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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

ゆんでめて / 畠中恵

⭐️⭐️⭐️⭐︎

  しゃばけシリーズも九作目に入る。短編五本で一冊というのがもう恒例となっているが、毎回色々と趣向を凝らせ飽きさせないように努力されているのは立派。

  今回は離れの火事で行方不明になってしまった屏風のぞきをめぐり、四年後から始めて、一年毎に遡って元の地点まで五本を並べるという凝った構成になっている。

  そして驚いたのは最終話、これほどの大技でけりをつけるとは思ってもみなかった。ここまでのシリーズで最大のどんでん返しである。賛否両論はあると思うが、五編一作のマンネリ化を防ぐ意味ではとんでもなく効果的であることは間違いない。

 

 屏風のぞきが行方不明になり、悲嘆にくれる若だんな。もしあの日、別の道を選んでいたら、こんな未来は訪れなかった?上方から来た娘への淡い恋心も、妖たちの化け合戦で盛り上がる豪華なお花見も、雨の日に現れた強くて格好良い謎のおなごの存在も、すべて運命のいたずらが導いたことなのか―。一太郎が迷い込む、ちょっと不思議なもう一つの物語。「しゃばけ」シリーズ第9作。(AMAZON解説)

 

  一本目の題名「ゆんでめて」とは弓手馬手のこと。弓手は弓を持つ手で左、馬ては手綱を持つ手で右のことである。

  珍しく「」章がある。若だんなが、分家した義弟松之助・お咲き夫婦に子ができた祝いを持っていく途中、神様らしき影を見て思わず松之助の家とは逆の右方向へ行ってしまう。それが後悔の元であった。

 

  本章に入ると、いきなり四年も経っている。そして続く三本の簡単な紹介が入る。

 

時が経つのは、本当に早いと、若だんなは思う。

友、七之助が取り持つ縁で、かなめと知り合ったのは去年だし(「こいやこい」)

花見をしてからは、もう二年経つ(「花の下にて合戦したる」)

雨の日おねと出会ったのは三年も前、(「雨の日の客」)

火事の日からは、既に四年も経っているのだ。(「始まりの日」)

 

  この辺り手際よい処理で、後の三本の冒頭でも一つずつ減りながらリピートされるという、連作の妙を尽くしており上手いな、と思う。

 

  さてその火事で長崎屋の離れが焼けてしまい、右手に行ったばっかりに帰るのが遅れてしまった若だんなは、妖怪を救うことができなかった。特に、屏風は黒焦げに焼けてしまい、付喪神屏風のぞきが行方不明となっている。そして修理に出した屏風も行方不明となり、若だんなは途方に暮れている。そんな折、千里眼を持つという鹿島の事触れの噂を聞き、見つけ出して二人で捜索を始めるが。。。懸命の捜索の末、世の中にはどうしようもないことがあると若だんなが悟るラストには涙を禁じ得ない。

 

  その後、千之助の縁談と若だんなのほのかな恋が艶やかな「こいやこい」、しゃばけオールスターズでひたすら賑やかに飛鳥山の花見騒動を描く「花の下にて合戦したる」、江戸に現れたおねというやたら強い謎の女性と江戸を襲った大雨による水害をリンクさせて解決に導く「雨の日の客」と、三本充実した内容の作品が続く。

 

  しかし、「ゆんでめて」で行方不明になったはずの屏風のぞきがこの三本ではしれっと顔を覗かせているし、「花の下にて合戦したる」ではあの、若だんなを失明させたことのある生目神が突然現れて不可思議な言葉を残して消える。

 

  微妙に整合性がとれないまま、最終話「始まりの日」に進むと、冒頭もう一度最初の弓手馬手のエピソードが記され、若だんなを迷わせ馬手へ行かせることになった神、市杵島姫命いちきしまひめのみこと)が生目神にその不注意を怒られている。

 

  そして本編は「時売り屋」という奇妙な商いをしている男をめぐっての騒動となるが、率直なところやや奇妙でこれまでの作品に比べると精彩を欠く印象。

 

  問題は最後である。事件は解決し、火事はボヤですみ長崎屋の離れは焼けていない。遠くの火の中に、若だんなは見たこともない小さな男の子や綺麗な娘御、雨の向こうに背の高い女子の姿を束の間見る。そして花の海の中から生目神が現れる。この生目神の言葉こそ、畠中恵さんが仕掛けたシリーズ最大の大技、もう荒技と行っていいかもしれない。

 

以下ネタバレになるが

 

「これよりは、弓手の道」

「始まるのは、知らぬ明日」

 

つまり、「ゆんでめて」「こいやこい」「花の下にて合戦したる」「雨の日の客」のエピソードは、この最終章をもって全てなかったことになったのである。いくら生目神が時を司ることができると言ってもねえ。。。。。まあ賛否両論あると思うが、今後の展開にどう影響を与えるのか、逆に楽しみでもある。