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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

失われた時を求めて 4 〜第二篇「花咲く乙女たちのかげに II」 / マルセル・プルースト

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  マルセル・プルースト畢生の大作「失われた時を求めて」、艱難辛苦しながらも読み進めていき、気がつけば早や第四巻。「花咲く乙女たちのかげに」も第二部「 土地の名・土地」に移る。「土地の名・名」が「私」の空想でしかなかったのに対応し、ついに現実に避暑地での「花咲く乙女たち」とのリアルの交流が始まり、ダメ坊やの煩悩も全開となり、これまでになかった華やかさを持つ章である。

 

   まず先に言っておきたいのが、今回の訳者解説の充実ぶり。特に冒頭の「花咲く乙女たちのかげに」という題名に関する考察が素晴らしい。それと最後に「場面索引」を記していただいたのも、切れ目なく続くこの作品を頭の中で整理するのに役に立つ。

 

 前巻から2年後、「私」は避暑地バルベックで夏を過ごすことになる。個性的な人びととの交流、そして美しい少女たちとの出会い。光あふれるノルマンディの海辺で、「私」の恋は移ろう……。全篇の中でも、ひときわ華やかな印象を与える第二篇第二部「土地の名・土地」を収録。(AMAZON解説)

 

  さてこのダメ坊やこと「私」、関西風に言えば「ええしのボンボン」、大臣官房長の息子で過保護で病弱どこへも旅行させてもらえずと、超過保護で育ってきたが、前巻から2年後、成人も近づき、いよいよ親元を離れて「コンブレー」や「土地の名・名」で度々出てきた、憧れのノルマンディーの避暑地バルベックへ出かけることとなる。

 

  とは言え、出立するまでがまた一騒動。泣く泣く母が「子離れ」し、とは言ってもしっかり祖母と名物女中フランソワーズのお供お付き。これだけ大切にされているにも関わらず、この甘やかされっぱなしで病弱で自尊心だけは誰よりも強く陰にこもりやすいええしのボンボン(この辺「しゃばけ」の若だんなと似ていても性格は正反対な)「私」はなんだかんだ不満たらたらで出立し、バルベック一のバルベック・グランドホテルへ到着するなり高級ホテルの一室で早速気分も体調もどん底となるダメっぷり。

 

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訳者高遠氏撮影のカルベック・グランドホテルのモデルとなったホテル

 

  ここまでくると、難解な文章で衒学的に御託を並べられても苦笑するしかない。その自虐ぶりにそこはかとないユーモアまで感じられるのだから不思議なものである。もう立派にプルースト中読と言えるかもしれない。ちなみにトリヴィアであるが、祖母の世代の教養として重要なのが十七世紀に書かれたセヴィニェ夫人の娘に宛てた書簡集であることが繰り返し語られている。

 

  さて、立ち直って早速「花咲く乙女たち」との交流が始まるかと言えばさにあらず。バルベックの綿密な描写と、「ゲルマント家」に連なる三人がこのバルベックへやってきての交流が延々と懇切丁寧に描かれ、今後の展開への重要な布石となる。

 

まずは祖母の学友で真の貴族階級のヴィルパリジ夫人シャトーブリアンバルザックヴィクトル・ユーゴーと言った私の憧れの作家も彼女にあってはかたなし。彼女の館に招かれる客人の中では野卑な方に属する彼ら実態を知っていて笑い飛ばす。このあたりの作家論にはプルーストの趣味が伺えて面白い。

 

夫人の甥(の甥?)好男子で貴族階級なのに貴族を嫌う進歩人、ロベルト・ド・サン・ルー(通称サン・ルー)。婚約しているが、周囲は否定的。この辺りが次巻以降の展開に影響していく。

 

そして夫人の甥、サン・ルーの叔父で、幼い私がコンブレーのスワン家の別荘で見かけた、オデットの愛人疑惑のある謎の男シャルリュス男爵。ゲルマント男爵等いくつもの名前を持ち、「私」の祖母は魅了されてしまう。

 

 ちなみにこの三人、第一印象はよくないのだがつきあってみるとあっという間に好印象に変わってしまう。このあたり、「私」の性格にかなり責任がありそうである。この巻では一旦出番が終わってしまうと遠景に退出し脇役扱いになるが、今後重要なゲルマント家に連なる人々であるのでしっかり押さえておく必要あり。文章としては退屈な部分が多いが、芸術的な蘊蓄、例の問題児の友人ユダヤブロックとの絡みもあり焦らずにじっくり読んでおこう。

 

  さてさて、この三人に入れ込んでいた「私」だが、堤防でついに

 

一人一人は全く違うタイプなのに、

 

みんながそれぞれに美貌の持ち主だった

 

「花咲く乙女たち」数人の集団を見かけた途端、そんなことはどうでもよくなる。自尊心から自分からは声をかけられないのだが、ひたすら毎日彼女たちが現れないかと待ちわびる日々となる。

 

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ニナ・コンパネーズ監督映画「失われた時を求めて」(2011)DVDの表紙(解説より)

 

  そんな「私」が一番気になるのがアルベルチール・シモネ

目深にかぶった黒い「ポロ帽」下からきらきらした明るい目と艶のないふっくらとした頬を覗かせ腰をぎこちなく揺らしながら自転車を押していく

 褐色の肌の少女で、初めてみた時から「私」の所有欲がむくむくと湧き上がる。後で判明したところでは、少女たちの中では貧しい境遇(といっても下層階級ではないし、シモネのスペルはnが一つ)なのだが、例のパリのサロンに出てきたボンタン夫人と縁戚である。

