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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

李鷗 / 高村薫

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高村薫流BLの極みと言える、中国人ヒットマン李鷗 。久々に再読、記憶違いも沢山あったが、やっぱりいい。李歐よ、君は大陸の覇者になれ、僕は君についていく夢を見るから。


李歐

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書評
 

  先日レビューした佐藤亜紀の「戦争の法」でも書きましたが、主人公の男性二人の微妙な心理の綾の描き方でふと思い出したのがこの小説でした。

 

  まあ、この小説でなくても高村薫女史は男性同性愛が大好きなんですが、「わが手に拳銃を」という初期の作品で登場した李歐吉田一彰という二人の人物もそうでした。

 

  その二人を核に話を膨らませ、変に小難しくならず伸びやかな筆致で書かれているこの作品は、合田三部作や二十世紀三部作とはまた違った、格別の味わいがあります。

 

  さてその李歐の正体は謎に包まれています。時は東アジアが中国の文化大革命で混沌としていた時代、日本も不法入国者不法就労者、スパイ、ヤクザ、公安入り乱れての丁々発止。特に高村女史のホームグラウンドとも言える大阪はヤバ過ぎる街。李欧は公安によればそんな街に音もなく現れた中共スパイ、金貸しに言わせれば文革で香港に流れてきた貧民で、ヤバい奴ら相手に無謀に立ち回って日本に逃げてきたチンピラ。

 

  そしてもう一人の主人公吉田一彰幼年時代母と二人で越してきたのが大阪は姫島。当時の一大工業地帯福島と淀川一つ隔てた対岸の下町。

 

  アパートの近くには、満州帰りの守山耕三という男の経営する機械工場があり、幼い一彰はいつしか頻繁に出入りするようになり、守山や従業員の中国人、朝鮮人たちと仲良くなる。

 

  しかし、実はこの従業員たちはみんな訳ありで、公安の田丸と言う男が常に監視しており、金貸しの笹島と言う男は拳銃密造というヤバい仕事を守山に強要していた。 と言う前提は覚えていたんですが、そこからのストーリーはもう完全に自分勝手に作り変えていました(笑。こんな感じ。

 

母、一彰を置き去りにして従業員の台湾人と台湾へ駆け落ちする。 ← これホント

 ↓

一彰、工場の隣の教会の外国人司祭に引き取られて成長するが、この司祭も訳ありで李歐と通じている。 ← これマチガイ、なんと司祭の登場は後半で、司祭が李歐と出会うのは、李歐が日本出国後のフィリピン  

 ↓

一彰、成長して阪大生となっているが学資稼ぎのためにキタのナイトクラブでボーイのアルバイトをしている。 ← これホント、ただし、これが第一章で子供時代が第二章、順番逆

 ↓

一彰、クラブの裏の路地で李歐と出会い一目惚れ、親友の誓いを立てる ← 半分ホント、半分マチガイ。

  ↓

ナイトクラブの裏で会った途端、李歐は路上で踊り出す ← これはもし実写化でもすればアホらしい場面になるところだが、高村女史の筆にかかると、この作品で一番の名場面!

男は降りてくる一彰を数秒見ていた。そして、一彰がにらみ返すより早く、その目は突然、よく切れる薄刃ですうっと刺し身を引くような、強烈な流し目を残して一彰から逸れていった。と同時に、男の二本の足は路地へ滑り出し、今しがたの腕一本と同じ動きがその全身に乗り移って、二本の腕と足が天地四方へうねり出したのだ。 ......男の腕も足も生きている蛇だった。たおやかで鋭く、軽々として力強く、虚空を次々に切り取っては変幻する。それが天を突く槍に化け、波打つ稲穂へ、湖面のさざ波へ移ろっていく。

李歐は偽名でナイトクラブでしばらく働いた後、笹島絡みの某シンジケートの命令で5人を射殺して悠々と出て行く。なんと守山が匿っており、一彰はそこで再会、二人は隠微な友情の誓いを立てる。

  ↓

李歐は一彰に、金貸し笹島が絡んでいる密輸拳銃を強奪しようと持ちかけ見事成功、時価一億円の拳銃を折半し、自分は予め用意してあった船で脱国する。  ← これ、ホントだが、本編のクライマックスというイメージと裏腹に実はまだ前半だった!

