空港にて / 村上龍
⭐️⭐️⭐️
先日ブックオフで村上龍を二冊買った。その一冊が「空港にて」。龍はよく読んでいるが、殆どが長編大作ばかりで、短編集はあまり読んでいない。これはその一冊。
一読して、ああ、村上龍らしいな、と思った。彼の文体には特にこれといった特徴や個性はない。敢えて言うとすれば、
彼の文章には逡巡がない。
歯切れよく断定調で畳みかけてゆく。こういう短編になるとそれが際立ち、文章に工夫を凝らしたりはせず、内容をバシバシ書き続けていってスパッと終わる感じが快い。
勿論内容が心地よいわけではない。むしろ反感を覚える人も多いだろう。この時期は龍が日本という、慢性的不況で人々がゴチャゴチャイジイジしている島国に飽き飽きしていて、キューバを音楽の理想郷のように思っていた頃に当たる。端的に表現している場所を抜粋すると、
「普通の人生というカテゴリーには全く魅力がない」(披露宴会場にて)
「私はこの公園とこの国から出るの」(居酒屋にて)
ということになる。そして最初の三篇では登場人物が海外へ出るつもりであることが明記されている。
「コンビニにて」では、ごく平凡な家庭で育った青年が、大学へ行って幻滅して中退した兄の轍を踏まぬように音響スタジオに就職し、来年サンディエゴの映画技術学校へ行くつもりでいる。
「居酒屋にて」では、水商売から運送会社に就職した女性が、絵を描くことへの憧れを捨てられず、2~3か月南仏のアルルへ行こうとしている。アルルには、ゴッホが収容されていた精神病院を作り変えた若い文筆家や芸術家のための施設がある。
「公園にて」では、ママ友の陰湿な勢力争いの場になっている公園で疎外され陰口をたたかれているある母親が、夫のボストンへの赴任についていく決心をしている。それが上記した台詞だ。
そういう話を連ねていくのかな、と思ったがそのあとは必ずしもそうではない。ただ、あくせく底辺で働き続け愚痴をこぼし続け、リストラや倒産で酒に溺れているような人間に龍は同情しない。一方でポムロール・ペトリュス(ランク外の至高のフランス赤ワイン、一本数十万、あのハンニバル・レクター氏も飲んでいた)を平気で毎日飲めるような、自らの才覚や海外での経験で富裕層に辿り着いた余裕のある人物を登場させて、さあどっちになりたいんだ、と読むものを煽っている感じは常にする。
それをいやらしいと否定する人もいれば、憧れる若者もいるだろう。少なくとも現実に不満を持ち鬱屈している人には刺激的な物語ばかりだ。
あとがきを読んでなるほどと思った。幻冬舎編集の留学誌のために書き始めたのだそうだ。
日本のどこにでもある場所を舞台にして、時間を凝縮した手法を使って、海外に留学することが唯一の希望であるような人間を書こうと思った。考えてみれば閉塞感の強まる日本の社会において、海外に出るというのは残された数少ない希望であるのかもしれない。
まあそういう事だ。そのテーマ以外で出てくるエピソードでは、箱根アフロディーテに出演したピンクフロイドの話が懐かしかった(「駅前にて」)。
『コンビニ、居酒屋、公園、カラオケルーム、披露宴会場、クリスマス、駅前、空港―。日本のどこにでもある場所を舞台に、時間を凝縮させた手法を使って、他人と共有できない個別の希望を描いた短編小説集。村上龍が三十年に及ぶ作家生活で「最高の短編を書いた」という「空港にて」の他、日本文学史に刻まれるべき全八編。(Amazon解説より)』
バナナ剝きには最適の日々 / 円城塔
⭐︎⭐︎
円城塔の作品の中では比較的わかりやすい短編集だというので読んでみた。
。。。。。どこが?。。。。。
まあ、「Self-Reference ENGINE」は短編集といっても相互連関があるのでなかなか途中ではやめにくい。でも、この作品集はそれぞれが独立した作品なので、いつでも放り出すことができる。そこが救いか。と言いつつ最後まで読んでしまったわけだが。
「パラダイス行」 うん、いきなりきましたね。右が生まれると左も生まれる。ZENの話ではない。
巻き尺と水平器と分度器の連合軍と、人間はどちらが正気だろうか?
