Count No Count

続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

砂浜に坐り込んだ船 / 池澤夏樹

⭐︎⭐︎⭐︎

    久々の池澤夏樹。久しぶりに何かナッキーの本を読みたいなあ、と思っていたところへのタイミング良きFBフレンドのお勧め、ありがたし。彼女ほどのレビューは書けないが、思うところを少し。

 

 この作品は短編集だが、表題作をはじめとして、前半は3.11東日本大震災を強く意識している。その意味では主題作は「双頭の船」と繋がりを持つ作品である。冒頭の献辞も、おそらく大震災で亡くなった方へ捧げられている。

 

「砂浜に坐り込んだ船」: 座礁した船を見に行き、撮った写真をTVでスライドショーにして見ている主人公。後ろに誰かいる。亡き友が呼び寄せられたのだ。

  舞台は石狩で、実際にあった難破事件を題材にはしているが、3.11の津波で陸に置き去りにされた船を重ね合わせているのは自明の理。

 

  その一方でカズオ・イシグロの「Never Let Me Go」の第三部のワンシーンも思い出す。主人公の介護人キャシーBが、提供者となり衰弱した親友ルースと、彼女と複雑な三角関係だった同じく提供者トミーとともに砂浜に打ち上げられた船を見に行く場面だ。映画でもとても効果的な映像が撮られていた。

 

  かたや死んでいったものへの鎮魂、かたや死に行くものへの束の間の慰撫。

 

  陸に上がった船というのはなかなか象徴的な絵であることは確かだが、3.11の時、内心少しは楽しまなかっただろうか?そして何度も何度もあの映像を見せられて我々は倦まなかっただろうか?

 

  続く「大聖堂」「美しい祖母への聖書」「苦麻の村」はもっと直截に3.11そのものを主題として扱っている。ルポかと思うほどに。

  そしてそれが文学として優れているか、と言われると言葉に窮する。ここまでの四作、彼ってこんなに単純な文章と文体だったっけ、と訝るほど、その文章はよく言えばシンプル、悪く言えば平凡だ。

 

  上記の疑問や自身の阪神淡路大震災の体験から、私は大震災のルポや小説、映画を見せられることを好まない。だからナッキーの強い思いと行動力は高く評価しているが、心のどこかでこの類の文章を拒絶しているのかもしれない。

 

  続いて幻想系、というか不思議系が続く。「上と下に腕を伸ばして鉛直に連なった猿たち」は三途の川の向こうの話、「夢の中の、夢の中の、」 は「今昔物語」に題材をとったナッキー流「夢十夜」、「イスファハーンの魔神」はナッキー流魔法のランプ。小品ながら、ナッキーらしさを感じさせる。ちょっと良い話過ぎるところもあるが。

 

  「監獄のバラード」は、派手な題名に反して、静かな祈りの作品だ。いささか身勝手な祈りではあるが。

  出身地である、傑作「静かな大地」で描き切った北海道が舞台。その豪雪の中、ある共同墓地に向かう主人公の目的とは?

  「監獄のバラード」は同性愛疑惑で監獄に入れられたオスカー・ワイルドの詩であることが後半で語られる。なるほど、上手い。

 

  最後の「マウント・ボラダイルへの飛翔」はコスモポリタンナッキーの独り言のような語りで終始する。ブルース・チャトウィンへのオマージュとも言えるのだろう。知識のないものにとってはあまり意味をなさないような一篇で終わるところがなんとも。。。まあ賛否両論あるだろうけれど、これが池澤夏樹流なのだろう。

 

 

『石狩湾で坐礁した、五千トンの貨物船。忽然と砂浜に現れた非日常的な巨体に魅せられ、夜、独り大型テレビでその姿を眺めていると、「彼」の声がした。友情と鎮魂を描く表題作と、県外の避難先から消えた被災者の静かな怒りを見つめる「苦麻の村」、津波がさらった形見の品を想像力のなかに探る「美しい祖母の聖書」ほか、悲しみを乗り越える人々を時に温かく時にマジカルに包み込む全9編。(AMAZON解説より)』