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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

海うそ / 梨木香歩

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   久しぶりの梨木香歩。主だったところはすでに「本が好き!」でレビューしていたのだが、読み残しも多く、まずは一番気になっていた「海うそ」から読んでみることにした。2014年の作品で、驚いたことにWikipediaで確認したところ長編は今のところこれが最後となっている。

  

  昭和初期、指導教授、婚約者、そして両親を相次いで亡くし、恩師の遺志を継ぐべく九州南部にある架空の島「遅島」にフィールドワークにやってきた人文地理学者秋野が主人公。

  冒頭にその島の地図が記されていて、物語前半から中盤では、その地図の一つ一つが丹念に描写されていく。彼をあたたかく迎える人々、島の地名・由来や場所による違い、地質学、動物学、植物学、地質学、民家構造に関するレヴィ・ストロース的環太平洋民俗学、風習と宗教、平家落人伝説等々の考察。

   まるで実在の島があって著者自身がフィールドワークを行ったかの如くに、微に入り細を穿ち描かれていて見事である。(地理や大きさ、形的に言うと九州の甑島が似ている、と思う。)

 

  特に修験道の島に残存する祠、洞穴、かつて高野山に比肩した施設の廃墟等の明治維新後の廃仏毀釈により「喪失」したもの、そして蜃気楼である「海うそ」への秋野の関心は強い。

  梨木は、それら実際に失われたもの、実際にはないものへの哀切な思いと、秋野本人が深いところで何かを「喪失」いるさまを淡々とではあるが、絶妙にリンクさせている。

 

  例えばカモシカに対する主人公の観察。こちらをじっと見つめるカモシカの眼差しは、曰く言い難い神秘的な気配と哀愁を漂わせているように秋野は感じる。その思いの源泉は亡き許嫁だった。彼女は何もかも見透かすような「ロシア風の黒い大きな瞳」をしていた。それがカモシカの瞳とそっくりだったのだった。

  更に、冬にはカモシカが立ち尽くしたまま凍死していることがあるという島人の話や、洞穴の奥の暗黒に吸い込まれそうになる主人公の描写を通して、何か許嫁の死に秘密があるのではないかと感じさせる梨木の文章は絶妙である。

 

  もちろんそれだけではない。昭和初期篇における滋味ある梨木香歩の文章は、日本語表現を極めた感があるほど素晴らしい。

 

  その地名のついた風景の中に立ち、風に吹かれてみたい、という止むに止まれぬ思いが湧いて来たのだった。決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する光景の中にいたい。そうすれば人の営みや、時間というものの本質が、少しでも感じられるような気がした。

  私は一昨年、許嫁を亡くし、また昨年、相次いで親を亡くしていた。(龍目蓋ー影吹)

 

  恐ろしいくらいの意気軒昂を誇っていた真夏の庭の植物たちが、憑き物の落ちたように素直になって、天の恵の滴を受けている。(龍の目蓋ー角小御崎)

 

   夜遅く上り始めた月は、深更、山間の小さな苫屋の屋根にも、その生命のまなざしを皓々と降り注いでいたのだった。(中略)ただただ無心に漏れ来る光の林よ。

  (中略)いつの間にか晩夏夜半の虫の音が、遠慮深げに辺りに響き、月光は紫雲山の稜線を白々と浮かび上がらせていた。厳かに、知らず、跪いて、頭を垂れる。(呼原ー山懐)

 

  けれど、この、胸を引き千切られるような寂寥感は。

  空は底知れぬほど青く、山々は緑深く、雲は白い。そのことが、こんなにも胸つぶれるほどにつらい。(山懐ー尾崎ー森肩)

 

   後半はそれから五十年後。秋野は結婚して二人子どもを設け、もう八十台。残念ながら遅島の家構造に関する論文は書けず、老いてしまった。そして因果は巡るのか、息子が勤務先の総合レジャーランド、リゾート開発計画のため、なんと遅島に赴任していたことを知る。秋野は矢も楯もたまらず遅島を再訪するが、なんと遅島には本土から橋が架かっていた。

 

  昭和初期でも「喪失」しているものは数多くあったが、それからの50年はもっと徹底的に秋野が慈しんだこの島を変えてしまっていた。
  その一つとして、カモシカは絶滅していた。息子にそのことを知らされた時初めて父は許嫁の死の真相を語る。

 

 そして、達観する。終盤の文章の見事さはどうだ。

 

  そして過去に見た紫雲山の、神さびてすらいた姿が、ロープウェイさえ引かれようとする今の姿と、奇岩に覆われていた胎蔵山の謎めいた姿が、削られて威厳など跡形もなくなった今の姿と、まるでそれぞれが最初からひとつのものであったかのように、私の中で認識されてきたのだった。時間というものが、凄まじい速さでただ、直線的に流れ去るものではなく、あたかも過去も現在も、なべて等しい価値で目の前に並べられ、吟味され得るものであるかのように、喪失とは、私の中に降り積もる時間が、増えていくことなのだった。

  立体模型図のように、私の遅島は、時間の陰影を重ねて私の中に新しく存在し始めていた。これは、驚くべきことだった。喪失が、実在の輪郭の片鱗を帯びて輝き始めていた。(五十年の後)

 

「昔、ひとの好い爺さんと婆さんが、たらい舟であの温泉に通ったものだ・・・・・・」

 

長い長い、うそ越えをしている。

 

超えた涯は、まだ、名づけのない場所である。 

 

 

  これを書いてこの作品の余韻を奪ってしまうのもどうかと思ったのだが、一応記しておくと、梨木香歩はこの作品のテーマ「喪失」を、東日本大震災に重ね合わせているそうである。

 

『昭和の初め、人文地理学の研究者、秋野は南九州の遅島へ赴く。かつて修験道の霊山があったその島は、豊かで変化に富んだ自然の中に、無残にかき消された人びとの祈りの跡を抱いて、秋野の心を捉えて離さない。そして、地図に残された「海うそ」ということば……。五十年後、不思議な縁に導かれ、秋野は再び島を訪れる。(AMAZON解説より)』