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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

増補 夢の遠近法 / 山尾悠子

⭐️⭐️⭐️⭐️

  「ラピスラズリ」に引き続き、山尾悠子である。原点に戻って、初期作品群から選ばれた短編集「増補 夢の遠近法 初期作品選」を読んでみた。

  作者解説によると、「ラピスラズリ」にひきつづき、ちくま文庫より声をかけていただき、よりコンパクトなかたちで再び若い頃の作品を世に出せた、ということである。

  せっかくの機会なので、国書刊行会より出た単行本「夢の遠近法」に「パラス・アテネ」「遠近法・補遺」の二篇を加えたそうで、計13の短編が収録されている。

  その多くが、1970年代後半~80年代前半に「SFマガジン」「奇想天外」に発表されており、昔目にしたことのある作品で懐かしく思った。

 

  全部で13の作品が収録されているが、「ラピスラズリ」で感じた靄の中を彷徨うような独特の文体、美しく幻想的なイマジネーションはもうデビュー作から完成の域にあったことがこの作品集を読むとよくわかる。とにかくひたすら圧倒された、文章フェチにはたまらない、凄い作家だ。

  ただし、すごく集中力を要する。気力の充実しているときに読まないと、文章の途中で迷子になってしまう

  

  嬉しいことに各作品についてご自身の解説があるが、とりあえず主だったところの寸評感想などを。

 

夢の棲む街」: 同志社大学に在学中に書き上げSFマガジンに応募したという記念すべきデビュー作。大海の中の円形の砂漠のような島の中央にヘソのようにすり鉢状に窪んだ小さな街。閉じられた世界。星座が絵のように巡る空さえも天蓋となって街を覆う。そこに住む「夢食い虫」、籠の中の侏儒、腰から足だけが異様に発達した踊り子達。これらの題材を見事に料理して最後のカタストロフへ持ち込む。もうこの一作だけで圧倒された。栴檀は双葉より芳し、脱帽。

 

月蝕」: 珍しく現実の京都が舞台。真面目なモリミーみたいな感じ。やはり山尾悠子は架空世界に棲むべき、かな。

 

ムーンゲート」: これは本当にすごい。彼女が殆どの作品で拘って描いているモチーフが「」であるが、この作品に於ける水と月をモチーフとしたイマジネーションの奔流、それを支える綿密な架空世界の構築は別格、美の粋を尽くした傑作だ。敢えて言えば題名をわざわざ英語にせず「月の門」でもよかったのでは。

 

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ジュリオ・ロマーノ テ宮殿巨人の間の天井画

 

遠近法」: 初期の代表作。石作りの人口世界「腸詰宇宙」(「合わせ鏡の宇宙」「遠近法魔術の宇宙」「飛翔と落下の一致する宇宙」「内臓宇宙」とも言う)の内壁の回廊に住む人々、そして「天の種族」。モチーフはジウリオ・ロマーノ のテ宮殿の天井画、ボルヘスの「バベルの図書館」。’私’が’彼’の小説を紹介しているという小説内小説形式、そして最後のツイスト。完成度の高い小説だが、理が勝ちすぎて文章があまり美しくないところが文章フェチにはやや不満。

  そういう意味では「遠近法・補遺」の方は、このややこしい宇宙の説明が済んでいるのでひたすら散文詩的であり、幻想的なイメージが横溢していて私好みだった。

 

 

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クリムト「パラス・アテナ」

パラス・アテネ」:  ちょうど今ウィーン・モダン展で来日しているクリムトの「パラス・アテナ」で有名なギリシア神話の女神を題名に戴いた幻想小説
  著者解説によれば四部作で完結させる予定で書き始めた第一部にあたるそうだが、これだけで80Pもありこの作品集の中で最も長い中篇と呼べる大作となっている。

  これまた架空世界が舞台で、土地神となった少年、狼神の統べる地の領王の年越祭の狂乱の夜、糸を吐き繭をつくる種族、そして千年帝国の野望と壮大に展開するスケールの大きなファンタジーだった。書かれた時代からして、モー様か竹宮先生が漫画化すればすごい人気が出たかも。。。

 

  あとは支那幻想、透明族、山尾流ウィリアム・ウィルソン、幻影の盾、スリーピング・ビューティ等々、読んでのお楽しみというところ。最後の「天使論」の後、山尾悠子は20年の休眠に入る。

 