  ↓

一彰は自分の強奪分の拳銃を笹島に渡す代わりに守山の借金をチャラにする駆引きに成功し、自らは身の安全のためナイトクラブの殺人事件の件で警察に自首し、服役する。 ← ほぼホント。

出所後守山の工場に身を寄せ、守山の娘に後ろ髪惹かれつつも出国、李歐と幸せに暮らしましたとさ。 ← これ、早過ぎ

 

   事が事だけに、更には李歐がシンガポールで一大シンジケートを作り上げ旧勢力と対立しているために、一彰、李歐の周囲で次々と痛恨の犠牲者を出す。そして一彰は幼い息子と二人で中国へ渡り、その一年後にやっと李歐がやってくる。   

 

とこんな具合です。

 

  ですので、李歐が密輸拳銃五千万円分を持って脱国するのは、前半の最後あたり、そこからが長いのでした。

 

  アイルランド人のキーナン司祭は李欧と入れ違いに登場し不思議な雰囲気を漂わせ、一彰は出所後守山の経営を手伝い、胃癌で死んだ守山の葬式をあげてやり、工場を継ぎ、笹島ルートを引き継いだ原口と言う刑務所で一緒だったヤクザの大物といろいろと絡みがあり(ムショで「かわいがられた」仲)、守山の轍を踏むが如く拳銃の修理を引き受け、また田丸に睨まれ、そんな中でも何とか工場経営を軌道に乗せ、守山の娘咲子と結婚し、一児をもうけたりと、なんだかんだ色々あったのでした。ほとんど忘れてましたが(大汗。

 

  そして気づけば李歐が去ってから15年が経っており、この間、世界情勢も、冷戦時代が終わりを告げ、李歐が目撃するベルリンの壁崩壊など、大きく変化はしています。しかし闇勢力の果てしない抗争というのは終わりを告げることがありません。そのあたりの高村節はやはり見事。

自分たちは、最低限、国家の治安維持を理由に人が死ぬことはない幸せな国に生まれたが、海の向こうはそうではなかった。それでもそのアジアの一端に自分たちはそれぞれに連なり、何も知らない市民の命一つが吹き飛ばされるようなことも起こりうる時代を、二人(一彰と田丸)とも、こうしてたしかに生きてきたのだ。

  とにもかくにもそんな物語の中で高村流スーパーリアリズムが炸裂するのは、当時の大阪の情景と表裏、下請け工場の仕事や資金繰りの現実、そして拳銃についてのしつこいくらいの蘊蓄と密造改造。

 

  元々「わが手に拳銃を」という作品を改変したものであり、そのあまりのリアルさに拳銃に目が行きがちですが、後半では近年TVドラマで話題になった池井戸潤の「下町ロケット」のアイデアをそのずっと前に先取りしていたことに驚きました。

 

  最後は上に書いた通りですが、ここまでスーパーリアリズムを貫いておいて、あの頃の中国を考えてみると夢みたいな話で終わるのは、北朝鮮を「地上の楽園」と言ってたのと大同小異ではないですが、高村さん!と皮肉の一つも言いたくはなります。

 

  それでもやっぱり  

 

 李歐はいい!   