これは筒井康隆に訊いてもらったほうがいいな。
「バナナ剥きには最適の日々」 この作品集の中では一番読みやすい、というか理解しやすいSF。もちろんサリンジャーの「バナナフィッシュにはうってつけの日」のパロディ的な題名なのだが、サリンジャーのは主人公シーモア・グラースの行動が不可解だったわけだが、この主人公は不可解ではない。ただ、星々に旗を置いていくだけ。それがちょっとほろ苦いところがよかった。
このお話を、あなたがどうして手に入れるのか。それは知らない。(中略)
あなたの裡の何かの宇宙が、僕のいるこの宇宙と繋がっている。少なくとも、まだ想像が及ぶ程度には。
そう願いたい。
「祖母の記録」 これも故意にわかりにくくしているが理解は比較的容易だ。植物状態になってしまった祖父を使って、ストップモーションアニメ的に祖父を爆走させる話。
「『AUTOMATICA』
『円状塔』」
いよいよきましたね、理論をもてあそぶ円城流が。簡単に言うと「文章の自動生成について」の解説もしくは講演録。本文も『』でくくられており、
それぞれ二重括弧に挟まれたタイトルと作者名と本文と。どれがそれぞれタイトル、作者名、本文なのか、どれがどれを書き記しているものだのだか、全く無縁のものなのか、それを判定すべき基準は、慣習以外に全く存在していないのです
よ。
「equal」 縦書きの極小フォントで私のKindleでは拡大できず、パス。
「捧ぐ緑」 ゾウリムシは信仰を持つか?オートガミーもすれば老衰死もする。有り得るんじゃないのか? → ないない。
まあこのへんにしておこう。ここから先はある意味禁断のフラクタルなような、量子物理学的でもあるようなないようなSF世界。SF的変質者御用達の世界が待っている。
『どこまで行っても、宇宙にはなにもなかった―空っぽの宇宙空間でただよい続け、いまだ出会うことのないバナナ型宇宙人を夢想し続ける無人探査機を描く表題作、淡々と受け継がれる記憶のなかで生まれ、滅びゆく時計の街を描いた「エデン逆行」など全10篇。円城作品はどうして「わからないけどおもしろい」のか、その理由が少しわかるかもしれない作品集、ついに文庫化。ボーナストラック「コンタサル・パス」を追加収録。 (AMAZON解説より)』
ぐるりのこと / 梨木香歩
⭐︎⭐︎
「海うそ」がよかったので、続けて梨木香歩を読んでみたが、う~ん、こんなはずじゃなかった、というのが二点あった。
まずは自分の勘違い。以前「ぐるりのこと」といううつ病を扱った映画を見ていたので、それの原作だと思っていた。これが全くの間違いで、調べてみると映画原作者は橋口亮輔氏であった。本作は全然関係ない、それも小説でなくエッセイなのであった。
梨木香歩のエッセイといえば以前「春になったら苺を摘みに」を読んで「本が好き!」にレビューしたことがある。この本は梨木が英国留学の際にホームステイでお世話になったウェスト夫人の思い出を中心とした、比較的明るい作品であった。
ところが、このエッセイ第二弾は結構重くて深い思索で、え、梨木さんってこんな人だったの、と驚くようなところもあった。これが第二の点。
表題の「ぐるりのこと」についての文章は中盤に出てくる。茸の観察会の指導者として知られていた吉見昭一氏が、
こういう菌糸類は身の回りに沢山あります。自分のぐるりのことにもっと目を向けて欲しい
と語られたその「ぐるりのこと」という言葉に一瞬心を奪われ、この言葉を連載のタイトルとして決め、この一連の文章を書き続けたそうだ。
「ぐるり」は(おそらく関西弁だと思うが)「自分の身の回りのこと」という程度の意味だが、そこから考えを発展させ、梨木は逆に「境界」ということを深く思索していく。境界の向こうは、どうなっているのだろうか、どうすれば越えられるのか。そして最後には
「ぐるりのこと」は中心へ吸収され、充実した中心はぐるりへ還元されてゆく。(「物語を」)
そこに至るまでには本当に様々な事象が俎上に挙げられる。文字通りぐるりのことから始めて、イスラーム女性のヘジャーブ、イングランドのセブンシスターズでの思索、ブッシュ政権のイラク進攻、長崎で起こった中学生による幼児殺害事件、武士道の極端な異端思想「葉隠」、西郷隆盛の実像、カズオ・イシグロの無国籍性、環境問題等々へ話は次々と飛んでいく。
