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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

ずえずえ / 畠中恵

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  しゃばけシリーズ、第13巻。今回は栄吉や若だんなの嫁取り騒動に絡めて、若だんなの将来についての展望が語られる。妖と人間との時間感覚の差異はこれまで何度も触れられきて、特に「ちんぷんかん」収録の「はるがいくよ」などはシリーズ中屈指の傑作であったが、よりシリアスに今回はそのテーマが取り上げられ、いよいよこのシリーズにも転機が訪れた感がある。

 

若だんなの許嫁が、ついに決まる!?幼なじみの栄吉の恋に、長崎屋の危機…騒動を経て次第に将来を意識しはじめる若だんな。そんな中、仁吉と佐助は、若だんなの嫁取りを心配した祖母のおぎん様から重大な決断を迫られる。千年以上生きる妖に比べ、人の寿命は短い。ずっと一緒にいるために皆が出した結論は。謎解きもたっぷり、一太郎と妖たちの新たな未来が開けるシリーズ第13弾。

 

栄吉の来年

  栄吉が見合いをした、という情報を貧乏神金次が若だんなの元へ持ってきた。この時代、見合いをしたということはほぼ間違いなく結婚するということ。何の相談もなかった若だんなは驚きと戸惑いを隠せない。ただ、相手がわからないので早速妖たちを使嗾するが、栄吉が若い女性にビンタを食らっていたという情報と、見合い相手らしい女性が他の男性と親密に話し込んでいたという情報がもたらされる。

  どちらが本当なのか?どうもその二人は同一人物でなく、姉妹であり、その姉の方が見合い相手らしいとわかるが、他の男と親密なことを栄吉は知っているのか?若だんなは栄吉と対峙するが。。。

  ネタバレはなしだが当然ハッピーエンド、栄吉の将来が見えてくる一編である。

 

寛朝の明日

  ひょんなことから上野広徳寺の妖封じの名僧寛朝は天狗の黒羽坊に小田原の人喰い妖退治を依頼され出向くこととなる。若だんなは付き添えず、秋英を連れて行くわけにもいかず、猫又のおしろ(手前の戸塚宿での猫又たちからの情報収拾係)と例の悪夢を食べるバクの本島亭馬久(夢の中での若だんなへの報告係)がお供について行くこととなる。ついでに鳴家が二匹紛れ込む。猫じゃ猫じゃの戸塚宿までは快調な旅であったが、次の夢の中ではおしろ、馬久がどこかに閉じ込められ、寛朝は肝を食われそうになる危機に瀕している。

  寛朝、おしろ、馬久、それぞれに特徴を活かした上手い筋運びで、やはり最後は若だんなの知恵と機転が全てを解決する、安定路線ではあるが、かなり無理のある話。「翼の折れた天狗」黒羽坊はこの後上野寛永寺寿真(寛朝と並ぶ妖封じの名僧)の元に預けられ、僧侶「黒羽」としての道を歩むこととなる。という事はもちろんシリーズの常連となるわけである。

 

おたえの、とこしえ

  若だんな一太郎の母、大妖おぎんの血を引くおたえが今回の主役。と言っても、結局は若だんなの知恵が長崎屋の窮地を救うわけだが。

  驚いたのは、若だんなが上方まで出かけたこと。「うそうそ」で箱根へ出かけるだけでも大騒動、本作でも小田原までは無理だから馬久を使嗾したというのに、このお手軽さは何?

  しかも七福神の三人と貧乏神金次が大阪の米相場で大暴れって、あっちゃいけないことではなかろうか。

  まあもちろん若だんながうまくカタをつけるわけではあるが、これまでの設定を何気なく根底から覆しているし、ちょっとやりすぎの感が否めない。

 

仁吉と佐助の千年

  前作からの続きで若だんなの株が上がり、縁談が次から次へと舞い込む。一方仁吉は神の国にいるおぎんに呼ばれ、佐助は四国に頼まれごとで出かける。

  先の述べたシリーズ中屈指の名作「はるがいくよ」のテーマであった妖と人の寿命の差をよりシリアスに突きつけてきた作品で、若だんなと手代二人の今後を問うている。また、若だんなが嫁を取れば離れに巣食う妖や貧乏神はどうするのか、という問題も当然出てくる。

  私が「ねこのばば」中の「花かんざし」で今後も出てきそうと書いたあの子がここまで予想通りと言うのは、敢えて言えば安易に過ぎないか

 

妖達の来月

  先の三作で頑張り過ぎた若だんな一太郎は皆の予想通り、病で寝付くことにあいなって最後の物語は始まる。同じく前作からの引継ぎで、若だんなが建てた隣の一軒家に貧乏神金次、ばくの馬久(ばきゅう)、猫又のおしろが移ることになり、その引っ越しと妖勢ぞろいの中での奇怪な盗難事件の顛末が語られていく。

  金次を怒らせたらどうなるか、先の大阪米相場より冷たい風が吹きわたるあたりは面白い。当然犯人は若だんなの策略で捕まるわけだが、この話の主眼はもちろんそこではない。今回のシリーズのテーマは「転機」、本編では妖達と若だんなの今後についてが真剣に語られているのである。

 

  離れの主の若だんなとて、妖達と同じく自分が生きてゆく事に苦労している一人なのだ。これから商人としてやっていけるようになるか、腹をくくらねばならない日々も待っている。その肩に載れば楽だからと、妖達が皆若だんなへ頼ったら、病があっという間に、若だんなを江戸から連れ去ってしまうだろう。

 

  のほほんとした話を語っておいて締めるところは締める、畠中さん、やはりシリーズのツボを心得ておられる。

  

 

 

たぶんねこ / 畠中恵

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  しゃばけシリーズ第12弾。外伝から再び本伝に戻って短編五編が並ぶが、今回は「序」がついている。奇跡的に二月ひと月病にかからなかった若だんな、喜んだ手代二人は若だんなに五つのことを約束させる。

 

一 半年間仕事をしない

二 半年間恋はお預け

三 半年間栄吉の心配をしない

四 半年間妖のための外出をしない

五 半年間体に障るような災難に巻き込まれない

 

この無茶振りとも言える約束の半年間が始まる。それが本編五編となる。

 