この言葉の宇宙が崩壊する時、鏡の破片や砂のかたちをした言葉のかけらが落下していくだけだ。
  誰かが私に言ったのだ
  世界は言葉でできている
  太陽と月と欄干と回廊
  昨夜奈落に身を投げたあの男は
  言葉の世界に墜ちて死んだと
そして陰鬱な蛇が頭を下に墜ちてくる。
(遠近法・補遺より)

 

銀河英雄伝説大考察(マイウェイムック)

⭐️⭐️

  映画待ちでふらっと本屋に立ち寄って目に入ってしまった。話のネタに丁度よさそう、とパラパラめくっていたが、妙に胡散臭い。このムック、文責ライターが記載されていない。誰が書いたか分からないものには手をつけるべきではないかとも思ったが、カラーページが綺麗だしついつい買ってしまった。買ってから分かったが、堂々と

非公式な考察・副読本です

 と書いてあった。ここまで開き直られるとまあいいかとも思えてくる。

 

  「世界史を知ると銀英伝が100倍面白くなる」というキャッチコピー通り、田中芳樹が参考にしたであろう、世界史や神話を探るムック本である。まあ大体のところはファンなら知っているものばかりだが、こうして体系的にまとめてもらっていると、確かに副読本にはなる。

 

では、「第一章:登場人物のモデル」をざっと見ていこう。

 

・ルドルフ大帝のモデルは二人いる? 

→ ヒトラーでもカエサルでもなくP大帝やF大王説。

・長征一万光年と劉備

→ 蜀こそ自由惑星同盟と言われていますが、ハイネセンと劉備はだいぶ違う。まあ、毛沢東も長征したけど。さすが中国三千年の歴史。

・ラインハルトの3人のモデル

→ A大王、C12世、そしてあと一人は!?まああの人しかない。まあ語り尽くされているネタをよくまとめてはいる。

キルヒアイスはアグリッパがモデル?

→ これは名前を公開、誰やアグリッパ?という方も多いでしょ。さあ急いでググれ!

・ミッターマイヤー=韋駄天H?

→ 「疾風ウォルフ」ミッターマイヤーは「韋駄天H」ことHGから、!まあこの辺が私がレビューで書いたナチスっぽいところなんだけど。

ロイエンタールはH?

→ うん、そうでしょう!私もそう思う。その前にもうそういう世評が定着してるし。もちろんカルタゴのHです。

・オーベルシュタインはR?

→ 個人的には好きなキャラクタで、三国志董卓の腹心Rほど悪人ではないのだが。。。マキャベリという意見もある、そちらの方がまだ納得できる。

ミュラーのモデルはCho説

→ 身を挺して主君を守ったミュラーのこと、三国志の中でもファンの多いあのChoさんを思い起こす人も多かろう。

・帝国の猛将に似たふたりの人物

→ さあ出ました、ビッテンフェルト!「連年失敗続きにも関わらず、その都度階級が上昇する奇跡の人」、実は功績の方がずっと多いんですよ!さて似てる人とは?一人は日本嫌いの米海軍提督WH・Jrガダルカナル防衛で有名な人。もう一人はナポレオンの部下MN元帥でした。ナポレオンに「もっと兵をよこせだと!?奴は私が兵士をつくれるとでも思っているのか?」と言わせた男。聞き覚えがありますな。

・ヤンのモデルは中国史にあり

→ 楊威利=諸葛亮孔明は鉄板。とはいえ、南宋のあの人や共和制ローマのあの人にも言及あり。

・ヤンとユリアン諸葛亮とK?

→ いやあ、頑迷に北伐を繰り返したあの人じゃないんでない?と思ったら、ちゃんとその辺は説明してあった。

アッテンボローとG

→ アッテンボローの反骨精神と革命へのあこがれは確かにC革命の指導者のあの人を思い起こさせますが、やっぱりアッテンボローは「伊達や酔狂」の男と思いたい。

・メルカッツは夏侯覇がモデル?

→ 私が大好きなメルカッツ、これはもう名前を書いてしまおう、夏侯覇だ!納得!

 

まあこの辺にしといたるわ!

 

第二章:戦術・戦略のモデル

第三章:戦艦名のモデル

第四章:名言のモデル

 

と続きますが、少なくとも第二章までは面白い!