とりとめのない話題の羅列のように思えるが、一貫しているのは「考えること」の大切さを重んじる姿勢。大きすぎる、重すぎる話題についてはそこまで思いつめなくても、と思わないでもないが、彼女は言う。
一人で考えてどうなるものでもなくても
しょうがないなあ
と失望しながらでも、向き合っていかねばならないと。そのための武器であり道具となるのは彼女の場合、当然「言葉」だ。
確かに言葉は扱いに困る、厄介な代物だ。けれど私は言葉という素材を使って、光の照射角度や見る位置によって様々な模様や色が浮かび上がる、物語という一枚の布を織り上げることが、自分の仕事だと思っている。(「風の巡る場所」)
ここに書いてあることを知らなくても梨木香歩の小説は十分に楽しめるし、逆にこのエッセイは足枷になりかねない危険性も孕んでいると思う。そういう意味では熱心なファン限定かもしれない。私もしばらくは彼女の作品に集中するつもりだったが、今はちょっと離れてから、と思っている。
『旅先で、風切羽の折れたカラスと目が合って、「生き延びる」ということを考える。沼地や湿原に心惹かれ、その周囲の命に思いが広がる。英国のセブンシスターズの断崖で風に吹かれながら思うこと、トルコの旅の途上、へジャーブをかぶった女性とのひとときの交流。旅先で、日常で、生きていく日々の中で胸に去来する強い感情。「物語を語りたい」――創作へと向う思いを綴るエッセイ。(AMAZON解説より) 』
ふうらい姉妹 第四巻 / 長崎ライチ
⭐️⭐️
美女だけど残念な姉妹のゆる〜いギャグが持ち味のふうらい姉妹も最終巻。長崎ライチのお二人、お疲れさまでした。というわけで第四十一回ー第五十二回、最終回、特別編「いろどり広場(イラストギャラリー)」、おまけ漫画「電車にて」、「いろどり広場(エピローグ)」収録。
さすがに第四巻になると4コマ漫画の方はネタ切れ気味で、あっと言わせるような発想や抱腹絶倒の笑いはなくなってきた。終わるのは勇気が要ったと思うが正解だと思う。
そして4コマを捨て、第五十二回、最終回を普通の漫画として描いたのが良かった。
第五十二回は大団円として、新キャラ 、かつて一世を風靡した歌手・夢見さくら子のコンサートをもってきた。彼女のコンサート衣裳をれい子が作ることになり、そのコンサートに今までのキャラが勢ぞろいしてそれぞれの個性を発揮する。お見事。
そして最終回でれい子はファッションデザイナーとして自立する、、、と思いきや、やっぱり鳳さんのお店「ほころび雑貨」の店員バイトと二股をかけ、しおりは少しずつ夜に内職するお姉ちゃんに作る夜食がうまくなっていくのだった。。。最終シーンは不覚にもちょっとほろっとしたりして。
最後の「いろどり広場(エピローグ)」はそれぞれのキャラのファッションショー的で笑える。
楽しめました。あかつき姐さんありがたう。
『麗しの姉妹よ、永遠なれ……! 美人なのに残念な姉・れい子と可愛いのにやっぱり残念な妹・しおり。ふたりの「愛」と「変」に満ちた毎日。 かつて一世を風靡した歌手・夢見さくら子との出会いが、姉妹の日々に変化をもたらしていく。 4話56ページを通して描かれる、笑いと涙の最終ストーリーは必見!(Amazon解説より)』
ふうらい姉妹 第三巻 / 長崎ライチ
⭐️⭐️⭐️
くせになる、ゆる~いギャグ漫画「ふうらい姉妹」も第三巻。第二十七回~四十回に加え、今回もおまけとして「宝物」「回想録」「いろどり広場」を収録。そして今回は狭間に「登場人物図鑑」が入ります。
(8)山本れい子・しおり
(9)とうとつくん (新キャラでしおりのクラスメート)
(10)力丸小百合(新キャラで馬七画伯の初恋のマッチョ)
(11)斜井田タケシ(れい子のお見合い相手、一応彼氏)
(12)鳳こだま(紹介し忘れてましたが、れい子がアルバイトしている雑貨屋の店長さんです。よく出てきます。イケてます。)
(13)ミコちゃん (にゃんこです。馬七画伯のおうちにいます)
とりあえずアペリティフ的に、いきなり笑わせてくれます。
「クラスの極端(きょくはた)さんちの決まりごとが変なの
絶対に何があっても泣いちゃダメ
人が死んでも泣いちゃダメ!!だって」
「極端さんったら
ふぐっ(笑いをこらえて)