跡取り三人」 一の話 

  年も改まった寒いある日、若だんなを含む三人の大店の跡取りのお披露目の食事会が開かれる。その席で両国の親分大貞が三人のうち誰が一番甲斐性があるか見たいもんだと言い出し、結局半月間でどれだけ自分で仕事を取ってきて稼げるのか競争させるため自分のところへ預かる、ということになる。

  外で働いたことのない若だんな、最初はうまくいくはずも無く、銭がないために飲み物も買えない辛さを初めて知るが。。。

  まあ結局佐助仁吉も出てきての大騒動の末に全ては丸く収まってしまうわけだが、かなり無理のある話ではあった。

 

こいさがし」 二の話

  長崎屋に於こんという母おたえの知り合いの娘が花嫁修行にやってくる。しかし、この於こん、不器用な上にやる気がない。早く嫁に行ってしまいたいとごねる。

  そこに先日の両国の親分大貞の古文富松が困りごとの相談に来る。大貞が見合いの仲人を儲け口にしたいと言って困っているというのだ。仕方なく手伝うことにした手代二人は貧乏な御家人と料理屋の娘を見つけてくる。

  その見合いの席にまたまたややこしいことに河童の大親禰々子が手下の妹の娘に縁談が二つ舞い込んだから解決してくれ、と若だんなを頼ってくる。そして持参金がわりにまたまた怪しげな三色の丸薬を置いていく。どんな怪我でも治すが飲むと死ぬほど苦しむというあの赤の他に、今回は緑と紫。

  この二組の見合いと於こんが入り乱れてのお見合い騒動はややこしいことこの上ない状況にはなるが面白い。於こんの意外な正体も最後に明らかとなる。

 

くたびれ砂糖」 三の話

  栄吉が久々に顔を見せる。奉公先の安野屋の新入り三人の教育係になって苦労している。三人は13歳、どいつもこいつもわがままだったり、態度がでかかったり、無口だったりで困り者。おまけに旦那様や番頭たちが謎の病気で寝込んでいるという。

  まあこれだけで話の筋が見えてくる。その通りに進んでいく。

  いつも思うが、栄吉の腕が上がるのが遅すぎてイライラする。まあそれでも少しずつは形になりつつあるようだが。

 

みどりのたま」 

  さあ、禰々子の丸薬の出番である。冒頭長崎屋に所縁のありそうな男が記憶を喪失して江戸の町を歩いている。スリとの一騒動があって男は古松という病気の老人と引き合わされる。驚いたことに古松は男の正体を白沢(仁吉)だと簡単に見抜いてしまう。実はこの古松、神の庭から江戸にやってきた狐だったのである。その古松は神の庭に帰りたいのだがもう老いて体も悪くそれだけの妖力がない。

  ここから先はネタバレになるので伏せておくが、久々に一太郎の祖母で大妖おぎんが束の間顔を見せ、白沢の心が動くところが微笑ましい。そのわけは「ぬしさまへ」の「仁吉の思い人」を参照されたい。

 

たぶんねこ」 四、五の話

  最終話は逆に、見越の入道が月丸という幽霊を江戸に連れてくる。ひょんなことからその月丸と若だんな一太郎が一緒に江戸の町中に飛ばされてしまう。月丸は「生きがい」を求めてもう少し江戸の町を歩きたいと言い出し、そこから場久も巻きこまれての災難が始まる。人、妖、幽霊の三人組が強盗から追われ江戸の町中を逃げ回るが、、、

 

  というわけで「終」というあとがきがついている。「約束の半年」が過ぎて、やっぱり若だんな一太郎は病に臥せっていた。でも、今回は仁吉も若だんなに心配をかけたから薬湯は手加減してくれるかも。。。。。なんてことは期待してはいけなかったのだった。

 

 

 若だんな、そんなに頑張ってだいじょうぶ?両国を仕切る親分の提案で、大店の跡取り息子三人が盛り場での稼ぎを競うことに。体の弱い一太郎は、果たして仕事を見つけられるのか。妖と恋人たちが入り乱れるお見合い騒動、記憶喪失になった仁吉、生きがい(?)を求めて悩む幽霊…兄やたちの心配をよそに、若だんなは今日もみんなのために大忙し。成長まぶしいシリーズ第12弾。(AMAZON

 

えどさがし / 畠中恵

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    しゃばけシリーズの番外編。

 

500年の判じ絵」 主人公は佐助(犬神)。ひたすら旅を続ける佐助、今は江戸へ向かう途中で三島宿にいる。街道脇の茶屋に貼られていた判じ絵がどうも妖の佐助宛てに書かれたようで、居合わせた化け狐の朝太と謎解きを始める。ヒントは五百年前に佐助が助けた男女にあるらしい。もうこれだけでシリーズを読み続けている読者には先が読めてしまうので書いてしまうが、大妖おぎんが長崎屋の孫の世話を言いつけることにより、居場所と仲間のなかった佐吉に500年前の恩返しをする物語である。

 

太郎君、東へ」 主人公は河童の大親禰々子。坂東の地である江戸が徳川という領主を迎えて発展し始めた頃、坂東太郎利根川)の機嫌が悪くなった。河童でさえ流される始末に禰々子は眉を顰めている。そんな折も折り、荒川の蘇鉄河童が襲ってきた。が、その程度の小物では相手にはならない。話はもっと大きく、禰々子は太郎君とその流れを変えようとする人間の色恋沙汰との板挟みになって悩み、最後は結構痛快な大げんかとなる。現在の利根川の成り立ちをこの程度の分量の短編に納めてしまった畠中さんの手腕はお見事。ちなみに「半鐘泥棒」という言葉が出てくるが、調べてみると、ひどく背の高い者をあざけっていう言葉だそう。

 

たちまちづき」 主人公は上野広徳寺の妖退治僧寛朝。口入屋の主人が頼りないのは「おなご妖」が憑いているから退治してほしいという(無理な)頼みを気の強い妻が持ち込んできた。当然ながら妖が見える寛朝にも秋英にもそんな妖は見えない。しかし、その主人が真っ暗な夜道で襲われ、次いで妻が夫の代わりに仕切り始めた口入屋稼業で大失敗をしでかす。窮地に立たされた夫婦を寛朝は救うことができるのか?妖は今回は賑やかし程度、よくできた人間ドラマである。

 