 

エミリ・ディキンスン アメジストの記憶 / 大西直樹

 

⭐️⭐️⭐️⭐️

  先日レビューしたアンソニー・ドーアの短編集「Memory Wall」、その中でもとりわけ秀逸なドーアジュブナイル小説が「River Nemunas」。カンサスの少女Allieが両親を事故で亡くし、リトアニアの祖父の元で暮らす物語であるが、リトアニアに旅立つとき、彼女が持っていたのが、

Biography of Emily Dickinson

 であった。ただ、Allieがこれについて言及しているのは一箇所だけである。

 

Emily Dickinson's mom was like that*. Of course, Emily Dickinson wound up terrified of death and wore only white clothes and only talk to visitors through the closed door of her room. (* = be strict)

 

単なる対人恐怖症か病的な潔癖症の女性としか思えないが、調べてみるとこれがアメリカ人の描く一般的なエミリ・ディキンスン像だそう。

   なのでこの詩人について気になっていたのだが、「本が好き!」でことなみさんがこの本をレビューされていたので早速読んでみた。

 

白いドレスに身を包んで隠遁生活を送り、無名のままこの世を去ったひとりの女性。しかし、その死後に遺品のなかから発見された約一八〇〇篇もの詩群により、彼女はアメリカを代表する詩人と評価されるに至った。その名はエミリ・ディキンスン。唯一無二の詩はいかに生み出されたのか。その生涯と詩を、彼女の生きた時代と文化から考える。(AMAZON解説より)

 

  著者はICU特任教授で日本エミリ・ディキンスン学会会長の大西直樹氏。
  氏はまず彼女が生涯を過ごしたニューイングランドの田舎町アーマストの風土・歴史・教育環境、ピューリタリズムの盛衰(特にリバイバル運動の熱狂)、更には彼女の人生において最も大きな事件であった南北戦争について、詳細かつ分かりやすく解説されている。
  興味深かったのは日本にもこの町は縁が深かったこと。新島襄内村鑑三がアーマスト大学に留学しており、エミリーの人脈の中の重要人物に札幌農学校の「少年よ、大志をいだけ」のクラーク博士がいた。彼は啓蒙主義者であったばかりでなく、黒人解放主義者で黒人部隊を従えて南北戦争に参戦している。更にはエミリの恋人との噂もあり、彼女と同じ墓地に眠っているそうだ。

 

 

    続いて、彼女の人生が家族や友人知人の紹介とともに丁寧に語られていく。彼女にも外の世界との交流はあったこと、恋もしていたこと、そして詩作や発表拒否に至った経緯などが手際よく説明されている。
  その中でもエミリが

白いドレスに身を包んで隠遁生活を送り、無名のままこの世を去った

 一番の原因であるキリスト教との関りについては詳細に語られている。特に「堅信」と「聖餐の特権」を真面目過ぎる性格であるが故に受け入れなかった経緯が彼女の人となりを偲ばせる。

 

    そして無名のまま亡くなった彼女の死後に遺品のなかから約1800篇もの詩群が発見されるわけだが、それが世に出るまでには様々な紆余曲折があり、これには遺族・友人の複雑な関係が影を落としていた。特に紙面を割いて詳細に検討されているのは、兄の愛人であったメイベル・ルーミス・トッド。エミリの詩を世に送り出した功績と、自身の醜聞を隠すために行ったこと、それに加えて夫との日本への日蝕観測旅行の詳細など、非常に興味深かった。

 

  そして終章「孤高の詩、その手強さ」は、待ちに待ったエミリの詩の詳細な検討。「ありきたりでなかった」彼女の詩の特徴について、なぜ「日本語に翻訳することが困難であるのか」について、さすが日本エミリ・ディキンソン会長という解説をされている。

 

  もちろん言語体系の違いが最も大きな要因だが、

彼女の英語の個人的なクセは、一般的な英語の用法からは逸脱している

事が大きいそう。その特有の詩作上の意図的用法の主だったところは、パンクチュエーションやダッシュ、大文字の多用、文章の倒置、文法の崩し、韻律の軽視等々など。

 

  興味津々で読んだが、残念なことに全詩の原文を載せている作品がない。ただ、多くの詩がインターネット上に公開されていると書いてあるので、試しに掲載されている最後の詩を探してみた。

 

詩人とはランプに光を灯すだけで
自分自身は、消えていく。
芯を刺激して、
もし命ある光を、

 