何の為に涙出る機能を付けてるの」
「キャッキャッ(笑)」
今回の変キャラはポリエステル絹子先生、ファッションデザイナーです。独特のヘアスタイルで後ろから見ると食虫植物みたいです。ショーで、ウミウシに負けます。
中盤のハイライトはパソコン購入。優しいれい子は「倉庫に眠っているザイ子さん」がきっと疲れているのだと思い、彼女を起こすのが可哀想で、また起きてるときに買いに来ることにしました。
私の好きな馬七馬七(ばななばしち)画伯も健在。姉妹とフランス料理店で。
「すてきなお店」(れい子)
ドキドキ (しおり)
「ワインはね グラスをク~ルクルして香りを楽しむんだ
あっ」
ピシャッ(ワイン、おでこにかかる)
「遠心力のやつめ」
ガシャーン(フォークナイフ類落ちる)
「あっ 重力のやつめ」
さて、馬七画伯の画風に影響を与えた人物が明らかになります。学生時代大好きだった力丸小百合さん。一見女性に見えません。マッチョな体型でセーラー服を着ています。バレーボール部のようです。喋り方も男風。
写真のごとき見事な静物画を描いていた馬七君に力丸さんは何気なく
「でもさ馬七 写真みたいに描くなら写真撮った方が早くねーか?」
と言いました。ショックを受けた馬七君は筆を置きました。3日くらい。
そして後半のハイライトはれい子と斜井田君のデート再び。オシャレのつもりで第一巻で登場した「太陽の塔」そっくりのお面をかぶって出かけるれい子。公園での待ち合わせに遅れた斜井田君は果たしてれい子を認識できるのか!?
「わあ 誰これ」
「相変わらずステキなパジャマですね」
「パジャマ?」(れい子さんだ)
無事認識。 で観に行った映画はやっぱり「熊大臣」。
しおりのハイライトは遠足。まずはお姉ちゃんからの注意。
「しおり・・・・・やまんばには気をつけるのよ」
「わかった」
「天狗に会ったらメアド聞いてきて」
「わかった」
「金の斧?銀の斧?と聞かれたら・・・・・
あいつらいつもそうやって人間を試しているのかしら
欲ばりの人間ばかりと思ったら大間違いです
林業の人に謝りなさいっ」
「いってきまーす」
一難去ってまた一難。とうとつ君と出会いますが、とうとつ君はフリフリのフリルのワンピース。。。。を着てリュックサックを背負っています。。。
とまあ、時にはゆるく、時にはまったりと続いていきます。最後に一句。
「海はすてきね 一句できたわ
竜宮城の 中でも構わず カニ脱皮
天敵に 囲まれようが カニ脱皮」
「感動・・・・・」
おまけのいろどり広場から
(しおり曰く)
二つともこんないびつな形」
(れい子腹を抱えて笑う)
「そ そんな形で
いっちょ前に衛星づらしちゃって
フヒャフヒャ」
「私達だっていっちょ前に人間づらしてるじゃない!!」
「はい」
『世界に轟く姉妹の愛と変 美人なのに残念な姉・れい子と、可愛いのにやっぱり残念な妹・しおり。 ふたりの発見と失笑に溢れた毎日はまだまだ続く。 貧乏だって、姉妹一緒にいれば世界は楽しみに溢れている。 トイレや枕元に常備しておきたい漫画ナンバーワン! (AMAZON解説より)』
海うそ / 梨木香歩
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
久しぶりの梨木香歩。主だったところはすでに「本が好き!」でレビューしていたのだが、読み残しも多く、まずは一番気になっていた「海うそ」から読んでみることにした。2014年の作品で、驚いたことにWikipediaで確認したところ長編は今のところこれが最後となっている。
昭和初期、指導教授、婚約者、そして両親を相次いで亡くし、恩師の遺志を継ぐべく九州南部にある架空の島「遅島」にフィールドワークにやってきた人文地理学者秋野が主人公。
冒頭にその島の地図が記されていて、物語前半から中盤では、その地図の一つ一つが丹念に描写されていく。彼をあたたかく迎える人々、島の地名・由来や場所による違い、地質学、動物学、植物学、地質学、民家構造に関するレヴィ・ストロース的環太平洋民俗学、風習と宗教、平家落人伝説等々の考察。
まるで実在の島があって著者自身がフィールドワークを行ったかの如くに、微に入り細を穿ち描かれていて見事である。(地理や大きさ、形的に言うと九州の甑島が似ている、と思う。)