 

彼の造形だけですべてを赦してしまえる、そんな物語なのでした。

スウィングしなけりゃ意味がない / 佐藤亜紀

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馬鹿の帝国」対「スイングユーゲント」。ハンブルグの上流階級の息子たちのナチへの反抗と悲劇をスイングジャズに乗せてコミカルにシニカルに描き尽くしているが、文章が平易すぎて佐藤亜紀とは思えない。

 

 

 佐藤亜紀を読むシリーズ、年代順に読んできましたが、今の佐藤亜紀を知っておくのもよいかと思って、2017年の最新作「スイングしなけりゃ意味がない(It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)」を読んでみました。

 

  題名は言うまでもなくスイングジャズの名曲の題名ですが、各章にもスタンダード・ジャズの名曲の名前が冠せられています。

  しかし舞台はアメリカではなく、ナチスドイツ統治下に無謀な戦争に突入した時代のハンブルグ。その町にたむろする上流階級のティーンエイジのお坊ちゃま達が、夜ごとゲシュタポに狙われながらも繰り広げるジャズ・パーティの様子が描かれ、物語は幕を開けます。

 

  佐藤亜紀があとがき「跛行の帝国」で解説しているところによりますと、

ジャズは、ワイマール共和国時代には既に、ドイツ社会に浸透していた。.....BBCでさえ開戦後、ドイツのリスナーが熱望していることに気が付くまでジャズの放送には積極的でなかったことを考えると、例外的なジャズ先進国だったとも言える。.....ナチスのジャズ取り締まりが奇妙な混乱を示すのはそのためだ。

だそうです。

 

  これに限らず佐藤亜紀は膨大な参考資料を読み込み(もちろん原文日本語問わず)、それを完全に消化して、スウィングジャズに熱狂するスイングユーゲント(スイングの好きな若者)の一人、ハンブルグの大工場の息子エディとその友人たちの性根の据わった放蕩っぷりを描きます。 馬鹿の帝国の総統やゲーリングゲシュタポ、SS等々をこき下ろし馬鹿にしつつ、 監視の目も気にせず遊びまくり、 自分も友人も痛い目にあいながら、 対米宣戦布告でジャズが聴けなくなったら したたかに海賊版でぼろもうけし、 Uボートする(潜伏逃走)つもりが ハンブルグ大空襲で町が灰燼に化し、 両親の死にもめげず、父親の工場をあれこれ手管を使ってきっちり立て直し、 ペルヴィチン(=ヒロポン)をボリボリ飲み下しながらナチの接収に抵抗し、 財産をひそかにドルに換金して埋め隠し、 ハンブルグが単独降伏する幸福な瞬間を迎えるまで。

 

  軽快なジャズナンバーに乗せて、当時のハンブルグの町と若者の行動と、ナチの暴虐と思想の愚かさと、あまり知られていなかった収容所の囚人の人種や強制労働の実態と、アーリア人なる滑稽な概念等々を、コミカルにシニカルに描きつくしたプロットの緻密さはさすが佐藤亜紀と思わせるものがあります。

 

  ただ、文章が軽い。これが佐藤亜紀か!と驚く程平易な文章。途中をすっ飛ばしているので、どのあたりから文体が軽くなっていったかは彼女の作品を追っかけてみないと分かりませんが、これまでレビューしてきた彼女の作品とは全く異質です。

 

  とは言うものの、蘊蓄の限りを尽くした言葉遊び(サミュエル・ゴールドバーグだったり、ザンクト・ルートヴィヒ・ゼレナーデだったり、辛辣な文章、例えば

我々は総統閣下を信じている、の多様な雄弁さたるや、言葉とは何なのかを一度考え直す必要がありそうなくらいだった。

だったり、グロテスクに美しい文章、例えば

お袋は洒落たカクテルドレスを着て、共布の靴を履いている。親父は呆れたことにタキシードだ。お袋は親父の肩に顔を寄せ、親父は仰向けで目を開けたまま、呆れたね、と言いそうな顔で、溜息でも吐くように薄く口を開いて死んでいる。僕も呆れる。涙が出てくる。一体空襲の最中だっていうのに - 家が焼けてるっていうのに何やってたんだよ。古い手回しの蓄音機まで引っ張り出して。「楽しくない?(Ain't Got Fun?)」踊ってたのかよ。馬鹿じゃないのか。