親分のおかみさん」 日限の親分清七の妻おさきが主人公。この物語で病弱と言えばそれはもちろん主人公長崎屋の若だんな一太郎だが、実はもう一人いる。それがこのおさきさん、それゆえ親分は長崎屋に出入りすれば手代の仁吉からもらえる薬と袖の下をあてにしていると言う設定である。しかしこれまでそのおさき自身が物語に顔を出すことは一度もなかった。まだこの人が残っていたか、と言う主人公である、畠中さんなかなかうまい。

  話はおさきが土間に置いてあった捨て子の赤ちゃんに気がつく、というところから始まり、夫婦の住む長屋でひと騒動が持ち上がる。そこへ帰ってきた旦那の日限の親分が、捨て子の赤ちゃんと見せかけての押し込み強盗の情報をもたらし、ますます剣呑なことに。その頃長崎屋にも捨て子の赤ちゃんが。。。

  勿論長崎屋は例の妖たちがいつも手ぐすねを引いて招かざる客を待ち受けているので恒例の如くの展開が予想されるが、おさきさんの方はどうなるのか。子供のいないおさきさんが最初は戸惑いつつ母性を発揮していく、これもまたなかなかの好編である。

 

えどさがし」 はじめて明治が舞台となる。頃は明治20年、当然ながら若だんな一太郎はもうこの世にいない。しかし「京橋」こと仁吉(白沢)たち妖たちはおそらく若だんなが残してくれた遺産で建てたと思われる銀座の長崎商店を根城として、一太郎の生まれ変わりを探している。そう、祖母で大妖のおぎんが長い時を経てついに思い人鈴君に出会えたように。

  そして新聞の尋ね人欄に「一」という名前をみつけた京橋仁吉は新聞社を訪れ、そこでその尋ね人欄を担当していた男の殺人事件に出くわす。そこからの展開は明治の代でもなお跋扈する妖達を交えてなかなかにスリリングであった。事件が解決してからがちょっと物足りないが、外伝である以上仕方ないだろう。初めての雰囲気の中で頑張る仁吉や妖達がイジらしい独特の、というか、当然ながら初めての雰囲気の中で進む物語は斬新であった。

 

 (明治の世は、まだまだ何もかもが途中だ)

  夜は明るくなったが一部のみだし、新しい暮らし、新たな生業をつかみ取るのも大変だ。全てを自分で、あがくように作り上げていかねばならないからだ。

  この地は、希望と興味と力強さに溢れてはいる。だが反面、厳しさと無情さにも満ちていた。時を越え、アーク灯の明かりまでたどり着いた妖、仁吉はそれを感じていた。

(それが、明治か) 

 

  

 

 

 時は流れて江戸から明治へ。夜の銀座で、とんびを羽織った男が人捜しをしていた。男の名は、仁吉。今は京橋と名乗っている。そして捜しているのは、若だんな!?手がかりを求めて訪ねた新聞社で突如鳴り響く銃声!事件に巻き込まれた仁吉の運命は―表題作「えどさがし」のほか、お馴染みの登場人物が大活躍する全五編。「しゃばけ」シリーズ初の外伝、文庫オリジナルで登場。

 

ひなこまち / 畠中恵

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   しゃばけシリーズ、第11巻。今回も五編からなるが、全体を通してのテーマは「若だんなの人助け」、そして裏テーマは「ゆんでめて」の後始末。

 

  第一話「ろくでなしの船箪笥」冒頭で、若だんながある日、一つの木札と出会うところから話は始まる。それは櫓炬燵を作りに来た指物師の荷に紛れてやってきたのだが、

 

「お願いです、助けて下さい」

 

という文が書かれていた。ただ、 救うだけでなく、

 

五月の十日まで

 

と日時が切られていたのだ。そうでないと間に合わないという。 なんとも変で、手代の二人は放っておきなさい、と当然のごとくいうが、若だんなは気になって仕方ながい。   そこから一話ずつ若だんなの人(妖)助けが始まる。

 

  この第一話では、もう常連となった「小乃屋」の七之助冬吉兄弟が、上方の本家の祖父が形見として残してくれた船箪笥が開かないので困り果てていると、相談にやってくる。どうも妖が関係しているらしいので若だんなに助けてほしいというのだ。

  第二話「ばくのふだ」では、悪夢を食うという「獏(ばく)」が悪夢を食わなくなって巷に悪夢のような出来事が蔓延し始める。しかもそのばくは悪夢を食べているうちにその悪夢を話すのが好きになり、本島亭場久(ほんとうていばきゅう)という落語家になっていた。そのばくが若だんなご一行の目の前で一席ぶっていると突然謎の侍に切りつけられそうになるが、手代や妖たちの活躍でことなきを得る。後日ばくは若だんなに助けを求めにやってくる。

 

  第三話表題作「ひなこまち」では、浅草の人形問屋平賀屋が、美しい娘を一人「雛小町」に選び、その表を手本にして立派な人形を作ることになる。しかもその雛人形を注文したのは某大名家らしく、その人形を納めに行く際には手本にした娘も同道し、雛小町としてお殿様にお目もじが叶う。うまくいけば側室にだって、と江戸の町は大騒ぎに。そんなある日、長崎屋の離れを見つめる人影、屏風のぞきが逃げる相手を追ってみると極貧の古着屋の娘で、しかもその古着屋から一番いい古着が盗まれ、、、

  というわけで、若だんなたちは古着窃盗団探しを助けることになる。

 

  と、ここまで人、妖助けの話が続くが、どれも木札に助けてくださいと書いた主ではない。

 

  それともう一つ、この第11巻の裏テーマが通奏低音のように流れている。それは第9巻「ゆんでめて」で、なかった事になった未来の話である。それがボツリポツリと顔を出す。

 

第一話では佐助が出会ったことが無いはずの関東の河童の大親禰々子(ねねこ)の名前を口走り、不思議がる。

第二話では仁吉が川に落ちた屏風のぞきに「また若だんなを酷く心配させる気か」と怒る。

 

そして第四話「さくらがり」冒頭、なかったはずの飛鳥山の花見のことをみんななんとなく覚えているようである。そして、、、

 

  一太郎たちご一行は上野広徳寺に泊まり込みの花見に出かけ、そこで一太郎は本当に河童の大親分・禰々子(ねねこ)と出会うのである。彼女は、第1話で世話になった子分のお礼を渡すために来たという。