特に修験道の島に残存する祠、洞穴、かつて高野山に比肩した施設の廃墟等の明治維新後の廃仏毀釈により「喪失」したもの、そして蜃気楼である「海うそ」への秋野の関心は強い。
梨木は、それら実際に失われたもの、実際にはないものへの哀切な思いと、秋野本人が深いところで何かを「喪失」いるさまを淡々とではあるが、絶妙にリンクさせている。
例えばカモシカに対する主人公の観察。こちらをじっと見つめるカモシカの眼差しは、曰く言い難い神秘的な気配と哀愁を漂わせているように秋野は感じる。その思いの源泉は亡き許嫁だった。彼女は何もかも見透かすような「ロシア風の黒い大きな瞳」をしていた。それがカモシカの瞳とそっくりだったのだった。
更に、冬にはカモシカが立ち尽くしたまま凍死していることがあるという島人の話や、洞穴の奥の暗黒に吸い込まれそうになる主人公の描写を通して、何か許嫁の死に秘密があるのではないかと感じさせる梨木の文章は絶妙である。
もちろんそれだけではない。昭和初期篇における滋味ある梨木香歩の文章は、日本語表現を極めた感があるほど素晴らしい。
その地名のついた風景の中に立ち、風に吹かれてみたい、という止むに止まれぬ思いが湧いて来たのだった。決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい。そうすれば人の営みや、時間というものの本質が、少しでも感じられるような気がした。
私は一昨年、許嫁を亡くし、また昨年、相次いで親を亡くしていた。(龍目蓋ー影吹)
恐ろしいくらいの意気軒昂を誇っていた真夏の庭の植物たちが、憑き物の落ちたように素直になって、天の恵の滴を受けている。(龍の目蓋ー角小御崎)
夜遅く上り始めた月は、深更、山間の小さな苫屋の屋根にも、その生命のまなざしを皓々と降り注いでいたのだった。(中略)ただただ無心に漏れ来る光の林よ。
(中略)いつの間にか晩夏夜半の虫の音が、遠慮深げに辺りに響き、月光は紫雲山の稜線を白々と浮かび上がらせていた。厳かに、知らず、跪いて、頭を垂れる。(呼原ー山懐)
けれど、この、胸を引き千切られるような寂寥感は。
空は底知れぬほど青く、山々は緑深く、雲は白い。そのことが、こんなにも胸つぶれるほどにつらい。(山懐ー尾崎ー森肩)
後半はそれから五十年後。秋野は結婚して二人子どもを設け、もう八十台。残念ながら遅島の家構造に関する論文は書けず、老いてしまった。そして因果は巡るのか、息子が勤務先の総合レジャーランド、リゾート開発計画のため、なんと遅島に赴任していたことを知る。秋野は矢も楯もたまらず遅島を再訪するが、なんと遅島には本土から橋が架かっていた。
昭和初期でも「喪失」しているものは数多くあったが、それからの50年はもっと徹底的に秋野が慈しんだこの島を変えてしまっていた。
その一つとして、カモシカは絶滅していた。息子にそのことを知らされた時初めて父は許嫁の死の真相を語る。
そして、達観する。終盤の文章の見事さはどうだ。
そして過去に見た紫雲山の、神さびてすらいた姿が、ロープウェイさえ引かれようとする今の姿と、奇岩に覆われていた胎蔵山の謎めいた姿が、削られて威厳など跡形もなくなった今の姿と、まるでそれぞれが最初からひとつのものであったかのように、私の中で認識されてきたのだった。時間というものが、凄まじい速さでただ、直線的に流れ去るものではなく、あたかも過去も現在も、なべて等しい価値で目の前に並べられ、吟味され得るものであるかのように、喪失とは、私の中に降り積もる時間が、増えていくことなのだった。
立体模型図のように、私の遅島は、時間の陰影を重ねて私の中に新しく存在し始めていた。これは、驚くべきことだった。喪失が、実在の輪郭の片鱗を帯びて輝き始めていた。(五十年の後)
「昔、ひとの好い爺さんと婆さんが、たらい舟であの温泉に通ったものだ・・・・・・」
長い長い、うそ越えをしている。
超えた涯は、まだ、名づけのない場所である。
これを書いてこの作品の余韻を奪ってしまうのもどうかと思ったのだが、一応記しておくと、梨木香歩はこの作品のテーマ「喪失」を、東日本大震災に重ね合わせているそうである。
