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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

EXHALATION / Ted Chiang

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  「The Story of Your Life(あなたの人生の物語」でアメリカSF界を席巻したTed Chiang(テッド・チャン)待望の新刊「EXHALATION息吹)」である。彼の作品はハイレベルのハードSFであり、訳なしで読むのは相当難しいと前作で感じたので、今回は邦訳「息吹」が昨年末に刊行されたのを機会に原書と邦訳双方を突き合わせつつ読んでみた。
  訳は大森望氏、以前レビューしたSF700にてタイトル作「息吹」を訳されていた方である。

 

  それにしても処女短編集以来17年ぶりの新作(それもまた短編集)とは、大森氏も言っておられるが「寡作にもほどがある」。しかしその内容たるや、「感嘆」の一言。これだけ様々なSF的なガジェットを使いこなしてかつ、常に人の「心」や「人生」について深い思索を忘れない。優れたSF作家である。

 

  ただ、私のような凡人にはこの凄さが分かるのにはすごく時間がかかるし、読むのに相当疲れる。大抵の場合、彼は平易な語り口で語り始めるが、それでいて一体何が言いたいのか、どういう物語なのかよく分からないままにしばらく話が進んでいく。しかも文体は平凡でこれといった語り口の特徴もない。これに耐えてはじめて彼の壮大な思考実験に付き合っていることが分かって驚く仕組みになっている。

  だから短篇ばかりなので楽勝、挫折しないと思ったら大間違い、おそらく邦訳を読むだけでもかなりの根気がいる作品集である。特に「The Lifecycle of Software Objects」と「Anxiety Is The Dizziness of Freedom」の科学的解説の部分は難物。各作品にSF英語難易度を記しておいたが、星四つ以上の作品は、大森氏の訳を参照しないとお手上げ状態であったことをお断りした上で、各作品の寸評に移る。

 

The Merchant and the Alchemist's Gate商人と錬金術師の門)

ヒューゴー賞ネビュラ賞星雲賞受賞

SF英語難易度(以下難易度と略す):☆☆

  アラビアンナイトの世界と理論的にありうるタイムトラベルを融合させた佳作で、冒頭に持ってくるには絶好の比較的トラディショナルなSFでかつ読み易い作品。英語もそれほど難しくない。なぜアラビアンナイト風にしたか、著者自身の解説によると、

過去は変えることができないということがかならずしも悲しみに直結しないようなタイムトラベルものを考えた時に、運命の受容がイスラームの基本的な教義であるムスリムに設定することが話にあう(邦訳を編集)

と考えたとのこと。仏教の無常観の方がネタにはあいそうな気もするがそれは言うだけ野暮と言うものだろう。

 

Exhalation息吹)」

ヒューゴー賞ローカス賞、英国SF協会賞、SFマガジン読者賞受賞

難易度:☆☆☆

  タイトル作で、以前SFマガジンの「SF700海外篇」で読んで感嘆した作品。原書では初めて読んだが、以前の知識があったので幸いそれほど苦労することなく読めた(逆に言うと、いきなり原書で読むのは結構骨だと思う)し、その鮮やかなイメージの奔流で酔わせてくれるという印象は再読しても変わらなかった。

 

  人間以外の、それもかなりアンドロイド的な知的生命体の解剖学者が、自らの脳を解剖してその構造を突き止めていく様は異様だが不思議に美しい。例えば、自分の脳の認識機関を初めて顕微鏡で観察する箇所。

 

What I saw was a microcosm of auric machinery, a landscape of tiny spinning rotors and miniature reciprocating cylinders.

  As I contemplated this vista, I wondered where my body was. The conduits which dispaced my vision and action around the room were in principle no different from those which connected my original eyes and hands to my brain.  ------

  With careful inspection and increasing magnifiation, I discerned that the tubules ramified into tiny air cappilaries, which were interwoven with a dense latticework of wires on which gold leaves ware hinged. Under the influence of air escaping from the capillaries the leaves were held in a variety of positions.