 

  そのお礼とは五種類五色の河童の秘薬。彼女はその効能を説明し一太郎に渡したのだが、その話を、安居(あんご)という侍が陰で聞いていて、その薬を是非とも欲しいと言い出す。安居は妻の雪柳にぞっこん惚れ込んでいるのだが、子供ができない。それ故安居が二人で楽隠居を、と言ったところ、雪柳は出家を言い出したというのだ。

 

  その話が 第五話「河童の秘薬」につながる。

  ある日、その雪柳が突然若だんなのもとを訪れる。彼女は、一太郎から譲り受けた五種薬のうちの黄色の薬を飲んだが、何も変わらないという。ちなみにこの黄色の丸薬は、平安の昔、狐の嫁が幸せになる為飲んだ薬だが、薬効は不明、飲むなら人生を賭けるしかないというもの。

 

  ところで彼女は長崎屋を訪れる際、一人の幼子を連れていた。しかし雪柳は自分の子ではない、長崎家の子だと思っていたという。となると迷い子、届け出なければと一太郎らは外出するが、自身番や町役人の家はなぜか大騒動の最中で取り合ってくれない 。

 

  そんなこんなで連れて回るうちにその子が消えてしまって大捜索が始まる。そんな中、例のばくの本島亭場久に出会い、若だんなたちは誰かの夢の中に迷い込んだことを知る。

  とりあえず一人だけ夢から出て解決法を探ることになった佐助が、女河童ながら関東の河童の大親分でものすごいパワーのある禰々子と大喧嘩を始めたため、夢の中の世界は大地震にみまわれてしまうが。。。さあその事の顛末は?

 

  もちろんこのシリーズのことであるから、ハッピーエンド、ひなこまちの話と安居、雪柳の話が見事に融合し、例の木札を若だんなに送った主も明らかとなる。

 

  このあたりの連作のコツを畠中さんは完全につかんでおり、かつ他作品との連関もうまく処理されるようになってきた。次回作も楽しみである。

 

長崎屋へ舞い込んだ謎の木札。『お願いです、助けて下さい』と書かれているが、誰が書いたか分からない。以来、若だんなの元には不思議な困りごとが次々と持ち込まれる。船箪笥に翻弄される商人、斬り殺されかけた噺家、売り物を盗まれた古着屋に、惚れ薬を所望する恋わずらいのお侍。さらに江戸一番の美女選びまで!?一太郎は、みんなを助けることができるのか?シリーズ第11弾。(AMAZON解説より)

 

堕落論 / 坂口安吾

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   「本が好き!」の企画に参加したのでこちらにも残しておく。

 

  新潮文庫版「堕落論」には17編の評論随筆が収録されており、解説は柄谷行人氏が書いておられる。講演録と思われる作品もあるが、ほとんどは安吾らしい「無頼派」な文章で彼一流の美学が貫かれている。「日本文化私観」に曰く、

美しく見せるための一行があってはならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。(p79)

 

  卑近なことから高尚な文学論まで思いつくがままに書いているように見えて安吾としては「必要」なことしか述べていない。これが彼の著述の根底にあり、その見本のような作品集が本書と言える。そして本書でその中心にあるのが「堕落論」。

 

  この「堕落論」は戦後間もなくの日本にあって、これだけ身も蓋もないあけすけな評論をよく書けたなと思うほど「無頼」な内容と文章。ごく簡単にまとめてしまえば、

 

『特攻隊の生き残りが闇屋になったからと言って、戦争未亡人が二夫にまみえたからと言って、それは“戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。” 日本人は実は古来からそのような人間の本性を見抜いており、だからこそ時の権力者は統制のために“武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられな”かった。』

 

そしてつまるところ、

自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。(p86)

 

と結んでいる。本作品が書かれた昭和21年の元旦に発せられた「天皇人間宣言」に準えるなら、安吾流「日本人人間宣言」と言える内容。

 

  短い評論ではあるが、これだけの趣旨を述べるのにまるでフリートークを口述筆記したように安吾の話はあちらへ飛び、こちらへ飛び、全く淀むところがない。それでいて彼の「必要」とした主張はまったくぶれないし、結局は首尾一貫した構成になっている。おまけに随所におおっと思わせる名文を散りばめて唸らせる。

 

  もし一気呵成に書いたのであれば天才のなせる技としか言いようがないし、逆に推敲に推敲を重ねたのであれば、それはそれで、その苦労の跡を微塵も見せないところが天才的。

 

  要するに彼は文章の天才であったのだと。それが私の最も感じ入るところだ。同時代の名文家には盟友小林秀雄や、同じく無頼で破滅的な人生を歩んだ太宰治がいたが、この三人の文章はお互いに全く似ていない。

 

これって凄くない?

 

と今風に言ってみる(笑。

 

  ちなみに衒学的で韜晦に満ちそれでいて一部の隙も見せない完璧な文章を書いた小林秀雄のことを安吾も「教祖の文学-小林秀雄論ー」で論じ、揚げてはこき下ろしを繰り返していて安吾の面目躍如たるものがある。それでもちゃんと、

思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ。(p110)

小林はちかごろ奥義を極めてしまったから(中略)小林秀雄も教祖になった。(p112)

 

と認めており、この小林論はとても痛快で面白いのでお勧め。

 

  また、同じく私生活の無頼派であった太宰治のことを悼み、「太宰治情死考」でこう述べている。

太宰のような男であったら、本当に女に惚れれば、死なずに生きるであろう。(中略)太宰は小説が書けなくなったという遺書を残しているが、小説が書けない、というのは一時的なもので、絶対なものではない。こういう一時的なメランコリを絶対のメランコリにおきかえてはいけない。それぐらいのことを知らない太宰ではないから、一時的なメランコリで、ふと死んだにすぎなかろう。(pp138-9) 太宰の自殺は、自殺というより、芸道人の身もだえの一様相であり(中略)こういう悪アガキはそっとしておいて、いたわって、静かに休ませてやるがいい。(p140)

 

  ちょっと寄り道しすぎた、「堕落論」に戻り凄いなと思った文章を拾ってみる。彼は冒頭で姪の一人(おそらく村山喜久のこと)が21歳で自殺したことをさりげなく書いているのだが、中盤でこのような哀悼とも自虐ともつかぬ痛切な文章を挟んでいる。

 まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希うことは小さな人情で、私の姪の場合にしたところで、自殺などせず生きぬきそして地獄に堕ちて暗黒の曠野をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにも拘かわらず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。(pp79-80)

 

  あけすけに60のババアより20の美女の方がいいに決まってるだろと嘯きながらも、何と生きることの真理をついている事か。

 

  そして彼は、私は内心戦争反対でした、というような綺麗ごとなど一切言わない。

 私は血を見ることが非常に嫌いで、いつか私の眼前で自動車が衝突したとき、私はクルリと振向いて逃げだしていた。けれども、私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾に戦(おのの)きながら、狂暴な破壊に劇しく亢奮していたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。(p80)

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた(中略)偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。(p83)

 

  東京大空襲のような非人道的大破壊を美しく興奮するものだと言い切り、そこから「堕落」を肯定へと転じる、この見事なレトリックと文章の巧さ。。。 余人の決して真似できぬ安吾節ここにあり、という名文だと思う。

 

  「続・堕落論」はさらに過激になり、日本人の「耐乏」や「忍苦」に舌鋒鋭く切り込んでいるが、文章としてはこの「堕落論」の美しさには及ばないと思う。ただ、柄谷氏が解説で述べているように、この評論において激烈に天皇ファシズムを批判し、

それにとどまらず、安吾は、天皇制の「カラクリ」を記紀の中に見ようとした。(p287)

  そこから安吾は思索を深めていき、本書収録の「歴史探偵方法論」という名著でその「探偵方法」を説明した上で、日本の古代史家を

推理の方法に於てこう劣等生では学問としてあまりにたよりない。(p239)

と批判している。これは「逆説の日本史」の井沢元彦氏が近年再度徹底的に批判した点であり、天皇人間宣言から間も無くの時期にこれだけの炯眼を披露していた安吾はさすがだ。

 

  ということで本書の後半はこの「歴史探偵」安吾の日本史評論が中心となり、それはそれでとても面白いが、あまりに長くなるのでこの辺で筆を置く。

 

  「堕落論」はその後小説「白痴」に昇華する。これもまた新潮文庫に入っていますのでいつかレビュー出来たらいいなと思っている。

 

やなりいなり / 畠中恵

⭐️⭐️⭐️

  しゃばけシリーズも第十巻、例によって五つの作品が並ぶが、今回の特徴は「料理」。しゃばけシリーズのお楽しみである江戸時代の料理、それを今回は各作品に活かし、レシピを冒頭に掲げている。さらに解説では東京大塚の江戸前料理店経営の料理家福田浩さんが作られた料理、「若だんなの朝ごはん-とうふづくし-」を畠中さんが召し上がるという趣向。羨ましい(w。

 

 偶然みかけた美しい娘に、いつになく心をときめかせる若だんな。近頃日本橋通町では、恋の病が流行しているらしい。異変はそれだけに止まらず、禍をもたらす神々が連日長崎屋を訪れるようになって…。恋をめぐる不思議な騒動のほか、藤兵衛旦那の行方不明事件など、五つの物語を収録。妖たちが大好きな食べものの“れしぴ”も付いて、美味しく愉快な「しゃばけ」シリーズ第10作!

 

こいしくて」 料理:小豆粥

  長崎屋のある日本橋通町ではこの頃病は病でも「恋の病」が大流行。一方、長崎屋の病弱な若だんな一太郎のもとには、疫神、禍津日神(まがつひのかみ)、時花神(はやりがみ)、疱瘡神、風伯(ふうはく)と次から次へ来て欲しくない厄災の神々が訪れる。

  どうも通町へ通じる大きな橋、日本橋と京橋のうち、京橋の橋姫がよく通る神の誰かに片想いをして、結界を張るのを放棄したためらしい。さて、それは誰か、その騒動の顛末は?

 

やなりいなり」 料理:鳴家稲荷

  長崎屋の奥方に仕える守狐が、若だんなに元気を出してもらおうと鳴家稲荷(やなり稲荷)という細めで海苔で鳴家の顔が描かれたいなりを持ってくる。例によって例のごとく若だんなの前に鳴家たちが群がるが、そこに一本の手が伸びている。幽霊だ。若だんなは寛朝の護符を貼ると、幽霊は正体を現す。溺れ死んだ噺家らしいが、その噺家もなぜ死んだかよくわからない。

  あれこれ調べているうちに幽霊がまだ生き霊で近くの長屋で意識が戻らぬまま師匠の娘に看病され続けているらしいと判明。しかし何故か幽霊は長崎屋に居続けたがる。

 

  人情噺と捕物帖がうまくミックスされて、最後はいつものように日限(ひぎり)の親分の手柄となる。安定調和の上手い話。

 

からかみなり」 料理:栄吉のあげ出しいも

  雨が降らず雷の音だけが響く、からかみなり(空雷)。江戸の空にその雷鳴が響き渡るところから話は始まる。長崎屋の主人藤兵衛が出先でその空雷を聞いた後、一緒だった小僧の梅丸と別れた後、三日間戻らないという事態が勃発。

  心配な若だんなは探しに行きたがるが、手代二人が許すはずもない。貧乏神金次の提案で妖たちと賑やかな推理合戦が始まる。屛風のぞき、守狐、若だんな三者三様の推理は面白くはあるものの、若だんなが正解するのはお約束、ちょっとマンネリ。その後の展開はビリビリ感満載で楽しめるけれど。

 

長崎屋の卵」 料理:長崎屋特製、ゆでたまご

  「からかみなり」と同じく天から何かが降ってくる。今度は茜色の夕焼け空の雲から。そして途中に「こいしくて」のエピソードも挟まれる。そういう意味では緩やかな連関をなしていて楽しめる。とは言え、いささか食傷気味のネタでかつ長い。ちょっとシンドイ。

 

あましょう」 料理:お酒大好き妖の、味噌漬け豆腐

  ラストはなかなかに泣かせる人情噺。あましょうとは雨性のこと、雨男雨女の類。最後にこんな粋な文章がある。

 

 実際、新六は目に涙を溜め、拭いもせず流しはじめていた。五一という雨性な男が、天に雨雲を連れてきて、顔に降らしたかのようであった。

 