 

    そしてこの少女との出会いのきっかけを作ってくれたのは「スワンの友人で、すこぶる著名な、優れた芸術家」であるエルスチール。祖母の勧めで彼のアトリエを訪れた「私」に多大な影響を与えることになる、彼の優れた画業と芸術論が、少女たちとの交流を前にしてこの巻の一つの読みどころとなっている。

  そしてそれを受け止める「私」の理解力、感受性も中々のもので、ある見たこともない女性の肖像画に強いインスピレーションを受け、そのモデルが若き日のオデット(スワン夫人)であること、彼女との接点までも瞬時に見破ってしまうところは、この辺りでのハイライトシーン。

 

  閑話休題、彼がアルベルチーヌをはじめとした「花咲く乙女たち」と知り合いであることを知り「私」は驚く。そしてセコいことに紹介はしてほしいが自分が焦っていることは知られたくなく、何気ない風を装いたいという、なんとも自己中な持って行き方をエルスチールに強いることになる。

  エルスチールは知ってか知らずか、それにつきあいアルベルチーヌを紹介。それをきっかけにこの奥手坊やと思われた「私」は、大柄で美しく聡明だが病弱なアンドレ、「私」がすぐ目移りしたが資格取得試験のためすぐに家庭教師とパリに行ってしまうジゼル、仲間の一人ロズモンドと、主だった「花咲く乙女たち」と次々に仲良くなる。

 

  農園や崖の上での毎日の遊びに「私」は我を忘れて夢中になる。偉そうなことは言っているが、傍目から見れば完全に「うつつを抜かす」状態である。病弱で外出も一苦労だった私が変われば変わるものである。

 

・・・・・私の想像力を強く刺激するアルベルチーヌやロズモンドやアンドレの顔が目の前にあった草むらで、ひとかたまりのものとして捉えられた少女たちのグループ全体だったからである。そして、誰がそれらの場所をかくも貴重なものに変え、誰を私は一番愛したいと思っていたのか、それを言うことは私にはできなかった。

 

  少女の誰にも色目を使うラテンの血満開状態だが、本命はやはりアルベルチーヌ。「私」の性格からして、当然ながら正攻法ではなく、「あまりに知的で、神経質過ぎ、あまりに病弱で、わたしと似過ぎているアンドレに気があるように見せかけてのアルベルチーヌ一本である。

  アルベルチーヌも憎からず思ってはいるが、ホテルの一室でキスをしようとする「私」を大声をあげて拒否したりして、彼女の思惑もちょっと謎であるが、それに慌てふためき様々に自分勝手な思いを巡らす「私」も「私」である。また、姑息にボンタン夫人と近づこうとする手練手管も見え透いていて周囲にバカにされる始末。

 

  このあたり、頭でっかち妄想坊やにつきあうのには難儀するが、エルスチールのアトリエ以降の少女たちとの交流、崖や海の風景等具象を取り入れた色彩豊かな美しい文章も多く、意外に楽しく読み進められる。

 

だが、時には農園には行かずに、断崖の上まで登って、頂上につくと草の上に腰を下ろしてサンドイッチやケーキの包みを開いた。

 

少女たちの間で寝転がっているときに私が感じる充実感は交わす言葉の貧しさや少なさをはるかに圧倒し、じっとして黙っていても幸福の波となってあふれ出して、薔薇色の少女たちの足もとにひたひたと寄せては消えて行った。

 

そのように、絶えることのない豊潤な驚きは、何かを発見した時だけでなく無意識的記憶(レミニッサンス)によっても生まれ、美しい海辺の少女たちとの日々の出会いをいっそう私の心身に優しく穏やかなものとした。

 

そして、プルーストの観察眼、洞察力が最大に発揮された、訳者も絶賛されているアルベルチーヌの多面性を描いた文章が目を引く。

 

 私は、のちにアルベルチーヌのことを考えることになるさまざまな私の一人一人に異なった名前を与えるべきかもしれない。だが、それよりも私が異なる名前をつけなくてはいけなかったと思われるのは、私の前に現れるときに同じであったためしがないアルベルチーヌ、あたかも ー 今私は便宜上ただ海と呼んでおくのだが ー 次々に姿を変える海のようなアルベルチーヌの一人一人にであり、アルベルチーヌはそうした海を背景にして浮き出るような一人のニンフであった。

 

  そして悪天候の季節が到来し、バルベック滞在もあとわずかとなった頃、アルベルチーヌが突然出立し、ホテルの客も去っていく。美しい光の季節のバルベックでの「花咲く少女たち」との一夏の思い出を胸に「私」はまだベッドに横になっている。もうすぐ「コンブレー」や「土地の名・名」で空想で憧れていた、荒波逆巻く霧で覆われた陰鬱な季節がやってくるが、もう「私」はそんな季節には興味をなくしている。

 

  フランソワーズが私の部屋のカーテンを開ける。そして夏の終わりを告げるこの文章で「土地の名・土地」は終わりを告げる。

 

フランソワーズがアンポストに刺したピンを外し、布を取り、カーテンを引いて暴き出した夏の太陽は、私たちの年老いた女中が巻かれた繃帯をただひたすら注意深く解きほぐし、金の衣に包まれて薫り高く防腐処理を施された体をあらわにしてゆく、千年の時を刻む壮麗な木乃伊のように、すでに息絶えた太古のものに思われた。