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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

堕落論 / 坂口安吾

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   「本が好き!」の企画に参加したのでこちらにも残しておく。

 

  新潮文庫版「堕落論」には17編の評論随筆が収録されており、解説は柄谷行人氏が書いておられる。講演録と思われる作品もあるが、ほとんどは安吾らしい「無頼派」な文章で彼一流の美学が貫かれている。「日本文化私観」に曰く、

美しく見せるための一行があってはならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。(p79)

 

  卑近なことから高尚な文学論まで思いつくがままに書いているように見えて安吾としては「必要」なことしか述べていない。これが彼の著述の根底にあり、その見本のような作品集が本書と言える。そして本書でその中心にあるのが「堕落論」。

 

  この「堕落論」は戦後間もなくの日本にあって、これだけ身も蓋もないあけすけな評論をよく書けたなと思うほど「無頼」な内容と文章。ごく簡単にまとめてしまえば、

 

『特攻隊の生き残りが闇屋になったからと言って、戦争未亡人が二夫にまみえたからと言って、それは“戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。” 日本人は実は古来からそのような人間の本性を見抜いており、だからこそ時の権力者は統制のために“武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられな”かった。』

 

そしてつまるところ、

自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(p86)

 

と結んでいる。本作品が書かれた昭和21年の元旦に発せられた「天皇人間宣言」に準えるなら、安吾流「日本人人間宣言」と言える内容。

 

  短い評論ではあるが、これだけの趣旨を述べるのにまるでフリートークを口述筆記したように安吾の話はあちらへ飛び、こちらへ飛び、全く淀むところがない。それでいて彼の「必要」とした主張はまったくぶれないし、結局は首尾一貫した構成になっている。おまけに随所におおっと思わせる名文を散りばめて唸らせる。

 

  もし一気呵成に書いたのであれば天才のなせる技としか言いようがないし、逆に推敲に推敲を重ねたのであれば、それはそれで、その苦労の跡を微塵も見せないところが天才的。

 

  要するに彼は文章の天才であったのだと。それが私の最も感じ入るところだ。同時代の名文家には盟友小林秀雄や、同じく無頼で破滅的な人生を歩んだ太宰治がいたが、この三人の文章はお互いに全く似ていない。

 

これって凄くない?

 

と今風に言ってみる(笑。

 

  ちなみに衒学的で韜晦に満ちそれでいて一部の隙も見せない完璧な文章を書いた小林秀雄のことを安吾も「教祖の文学-小林秀雄論ー」で論じ、揚げてはこき下ろしを繰り返していて安吾の面目躍如たるものがある。それでもちゃんと、

思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ。(p110)

小林はちかごろ奥義を極めてしまったから(中略)小林秀雄も教祖になった。(p112)

 

と認めており、この小林論はとても痛快で面白いのでお勧め。

 

  また、同じく私生活の無頼派であった太宰治のことを悼み、「太宰治情死考」でこう述べている。

太宰のような男であったら、本当に女に惚れれば、死なずに生きるであろう。(中略)太宰は小説が書けなくなったという遺書を残しているが、小説が書けない、というのは一時的なもので、絶対なものではない。こういう一時的なメランコリを絶対のメランコリにおきかえてはいけない。それぐらいのことを知らない太宰ではないから、一時的なメランコリで、ふと死んだにすぎなかろう。(pp138-9) 太宰の自殺は、自殺というより、芸道人の身もだえの一様相であり(中略)こういう悪アガキはそっとしておいて、いたわって、静かに休ませてやるがいい。(p140)

 

  ちょっと寄り道しすぎた、「堕落論」に戻り凄いなと思った文章を拾ってみる。彼は冒頭で姪の一人(おそらく村山喜久のこと)が21歳で自殺したことをさりげなく書いているのだが、中盤でこのような哀悼とも自虐ともつかぬ痛切な文章を挟んでいる。

 まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕ちて暗黒の曠野をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにも拘かわらず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。(pp79-80)

 

  あけすけに60のババアより20の美女の方がいいに決まってるだろと嘯きながらも、何と生きることの真理をついている事か。

 

  そして彼は、私は内心戦争反対でした、というような綺麗ごとなど一切言わない。

 私は血を見ることが非常に嫌いで、いつか私の眼前で自動車が衝突したとき、私はクルリと振向いて逃げだしていた。けれども、私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾に戦(おのの)きながら、狂暴な破壊に劇しく亢奮していたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。(p80)

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた(中略)偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。(p83)

 

  東京大空襲のような非人道的大破壊を美しく興奮するものだと言い切り、そこから「堕落」を肯定へと転じる、この見事なレトリックと文章の巧さ。。。 余人の決して真似できぬ安吾節ここにあり、という名文だと思う。

 

  「続・堕落論」はさらに過激になり、日本人の「耐乏」や「忍苦」に舌鋒鋭く切り込んでいるが、文章としてはこの「堕落論」の美しさには及ばないと思う。ただ、柄谷氏が解説で述べているように、この評論において激烈に天皇ファシズムを批判し、

それにとどまらず、安吾は、天皇制の「カラクリ」を記紀の中に見ようとした。(p287)

  そこから安吾は思索を深めていき、本書収録の「歴史探偵方法論」という名著でその「探偵方法」を説明した上で、日本の古代史家を

推理の方法に於てこう劣等生では学問としてあまりにたよりない。(p239)

と批判している。これは「逆説の日本史」の井沢元彦氏が近年再度徹底的に批判した点であり、天皇人間宣言から間も無くの時期にこれだけの炯眼を披露していた安吾はさすがだ。

 

  ということで本書の後半はこの「歴史探偵」安吾の日本史評論が中心となり、それはそれでとても面白いが、あまりに長くなるのでこの辺で筆を置く。

 

  「堕落論」はその後小説「白痴」に昇華する。これもまた新潮文庫に入っていますのでいつかレビュー出来たらいいなと思っている。