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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

日蝕、一月物語 / 平野啓一郎

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本当に佐藤亜紀のパクリなのか、という興味本位で読んでみたが、なかなかどうして素晴らしい文章だった。アイテムは似ており、衒学的な文章も彼女を想像させないことはないが、基本的に異質の文体とストーリーであり、少なくとも「盗作」ではない。佐藤亜紀を怒らせた新潮社の対応がまずかったのだと思う。一月物語も、草枕の明治文語体と雨月物語を連想させるが、これは狙ってやっていることだろう。優れた文章家であると思う。

 
日蝕・一月物語

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書評

  先日レビューした佐藤亜紀の「鏡の影」にも書きましたが、この「日蝕」はパクリであると佐藤亜紀が糾弾し、芥川賞をこの作品が受賞するに及んでことが大きくなりました。

 

  平野啓一郎が自身の公式ブログで反論しているところを引用してみます。まず彼が事実関係をWikipediaから引用している部分。

佐藤亜紀『鏡の影』と『日蝕』の内容酷似問題 1998年に新潮社から刊行された平野のデビュー作『日蝕』が、1993年に同じ新潮社から刊行された佐藤亜紀の『鏡の影』と「内容が似ている」ことが問題となった。平野が『日蝕』で芥川賞を受賞すると、新潮社側は佐藤亜紀が執筆していたウィーン会議を題材にした作品の雑誌掲載を拒否し、同社から刊行されていた『鏡の影』、さらには佐藤の小説『戦争の法』を絶版とした。佐藤は、新潮から刊行した第3回日本ファンタジーノベル大賞の受賞作で、彼女のデビュー作でもある『バルタザールの遍歴』の版権を新潮社より引きあげ、この作品も絶版となった。現在、佐藤のこの3作品は、他社より刊行されている。 佐藤亜紀によるこの事件の経緯は、佐藤 のウェッブ・サイト「新大蟻食の生活と意見」内にある「大蟻食の生活と意見」のNo.13「『バルタザールの遍歴』絶版の理由」に詳しい。(2006.9.14 pm15:14現在)

  その記載を読んで彼はとても不快な気持ちになった。佐藤亜紀という人のことは、「日蝕」に対する批判的な書評を読んで初めて知った。当初新潮社と法的手段をとることも相談したが、無駄なこととしてやめた。しかし現代(2006年時点)のweb2.0の時代においては黙っていることは認めることと同意となってしまうので、このブログで自身の意見を述べた、と書き、こう結んでいます。

 私自身がここに語ったことについても、人がそれをどう捉え、どう感じるかは分からない。しかし、ともかくも語った。私はただ、それが伝わることを信じることしかできない。

  web2.0とはまた懐かしい言葉、そんな時代もあったねと、いつか笑って語れるさ、の世界ですが、ともかく平野啓一郎氏としては明確に否定したわけです。

 

  一方の佐藤亜紀の説明は、上記Wikiにも書いてあるように彼女のブログ「新大蟻食の生活と意見」のNo.13 『バルタザールの遍歴』絶版の理由に記されています(リンク許可記載あり)。ここではパクリかどうかはともかく、新潮社の対応に疑問を呈しているだけです。

 

  まあ出版界というコップの中の嵐、その中でも取り上げたのは「噂の真相」一誌のみという小さな騒動ではありましたが、平野にすればデビュー作にケチがついては確かに不快でしょう。

 

  一方で佐藤亜紀のファンからすればやはり気になるところで、「鏡の影」を読んだ以上、読まざるを得まい、と思って読んでみました。

 

  ちなみにその後佐藤亜紀は、この件に関して小谷野敦のいちゃもんにも反論していますが、それについては省略します。

 

[ 日蝕 ]   確かに中世欧州キリスト教社会、異端審問、錬金術、異教徒の書、黒死病(ペスト)、堕落した司祭、そして魔女裁判と焚刑といったアイテム、衒学的な記述、難解な漢字といった共通項はあります。

 

  ただ、ストーリーが似ているかといえば個人的な意見としては似てはいない。剽窃しているところはものすごく細かいところまでは分かりませんが、大筋では少なくともないと思いました。

 

  そして、佐藤亜紀

 

「古典、たとえばダンテやシェークスピアをパクってもそれは盗作とは言わない」

 

としている事に倣えば、平野がウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を読んで啓示を受けたとしても、それはパクリとは言わないでしょう。事実、某書評家がエーコの名前を出して書評した時に、平野は嬉しかったと素直に認めています。  

 

   また文体は、「ペダンティック」なところが似ているだけで、むしろ明治時代に、例えば森鴎外が一時書いていたような文語体に似せた印象を受けます。

 

  その文章の完成度は新人としては並外れて高く、芥川賞もむべなるかな、と思います。ただ、面白み、表現力、含まれている隠喩の深さ、学識などはやはり佐藤亜紀の方が一枚上。文語体で物語を構築できるのは凄いと思いますが、クライマックスのシーン、両性具有者の焚刑の際に「日蝕」が起こり、そして炎の中で陽根が屹立しスペルマが放出され自らの陰門に入っていくあたりの盛り上がりと、その後の彼の作品の特徴の視覚効果を除けば、素直でひねくれたところのない、さらっとした文章です。

 

  結論としては、執筆前に平野が「鏡の影」を読んでいた可能性は否定できないにせよ、少なくとも「盗作」ではない、と思います。むしろ問題のあったのは新潮社の対応でしょう。組織の入れ替えのごたごたがあったことは仕方ない事でしょうが、佐藤亜紀に対する真摯な対応がなされなかったことが騒ぎを大きくしたことは間違いない事実だと思います。

 

[一月物語]   これは舞台が日本、紀伊半島の山奥で繰り広げられる幻想的な悲恋と妖の物語。名前から想像されるように「雨月物語」に倣って、これもまた明治文語体に似せで書かれています。前半から中盤までは、夏目漱石の「草枕」を彷彿とさせるような文章でした。「日蝕」に倣って言えば、草枕という古典を「パクって」も、それは盗作とは言わない。

 

  とてもよくできた作品だったと思います。

 

  以上、佐藤亜紀ほどではないにせよ、新人離れした優れた文章の書ける作家だという印象を受けました。