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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 5 / マルセル・プルースト

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  フランス文学の傑作にして長大な「失われた時を求めて」も第三篇「ゲルマントのほうへ」に入る。第五巻はその「I」で、これまでもたびたび憧れの人として顔を見せていたゲルマント公爵夫人への恋心を主人公が募らせていく模様が語られる。

 

  なにせマルセル・プルーストをして「これまで出会った中で一番美しい女性」とまで言わしめたフォーブール・サン・ジェルマン(パリ一番の上流社会の社交場)の華グレーフュル伯爵夫人をモデルにしているだけあって、崇拝に近い熱烈な筆致でその思いが綴られていく。当時のフランスの有名な写真家、ナダールの撮影したグレーフュル伯爵夫人の写真を添えておく。

 

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グレーフュル伯爵夫人(ナダール撮影)

  さて、ノルマンディーの避暑地バルベックからパリへ戻った「私」だが、あいも変わらず病弱で文筆業にもまだ全然とりかかれておらず、無為な生活を送っている。変わったのは一家の住居で、病気がちな祖母のためゲルマント家の館の一角に引っ越している。

 

  狭いアパルトマンになったため、このシリーズの名物女中頭フランソワーズはぶつぶつ不平をこぼしているが、それでもゲルマント家がらみの情報はちゃんと把握しているあたり、プルーストも楽しみながら書いている感じがする。

  訳者の高遠氏も、「コンブレー」におけるメゼグリーズ(スワン家のほう)からゲルマントへの流れに対応するストーリーの転換点として、冒頭の

 

鳥たちの朝の囀りもフランソワーズにとってはなんともつまらぬものに思われた。

 

という一文を絶賛されていた。

 

  一方「私」も私で「コンブレー」において憧れ続けた、ヴィヴォンヌ川の向こうの城のような屋敷とは比べ物にならない質素な館にやや落胆を隠せない。とは言っても憧れ続けた公爵夫人と出会う機会が増えるのでワクワクもしている。

 

  なにしろ「私」はこのゲルマント公爵夫人を、コンブレーで子供時代に幻燈で観た、13世紀メロヴィング朝時代の神秘に包まれた先祖ジュヌビエーヴ・ブラバンと重ね合わせており、事実その由緒正しい家柄の公爵夫人はスワン氏曰く、

 

「 あれはフォーブール・サン・ジェルマンで最高の地位にある方なんです。第一級の名門ですよ。」

 

と、パリ社交界の最高位に君臨し、しかも美貌と着こなしのセンスの良さは群を抜いている。そのあたりを描き尽くした、オペラ座でのラ・ベルマの「フェードル」(ラシーヌ作)観劇シーンが前半のハイライト。オペラ座の観客席を海、従姉妹同士の大公妃と公爵夫人をゲルマント家の象徴である神聖な鳥のイメージで描くあたりは圧巻。

 

  まずはゲルマント大公妃を大いなる女神が下級神の振る舞いを遠くから支配するように 一階ボックス席(ベニョワール)の奥まった薄暗いブロックに配置し、その姿を

海に咲くある種の花にも似た、羽毛にも花冠にも譬えられる一輪の、鳥の翼さながらに和毛(にこげ)の生えた大きな白い花が、大公妃の額から頬に垂れ下がり、媚を含み、愛情に満ちて溌溂としたしなやかさで頬の曲線をつたうさまは、アルキュオネの心地よい巣が薔薇色の卵を包み込むかのように、頬を半ば隠してしまうかに見えた。

と、(美女を描かせては)天才的としか言いようがない筆致で華麗に描いておいて、そのあとに真打の公爵夫人を登場させる周到ぶり。

これだけ遅れてきて、芝居の上演中にみんなを立たせたことを如何にも申し訳なさそうに装って笑みを湛え、ふだんはみられない優しさを見せながら入ってきたのは、白いモスリンにそっくり身を包んだゲルマント公爵夫人だった。