  安野屋に菓子作りの修行に出た親友栄吉を久しぶりに訪ねた若だんな。だが、生憎と栄吉は忙しくて相手ができない。それもそのはず、近くの浜村屋の長男新六が大量に菓子を買い込んでいる。その新六、ついてきた親友の五一と口喧嘩を始め、やかましくてしょうがない。堪りかねた安野屋の主人は栄吉に浜村屋へ商品を運ぶよう新六のお供をいいつける。栄吉と話もできずに帰るのは嫌だと若だんなは栄吉についていくが、新六と五一の喧嘩は一向に収まらず、、、

 

  二組の親友の物語。最後は吉本新喜劇ばりのベタな展開になるが、その後に明かされる五一の真相、そして上に掲げた引用文にホロリと涙。

 

  というわけで、このシリーズもそろそろ胸突き八丁にかかってきた。あと少し頑張ろう。

 

 

小鳥たち / 山尾悠子、中山多理

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  山尾悠子待望の新刊である。今回は人形作家の中川多理さんとのコラボレーションで、作品数は掌編三編と少ないが、中川さんの「小鳥たち」や「老大公妃」の人形の写真が多数挿入され、「怖いけれど美しい」という共通する個性が共鳴し合い、とても素晴らしい作品となっている。

 

  山尾悠子の作品は三編。その冒頭の一文。

 

   小鳥のやうに愕き易く、すぐに動揺する性質(たち)の水の城館の侍女たち、すなはち華奢な編み上げ靴の少女たちは行儀よく列をなして行動し、庭園名物の驚愕噴水にうかうか踏み込むたび激しく衝突しあふのだつた。

 

  このように珍しく旧仮名使いながら紛れもなく山尾悠子の文章の「小鳥たち」、元の語り口に戻った第二作「小鳥たち、その春の廃園の」、そして書き下ろしで最も長い第三作「小鳥の葬送」と続く。そしてその間に中山さんの人形の写真が多数挿入される。

  このような連環で互いにインスパイアしあいながら紡ぎだされる山尾さんの文章はますます磨きがかかり美しい。今回のメインイメージは水と空。特に「水の城館」の噴水、庭園、グロッタ、小鳥の侍女たちが飛翔する空、幾星霜経たかわからない廃園の描写が見事。
  中山さんの人形では、最後の老大公妃黒侍女が見事で、山尾さんの物語世界のイメージを驚くほど見事に体現しており、これには山尾さんもあとがきで驚愕したと絶賛されている。

 

  最後に特筆すべきは、ミルキィ・イソベ氏主宰のステュディオ・パラボリカ実に丁寧な製本。紙質、綴じ方、文章の配置、フォント、写真の色彩、構成、配置、全てに神経が行き届いており、これこそ電子書籍では無く、紙の書籍として買う価値がある、と思わせてくれる。これほど綺麗な綴じ糸を見たのは久しぶりだ。

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ピンクの綴じ糸

 

降りそそぐ小花、時空はゆらぎ、 小鳥の侍女たちが行き交う庭園と城館。 そこは迷宮? 小説と人形が織りなす奇蹟の幻想譚。 第46回泉鏡花文学賞受賞作家 山尾悠子の最新作! ! あらたな領域に踏み入る記念碑的小説である。 ★物語と人形たち まず山尾悠子による「小鳥たち」という掌篇が書かれ、登場する小鳥たちを人形作家の中川多理が創作した。その人形作品を踏まえて『夜想#中川多理―物語の中の少女』に続編「小鳥たち、その春の廃園の」が書かれ、再び呼応して新たな人形が作られた。 それを受けて、最終章「小鳥の葬送」が書き下ろされ、ついに中川多理の手から大公妃が産み出された。 ★摩訶不思議な幻想小説の奇蹟の成立 山尾悠子の幻想譚は、場面が揺らぐように紡がれていき、確かにそこに伽藍はあるのだけれどもこちらの認識が朧になるという快楽性をもっている。構造はあるが、揺らいでグラデーションでずれていく。その揺らぎに現実の人形が参加しているのだ。 母、娘、そして侍女……幻想の物語、幻想の人形そして幻想の本として収斂する『小鳥たち』。 

 

 

クジラアタマの王様 / 伊坂幸太郎

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  伊坂幸太郎の新作書き下ろし長編。彼の新作といえば「シーソー・モンスター」をレビューしたばかりだが、あちらは螺旋プロジェクトの一環で、こちらは単独作品。伊坂さんこの頃ハイペース。そういえば「シーソーモンスター」の「アイムマイマイ」という絵本がこっそりと一度だけ出てくるので、そちらのファンはお見逃しなく。

 

  さて、この小説、伊坂幸太郎が長年温めていた構想である、アクションシーンに作品の一部としてコミックパートが含まれる構造となっている。ちょうど一気に読みきれれる分量毎に挿入されるので、絶妙のアクセントとなり、かつ「夢」パートのアクションの理解を助けており、いつも以上にテンポがいい。そしてそのコミックパートを担当した川口澄子さんのイラストがバンドデシネ風でこれもこの作品の魅力となっている。

 

  さて、物語のきっかけは某製菓会社にかかってきたクレーム電話と、新型インフルエンザに対する日本人の過剰反応。いかにも社会派伊坂幸太郎らしい題材だが、これも伊坂らしく、こういう風に料理するのか〜、と感心するやら呆れるやら、このあたりがAMAZONのレビューなんかを見ても、賛否両論分かれている。

 

  主人公は、製菓会社広報部員君、人気ダンスユニットメンバー小沢ヒジリ、そして都議会議員池野内征爾の三人。ちなみに伊坂が大ファンである楽天イーグルス岸孝之投手、引退した聖澤選手から名前を頂いたそう。ちなみに小澤征爾のファンかどうかは書いてない。

 

  で、岸君の製菓会社のマシュマロ新商品が小沢ヒジリのクチコミで爆発的人気となり、一方クレーム電話を入れてきたのが池野内の妻だった、というところからいくつかの経緯を経てこの3人が出会い、本格的に話が動き出す。そしてこの三人が偶然8年前に金沢の同じホテルに宿泊しその夜に起こった火事を経験していたという事実が浮かび上がってくる。

 