太陽のように、受け継ぐなら、
それぞれの時代はレンズとなって
その周辺の広がりを
拡張していく。  (J883,F939,1865)

 

The Poets light but Lamps -
Themselves - go out -
The Wicks they stimulate
If vital light

 

Inhere as do the Suns -
Each Age a Lens
Disseminating their
Circumference - 

 

これは予想以上に難解な詩。。。単純なスタンザ二連ではなく、二・三・三の構成になっていてその中三行の技巧が複雑だ。

 

  個人的には第一スタンザ四行目の「If vital light」と第二スタンザ一行目の「Suns」に考え込んでしまった。
  前者は前の行との関係が唐突に断ち切られている点、lightが一行目と韻を踏んでいるにせよ名詞大文字の彼女の原則に反して小文字になっている点の二つでとても不自然な行。
  後者は「太陽」なら何故SunでなくてSuns(複数)なのか。Sunsなら大西氏には失礼だが単純に「太陽」と訳すのはおかしい。

 

  まあこのあたりがEmily Dickinsonの詩の奥深さであり、だからこそ彼女の詩に触発された、様々な芸術作品が次々に発表され、彼女を主人公とした劇、絵画、映画などが生まれ、彼女の周辺(Circumference)は「その周辺の広がりを拡張して」いるのだろう。

 

   以上、最後は脱線してしまったが、エミリ・ディキンスンの人生、時代背景、死後の詩集発表に纏わる様々な経緯、そして彼女の詩の難解さや特徴につき、とても分かりやすく解説されている好著である。

 

豊饒の海 全四巻 / 三島由紀夫

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

   「カラマーゾフの兄弟」などとともに長年の懸案であった、三島由紀夫の代表作にして遺作である「豊饒の海」四部作を再読することにした。

  三島自身の解説によれば『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語で、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の全4巻から成る。また「豊饒の海」とは月の海の名前である。

  最後に三島が目指した「世界解釈の小説」「究極の小説」であり、一年も前倒しして書きあげた最終稿の入稿日に、彼は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した。

 

  この事件によってこの小説の評価も余儀なく影響を受け、またこの小説をもとに三島の現実の行動を読み解こうとする評論も多い。

 

  実際彼の現実の言動に触れざるを得ないことは論を待たないけれども、本作が三島流様式美の極致の小説であり、気分が乗る乗らないで結構作品の出来にムラのあった彼が最後の最後に全身全霊を傾けた作品であることだけは間違いない、と思う。

  敢えて言えば、絶対に失敗できないというプレッシャーの下で書きあげた第一巻「春の雪」は本当に天才のなせる業としか言いようがない、超一流の出来栄えで昭和の文学史に燦然と輝く傑作である。

  次いで第二巻「奔馬」も一流の出来、この二作は川端康成も絶賛している。

  それに比して第三巻「暁の寺」は前半理が勝ち過ぎ、後半俗に堕ち過ぎる感があり、第四巻「天人五衰」は彼自身の気持ちが先走り過ぎて拙速の感が否めず、小説としての出来はやや落ちるとは感じる。

 

  一方で、この四巻を書き下ろしていく過程で、小説世界と現実の境界が「三島由紀夫」という作家の中で段々と消失していったのではないかと思えるほどに彼がこの作品に没頭していることは読んでいてヒシヒシと感じられる。

  唯識哲学の小説世界に自らを送り込み、小説内で考えに考え抜いたこの世界のあり様の本質として、刹那に消滅しつつ持続していく阿頼耶識(アーラヤ識)に辿り着いた以上思い残すことなどないのだから早く始末をつけてしまおうという思いがあっての最終稿の一年前倒しがあったのではないか、という気さえする。

 

  この作品に即して言えば、彼は20歳で死に、別の人間に転生する、

 

運命の人間

 

でありたかった。それは

 

・「春の海」における、背徳の恋によって身を滅ぼすことを選んだ勲功華族の(バカ)息子松枝清顕であり、

 

・「奔馬」における、憂国の志をもって計画した昭和神風連の乱が未遂に終わってもなお死に場所が用意されていた一途な少年飯沼勲であり、

 

・「暁の寺」における、豊満な肉体をもって同性愛に溺れ、その肉体のままこの世から消えるタイの皇族ジン・ジャン(月光姫)であった。

 

