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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

模倣犯 / 宮部みゆき

⭐︎⭐︎⭐︎⭐️

  宮部みゆきの本領、社会派ミステリーの傑作「理由」に続く超大作「模倣犯」である。読んでもいないし、映画も見ていないがそんな私でも大体どうい内容かは知っているほどの有名作品。こういうタイプの犯人は怖気が振るうほど大嫌いなので読んでいなかったがついに挑んでみることにした。

  読むのに辛い物語だったし、医学的記述の面で読者に誤解を与えたという点は許容しがたいがそれをあらかじめ分かった上でなら、この文庫本で5巻ある長大な小説は読む価値が十二分にある。宮部みゆき渾身の力作である。

 

文庫版第一巻:

墨田区・大川公園で若い女性の右腕とハンドバッグが発見された。やがてバッグの持主は、三ヵ月前に失踪した古川鞠子と判明するが、「犯人」は「右腕は鞠子のものじゃない」という電話をテレビ局にかけたうえ、鞠子の祖父・有馬義男にも接触をはかった。ほどなく鞠子は白骨死体となって見つかった――。未曾有の連続誘拐殺人事件を重層的に描いた現代ミステリの金字塔、いよいよ開幕! (1)(AMAZON解説より)

 

  快調な出だしである。見えぬ犯人、被害者家族、警察、ルポライターを中心に同心円を描くようにその周囲、過去に関わる人物まで、多くの登場人物を手際よくさばいていく宮部の手腕は健在、というか絶頂期なのではないかと思わせる。長大な構想なので焦らずじっくりと筆を進めているのも好ましい。

 

  一点瑕疵を挙げるとすれば、私の専門分野である医学的記述にがっかり

  ある女性がショックのあまり精神に異常をきたし道路に飛び出しトラックにはねられる。倒れて意識がなく耳から血を流している。脳外科の基本中の基本的知識として明らかに頭蓋底骨折を起している。にもかかわらず「強度の脳震盪」だけとは笑ってしまう。おまけに「脳波は正常だが意識がない」。どういう意味なんだかこちらが教えてほしい。大体電気ノイズだらけのICUで微弱な電気活動である脳波のモニターはほとんど不可能で普通はやらない。CTがすぐ撮れる時代にわざわざ脳波をモニターする意味は殆どない。あるとすれば脳死判定の時だけだ。

 

  実はここだけではない。あとがきで某精神科医に謝辞を呈しているが、その精神疾患の記述も含めて、全巻に渡って宮部みゆきの医学的考証は甘いし明らかな間違いもある。あちこちに書き散らすのも無礼なのでここで一点だけ致命的だと思うところを書いておく。主要登場人物である高井和明の目の病気(病名は書いていない)について、第四巻にこういう記述がある。

 

要するにこの視覚障害は、目の機能ではなく脳の問題なのだ。左目がまったく”ものを認識していない”状態であるということは、イコール左目を司る右脳の機能の一部が休んでいるわけだ。(文庫版第四巻P192)

 

  神経解剖のイロハのイの時点で間違っている。医学生向けの簡単な解剖学の本さえ読んでいないのではないか?でなければこんな頓珍漢な文章は書けるはずがない。左目の網膜から出た視神経は視交叉と言う場所で半分ずつ左右の脳に別れて脳内を走行し後頭葉の視覚中枢に終わる。右目も同様。よってたとえもし左目が全盲であっても両側脳とも右目からの情報は受け取っている。

  主要登場人物の高井和明がこの病気であることを本人も周囲の者もまったく気づかず幼少期を過ごしたため、愚鈍な人間とみなされそれが人格形成や犯人を含む友人関係に影響したという設定となっている。その根本のところでこんな記述をしていては物語の土台が脆弱だと言わざるを得ない。

 

  この件についてはさらに許しがたいおまけがついていた。宮部みゆきは文庫版あとがきにこう記している。

 

  二〇〇一年に単行本を上梓した当時、少なからぬ読者の皆様から、登場人物の一人「高井和明」の視覚障害についてお尋ねを頂きました。ご自身が、あるいは身近な方が同じ症状に悩んでいるので、もっと詳しいことを教えてほしいという内容のものでした。

  本書はフィクションであり、高井和明の患っている視覚障害の症状も、そのフィクションの内にあります。どうぞ、作中の描写を、現実の切実な健康問題の自己診断基準にされることのございませんよう、お願いいたします。

 

 

  SFやファンタジーならまだしも、これだけリアルな社会派ミステリーで書けば、医学の専門家でなければ容易に信じてしまうだろう。何を今さら、という時期にこんなことを書くのは許しがたい。どうせ書くなら遅くとも初版出版時だろう。

 

  宮部みゆきがこういう点でこれほど自分に甘いとは思わなかった。その点、高村薫女史は基本的な医学的記述のところで決して手を抜かない。専門家がその分野の文章を読んでおかしいと思われてしまえば、それは全体の信用性が失われる、という事を熟知されているからこその完全主義なのだ。

 

   一方で宮部みゆきの場合それを補っているのが、なめらかで破綻をきたさない語り口。高村女史の孤高で峻厳、時には読者をも突き放すような厳しい語り口とは対照的で、そりゃどちらが人気が出るのかは言うまでもない。それだけにこういうことに関してはより慎重になってほしかった。

 

  まあこの件はこれくらいにしておこう。さて物語は電話の向こうから被害者家族を散々いたぶり、マスコミを翻弄する犯人が実は複数犯ではないかという疑問が芽生え始めた頃、あまりにも突然に若い男性二人が交通事故死する。トランクには男の死体があった。この二人が今回の犯人だと推定して第一巻は終わる。

 