ここから「Ain't Got Fun?」の佐藤亜紀流歌詞が始まる。お見事です。

 

  確実に言えることは初期のあの衒学的に凝りに凝った文章よりも、一般読者受けはするであろうという事。逆に言えばあれでのめり込んだものとしてはやや寂しいです。

 

  まあそれでもとにかく面白い小説、例えば全く同じ時代のナチや戦争を描いたアンソニー・ドーアの「All The Light We Cannot See」と対照的な明るさを持つ佳作だと思います。

 

 佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法  

鏡の影  

天使  

雲雀

イリーナ・メジューエワ・プレイズ・ベーゼンドルファー

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  ロシアの名ピアニストで現在日本で活躍中のイリーナ・メジューエワさんが大好きで、若林工房というレーベルが録音・音質にこだわって作っているアルバムをぼちぼち集めています。今回はいつもはNYスタインウェイを使っておられるメジューエワさんがウィーンの至宝ベーゼンドルファーを弾くとどういう感じで鳴るのか興味があってこのアルバムをチョイス。

 

  ベーゼンドルファーは会社としては今はもうヤマハの子会社となっていますが、ピアノ自体はやはりウィーンの至宝と言っていいでしょう。低音鍵が他のピアノより多いことで有名ですが、今回使われたのはModel 275で、92鍵。

 

  ベーゼンの特徴としてその低音の深さ、響きの豊かさと、高音部の美音が有名ですが、一方で欠点としてやや立ち上がりが遅いことが挙げられます。よってメジューエワさんがこれまで弾いてこられたヴィンテージNYスタインウェイヤマハCFXとは異なったテクニックを必要としますし、合う曲合わない曲があることも事実。

 

  しかし、全く心配不要でした。冒頭の分散和音からしてベーゼン!ベートーヴェンの「テンペスト」ですが、その後の深みのある落ち着いた低音、磨き込まれた珠のような美しい高音、素晴らしい演奏です。メジューエワさんの手にかかるとここまでの音が出るんですねえ。立ち上がりが遅さも熟知して、高音の高速パッセージに低音の深い響きを見事に合わせるテクニックを早速見せてくれます。ホント、どんなテクニックを使っているか見てみたいほど。

 

  この「テンペスト」三楽章だけでも圧倒されますが、それ以上に合っているなと思うのはベーゼンを世界的に有名にしたリスト。シューベルト曲の編曲「連祷」、「巡礼の年」からの「エステ荘の噴水」、ワーグナー曲の編曲「ゾルデの愛の死」、このリスト三連発。彼女の打鍵の強さから来るダイナミックな展開が、曲ごとに増していく様は圧巻。

 

  そしてベーゼンは録音も難しいはずですが、それも杞憂でした。録音場所は相模湖交流センターで、日本コロンビアスタッフによる一発どり。ホールトーンも綺麗に乗っていますし、もちろん彼女のテクニックあってこそですが、音の濁りの無さ、こもりの無さ、素晴らしいです。

 

【収録曲】
ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第17番「テンペスト
シューベルト即興曲 変イ長調 作品142-2
シューベルト=リスト:連祷
リスト:エステ荘の噴水
ワーグナー=リスト:イゾルデの愛の死
ドビュッシー:沈める寺
ラフマニノフ:プレリュード 作品32-12

イリーナ・メジューエワ (ピアノ… ベーゼンドルファー Model 275)
録音: 2017年4月23日、相模湖交流センター

 

 

梟の城 / 司馬遼太郎

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  司馬遼太郎氏の長編デビュー作にしてこの完成度。直木賞受賞も当然だろう。その後のエッセイ的スタイルとは全く違う普通の忍者小説だが、そういうものを書いても一流だったことがよくわかる。

 