『昭和の初め、人文地理学の研究者、秋野は南九州の遅島へ赴く。かつて修験道の霊山があったその島は、豊かで変化に富んだ自然の中に、無残にかき消された人びとの祈りの跡を抱いて、秋野の心を捉えて離さない。そして、地図に残された「海うそ」ということば……。五十年後、不思議な縁に導かれ、秋野は再び島を訪れる。(AMAZON解説より)』
フーガはユーガ / 伊坂幸太郎
⭐️⭐️
伊坂幸太郎の約一年ぶりの新作「フーガはユーガ」、またまた奇妙なタイトルですがこの題名に関しては、冒頭ですぐネタあかしされます。常盤風雅・優雅の双子が主人公の物語なのです。頭空っぽのDV父と無関心を絵にかいたような無責任母がよくこんなまともな名前を付けたものです。と言っても付けたのは伊坂ですが。
ちなみに兄の優雅は慎重で勉強が好き、風雅は楽天的で運動が好き、なんとなく「重力ピエロ」の兄弟を思い出します。
「閑話休題」、この双子は毎年誕生日にだけある特殊能力を使える、という設定になっています。詳細を出たばかりでばらしてしまってはこれから読む方に申し訳ないのでAMAZON解説から引用します、あとは想像してください、じゃなくて読んでください。
あらすじは秘密、ヒントを少し。 双子/誕生日/瞬間移動 1年ぶりの新作は、ちょっと不思議で、なんだか切ない。
AMAZON解説史上最も短い紹介の一つかも。
舞台はもちろん仙台。これは森見登美彦の京都と同じくらい強固に守られています。ついでに言えば、恒例の新幹線ネタもあります。東日本大震災も回想として一か所だけ出てきます。
さて、ガラッと作風を変えたモリミンとは逆に、伊坂独特の語り口、スピード感のあるドライでライトな文章は全く変わるところがありませんでした。誰かさんと違って伏線もきっちり回収します。よって今回も伊坂ワールドと言えます。
にもかかわらず、今回はあまり楽しめませんでした。と言うのも、双子が次々と立ち向かわなければならない「敵」がひどすぎます。伊坂流勧善懲悪劇には独特のユーモアがあって救われるのですが、今回はそのユーモアが相手の陰湿さ、狡猾さ、悪辣さに食われてしまい、読後感がよくありません。ダークサイド伊坂、とでもいうべき内容です。
DV、いじめ、変態的性虐待、そしてサイコパス。
伊坂の作品には往々にして出てくる題材であるとはいうものの、卑劣極まりない、それも罪悪感の全くない暴力の連続には気が滅入ります。いくらわずかばかりの特殊能力があるとは言え、双子の力には限界があり、あっと驚く(か、やっぱりと思うかは人ぞれぞれですが)敵の正体が明らかとなった後の顛末・結末は、ほのかな希望を残しつつも残酷です。最後に巻き込まれる小学生時代の同級生、ワタボコリ君にも同情を禁じ得ません。
このワタボコリ君、本名をワタヤホコル君と言います。村上春樹のねじまきどりの綿谷ノボルに名前が似ていますが、何の関係もありません。伊坂がまた春樹チルドレンと言われそうですが、私は彼があまり春樹チルドレンだとは思ったことはありません。
「閑話休題」
血で赤く染まった釘の刺さった白クマの人形
最初の方で出てくるこの人形、なんか嫌だなあと思ったのですが、最後の最後まで出てきます。ある意味この作品を象徴しているのかなと思います。ということで語り口は相変わらず伊坂そのものですが、ダークサイド伊坂に耐えられる人向けだと思います。
ふうらい姉妹 第二巻 / 長崎ライチ
⭐︎⭐︎⭐︎
あかつき姐さんに勧められて読んだ長崎らいちの「ふうらい姉妹」にはまってしまったので第二巻。第十四回ー二十六回、「回想録」「いろどり広場」収録。各章の合間に諸種外国語版台詞の「世界のふうらい姉妹」が挟まれる。
あいかわらずまったりしたギャグとペースで進んでいくが、前半のハイライトは姉れい子のお見合い。お隣の御節貝(おせっかい)おばさんの勧めで、お相手は非常にシャイな斜井田タケシさん。お互いの特技、体操の話で盛り上がり、意外にも話は進展し、ゆる~い笑いの中でデートまで進んでいく。
レギュラー陣も健在。個人的にお気に入りの馬七馬七(ばななばしち)画伯も健在。れい子に問われてデートのアドバイス。
まず
①相手が人間かどうかちゃんと確認すること
確認できたら
➁とにかく失敗を恐れず挑むこと
相手が象なら、失敗したら踏まれるからね
馬七画伯、ナイスアドバイス!