  そこからシリアスな方に振れないのがいかにも伊坂。池野内が言うには、この三人が「」の中で勇者として怪物と戦っている。そして夢の中で怪物を倒すと現実世界が良い方向に変わるんですよとのこと。そして金沢の夜も夢の中で三人がオオトカゲと戦って倒したので皆が助かったのだと主張する。夢のことは覚えていないタイプの岸君は半信半疑、でも、何かそういう感じの記憶がないでもない。小沢ヒジリははっきりと夢を覚えているタイプで、その通りだという。

 

  なんとも珍妙と言うか不思議な展開で、池野内の言う通り、夢の中の世界のモンスト的戦闘と現実の事件がリンクして話が進み、モンスターを倒すたび現実の事件が良い方に解決して第三章までが終わる。もちろん伊坂風のライトでユーモアに富んだ語り口なのだが、そんなわけで今回はちょっとシュールな雰囲気も漂う。

 

  そして最終第四章は一気に15年が経過している。夢の中で「クジラアタマの王様」という学名を持つモンスターに三人は叩きのめされて敗北。それとともに現実でとんでもない厄災が降りかかる。はたして三人は双方の世界で巻き返すことができるのか?


  出たばかりでネタバレはやめておくが、さすが伊坂、前半でばらまいていた伏線を次から次へ回収していく。というか、あれもこれも伏線だったのか、と唖然とするほど。

  その中でも15年後に社長となっている人物が今回はなかなかイケてた、と思う。

 

  というわけで374Pある大作だが、あっという間に読みきってしまった。賛否両論あるにせよ、さすが伊坂だと思うし、かつ螺旋プロジェクトと言い、コミックパートの挿入と言い、常に新しい挑戦をやめない姿勢は高く評価したい。

 

待望の最新書き下ろし長篇小説。巧みな仕掛けとエンターテインメントの王道を貫いたストーリーによって、 伊坂幸太郎の小説が新たな魅力を放ったノンストップ活劇エンターテインメント。 異物混入、政治家、アイドル、 人々の集まる広場、巨獣、投げる矢、動かない鳥――。 伊坂幸太郎の神髄がここに。(AMAZON

 

しゃばけ読本 / 畠中恵

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  畠中恵さんのしゃばけシリーズ、ここでちょっと一休み。ちょうど「ゆんでめて」まで来たところで出た解説本「しゃばけ読本」をご紹介。「しゃばけ」シリーズの解説や畠中さんの創作の裏側を覗けるのもさることながら、いつもシリーズの表紙を飾るかわいいイラストレーションを担当しておられる柴田ゆうさんが全面的にフィーチャーされているのが嬉しいところ。

 

・ 『しゃばけ』から『ゆんでめて』まで! 物語紹介

・ おこぐとあゆぞうによるしゃばけシリーズ 登場人物解説

・ 畠中さんにロングインタビュー

・ 新旧長崎屋間取り図

・ 時代用語解説

・ 対談 上橋菜穂子 X 畠中恵

・ しゃばけグッズの歴史

・ しゃばけオンラインショップ 神楽坂屋 開店しました

・ 根付制作現場を見に行こう!

・ 畠中恵の選り抜き「あじゃれ」よみうり

・ 絵師 柴田ゆう 蔵出しあやかしギャラリー

・ 若だんなと歩こう! しゃばけお江戸散歩

・ しゃばけ登場人物たちに、おこぐが直撃インタビュー

・ 畠中恵柴田ゆう・あゆぞう in 名古屋造形芸術大学 母校で夢のトークセッション

・ 鳴家絵描き歌

・ 特別収録 絵本『みぃつけた』

 

  率直なところ、畠中さんの創作の裏側にはあまり興味がなく(をい、それに今までの解説で知っていることも多く、その辺は流し読み。やはり、柴田ゆうさんのイラスト付きでこれまでのシリーズや主要キャラクタを解説されているのが、これからのシリーズを読んでいくにあたっての復習予習になってよかった。

 

  ちなみに若だんなのお店、大店の長崎屋があるのは日本橋の「通町」。現在ではどの辺なのか?「しゃばけお江戸散歩」によると、なんと高島屋日本橋丸善が並ぶ中央通りあたりになるそう。東京駅にほど近い超一等地だな〜、今度東京に行くことがあったら、この本持って散歩してみよう。

 

  で、最後はこの本オリジナルの物語、「みぃつけた」。幼少の頃の一太郎が初めて鳴家を見た時の物語を柴田ゆうさんとの共作で絵本に仕立てていて面白い。

 

  と、これで終わったらあっさりし過ぎているので、柴田ゆうさんの「鳴家絵描き歌」を実際にやってみた。笑ってやってください。 

 

 

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鳴家絵描き歌

 

病弱だけれども、優しくて知恵の働く若だんなこと一太郎と、彼を見守る摩訶不思議で愉快な妖たちが、お江戸に起こる難事件珍事件を解決!大人気しゃばけシリーズのナビゲートブックが出来ました。物語や登場人物の解説はもちろん、戯作者&絵師の創作秘話、美麗イラストギャラリーなど、ファン必携の一冊です。一太郎と鳴家の初めての出会いを描く、絵本『みぃつけた』も特別収録。(AMAZON)

 

椿宿の辺りに / 梨木香歩

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  梨木香歩さん五年ぶりの新作は「f植物園の巣穴」の続編。前半のまったりしたユーモアは楽しめたが、後半「非常な不幸に見舞われている佐田家の子孫」の原因を実家と椿宿全体の治水の話に結びつけていくあたりは牽強付会過ぎて、というか「異界譚ファンタジスタ梨木香歩」さんにしては真面目にまとめすぎており、肩の痛みを必死にこらえながら痛い話を執筆された梨木さんには申し訳ないのだが、率直なところ隠り江のごとく「流れが滞っている」感が否めなかった。

 