 

  そこにエントロピー理論を重ねて種の終焉、世界の終焉を暗示するラストは感動的。SFファンなら一度は読んでおくべき作品だろう。

 

What's Expected of Us予期される未来)」

難易度:☆

  短編というよりはショートショート的な掌編。そこでもクオリティを落とさないところはさすが。

 

The Lifecycle of Software Objectsソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル)」

ヒューゴー賞ローカス賞星雲賞受賞

難易度:☆☆☆☆☆

  本作品中のみならず、今までの彼の作品の中で最長の作品。この作品だけで全体の約30%を占めているのであるから、いかに彼の作品の中で例外的か分かる。

  バーチャルペット(Digients、ディジエント)をゲノム・エンジンレベルから生成し売り出した会社の盛衰、その開発者たちの人生、バーチャル世界へのインパクトとその変遷、そこから派生する善悪諸々の出来事、実社会への波紋等々を、そのバーチャルペットの成長とともに、じっくりと何年にもわたって丹念に描いた、恐ろしいまでのアイデア・イマジネーションに度肝を抜かれる作品である。

  ただ、構成としてはテッド・チャンが思いついた10のシミュレーションを連鎖的に書き連ねたという印象であり、完成度、まとまり感、話の落とし所と言った「文学的」側面ではそれほど評価できるものではないというのが正直なところ。

  テッド・チャンはおそらく長編を書いても賞レースを席巻するだろうと思うが、やはり彼の持ち味は短編にあると感じた。

 

Dacey's Patent Automatic Nannyデイシー式全自動ナニー)」

難易度:☆☆

  この作品は本邦初紹介だそうである。二十世紀初頭を舞台にしたオートマタ開発の悲喜劇をテッド・チャンにしては軽めの筆致で描いている。それもそのはず、アンソロジーの一編なのである。基本的に彼は、ある特定のテーマを提示されて書くと言うことができないタイプなのだそうだが、「想像上の展示品を集めたミュージアムに関する短篇のアンソロジー」と言う企画に興味を持ち参加し、これは例外的にうまくいった作品だとのこと。

 

The Truth of Fact, the Truth of Feeling偽りのない事実、偽りのない気持ち)

 難易度:☆☆☆☆

  これも本邦初公開だが、凄い傑作である。英語難易度自体はそれほどでもないのだが、かなり高いインテリジェンスが要求される。

 

  この作品には二つの世界が並行して描かれる。

   一つは近未来。テクノロジーの発達により、人は生まれてからの全ての行動言動を「lifelogs ライフログ」として記録できるようになった。しかしあまりにも記録が膨大であるためある時点の行動を引き出してくることはかなり困難で、記録はすれど活用できない状況が続いていたが、REMEM(リメン)という検索ソフトがそれを解決した。この時の記憶を呼び出してほしいと命じれば即座に網膜プロジェクターにその時の画像が描写されるのだ。

 

  もう一つの世界は二十世紀初頭のアフリカ西部。口承文化しかないティブ族の世界にキリスト教伝道師が書字文化を伝える。書字は証拠として扱えるが、それは「真実」であっても「正しい」こととは限らない。

 

  この二つの世界において、「口承文化」と「書字文化」に関する比較文化人類学、「意味記憶」と「エピソード記憶」に関する心理学、そして人は「完全なる記憶に耐えられるのか」と言う哲学的命題をテクノロジー的側面を含めて縦横無尽に語り尽くす。その上で仲違いして離れて暮らしていた主人公と娘の感動的な、それでいてクールな和解という個のレベルへ問題を収斂していく。見事な大業、力業である。

 

The Great Silence大いなる沈黙)」

難易度:☆

 これはショートショート、というか散文詩的な印象さえある本当に短い作品。地球外生命探査目的で建造されたアレシボ天文台のすぐそばに、実は人間と交信可能な「知的生命体」がいるではないか、という面白い発想。

 

  これも初訳とのことだが、以前からYoutubeに 

 

  Allora & Calzadilla + Ted Chiang  「The Great Silence

 

というコラボ映像が公開されている。かれの原文に触れてみたい方には絶好の一本なので是非ご覧いただきたい。

 

My species probably won't be much longer; it's likely what we'll die before our time and join the Great Silence.