で、公園での初デートで偶然馬七画伯に遭遇、さてその結果は?
「おねーちゃんデートどうだった?」
「斜井田さんが
馬七さんをお父さんと呼んで
お年玉が降ってきて
そしてぐるぐる回された」
「すごーい かっこいい♡」
妹のしおりの方は、クラス劇「ちら雪姫」の主役ちら雪姫役がくじで当たってしまう第十七回がハイライト。当たって動揺するしおり、
「先生 私 セリフが覚えられないと思う」
「毒りんごを食らった後は寝てればいいから大丈夫!」
「 ホッ」
先生、ナイスアドバイス!
さて、第二十三回でついにふうらい姉妹の家族事情の一端が判明する(ほんとかどうか微妙だが)
「あら ママが残してくれたお金が 底をついてきたみたい」
「ええええっ お姉ちゃん それは大変!! あの 私
出稼ぎにいってきます」
「しおり! ・・・・・今日は家庭訪問で先生がいらっしゃるというのに」
やはりふうらい姉妹のママは亡くなっているようである。で、しおりの先生の家庭訪問に姉の奇想天外な対応が始まる。
というわけで、あとは面白かった会話をいくつか。
「お見合いの人から連絡ないね (中略) 電話してみたら?」
「いきなり?」
「じゃメール」
「いきなり? やはり最初はテレパシーから」
「ないの(心の声 あったらメールや電話は要らないの)」
「渋柿が混ざってるから気をつけて食べるのよ♡」
「なんで混ぜたの!?」
「なんかもうマトリョーシカが頭から離れなくなった」
「ええ」
「買いに行ってきます 南米コロンビアへ」
「ロシアだよ」
「ロシア!? では買い物ついでに
北方領土の件をむし返してきます」
「そういうのはお姉ちゃんの係じゃないよ」
その他いろいろ楽しめます。待て次巻!(やるのか?)
『ベスト(残念な)姉妹・オブ・THE・ワールド。 「じわじわくる」と話題の4コマ漫画の最新巻! 天に二物を与えられなかった、残念な姉・れい子、 その姉に似てると言わざるを得ない、勿体ない妹・しおり。 姉妹ふたりの、驚きと失笑と姉妹愛に満ちた毎日! お見合い、デートに家庭訪問と、にぎやかな出来事が詰め込んである第2巻。 (AMAZON)』
熱帯 / 森見登美彦
⭐︎⭐︎⭐︎
森見登美彦の最新刊が出た。題名は京都とは何の関係もなさそうな「熱帯」。熱帯密林に予約注文しておいたのだが、届いた本を見てびっくり。
分厚い!
なんと523Pもある。こんなもん持ち歩けるか。 と思ったが、さすがモリミン、ページターナーである。あちこち持ち歩いて、ずんずん読まされてあっという間に読了してしまった。
のはいいのだが、よく言えば自らおっしゃっているように、
我ながら呆れるような怪作である
が、 悪く言えば初の失敗作ではなかろうか。それにはモリミンが一時期心身症で書けなくなった、というお気の毒な事情が介在していたことは承知しているが、正直なところモリミンほんとに大丈夫なのか、と思った。
そりゃこのページ数を見ても、内容を読んでも、気力復活後相当力を入れて書いておられるのは理解できる。メタ的に言えば、この小説中の「だれも結末を知らない幻の作品『熱帯』」に現実になった可能性もあったわけで、最低限そうならなかったことはよかった。
が、めでたく完結してどうなったか?第一章の文章にズバリ書いてある。
それがどんな物語であるかということを一言で説明するのは難しい。推理小説ではないし、恋愛小説でもない。歴史小説でもないし、SFでもなく、私小説でもない。ファンタジーと言われればファンタジーだが、それでは何も説明をしたことにならない。
とにかく、なんだかよく分からない小説なのである。
全くもってその通りで、「千一夜物語」と「ロビンソン・クルーソー」と「きつねのはなし」と「夜行」をごったまぜにしてモリミン流千一夜物語にしてみました、みたいな代物が出来上がってしまったのである。
具体的に検討していこう。と言ってもまだ出たばかりなので具体的な内容はAMAZON解説に書いてあることだけにしておく。
まず、ウェブ文芸誌「マトグロッソ」に掲載された第一章から第三章まではいかにもモリミンらしい語り口で、AMAZONの解説の
汝にかかわりなきことを語るなかれ――。そんな謎めいた警句から始まる一冊の本『熱帯』。 この本に惹かれ、探し求める作家の森見登美彦氏はある日、奇妙な催し「沈黙読書会」でこの本の秘密を知る女性と出会う。そこで彼女が口にしたセリフ「この本を最後まで読んだ人間はいないんです」、この言葉の真意とは? 秘密を解き明かすべく集結した「学団」メンバーに神出鬼没の古本屋台「暴夜書房」、鍵を握る飴色のカードボックスと「部屋の中の部屋」。
パートがそれにあたる。ここまでは上々の出来で、本に関するミステリーとして「千一夜物語」を絡めつつ話が進んでいく。ここで一旦中断してしまったことは本当に惜しい。
そして今回書き下された第四、五章はAMAZON解説の
幻の本をめぐる冒険はいつしか妄想の大海原を駆けめぐり、謎の源流へ!