深遠でコミカル、重くて軽快。 著者五年ぶりの傑作長編小説。 自然、人間の体、こころの入り組んだ痛みは 家の治水、三十肩、鬱と絡み合い、主人公を彷徨えるツボ・椿宿へと導く。 皮膚科学研究員の佐田山幸彦は三十肩と鬱で、従妹の海子は階段から落ち、ともに痛みで難儀している。なぜ自分たちだけこんな目に遭うのか。 外祖母・早百合の夢枕に立った祖父から、「稲荷に油揚げを……」の伝言を託され、山幸彦は、鍼灸師のふたごの片われを伴い、祖先の地である椿宿へと向かう。 屋敷の中庭には稲荷の祠、屋根裏には曽祖父の書きつけ「f植物園の巣穴に入りて」、 明治以来四世代にわたって佐田家が住まいした屋敷には、かつて藩主の兄弟葛藤による惨劇もあった。 『古事記』の海幸山幸物語に3人目の宙幸彦が加わり、事態は神話の深層へと展開していく。 歯痛から始まった『f植物園の巣穴』の姉妹編。(AMAZON

 

  主人公は「f植物園の巣穴」の主人公田豊から三代降った子孫たち、日本神話の海彦山彦に材を得た、佐田山幸彦(通称山彦)、佐田海幸比子(海子)、鮫島宙幸彦(宙彦)である。この変な名前をつけさせた張本人でこの物語のキーマンとなるのは 、豊彦が巣穴(の夢)から戻って妻を大事にするようになってからもうけた子供佐田藪彦である。

  とにかく代がこれだけ降っているので、また佐田家の遠い親戚鮫島家や山幸彦の母型の家系も絡んでくるので、しばらくは把握が大変である。家系図のメモを取りながら読み進めるのが吉である。

 

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佐田家鮫島家家系図

 

  さて、物語はこの佐田家の子孫たちが「非常な不幸に見舞われている」ところから始まる。とにかく「痛い」のである。そして螺旋プロジェクトみたいだが、「山」彦と「海」子はソリが合わないのである。

  まず豊彦に一番似ている山彦は、海子に言わせれば陰険で小心、鬱陶しいほどいつも敬語で話す。そして元々鬱で頭痛・腰痛持ち、それに最近四十肩(本人曰く三十肩)と頚椎ヘルニアが加わり、激痛でにっちもさっちもいかなくなっている。

  一方従妹の海子は山彦に言わせればガサツで単純で口が悪い。階段から落ちあちこち痛いと思ったら難病指定のリウマチ性多発筋痛症という診断がくだる。

  なんで自分達だけが、というところから、祖父の藪彦がつけた自分達の名前にもつい愚痴が出る。

 

  そんなところへ、遠方の投網市美杉原四ー三(旧地名)椿宿(つばきしゅく)にある先代から貸したままの実家の店子から「賃貸契約を打ち切りたい」という手紙が舞い込む。

  そしてその差出人に山彦は驚く。「鮫島宙彦」という名前だったからである。そして中の書類を見てもっと驚く。戸籍上の本名が「鮫島宙幸彦」だったからである。

  早速山彦は海子に電話する。性格上予想されるように海子はあんまり驚かない。それより痛みをどうかしたら、私が通っている鍼灸院を紹介したげる、と言う。

 

  この二人の会話は螺旋プロジェクトに入れたかったくらい面白い。

 

  そしてここから、思いっきり自己中の母野百合(これがまた面白い)の祖母で叔母百合根宅で寝たきりの小百合がやってきた山彦に、佐田のおじいさん(亡き藪彦)が「椿宿の家の後始末」やら「稲荷に油揚げを」やらのお告げをした話を挟みつつ、山彦はその母の実家の近くにある「仮縫鍼灸」へいくことになる。

  カリヌイ、アヤシゲもいいところだが、実際その鍼灸院の先生は白髪白鬢の老人で絵に描いたように怪しい風貌であり、おまけにその双子の妹亀子(かめし)は霊能力者。。。

 

  私なら逃げて帰りそうだが、当然ここはこの「亀シ」が話に深く関わってくる。痛みの原因は実家にあるし稲荷に油揚げは必要、山彦が行くのならついていくという。私なら丁重にお断りするところだが、そこはそれ、やっぱり二人で出かけるのである。

 

  で、途中で運良くというか、亀シの霊感というか、話の都合上というか、亀シがトイレを探してたどり着いた、投網市の隣の茎路(くくじ)市にある喫茶店椋の木」をやっていたのが鮫島宙彦の母竜子と妊娠中の妻泰子(たいこ)なのであった。

 

  この辺りの超御都合主義的展開もとっても面白い。おまけに今回は夢ではない。

 

  ただ、一人だけいない奴がいる、そう、宙彦である。この男「癇が強くて放浪癖がある」という設定ではあるのだが、なんと、妻が妊娠した途端、家を出て行方不明なのだ。なんという男。。。

 

  もちろん、途中で挟まれる藪彦の「宙幸彦の冒険」という海彦山彦を自己流にアレンジした話の通り、終盤で連絡は取れ、やはりこの男がキーマンであったか、ということになる。ちなみに藪彦がこういう話を書いた裏には、例のカエル小僧、水子道彦が長男扱いされることへの鬱屈があったのであった。やれやれ。

 

  問題はこの間、椿宿の実家に辿りついてからの話である。というか、これが本題なのであるが、そこはかとないユーモアはあっても基本マジメ路線なのである。

  「f植物園の巣穴」でも一つのテーマであった「イエノチスイ」から椿宿の間違った治水、さらには大昔からの川の氾濫、大昔の南海トラフ地震、火山の噴火と続く災害の影響は今でも残っており、地方全体の治水が必要なのだというでかい話になってくる。

  そして「稲荷に油揚げ」の方は、この実家で起こった江戸時代の家老一家の集団自害という悲惨な事件、佐田家のそもそもの由来の方へと話が進んでいく。

  さらには曽祖父の書き残した「f植物園の巣穴にて」という書きおきがみつかる。

 

  とっても面白そうじゃないか、と思わるかもしれないが、「f植物園の巣穴」から始まった面妙なストーリーにきっちりとした落とし前をつけなければならなかったところにこの物語の「無理」があるのではなかろうか。

 

  真面目になると、治水の話ではないが、前作から本作前半にかけてののらりくらりの程よい流れが滞る。よって宙幸彦の説明も今ひとつ面白くないし、それに対する山彦の返事も、痛みの結末も、イマイチ感が否めなかった。

 

  ただ、これは「f植物園の巣穴」の方が好みであった一読者の意見である。あっちを「フザケンナ」と怒られた方にはこの「椿宿の辺りに」の方があうのではないか、と思う。