  実際エリート家庭に育ちもやしっ子、過保護のまま学習院、東大、大蔵官僚と栄達の道を歩んだ三島と松枝清顕は相似形をなし、飯沼勲の憂国の思いの強さと割腹死は三島の最期そのものである。また同性愛については「仮面の告白」がある。彼は真性の同性愛者ではなかったという美輪明宏の証言はあるが関心が深かったことは間違いないだろう。

 

  とは言え彼は20歳を超えて生きたので、転生の運命の人間ではなかった。この三人を見守り続けた「観察者」、輪廻思想の「認識者」であった本多繁邦、第四巻の主人公で(「運命の人間」ではなく)ただの自意識過剰人間に過ぎなかった安永透、この二人が三島由紀夫そのものである。

 

  そして自己の投影であるこの二人に三島は容赦ない苛烈な運命を用意する。

  本多繁邦はあれだけ松枝清顕や飯沼勲に尽くし、唯識哲学を突き詰め、インド旅行において悟達し、巨万の富を得ながらも、ひたすら醜く老いていき、人生の最終局面において「八十歳の元裁判官の覗き屋」という惨めなレッテルを貼られる。まさしく

 

今にして本多は、生きることは老いることであり、老いることは生きることだった、と思い当たった。

 

のである。そういう意味では三島は平岡公威」という名前の「普通の」人間が、普通に生きて普通に「醜く老いる」ことには耐えられないという思いがあったのだろう。また終生気にしていたという、加古川の農家の出自(祖父の代)では栄達はかなっても運命の人になれはしないというコンプレックスがあったのかもしれない。

 

  一方で自分は天才であり選良であると自惚れ、本多を破滅させて自分がその莫大な財産を手に入れるつもりであった安永透は、本多の盟友である慶子にその自惚れを粉砕されてしまう。

 

 「 そこから喜んで出てきたのは、そもそもあなたが、自分は人とちがうと思っていたからでしょう。

 松枝清顕は、思いもかけなかった恋の感情につかまれ、飯沼勲は使命に、ジン・ジャンは肉につかまれていました。あなたは何につかまれていたの?自分は人とちがうという、何の根拠もない認識だけでしょう?

 外から人をつかんで、むりやり人を引きずり廻すものが運命だとすれば、清顕さんも勲さんも、ジン・ジャンも運命を持っていたわ。では、あなたを外からつかんだものは何?それは私たちだったのよ。(中略)

 あなたはなるほど世界を見通しているつもりでいた。そういう子供を誘い出しに来るのは、死にかけた『見通し屋』だけなんですよ。(中略)

 あなたには運命なんかなかったのですから。美しい死なんかある筈もなかったのですから。あなたが清顕さんや、勲さんや、ジン・ジャンになれる筈はありません。あなたがなれるのは陰気な相続人にだけ。」

 

これだけのことを書いてなお自死を選んだ三島由紀夫という男は、慶子に言わせれば

 

 「自尊心だけは人一倍強い子だから、自分が天才だという事を証明するために死んだんでしょう」

 

という事になる。何と苛烈で明晰で残酷な自己洞察、自己批判であることか。

 

 

 

  そしてこの長い物語の最後に本多は松枝清顕の運命の人、出家して門跡となった聡子に会うべく奈良へ向かう。そして60年前に松枝清顕が何度挑戦しても叶わなかった聡子との面会を果たす。しかし、聡子は思いもかけぬ言葉を本多に投げかける。

 

「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」

「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。・・・・・」

 

 

単純に考えれば聡子が87歳になって、単に認知症が来ているだけなのかもしれない。しかし聡子は否定する。

 

 「いいえ、本多さん、私は俗生で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんな方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?・・・・・」

 

本多は問い返す、それなら勲もジン・ジャンも 、ひょっとしたら本多自身もいなかったことになるのではないかと。聡子は答える。

 

「それも心々(こころごころ)ですさかい」

 

この畢生の名台詞を残し、すべては崩れ去り、この長大な物語は終焉を告げる。小説内世界を生き場所と定めた三島がその世界を終わらせた以上、とるべき道は一つしかなかっただろう。

 

  しかし彼が自決した時私はまだ子供で、その意味はわからないままに強い衝撃を受けた。その意味を求めて学生時代この小説を読んだ時、その余りにも静かな崩れ去り方と、それを書いた翌日の

諸君は武士だろう。・・・諸君の中で、一人でも、俺と一緒に起とうとするものはいないのか!



