Count No Count

続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

Tender Is the Night / F. Scott Fitzgerald

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Already with thee! tender is the night,

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 But here there is no light,
  Save what from heaven is with the breezes blown
   Through verdurous glooms and winding mossy ways.
(Ode to a Nightingale by John Keats)

 

すでにして汝(なれ)と共に!夜はやさし

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  されどここには光なし、
 ただあるものは空の偏り木の下闇をくぐりぬけ
  うねりまがりて苔むす道に吹き通う
   そよ風の伴い生きたるもののみ。
  「夜鶯に寄する詩」 (谷口陸男訳 上巻 p8)

 


  このところ、読書スランプで本を読む気が起きないという状況なのですが、そんな時は何度も読み返している作品をぼっと流し読みしながら回復を待つことにしています。それは例えば漱石であったり太宰であったりオースターであったり、そしてこのフィッツジェラルドであったり。というわけでこの一月ほどはずっとこの「Tender is The Night」を流し読みしていました。

 

  この作品はスコット・フィッツジェラルドがもう落ち目となり全盛期の浪費で経済的に困窮、おまけに妻ゼルダの精神病院入院費も稼がねばならずといった状況で起死回生をかけて書き上げた作品です。


  キーツの詩の一節から題名を取るあたり、本人としては相当の自負と自信があり、ゼルダも絶賛したのですが、残念ながらもう時代遅れの作家のレッテルを貼られていた彼に追い風は吹きませんでした。

  そこでやけにならないのがスコットの自分の作品に対して誠実なところでもあり、わかっていないところでもあったのですが、彼はこの小説の構成が読者には分かりにくかったのだと考え、再構成にかかります。残念ながらその途中で彼は急死してしまい、代わりに文芸評論家マルカム・カウリーがスコットの遺した指示に従って編集したものがいわゆる「カウリー版」として流布することになります。ちなみにオリジナル版が三部構成であるのに対して、カウリー版は五部構成となり、時系列を整理したのが特徴です。

 

  この辺りの経緯は村上春樹氏の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」に詳しく書かれているのですが、氏もこの作品がベタなメロドラマだと認めた上で「不思議な徳がある」作品だと評しておられたと記憶しています。

  確かに「The Great Gatzby」のような完璧な構成でもないし、鳥肌が立つような修辞を尽くした終文でフィニッシュを決めるわけでもない。構成がオリジナル版からカウリー版になったからといって特段良くなったわけでもない。それでもやっぱり何度も読み返したくなる、不思議といえば不思議な小説です。スコットとゼルダ二人の盛衰という悲しいバックグラウンドを知っているから故のことかもしれませんが、確かに「不思議な徳がある」小説です。

 

  とにもかくにも稀代の美文家であったフィッツジェラルドの文章はさすがの一言、逆にいえばかなり長い原文を読み通すことは結構骨です。そこで私が困ったのは、今述べた二つの版の存在。私が昔買ったWordsworth Classicsのペイパーバックはオリジナル版、そして唯一の邦訳、もう絶版になっていますが谷口陸夫先生訳の角川文庫版はカウリー版なのです。

 

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私の持っているペイパーバックの表紙

  そこで今回はオリジナル版の三部構成の冒頭を紹介しつつ、私見を述べたいと思います。

 

Part I Chapter I

On the pleasant shore of the French Riviera, about half-way between Marseilles and the Italian border, stands a large, proud, rose-colored hotel. Deferential palms cool its flushed facade, and before it stretches a short dazzling beach......

フランス領リヴィエラの海岸で、ほぼマルセイユとイタリア国境の中間に、堂々たるばら色の大ホテルがある。きらきら輝くその正面には棕梠の木立がうやうやしくかしずき、ホテルの前にはせまくてまばゆい浜辺が広がっている。(第二部 ローズマリーの視角 一九一九年−一九二五年 第二章 上巻p95)

 


  オリジナル版では真夏の陽光が眩しく降り注ぐ南仏リヴィエラを舞台として幕を開けます。私はこの明るい幕開けの方が断然好きですね。それがカウリー版になると、時系列に沿うため、第二部第二章という目立たない場所に収納されるため、この文章のインパクトが随分損なわれている印象を受けます。

 

one June morning in 1925 a victoria brought a woman and her daughter down to Gausse's Hotel......