パート、これが問題である。モリミンが心身症から立ち直り、新味を出そうとして頑張っているとは思うのだが、冷静に読めば彼がなお七転八倒している印象を受ける。
この第四、五章、モリミンはいきなりそれまでの流れを断ち切り、小説内小説「熱帯」を何の前置きもなく書いてしまった。よって小説全体としての流れがぎくしゃくしている。
そしてこのパート、一人称で語られていくのだが、その「僕」が誰なのか明記されておらず、ちょっとイライラする。もちろん前半に答は提示されているが、かと言って小説内小説「熱帯」であると明記されているわけではないので、もしかして違うのかもという、もやもやした不安がぬぐえないまま話が進む。最後にやっぱりそうかとは思うものの、納得させてくれる種明かしではない。
極めつけは「後記」である。
「あらゆることが『熱帯』に関係している。この世界が全て伏線なんです。」
とおっしゃっている、その前半の世界の伏線をすべて回収すべき場所であるはずが、全く違う方向(世界?)へ話が飛ぶ。
何のための前半だったんだ?
と呆れてしまうこと請け合いである。前半三章での一番の謎は、小説内小説「熱帯」を何故誰も最後まで読めないのか、何故中盤以降の記憶が皆曖昧なのか、であるが、それがこの後記では全く説明できない。故にそれを探求する前半での学団員の行動はすべて無意味となってしまった。
とまあ散々こき下ろしたが、モリミンファンにはやっぱり嬉しい新作であるし、これだけの長い話をグイグイ読ませるのはさすがだとは思う。
それにしても熱帯まで来てさえ、モリミンは京都から離れられないのだな。
天子蒙塵 第四巻 / 浅田次郎
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浅田次郎先生の近代中国史シリーズ第五部「天子蒙塵」いよいよ完結、という事で、第三巻に次いで読了。感無量と言いたいところだが、率直なところ尻すぼみ感しか残らなかった。この巻だけをとってみれば、すべてのエピソードが中途半端なまま。恩田陸に勝るとも劣らない投げっぱなしジャーマン。期待していた西安事件まではまだ遥か遠い。何のために張学良を描き続けてきたのか、と腹立たしくなるくらい本巻での張学良の扱いはぞんざいだ。龍玉に関しては何をかいわんや。何とも言いようがない。
これで完結だ、と言われても納得できるファンがどれだけいるのか?浅田先生の筆力が尽きた、と言うならそれまでだが。
ラストは伏せておくが、「蒼穹の昴」に始まる壮大なこのシリーズはつまるところ、清朝末期の静海県の寒村の極貧家の兄弟妹、とりわけ李春雲(春児)と、放蕩息子梁文秀の物語だったのだ、ということ。そしてテーマは「没法子(メイファーヅ)(しょうがない)と言わないこと」。その点に関してだけは、浅田先生は志を貫いた。その一点だけに絞って敢えて☆三つを謹呈する。浅田先生お疲れさまでした。
『王道楽土を掲げる満洲でラストエンペラー・溥儀が再び皇帝の位に昇ろうとしている。そんななか、新京憲兵隊大尉が女をさらって脱走する事件が発生。二人の逃避行はパリへと向かう。一方、欧州から帰還した張学良は、上海に繰り返し襲い来る刺客たちを返り討ちにしていた。 日本では東亜連盟を構想し後に「世界最終戦論」を説く石原莞爾が関東軍内で突出した存在になりつつあり、日中戦争突入を前に、日本と中国の思惑が複雑に絡み合う。 満洲に生きる道を見いだそうとする少年二人の運命は? この世を統べる力を持つ龍玉にまつわる伝説は、ついに最終章へ。『蒼穹の昴』シリーズ第5部、完結!(AMAZON解説より)』