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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 6 / マルセル・プルースト

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   光文社古典新釈文庫版「失われた時を求めて」は2019年末現在六冊が刊行されており、現時点での最終巻となる。本巻には第三篇「ゲルマントのほうへ(I)」の後半と「同(II)」の前半が収められている。

  三冊(予定)に分かれたちょうどつなぎとなる巻で、内容的にも、女学校の同級生であったヴィルパリジ夫人((I)後半)と「私」の祖母((II)前半)の明暗が対照的に描かれ、対をなしている。

 

  この前後半に別れた二つのエピソードの間に、今後の最重要登場人物の一人であるシャルリュス男爵と「私」との初めての会話が挟まれ、話の流れを滑らかにしているとともに今後への重要な布石としているところなど、構成の妙が光るパートである。

 

  さて、父親の命で外交官ノルポワ氏(ヴィルパリジ夫人の元愛人)の動向を探るべくヴィルパリジ夫人のサロンに送り込まれた「私」は、上流階級サロンデビューを果たすが、そのオールスターズともいうべき貴族階級やブルジョアの人々に圧倒されてしまう。

 

  憧れのゲルマント公爵夫人オリアーヌとも念願かなって初めて同席するが、案の定ろくに口も聞けない始末。オリアーヌも「私」にはさほど興味をそそられず、その一方で「私」も彼女の発言の数々に空虚さを見出し、ガッカリしてしまう。初の対面にして早くも恋心が醒めていく様子の描写が妙に説得力があって、プルースト、うまいな、と思わせる。

 

  もちろん彼女だけでなく、サロンの誰もが政治や芸術に関する話に花を咲かせているものの、その中味は空虚にして虚妄。上流社交界とは知識や識見を開陳する場ではなく(そうするのはむしろ失礼な行為)、当たり障りのない会話のキャッチボールに興じるだけの場なのだ、ということを「私」は初デビューにして悟る。

 

  このサロンのパートで、本作品の最重要テーマの一つ 「スノビズム」 をプルーストは描き尽くす。ただしそのあまりの長さに、一般には冒頭につづく 第二の難所 とも言われているそうだ。しかし個人的には読んでいてそれほど退屈しなかったし、読解しにくいとも感じなかった。ここまで読んできたなら、この雰囲気を楽しまない手はないだろう、と思う。

 

  閑話休題、そんな場でKYなのが、私の幼なじみにして行動や性格に大いに問題がある新進劇作家のユダヤブロック。こともあろうに、お上品をよしとするこのサロンでドレフュス事件に関して本格的な論争をノルポワ氏に挑む。もちろん百戦錬磨の氏に軽くいなされ、オリアーヌからも顰蹙を買う始末。このあたり、彼を一種の道化役として描くプルーストの筆も滑らか、そしてその中にさりげなく自分のドレフュス事件に関する識見も入れているところが憎い。

 

  結局ノルポワ氏から父の学士院入りを支持しないときっぱり断言され、オリアーヌからもエルスチールの絵を観にいらっしゃいというお誘いも受けず、元高級娼婦にしてシャルリュスの愛人疑惑もあったスワン夫人が現れたことで場の雰囲気もまずくなり、例の女優の件で四面楚歌のサン・ルーの応援もできず、何の成果もなくヴィルパリジ夫人宅を去らねばならぬことになった「私」は帰り間際に謎の多い(のちにド変態と判明する)シャルリュス男爵に誘われて屋外で会話を交わす。

 

  このシャルリュスの長いセリフがもう韜晦に満ち満ちて一体何が言いたいんだ状態。その会話の最中「私」の腕に彼の腕を絡めてきたあたりから、ああやっぱりねホモ男爵さん、という雰囲気が漂ってくる。偶然同じサロンにいたアルジャンクールというベルギーの外交官に目撃されたので「私」はことなきを得るが、アルジャンクールからはその後かなりの間白眼視されてしまう。

 

  一方「私」がずっと疑問に思っていたこと、歴史のある名門貴族の家を名乗るヴィルパリジ侯爵夫人の謎について、シャルリュスは思わぬあけすけな真実を「私」にバラしてくれた。

  今や「回想録」まで執筆中の華やかさに包まれた上流サロンの主宰者の化けの皮を剥いでおいて、同じ女学校出身でも今や病床に伏している大好きな祖母にさりげなく話題を移す。あいも変わらずの切れ目のない修飾の多いあちこちへ話題が飛んでも平然と突き進んでいくプルーストの文章でだが、大きな話の流れは考え尽くしているのだな、と感心。

 

そしてそこから

 

プルースト、うまいな!

 

と思わせる場面転換ぶり。

 

家に帰るとすぐに、少し前にブロックとノルポワ氏の間で交わされた会話とついになるものを(中略)見いだした。それは、ドレフュス派である私たちの給仕長と反ドレフュス派のゲルマント家の給仕長の間の言い争いだった。

 

と、サロンの話題をうまく繋ぐとともに、その頃身分の高低を問わずこの事件が社会を二分していたことをうまく表現したかと思うと、さっと

 

私は家に上がって行った。祖母の具合がいっそう悪くなっていた。

 

と話題転換して祖母のパートへ入っていく。

 

  祖母の病は尿毒症で、おなじみの高名な医師コタールの診察や作家ベルゴットの友人でこれまた高名なデュ・ブルボン博士の対診もむなしく、気力も弱まり、徐々に衰弱していく。それでもブルボン博士の強い勧めで「私」と久しぶりにシャンゼリゼへ散歩に出かけるが、そこで余計に症状が悪化。それを見てとった「私」が家に帰るところで(I)は終わる。

 

祖母は悲しげにほほ笑みを浮かべ、私の手を握った。祖母は理解したのだ。私がすぐに察したことを隠す必要はないということを。そう、祖母はさっき軽い発作を起こしたのだった。

 

(II)に入り急速に祖母の容態は悪化していく。この章での「私」の観察眼は、その裏にある慟哭が透けて見えるほど凄絶で、この長い物語のここまでの白眉である。訳者の高遠氏の解説も自己の経験まで踏まえた出色の解説だが、ここは氏が引用しておられる井上究一郎氏(筑摩書房版訳者)の文章を記しておこう。

 

第一にとりあげるべきは、『ゲルマントのほう 二・一』のおわりにすえられている「祖母の病気、祖母の死の章」である。これは、作者によって最も真剣に、もっとも精根を傾けて書かれた文章であることは言うまでもない。そもそも作中人物としての祖母は、よく考えてみると、『失われた時を求めて』前半の根幹をなす最も重要な存在ではないか?  

 

 本章最後にプルーストは、祖母を病に苦しむ目を覆いたくなるような醜い物質世界の存在から、見事に至上の存在へと止揚してみせる。その天才の冴えを見せつける一文。

 

祖母から立ち去った生命は、同時に生への幻滅も持ち去っていった。祖母の唇の上にほほ笑みが一つ浮かんでいるかに見えた。死は中世の彫刻家さながら、この死の床に祖母を、うら若き乙女の姿で横たえたのである。

 

 

 

 

  冒頭述べたように光文社古典新釈文庫、高遠弘美氏の翻訳はここまで。氏の翻訳とその真摯な態度に敬意を表し、氏の解説中の一文をもって一旦このレビューを終わりたい。長のお付き合い、深謝。

 

ただいつの日かまた手に取る機会がないとは限らない以上、その日を気長に待てばいいのである。(中略)プルーストを読んだからといって人に吹聴する必要はさらさらないし、読めなかったからと言って、それを「挫折」と考えることもない。