文庫版第二巻: 

鞠子の遺体が発見されたのは、「犯人」がHBSテレビに通報したからだった。自らの犯行を誇るような異常な手口に、日本国中は騒然とする。墨東署では合同特捜本部を設置し、前科者リストを洗っていた。一方、ルポライターの前畑滋子は、右腕の第一発見者であり、家族を惨殺された過去を負う高校生・塚田真一を追い掛けはじめた――。事件は周囲の者たちを巻込みながら暗転していく。(2)

 

  五巻の中では比較的短いが、読むのが嫌になるほど鬱陶しい巻である。第一巻で描かれた悪意に溢れる劇場型犯罪を、いよいよ「真」犯人である二人の男、ピース栗橋浩美(ヒロミ)の側から描き始める。この犯罪を始めたあまりにも身勝手で恐ろしい動機、目を覆いたくなる言動の数々。

  二人の性根が腐っているのは第一巻で想像がつくが、その人格形成過程が延々と語るのであるから、こういうのが苦手の私には読むのが辛い。特に町の薬屋の息子、栗橋浩美(ヒロミ)についてはその生い立ち、犯罪の切っ掛けとなる強迫観念を含め詳細に語られる。その同級生でパシリに使う上述した蕎麦屋の息子の高井和明(カズ)の家族についても語られる。第一巻の最後で死んだ二人がピースとヒロミではなく、このカズとヒロミであることもつらい。

  そしてこの劇場型犯罪をマスコミを通して見ている我々一般人の心理も遠慮なくえぐり出す。

  なおかつ、この一巻ではまだ二人が事故死するところまでいかない。

  ノンフィクションなら読む価値もあるし読まねばならないのだろうが、フィクションでまで読みたくはない。まあ、そいう人間をつくる宮部の精神的負担も理解できるし実力は認めざるを得ないが。

 

文庫版第三巻: 

 

群馬県の山道から練馬ナンバーの車が転落炎上。二人の若い男が死亡し、トランクから変死体が見つかった。死亡したのは、栗橋浩美と高井和明。二人は幼なじみだった。この若者たちが真犯人なのか、全国の注目が集まった。家宅捜索の結果、栗橋の部屋から右腕の欠けた遺骨が発見され、臨時ニュースは「容疑者判明」を伝えた――。だが、本当に「犯人」はこの二人で、事件は終結したのだろうか? (3)

 

  第三巻に入り、冒頭では視点が犯人側から一旦離れる。ヒロミのパシリ、蕎麦屋高井和明の一家、特に妹由美子の視点で事件は再び語られ始める。由美子は不審なカズを追いかけて見失い、第一巻で出てきたある少女と知り合う。この少女、大変な問題児なのだが、とりあえずは二人は別れ章を閉じる。おそらく次巻以降の伏線になるのだろう。

  それ以後は再びピースヒロミの犯罪の続きが描かれるが実は20人以上の女性を既に殺害していたことが判明する。そのやり方も「純粋な悪」そのもの。そして、第一巻の最後の交通事故の悲劇へ向かって後半は一気に物語が加速する。ヒロミを更生させたい一心のタカが如何にして巻き込まれヒロミと一緒に死んだのかが描かれる。無惨、の一言である。そしてタカを殺人犯に仕立てるプランに少し綻びが出てきていたことに焦っていたピースは、おそらくこれを奇貨として次巻以降では更に悪辣なことをやってのけるのだろう。

 

文庫版第四・五巻: 

  あと二巻は読んでのお楽しみという事にしておく。どうしてもある程度の内容を知りたい方は、下記AMAZON紹介を参考にされたい。

 

  とにかく圧倒的な構成力で怒涛の展開に持ち込む作者の力量には感服するほかない。犯人と目され死んでしまったカズの無実を訴え世間から白眼視される妹由美子ホワイトナイトとして再び姿を現すピースこと網川浩一を中心として、それまで登場させた様々な立場の登場人物を誰一人として捨て駒にすることなく有機的に関連付けて物語を構築していく様は圧巻。

  そして読者が何故ピースが題名の「模倣犯」なのか理解できずに進んでいく中、最終局面でそれを明らかにするシーンも印象的。この時代、まだネットではなくテレビという媒体がメインであったのだな、と言う若干の時代の違いを感じさせるところはあるし、網川のボロの出し方もこれまでのストーリー展開に比すると甘すぎるんじゃないかとも思う。

  それでもこの長大な物語を読み、人間とは、家族とは、大衆とは、そしてなぜ人は犯罪を犯すのか、を学ぶ価値はある。読むのに辛い物語ではあるが、医学的な瑕疵を除けば宮部みゆきの代表作という評価は十分首肯できるものであった。

 

特捜本部は栗橋・高井を犯人と認める記者会見を開き、前畑滋子は事件のルポを雑誌に連載しはじめた。今や最大の焦点は、二人が女性たちを拉致監禁し殺害したアジトの発見にあった。そんな折、高井の妹・由美子は滋子に会って、「兄さんは無実です」と訴えた。さらに、二人の同級生・網川浩一がマスコミに登場、由美子の後見人として注目を集めた――。終結したはずの事件が、再び動き出す。 (4)

 

真犯人Xは生きている――。網川は、高井は栗橋の共犯者ではなく、むしろ巻き込まれた被害者だと主張して、「栗橋主犯・高井従犯」説に拠る滋子に反論し、一躍マスコミの寵児となった。由美子はそんな網川に精神的に依存し、兄の無実を信じ共闘していたが、その希望が潰えた時、身を投げた――。真犯人は一体誰なのか? あらゆる邪悪な欲望を映し出した犯罪劇、深い余韻を残して遂に閉幕! (5)