一九二五年七月のその朝、一台の四輪車が一人の夫人とその娘をガウス・ホテルに運んで行った。(同p96)

 

However, one 's eyes moved quickly to her daughter, who had magic in her pink palms and her cheeks lit to a lovely flame, like the thrilling flush of children after their cold bath in the evening. Her fine high forehead sloped gently up to where her hair, bordering it like an armorial shield, burst into lovelocks and waves and curlicues of ash blonde and gold. Her eyes were bright, big, clear, wet, and shining, the color of her cheeks was real, breaking close to the surface from strong young pump of her heart. Her body hovered delicately on the last edge of childhood - she was almost eighteen, nearly complete, but the deep was still on her.

(夫人の色香の失せた顔を描写したあと)とはいえ、見る人の眼はたちまちその娘にとび移ってしまう、彼女のピンク色に見えるてのひらと両頬は、不思議な美しさをもっていて、まるで夕方の冷水浴をすませた子供の紅潮した肌みたいに、かわいいほのおを燃やしている。その美しくて広い額が品のいいスロープを描いて上がりきったところに、紋章のようにくっきりと、うす色の金髪があり、それが突如としてウェーブとなり、カールとなりラヴロック(つくった巻毛)をつくっている。眼は明るく、大きく、澄みきって、ぬれ輝いているし、頬の色はいきいきとして、彼女の若々しい心臓の鼓動がじかにあふれ出たように見えた。彼女のからだは子供が大人になりきろうとするところで、ほとんど大人ではあったが、子供らしさもまだ消え去ってはいない。(同p96-7)

 

  そして、そのリヴィエラにやってきた若手女優の Rosemaryローズマリー)の紹介文が続きます。フィッツジェラルドとしては自信たっぷり思い入れたっぷりなのが笑えるくらいよくわかる長文ですが、もうそれが小説としては時代遅れになっていることを世間の反応で思い知らされることになる。。。ちょっと痛々しい気もします。


  しかしその煌めくような原文は見事なもので、この心地よいリズム感は邦訳が極めて困難で、さすがの谷口氏をもってしてももったりとした文章にならざるを得なかったことがこの引用文でわかっていただけるかと思います。

 

  さて、このローズマリーがこの地でディックとニコル夫妻と知り合い、華やかな雰囲気のなか交流を深める間に美男の精神科医ディックにローズマリーは惹かれていきます。一方、美しく神秘的な妻ニコルの驚愕の秘密を第一部の最後にローズマリーは知ることとなります。
  これがカウリー版だと、それまでにニコルの病気とディックとの結婚の経緯などがわかってしまっているので、ストーリー展開が分かりやすい分、ミステリー 的な要素が損なわれています。私としてはミステリアスな雰囲気を持つオリジナル版第一部を推します。


Part II Chapter I

In the spring of 1917, when Doctor Richard Diver first arrived in Zurich, he was twenty-six years old, a fine age for a man, indeed the very acme of bachelorhood. Even in war-days, it was a fine age for Dick, who was already too valuable, too much of a capital investment to be shot off in gun.

一九一七年の春、ドクター・リチャード・ダイヴァーは初めてチューリッヒにあらわれた、ときに年二六歳、男として申し分のない年齢であり、まさしく独身時代の最盛期にあたる。戦時下ではあったが、ディック(リチャード)にとっては申し分のない年齢にかわりはなかった。すでに彼の体には莫大な投資がおこなわれ、値打ちがつきすぎて、銃丸の的にはむかなくなっていたからだ。(第一部 診断資料 一九一七年−一九一九年 第一章 冒頭 上巻p8)

 

Switzerland was an island, washed on one side by the waves of thunder around Gorizia and on another by the cataracts along the Somme and the Aisne.