(大公妃の華やかなヘアネットに比べて)公爵夫人は髪にただ一本の羽飾りを挿しただけで、それが鉤鼻と飛び出た目の上にかざされて、まるで鳥の冠羽のように見えた。うなじと両肩は雪のようなモスリンの波から外に現れ、その波の上に白鳥の羽根でできた扇がやってきては羽搏いた。

とさすがの大公妃も公爵夫人のセンスには敵わないことを鮮やかに描ききる。

 

  ましてやこの二人に比べると、「スワンの恋」に出てきた普通の上流階級のカンブルメール夫人などは

ゲルマント公爵夫人の装いとお洒落(シック)を真似ようとして我慢強くお金をかけて努力したのに、田舎の寄宿学校の女子生徒としか思えない

と、にべもなく切って捨てる。なにしろこの二人の装いは

その内面の活動が片や雪のように白く(公爵夫人)、片や多彩な色をまとって(大公妃)物質化されたもの

なのだから敵う筈もない。その公爵夫人が一観客に過ぎない「私」に親しい視線を送ってきたからさあ大変。

私には突然千倍も美しくなったかに見えた公爵夫人は、ボックス席の縁に置いた手を白手袋を嵌めたままこちらに向かって手を上げ、好意のしるしとして振った。(中略)一方、私の姿を認めた公爵夫人は、きらきらした天上的とも言うべきほほ笑みを驟雨の如く私に降り注いだのである。

 

  それだけのことで雷撃を受けたかの如く「私」はゲルマント公爵夫人の虜となってしまい、今までの憧れの対象でなく、“本気で愛して”しまう。それからというもの、何気ない風を装ってなんとか夫人と出会うため待ち伏せる毎日、公爵夫人も嫌がっているようであることも感じますが、やめられない。まるでストーカーである。

 

  こうなると、今までのジルベルト、アルベルチーヌ二人の恋人など、もう眼中にない。なにしろオペラ座におけるゲルマント夫人の思い出に比べれば二人のことは

燦然と輝く彗星の長い尾の傍らにある小さい星屑と同じで、ほとんど意味を持たなかった。

のだと。 何という心変わりの速さ! 第一篇、第二篇における長大で連綿とした恋煩いの独白は一体何だったんだか(笑。

 

  そしてますます卑怯なことに、公爵夫人との距離を縮めるために、アルベルチーヌとの出会いでほったらかしにしていたゲルマント家一族にして公爵夫人の甥サン・ルー(前巻参照)を利用すべく、わざわざ彼のいる軍隊駐屯地モンシエールまで出かけていく。そしてサン・ルーの「私」への熱い友情と信頼を利用して彼の叔母であるゲルマント夫人(オリアーヌという名前であることをサン・ルーに教えられる)との仲介を暗に頼んだり、彼の持つ叔母の写真を手に入れようと算段するあたり、姑息というか、卑怯というか。さすがのサン・ルーも「私」の邪な恋情を疑う始末。

 

  とは言え、このロンシエールでの約2週間はとても読み応えがある。サン・ルーの軍隊官舎、勧められたホテル、風の強いロンシエールの描写、夢のついての考察、レンブラントの絵のような夕刻の情景、サン・ルーや彼の友達たちとのドレフュス事件(サン・ルーの身分や立場であれば反ドレフュスであるべきところ、進歩派の彼はドレフュス側であることを隠さない)や戦術論についての討論等々。相変わらず話はあちらへ飛びこちらへ飛びはするのだが、その内容は過去になく充実しており、「私」も大人になりつつあるのだな、と感じさせる。。。邪な恋情以外は。。。

 

  さて「私」はサン・ルーの愛人との諍いについて相談に乗ってやるついでにゲルマント家収蔵のエルスチール(前巻で重要な役割を果たした高名な画家)の作品を見たいという名目でゲルマント夫人へ手紙を書いてもらう約束を取り付ける。あいかわず卑怯な、というか、セコイやつ。