という激しい檄の落差が理解できず随分と悩んだ。彼の享年と同じ年になったらまた読もうと思っていたものの忙しさにかまけて随分遅れを取ってしまったが、本多ほどに老いる前に読めたのはよかったと思う。

  俗な言い方になるが、「豊饒の海」は美意識の塊であった三島由紀夫らしい遺書である。

平岡公威(hiraoka kimitake):大正14年1月14日生、昭和45年11月25日死去、享年45歳、ペンネーム三島由紀夫。遺作「豊饒の海」。合掌。

 

 

ラピスラズリ / 山尾悠子

⭐️⭐️⭐️⭐️

  AMAZONからの佐藤亜紀関連のおすすめメールで山尾悠子という名前を久しぶりに見かけた。もう20年以上前になるだろうか、SF雑誌で時々見かけた名前で、純粋なSFというよりは今でいう幻想小説の範疇の方ではなかったかと思う。

 

 試しに「ラピスラズリ」という作品のAMAZON紹介を覗いてみた。

 

冬のあいだ眠り続ける宿命を持つ“冬眠者”たち。ある冬の日、一人眠りから覚めてしまった少女が出会ったのは、「定め」を忘れたゴーストで──『閑日』/秋、冬眠者の冬の館の棟開きの日。人形を届けにきた荷運びと使用人、冬眠者、ゴーストが絡み合い、引き起こされた騒動の顛末──『竃の秋』/イメージが紡ぐ、冬眠者と人形と、春の目覚めの物語。不世出の幻想小説家が、20年の沈黙を破り発表した連作長篇小説。(AMAZON解説より)

 

  やはり20年のブランクがあったのだな。なおこの作品は2003年に国書刊行会から刊行されており、1980年代にはもう執筆をやめておられたことになる。

  ちなみに「13ヶ月と13週と13日と満月の夜」などのYA小説の翻訳で知られる金原瑞人先生と同級生で共同で翻訳本も執筆されているそうである。

 

  さて、この連作小説を読んでみたのだが、なかなかの難物である。面白いか、と言われれば残念ながらNO。ストーリーの面白さや恐怖小説の怖さを期待して読むと完全に当てが外れることになる。

 

  ただ、とにかく言葉の選び方、文章の構成、着想・イメージが独特で、読んでいて不思議な浮遊感にとらわれる。

  文章は非常に硬質で、かつ長く、読者を跳ね返してしまうほど強い力を持っている。それなのに、読み進むにつれて読み終わった言葉が次々と崩れていき、刹那の文章しか読み取れない、という感覚に捉われること屡々であった。

 

  ちょっと説明が難しいのだが、吊り橋が通った後から次々と落ちていき、しかも霧で先が見えない、そんな感じ。この文体は現代詩人のものだな、と思って読み進んでいたのだが、あとがきでご自身が歌人であることを明かしておられた。う〜ん、歌人か。

 

  物語は五篇あるが、最初の三作がメインで、冬眠者(貴族階級)、使用人、荷運び人、森の住人、ゴーストの五者が織りなすタペストリーの如し。

 

銅版」: モチーフの提示。表三枚、裏三枚の銅版画が紹介される。若干のミスリードはあるものの、続く二作の謎明かしがほぼなされている。この作品自体も陰鬱で謎めいた雰囲気を漂わせており、うまい導入部である。

 

閑日」: 作者曰く

これは落ち葉枯れ葉の物語

冬眠者である少女とゴーストの偶然の邂逅から、銅版画で唯一説明されていなかった「冬の花火」が上がるまで。これはまだ比較的短いお話で理解はそれほど難しくない。

 

竃の秋」: 作者曰く

これは古びた竃の石が囁く秋の枯れ葉の物語

  五篇の中で最も長く、銅版画の5つの作品を内包した、この作品の中核をなす中編。長閑な題名とは裏腹の劇的展開で、冬眠者を中心にあと四者が全て顔を揃え、複雑怪奇なタペストリーを編んでいく。ゴーストよりもむしろ、冬眠する間の「よりしろ」である人形のイメージが怖い。

  「銅版」ではアトリエの主人が使用人の反乱による虐殺の物語と推測していたが、果たしてそうか?

