小説 天気の子 / 新海誠
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新海誠の最新映画「天気の子」の小説版。監督自身によるノベライズ版なので、基本的には映画と同じもの。よってこの小説を映画と切り離して単体で読まれる方はまずおられないと思うので、「もう映画は観ている」という前提でレビューを進めていきたい。
そんな中で、いかにも彼らしい10代の若者のぎこちない恋愛とライトSFを組み合わせた作品で勝負してきたことに、「私は周りがどう変化しようとも自分の道を行くんだ」ということを高らかに宣言したようで、昔からのファンとしては好感を持った。
今作の発想のきっかけは、前作の映画「君の名は。」が僕たち制作者の想定を遥かに超えてヒットしてしまったことにあったと思う。(中略)
自分なりに心に決めたことがある。それは、「映画は学校の教科書ではない」ということだ。映画は正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。(中略)
「老若男女が足を運ぶ夏休み映画にふさわしい品位を」的なことは、もう一切考えなかった。遠慮も忖度も慎重さもなく、バッテリーがからっぽになるまで躊躇なく力を使い果たしてしまう主人公たちを、彼らに背中を叩かれているような心持ちで脚本にした。十か月かけてそれをビデオコンテにして、四か月かけてこの小説にした。一年半かけて、映画版もようやく完成しようとしている。(pp295-6)
銃刀法三条、けん銃所持禁止への違反。刑法九十五条、公務執行法妨害。人に向かって銃を発砲したことは刑法百九十五条及び二百三条の殺人未遂罪。線路を走ったことは、鉄道営業法三十七条への違反だった。(p274)
を犯しても、少年が少女を地上に戻すために天の意思に反しても決断した選択が
雨はそれから三年間止むことなく、今も降り続けている。(p267)
東京都の面積の1/3が、今は水の下だった。(p277)
というような、現実に起これば日本という国が確実に破綻してしまうような結果になろうとも、映画の後味がとてもいい。それは新海誠が散々悩み抜いた果てについに吹っ切れた清々しさがあるからこそなのだろうと感じたし、今回この作品を読んでも諸所にその思いは感じ取れた。
私はいちめんの草原にいる。頭上には、これ以上ないくらいに澄み切った青空。さざめく平原が、眩しい太陽に輝いている。
地上からは決して見せない草原に、私はいる。私は青であり白であり、私は風であり水である。世界の一部になった私には喜びも悲しみもなく、ただ、ただ、そういう現象のように、涙を流し続けている。(pp210-1)
今回はサブの重要な人物の一人、夏美さんの人物像をかなり堀りさげておられて面白かった。
欲を言えば、主人公が島から家出してきた事情がもっと詳しく語られてよかったのではないかと思う。疎外感、親に殴られた、雲間の光を追いかけて、だけではどうにも出だしが弱いよいうに映画を観た時に思われたのだが、それはこの小説版でも残念ながら同じことだった。
高校1年の夏、帆高(ほだか)は離島から家出し、東京にやってきた。連日降り続ける雨の中、雑踏ひしめく都会の片隅で、帆高は不思議な能力を持つ少女・陽菜(ひな)に出会う。「ねぇ、今から晴れるよ」。それは祈るだけで、空を晴れに出来る力だった――。天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年と少女が自らの生き方を「選択」する物語。長編アニメーション映画『天気の子』の、新海誠監督自身が執筆した原作小説。(AMAZON)