司馬遼太郎の初長編作品にしてこの完成度。非情を旨とする忍者の世界を、信長による伊賀殲滅から秀吉暗殺計画まで鮮やかに活写して、最後にあっと言わせる、そして司馬先生にしてはお色気もたっぷり。」

 

   突然ですが、司馬遼太郎先生の初長編小説にして直木賞受賞作、山田風太郎等とともに忍者小説ブームを巻き起こした作品です。実は書庫で「空海の風景」を探していて見つからくてこの作品が目についたので久々に読んでみました。

 

  後年にはエッセイ風に自分の語りから初めて小説に入っていくという独特のスタイルを築いた司馬先生ですが、ほぼデビュー作と言ってよいこの小説は、普通の小説のスタイルです。とは言え、ページターナーでグイグイ物語の世界に引き込んでいき、最後であっと言わせるその構成は、もう小説家として完成の域にあったと思わざるを得ません。あまりにも完成しているが故に、逆にそのスタイルを崩して、後年あのようなスタイルに至ったのかもしれません。

 

  ひと言でいうと「忍者小説」ですが、解説の村松剛氏が書かれているように、戦後間もない時代に在っては革新的な内容でした。ちょっと引用させていただきますと、昭和31年に石原慎太郎の「太陽の季節」がベスト・セラーになったことを挙げ、

 

時代小説の方もこの時代の風潮に応じて、スピーディな、乾いた文章と、エロティックな場面の多いことを、特徴とするようになった。

 

ということで、本作でも主人公葛籠重蔵とヒロイン小萩の最初の出会いは遊女として抱くところから始まります。そしてその後、小萩の策部にはまる寸前で彼女の秘に近い白い太腿に探検を突き刺して去るところは最高にエロティック。

 

  さて物語。

 

  豊臣秀吉の天下の時代。天正伊賀の乱で、織田信長の命で、婦女子まで一人残らず殲滅させられた伊賀。その容赦ない殺戮をかいくぐり辛うじて生き残った数少ない忍者たち。

 

  一番の使い手の葛籠(つづら)重蔵は長年山に籠っていますが、師匠の下柘植次郎左衛門が彼を訪ねてきて、堺の豪商今井宗久の依頼で秀吉殺害を依頼され請け負うところから物語は始まります。

 

忍者は梟と同じく人の虚の中に棲み、五行の陰の中に生き、しかも他の者と群れずただ一人で生きておる。

  という伊賀者の倫理観は武士はもちろん、一般民衆ともかけ離れたところにありますが、それでもまだ重蔵は村松剛曰くの「理想主義的」なところがあります。一方京都に逃げた重蔵と同等の使い手風間五平は忍者に嫌気が刺し、前田玄以に仕官し、隠密として逆に彼等を狩る方に立場を変え、現世の栄達を夢見ています。下柘植次郎左衛門も食えない老人で、ダブル・スパイ的にどちらの側にもその場その場で立場を変える男。その娘木さるは美しい忍者ですが、五平の許婚でありながら重蔵を慕っています。

 

  そして謎の美女小萩。上述のように遊女として登場しますが、後に今井宗久の養女と判明。しかし、それだけの女ではないことは容易に知れますが、その出自が分かるのは後半もだいぶ過ぎてから。

 

  彼らの丁々発止の駆け引きに甲賀一の忍者摩利洞玄も絡んで、もつれにもつれていく物語の大団円はやはり秀吉暗殺。伏見城に忍び込む重蔵と、その現場を押さえて千石以上扶持アップを狙う五平。

 

  ああ、あの男の物語だったのか、と呆気にとられる意外過ぎる結末。

 

  いやあ、やっぱり司馬小説は面白い。

 

