの人物像についてはあまり深く描写されていない。高遠氏によればこれはプルーストの手法なのだそうである。

 

  それよりも「私」が思い出して詳細に語るのはこの篇の題名通り、元高級娼婦「オデット・ド・クレシー」ことスワン夫人なのである。どちらかと言うとスワン夫人への憧れの方が強いのではないかと思わせるほど主人公は彼女に入れ込んでいるし、描写も微に入り際に穿っている。

 

  この巻の印象を色に例えれば、スワン夫人を象徴する「モーブ(薄紫)色」であると言って過言ではないだろう。

 

  第二巻「スワンの恋」で、スワンは初めはオデットのことをちっとも綺麗だとは思えないと書いてあったし、恋が終わる頃には容色が衰えて綺麗でなくなったとも書いていた。そのようなスワン氏の描写と裏腹に「私」が見たオデットは美しい。結婚後第二のピークを迎えていたのであろうか、それとも「私」とスワン氏では見方が違うのか、それはわからない。

  ただ、彼女がヴェルデュラン夫妻に対抗して自宅に社交場として「サロン」を開き、毎日のようにブルジョア階級の人々が訪れるようになっていたことは間違いない。それだけの魅力がオデットにはあったと言うことだろう。第一編でも出てきたベルデュラン家の元「クラン」の何人かもこちらへ鞍替えしており、コタール夫人ボンタン夫人などの名前も見え、彼女たちの話の中に今後の「私」のファム・ファタールとなるアルベルチーヌの噂もチラッとお目見えする。

 

  ここで当然ながら「なぜ高級娼婦がサロンを開くことができるのか」と言う疑問が出てくる。これに関し、高遠氏は読書ガイドにおいて高級娼婦について徹底的に調べ上げ、詳細に解説されている。読む価値大である。

 

  もちろんそれもスワン氏の財力あってのことなのだが、そのスワン氏について「スワンの恋」という一節を設けたほどのプルーストだが、「私」から見たスワン氏像はやや辛辣であるように感じる。要するにあまりよく思っていないのだ。

  それに、どうして恋が終わったオデットと結婚して子供をもうけた(あるいはその逆なのか)のかは曖昧模糊とした記述に終わっている。本作品の重要人物ゲルマント公爵夫人とオデット・ジルベルト二人を引きわわせるためだけに結婚したのだ、とか

 

ー実際に結婚したのは、もはや彼女に愛を感じなくなってから、すなわち、彼女と生涯をともに暮らしたいとあれほど願いつつも団長の思いで諦めたスワンの内なる存在が死んでしまってからだったのだが、その結婚は、死んだあとに起こるはずの出来事の予兆に似た、いわば死後の幸福のようなものではなかったか。 

 

と言った記述に終始する。スワン氏の精神はもう死んでいるのだろうか?

 

  一方のスワン氏の名声と財力を利用してサロンを開くことのできたオデットではあるが、彼女の思惑もそれだけが目当てだったのかどうか、詳しいことはまだわからない。

 

  一つだけ「私」の語りという形でネタばらししていることがある。ゲルマント公爵夫人とオデット、ジルベルトの二人は後年知り合うのだが、スワン氏はそれを知ることなく亡くなってしまうのである。そのあたりの経緯の真相も今後の楽しみの一つではある。

 

  兎にも角にもプルーストらしい「無意識記憶」の揺蕩うままに綴られる文章に酔うように読み進んでいき、私のジルベルトへの諦めとスワン夫人への賛美で終わる終章までたどり着くと、このような爽やかな文章でこの第一部は終わりを告げる。

 

 五月になって、ある種の日時計のようなものの上に、十二時十五分から一時までの時間を読み取ろうとするたびに、私は喜びを覚えずにはいられない、まるで藤の花のアーケードの下で反射する光を浴びているかのように、日傘の下でスワン夫人とおしゃべりをしている自分の姿をまざまざと思い浮かべて。