そのころスイスは孤島のごとき存在で、一方の岸にはゴリーツィア争奪戦の怒涛がうちよせ、反対側はソンム河とアンヌ河のこう水にさらされていた。(同 p8-9)

 


  オリジナル版では真夏のリヴィエラから一転して第一次大戦後のスイスに舞台を移すこととなります。この暖色から寒色への舞台転換は見事だと思うのですが、カウリー版ではこの文章から始まることで時系列に沿って起承転結を整理しています。


  この章で美男頭脳明晰な完璧な男性として登場するディック・ダイヴァーが、同僚医師がさじを投げた精神疾患患者である美貌の富豪の娘ニコルを立ち直らせ恋仲となる、この作品中でもハイライトとなる美しく切ないパートで、ここを先に持ってきたスコットの意図は十分うなづけるところではあります。

 

  カウリー版での第一部の最後、この禁断の恋の果てにディックが彼女と生涯を共にする決心をする場面はこの小説の一つのハイライトです。

 

They made no love that day, but he felt her outside the sad door on the Zurichsee and she turned and looked at him he knew her problem was one they had together for good now. (Part II Chapter IX p138)

その日二人は愛を語ることはなかったが、チューリッヒ湖畔の物悲しい戸口の外に彼女をおろし、相手が振り向いて彼をじっと見たとき、この人の問題は二人が永久にいっしょにになうべき問題なのだと彼はさとった。(上巻 p89)

 


  'for good'という熟語の例文にしたいほどのいい文章です。

 

Part III Chapter I

Frau Kaethe Gregrovious overtook her husband on the path of their villa. 'How was Nicole?' she asked mildly; but she spoke out of breath, giving away the fact that she had held the question in her mind during her run.
Frantz looked at her in surprise.
'Nicole is not sick. What makes you ask, dearest one?'
'You see her so much. - I thought she must be sick.'
'We will talk of this in the house.'

ケーテ・グレゴロヴィウス夫人は自宅の小路で夫に追いついた。
「ニコルの容態はどうでしたの?」その聞き方は控え目だったが、息をきらせながらしゃべっているところを見ると、走っているときからその質問を胸にもっていたことがわかった。
フランツはびっくりして彼女を見つめた。
「ニコルは病気じゃないよ。どういうわけでそんなことをきくんだい、君は?」
「あなたがしょっ中かかりっきりでしょーだから病気にちがいないと思ったの」
「そのことは家に入ってから話そうよ」
(第五部 帰郷 一九二九年 ー 一九三〇年 第一章 下巻p120)

 
  オリジナル盤では第三部冒頭、カウリー版では第五部途中となる文章です。イタリアで酒と女で不始末をしでかし帰れないディックの代わりにニコルの面倒を見ているのが、同僚医師のフランツです。


  転落していくディック・ダイバー、対照的に精神疾患から離脱していくニコル、二人が対照的に描かれていきます。二人は結局離れ離れになり、ニコルはトミーという男性と結婚します。それでも彼女はディックと連絡を取りあい、渡米したディックのその後が簡潔に報告されて物語は終わります。

 

  ギャッツビーのような悲劇的な最後に終わらないことで、ギリギリ安直なメロドラマに堕していない。そこがスコット・フィツジェラルドの最後の矜恃であったのでしょう。

 

When she said, as she often did, 'I loved Dick and I'll never forget him,' Tommy answered 'Of course not - why should you?'

 

  

  以上、第一世界大戦後の欧州を舞台とした’Tender'で悲しくも美しいフィツジェラルド渾身の長編小説で、個人的には原書をオリジナル版で読まれることをお勧めしますが、谷口先生の平仮名を多用した分かりやすい訳も秀逸です。図書館やオークションなどで手に入ると思いますので是非ご一読ください。

  オリジナル版とカウリー版の比較、原文と邦訳の比較をしながらの紹介でまた随分長くなってしまいました。お付き合いありがとうございました。

 

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角川文庫 谷口訳 上下二巻