日蝕、一月物語 / 平野啓一郎

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本当に佐藤亜紀のパクリなのか、という興味本位で読んでみたが、なかなかどうして素晴らしい文章だった。アイテムは似ており、衒学的な文章も彼女を想像させないことはないが、基本的に異質の文体とストーリーであり、少なくとも「盗作」ではない。佐藤亜紀を怒らせた新潮社の対応がまずかったのだと思う。一月物語も、草枕の明治文語体と雨月物語を連想させるが、これは狙ってやっていることだろう。優れた文章家であると思う。

 
日蝕・一月物語

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書評

  先日レビューした佐藤亜紀の「鏡の影」にも書きましたが、この「日蝕」はパクリであると佐藤亜紀が糾弾し、芥川賞をこの作品が受賞するに及んでことが大きくなりました。

 

  平野啓一郎が自身の公式ブログで反論しているところを引用してみます。まず彼が事実関係をWikipediaから引用している部分。

佐藤亜紀『鏡の影』と『日蝕』の内容酷似問題 1998年に新潮社から刊行された平野のデビュー作『日蝕』が、1993年に同じ新潮社から刊行された佐藤亜紀の『鏡の影』と「内容が似ている」ことが問題となった。平野が『日蝕』で芥川賞を受賞すると、新潮社側は佐藤亜紀が執筆していたウィーン会議を題材にした作品の雑誌掲載を拒否し、同社から刊行されていた『鏡の影』、さらには佐藤の小説『戦争の法』を絶版とした。佐藤は、新潮から刊行した第3回日本ファンタジーノベル大賞の受賞作で、彼女のデビュー作でもある『バルタザールの遍歴』の版権を新潮社より引きあげ、この作品も絶版となった。現在、佐藤のこの3作品は、他社より刊行されている。 佐藤亜紀によるこの事件の経緯は、佐藤 のウェッブ・サイト「新大蟻食の生活と意見」内にある「大蟻食の生活と意見」のNo.13「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」に詳しい。(2006.9.14 pm15:14現在)

  その記載を読んで彼はとても不快な気持ちになった。佐藤亜紀という人のことは、「日蝕」に対する批判的な書評を読んで初めて知った。当初新潮社と法的手段をとることも相談したが、無駄なこととしてやめた。しかし現代(2006年時点)のweb2.0の時代においては黙っていることは認めることと同意となってしまうので、このブログで自身の意見を述べた、と書き、こう結んでいます。

 私自身がここに語ったことについても、人がそれをどう捉え、どう感じるかは分からない。しかし、ともかくも語った。私はただ、それが伝わることを信じることしかできない。

  web2.0とはまた懐かしい言葉、そんな時代もあったねと、いつか笑って語れるさ、の世界ですが、ともかく平野啓一郎氏としては明確に否定したわけです。

 

  一方の佐藤亜紀の説明は、上記Wikiにも書いてあるように彼女のブログ「新大蟻食の生活と意見」のNo.13 『バルタザールの遍歴』絶版の理由に記されています(リンク許可記載あり)。ここではパクリかどうかはともかく、新潮社の対応に疑問を呈しているだけです。

 

  まあ出版界というコップの中の嵐、その中でも取り上げたのは「噂の真相」一誌のみという小さな騒動ではありましたが、平野にすればデビュー作にケチがついては確かに不快でしょう。

 

  一方で佐藤亜紀のファンからすればやはり気になるところで、「鏡の影」を読んだ以上、読まざるを得まい、と思って読んでみました。

 

  ちなみにその後佐藤亜紀は、この件に関して小谷野敦のいちゃもんにも反論していますが、それについては省略します。

 

[ 日蝕 ]   確かに中世欧州キリスト教社会、異端審問、錬金術、異教徒の書、黒死病(ペスト)、堕落した司祭、そして魔女裁判と焚刑といったアイテム、衒学的な記述、難解な漢字といった共通項はあります。

 

  ただ、ストーリーが似ているかといえば個人的な意見としては似てはいない。剽窃しているところはものすごく細かいところまでは分かりませんが、大筋では少なくともないと思いました。