But before we go we are sending a message to a humanity (-----)

The message is this:  You be good. I love you.

 

Omphalosオムファロス)

英語難易度:☆☆☆

  オムファロスとはヘソのこと。約8000年前にヘソのない人間を神が創造された、という「若い地球説」が真実である架空世界における「神の意思」の問題を問うた作品。

  これも初訳だそうだが、前作中の「地獄とは神の不在なり」を思い出す。西洋キリスト教文化圏では痛切な命題なのだろうけれど、私のような不信心者にはあまり心に刺さってこない話ではあった。

  ちなみに文章自体はさほど難しくないのだが、キリスト教の知識、特に「若い地球説」を知らないと物語世界を把握できないので、そのあたりは全面的に邦訳を参考にさせていただいた。

 

Anxiety Is The Dizziness of Freedom不安は自由のめまい)

初訳 

英語難易度:☆☆☆☆☆

  「free will(自由意志)」と「many-worlds interpretation of quantum(量子力学多世界解釈」を絡めた作品。我々は自由意志で未来を選択していると思っているが、実は量子一つのランダムな動作の結果で全ては決まっているのだ、というアイデアはテッドの真骨頂。

  そう、「自由意志」がテーマの傑作と言えば「The Story of Your Life(あなたの自人生の物語)」である。そこでは、人生の最初から最後まで見通せるという異星人の思考体系というかなり形而上的思考方法で表現されていたが、こちらはもう少しベタな人間の感情を扱っている。といえば平易なのかと思いきやさにあらず。その中心となるアイテムである「Prism(プリズム)」を理解するのは至難の業で早々にギブアップした。こんな感じである。

 

Every prism-the name was a near acronym of the original designation, "Praga interworld signaling mechanism"-had two LED's, one red and one blue. When a prism was activated, a quantum measurement was performed inside the device, with two possible outcomes of equal probability: one outcome was indiated by the red LED lightning up, while the other was indicated by the blue one. From that moment forward, the prism allowed information transfer between two branches of the universal wave function. In colloquial terms, the prism created two newly divergent timelines, one in which the red LED lit up and one in which the blue one did, ant it allowed communication between the two.--------

 

頭が痛くなり早々に邦訳に頼ったが、その邦訳も決してすんなり理解できるわけではない(笑。

  ごく簡単に言うと、人生の分岐点(branch)に於いて二つの選択枝の片方を人は選択する。一方で、もう片方を選択した自分(parallel self, paraself)がいるパラレルワールドが存在する。そのパラセルフと交信する機械がこのプリズムなのだ。

 

  初期は容量が小さく、テキストでのやり取りしかできなかったが、最近はPCの大きさにダウンサイジングしてもある程度の動画はやり取りできるようになっている。それでも人生の長さを考えるととても容量が足りないので、まだ大抵はテキストのやり取りで済ませている。

 

  有り得た別の未来を体現しているパラセルフというのはやはり気になるし、魅惑的である。人はそのパラセルフに憧れることもあれば、当然ながら嫉妬もする。交信は頻回となっていく。そうなると当然データ・ブローカーという商売もできるし、依存症患者のためのサポート・グループも立ち上がる。悪用して金儲けしようとする輩も出てくる。

 

  テッド・チャンはこのアイデアで複数の人々の悲喜劇を描き、最後にはやはり人の心の善意を信じる温かいエンディングに持っていく。心憎いばかりの筆さばきである。

 

  以上9作品、寸評のつもりが随分長い解説になってしまった。これだけ褒めておいてなんだが、率直に言って「The Story of Your Life」を凌駕する作品にはお目にかかれなかった。また、分進秒歩でソフトハード双方でテクノロジーが進歩している現在にあっては、さすがのテッド・チャンの作品でも時間が立てば古さを感じてしまう。だから彼の作品群はもう少し速いペースで単行本化してほしいものだ。