 

  そしてサン・ルーの勧めでパリの祖母と長距離電話で話をした途端、矢も盾もなく里心がついてしまい、あっという間にパリへ戻ってしまう。

 

  ここでの、当時はまだ珍しかった電話とその交換手に関するギリシャ神話をも交えた勝手な想像が延々と続く様も笑えるが、一方で冥界のエリニュスダナイデスを引き合いにだすあたりは祖母の死を暗示しているのではないかとも思われる。事実、遠くで聞く祖母の声は

優しかったと同時に悲しい声

だったが、いざ帰ってこっそりと祖母を見てその衰えぶりに「私」は衝撃を受ける。

ソファーの上、ランプの光の下に、赤ら顔で鈍重な、品のない、病気を抱えた、夢でも見ているようで、一冊の本に少しだけ熱のこもった視線を注いでいる、疲れ切った老女、それも見知らぬ老女

  散々な書きようだが「土地の名・名」と「土地の名・土地」が違ったように、この作品においては主人公の想像の中の世界と現実の相違も大きなテーマであり、この病気がちな祖母の描写にもその一端が見て取れる。やはり祖母の死は遠くないようだ。このあたりを訳者の高遠氏が「『ジャン・サントゥイユ』から『失なわれた時を求めて』へ」という題名で詳細に解説されており、大変参考になる。

 

  ただ、本巻では祖母の登場はここまで。このあと、父の学士院の自由会員立候補に際して、その動向を左右する例の外交官ノルポワ氏の腹を探るべく、私はこれまた前巻で登場したゲルマント一族のヴィルパリジ夫人のところへ行くことになる。この辺りでもドレフュス事件のことが話題に上り、この作品で唯一「私」が旗色を明らかにしている場面がある(反ドレフュスである父親とは違う行動をしていると知って父が1週間口をきいてくれなかった)。

 

  しかし、話はまたまた寄り道をすることになる。その日の日中サン・ルーに請われて私は初めて彼が100万フランという莫大な金を注ぎ込んでいる女優の彼女に引き合わされ、昼食と彼女の出る舞台の観劇をする。本当に彼女が100万フランに値するのか?

 

  これに関してプルーストは実に巧妙な伏線を張っていた。サン・ルーの彼女は、第三巻「花咲く乙女たちのかげに I」でチラッと顔を出していたのだ。ネタバレは避けるが、彼女は

 

100万フランどころか、200フランの価値

 

しかないことを「私」は一目見て見抜いてしまう。何でも鑑定団みたいだが、ネタバレは避けておく。

 

  今回も随分長くなってしまったので、この後の展開の詳細は省略。サン・ルーの異常な嫉妬心と思わぬ暴力性を描いて本巻は終わり、ヴィルパリジ夫人訪問は次巻に持ち越される。

 

  最後に本当に100万フランの価値のある女優ラ・ベルマの演劇「フェードル」(ラシーヌ作)について。第三巻で主人公が始めて観た演劇がラ・ベルマ主演の「フェードル」だったのだが、意外にもこの時「私」はがっかりしてしまった。ところが今回オペラ座で観たラ・ベルマには感心してしまう。これはラ・ベルマが変わったのではなく、私の鑑賞眼がようやくラシーヌやラ・ベルマに追いついたのだ。このあたりの解釈の精緻さはさすがプルーストと思わせる。

  そのラ・ベルマのモデルと言われている、ベルエポックの名女優サラ・ベルナールの有名な肖像写真(これもまたナダールの撮影)を添付してレビュー終わりとする。 

 

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サラ・ベルナール(ナダール撮影)


 

 病気がちな祖母のため、ゲルマント家の館の一角に引っ越した語り手一家。新たな生活をはじめた「私」は、女主人であるゲルマント公爵夫人に憧れを募らせていく。サン・ルーとの友情や祖母への思いなど、濃密な人間関係が展開する第三篇「ゲルマントのほう」(一)を収録。