 

  そして、佐藤亜紀

 

「古典、たとえばダンテやシェークスピアをパクってもそれは盗作とは言わない」

 

としている事に倣えば、平野がウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を読んで啓示を受けたとしても、それはパクリとは言わないでしょう。事実、某書評家がエーコの名前を出して書評した時に、平野は嬉しかったと素直に認めています。  

 

   また文体は、「ペダンティック」なところが似ているだけで、むしろ明治時代に、例えば森鴎外が一時書いていたような文語体に似せた印象を受けます。

 

  その文章の完成度は新人としては並外れて高く、芥川賞もむべなるかな、と思います。ただ、面白み、表現力、含まれている隠喩の深さ、学識などはやはり佐藤亜紀の方が一枚上。文語体で物語を構築できるのは凄いと思いますが、クライマックスのシーン、両性具有者の焚刑の際に「日蝕」が起こり、そして炎の中で陽根が屹立しスペルマが放出され自らの陰門に入っていくあたりの盛り上がりと、その後の彼の作品の特徴の視覚効果を除けば、素直でひねくれたところのない、さらっとした文章です。

 

  結論としては、執筆前に平野が「鏡の影」を読んでいた可能性は否定できないにせよ、少なくとも「盗作」ではない、と思います。むしろ問題のあったのは新潮社の対応でしょう。組織の入れ替えのごたごたがあったことは仕方ない事でしょうが、佐藤亜紀に対する真摯な対応がなされなかったことが騒ぎを大きくしたことは間違いない事実だと思います。

 

[一月物語]   これは舞台が日本、紀伊半島の山奥で繰り広げられる幻想的な悲恋と妖の物語。名前から想像されるように「雨月物語」に倣って、これもまた明治文語体に似せで書かれています。前半から中盤までは、夏目漱石の「草枕」を彷彿とさせるような文章でした。「日蝕」に倣って言えば、草枕という古典を「パクって」も、それは盗作とは言わない。

 

  とてもよくできた作品だったと思います。

 

  以上、佐藤亜紀ほどではないにせよ、新人離れした優れた文章の書ける作家だという印象を受けました。

鏡の影 / 佐藤亜紀

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佐藤亜紀第三作。舞台は再び欧州、時代はバルタザールよりはるかに遡り16世紀。異端の学僧ヨハネスの見る中世キリスト教社会の諸相。後に平野啓一郎パクリ疑惑、新潮社引き上げ事件をも引き起こした難解な書。


鏡の影

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書評

 

  佐藤亜紀の第三作は「鏡の影」、場外乱闘で有名になってしまった作品ですが、「戦争の法」から一転して中世欧州へ舞台を移し、彼女の本領を発揮している作品です。

  場外乱闘とは、後年平野啓一郎芥川賞を受賞した「日蝕」を佐藤亜紀がこの作品の第10-15章の「パクリ」だと糾弾したことに始まる騒動ですが、いったん収まりかけたところに新潮社がこの作と「戦争の法」を絶版にしたことで佐藤亜紀の怒りにまた火がついて「バルタザールの遍歴」の版権を引き上げるという騒動に至りました。

  ですので、下記写真の初版本(図書館からのおさがりです)は今では手に入らないレアものですね。ちなみに表紙絵はヒエロニムス・ボスの有名な「快楽の園」の一部「世界の創造」です。彼の作品は聖書からの寓話を元にした、当時にしては奇抜過ぎるほどシュールな絵が多く、その多くが宗教改革で喪失したと言われており、まさしくこの「鏡の影」の内容にふさわしいと言えます。

 

  というわけでこの作品の舞台は16世紀欧州、カソリックの「贖宥状(いわゆる免罪符)」などの堕落を受けてマルチン・ルターが起こした宗教改革の嵐、福音主義の台頭、異端審問等々が起こっていたキリスト教激動の時代。  

 

   百姓の子倅のヨハネスは、親兄たちとは異なり「世界の摂理」に興味を持っています。

ヨハネスはもう随分と長いこと、ひとつのことしか考えて来なかったような気がしていた ー こうである世の中とこうでない世の中は実はさほど違うものではなく、ただどこか一点だけが、決定的に違うのではなかろうか。とすれば、全世界を変えるにはその一点を変えれば充分な筈だ。

その摂理を知るために叔父について錬金術を見習っていましたが、その叔父の自殺によってその夢も頓挫してしまいます。「世界を一点で覆すべく」彼はプラハ、クラカウ、バーゼル、パリと渡り歩き、神学、哲学、医学を学び、更にはバーゼルからローマに。そこでチェルターニ枢機卿という男色家の男の家に日参し、書庫の本を写本する毎日を送ります。しかしチェルターニが男色にまつわるトラブルで殺され、そのゴタゴタの結果、結局彼の手元には未完成の奇妙な図表だけが残されます。それは

完成したならば世界の姿をーそれがヨハネスに理解できるものであるが否かは別にしてー示す筈のものだった。

 

  ここで第一章は終了し、第二章ではシュピーゲルグランツという小悪魔のような少年に出会い、それ以後の旅と冒険を一緒にすることになります。この二人はまさにゲーテファウスト博士メフィストテレスの組み合わせそのもの。

 

  一方あるルター派の修辞学教師がヨハネスの「新しきアダム」という落書きのような書に興味を持って書き写し、それを「世界ノ在リ得ベキ様態ニツイテ」と題して知人の間で回覧したところ、結構な評判を呼び、それに尾鰭がついて「最も危険な印刷物」となり、ヨハネスは図らずも異端の学僧として名を馳せてしまいます。

 

  そこからの俗世間の旅が一章ごとに語られていき、恋愛、ペスト、百姓一揆、妖術師扱い、そして福音主義の権化のようなマールテンという男が支配する町での異端審問と話は進んでいきます。

 

  作品全体を覆う中世の陰鬱さ、隠微さ、極端な宗教改革等々、かなり難解で散文的な構成で、ストーリーを追うには結構苦労しますが、逆に一章一章を佐藤亜紀流衒学的修辞を積み重ねたアレゴリーとして楽しむのも一興。

 

  最後には色と悪魔の囁きに人間は勝てるのかという感じの寓話となり、牢獄の中でヨハネスが突如閃き、完成させた世界の全てを説明可能な図式は、論敵の手に渡る前に白紙と化す。ヨハネスも書いた翌日には理解不能となり、これもシュピーゲルクランツ以上の悪魔のような女フィリッパに飼い殺しにされる運命となる。そして彼が惚れいていた眠れる美女はあの小悪魔が目覚めさせる。

 

  見事な落とし前のつけ方にもう感服するしかない、という佐藤亜紀の力量。

  まあ、そんじょそこらの小説家が太刀打ちできるような内容ではないのですが、ホントに平野啓一郎はパクったのか?興味が湧いてきます。

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法  

天使  

雲雀

 

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最後の物たちの国で / ポール・オースター

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全てが失われていく場所で「最後の物」とは何だったのか?「ニューヨーク三部作」と「ムーン・パレス」に挟まれた、ポール・オースターの隠れ傑作。


最後の物たちの国で

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書評

空海 / 高村薫

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孤高の天才空海の構築した余人の理解を容易に許さない哲学体系を語るとともに、日本という国が弘法大師信仰という霊験あらたかな民間宗教に変質させていった過程を丁寧に追った、高村薫の思索の旅。


空海

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書評
 

戦争の法 / 佐藤亜紀

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佐藤亜紀第二作。日本に舞台を移したポリティカル・フィクションだが、率直に言ってラスト近くの不思議で切ないシーンまでは退屈。文章は高村薫、アイデアと情報は村上龍、の「亜(紀)流」みたいな。


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