  裏三枚にその謎を解く鍵はあり、「冬眠者」という存在の脆さがあるきっかけで露わになり、急速にカタストロフを起こす世界が描かれる。

 

  何が何だかよく分からないうちに話はどんどん進むので、何度か読み返すが、それでも言葉が現れては消えを繰り返す錯覚にとらわれてうまく読み進められない。

 

  この作品は期間をおいての再読を要すると思う。そして、これを読んだ後では後の短い二作は演奏会でのアンコール小品かエピローグのように感じる。 

 

ビアス」: この作品だけ、明らかに日本が舞台。それも文明が廃れた未来のようである。ここでも主人公は冬眠者的。

 

青金石」: 青金石とはタイトルとなっている「ラピスラズリ」のこと。フェルメールも好んだ当時は高級な顔料の原石である。

  そしてこれは前作とは逆に過去、それも13世紀に実在した、小鳥達と話した逸話で有名な、アッシジ聖フランチェスコフランシスコ)を主人公とした短編である。ちなみに貴族の娘キアラ(クララ)の断髪を行なったという回想シーンは実際の出来事。

  「冬眠者」は出てこないが、聖フランチェスコの元に木彫りの降誕祭の人物像を届ける「名もない者」が冬眠病を患っている。

 

  ちなみにこの五作品、気がつけば「メダイ」がキーアイテムとなっている。だからと言ってキリスト教色には染められてはいないのだが。

 

  最後の美しい文章がこの話、そして作品全体を締めくくり、冬眠から覚める春を思わせる。

 

  野の礼拝堂は垂直に天を指す尖塔を持ち、啓蟄の天使は低い雲間からその先端を目指して降りてくる。まだ充分には目覚めきれないように、浅い春の突風に満ちた空の一点で、うねりたなびく白衣に包まれて、降りてくる天使を一羽の鳥が春の野で見上げて、ほとんど気の遠くなる、歓喜して小躍りし、囀りに咽喉を膨らませながらぱっと翔びたちみえなくなる。ーこれは秋の枯れ葉に始まる春の目覚めのものがたり。

 

人工知能の見る夢は AIショートショート集

⭐️⭐️⭐️

  「本が好き!」でefさんがレビューされていて、興味を惹かれて読んでみた。人工知能学会の学会誌である『人工知能』に掲載されたSFショート・ショートをテーマ別に編纂したアンソロジーとなっている。

 

日本を代表するSF作家たちが人工知能を題材にショートショートを競作し、それを「対話システム」「神経科学」「自動運転」「人工知能と法律」「環境に在る知能」「人工知能と哲学」「ゲームAI」「人工知能と創作」の8つのテーマ別に編集、テーマごとに第一線の研究者たちが解説を執筆した画期的コラボ企画。“AI作家"の新作「人狼知能能力測定テスト」も収録。文庫オリジナル。(AMAZON解説より)

 

  27のショートショートが収録されている。新井素子が二作入っている以外は全て一作家一作で作風はバラバラ。よってその成否は編集の巧拙に左右されるが、人工知能学会テーマを8つ設けて、それぞれに連載された作品を選別、その分野の代表的研究者による解説をつけた。これが成功してとても読み易くまた啓蒙的なアンソロジーになっている。efさんがおっしゃるように解説が素晴らしいし、最後にAIが「創作」したショートショートを掲載したのもこのプロジェクトの最終目標の一つを具現化しており興味深い。

 

  さて掲載された作品であるが、AIに関して最新の情報・知見が盛り込まれていて、知的好奇心をくすぐられる。解説もかゆい所に手が届いている。

  ただ、ショートショート形式のSFということで、プロットの練り方ひねり方、オチのつけ方などにどうしても星新一さんの影がチラつく。私見ではあるが、星的作品八割、非星的作品二割と言う印象。

  後者ではっきりしているものを二つ挙げてみる。んべむさしチューリング・テストを題材とした「202x年のテスト」は、オチをつけないという手法であえて星的手法を避けたという気がする。樺山三英の「あるゾンビ報告」はひたすら一本調子の語りという形式で哲学的ゾンビを扱っている。どちらも意欲作ではあるのだが率直に言って面白くはない。

  星的なものを否定する、という事は面白みを否定することであるのだ、と改めて感じさせる。

  惜しいのは高野史緒の「舟歌」。題名はショパンバルカローレから来ている。芸術を鑑賞するAIというテーマはとても斬新なのだが、結局AIがなにをしたというところが書かれておらず読者の想像に任されている。よって自分のクラシックの知識をひけらかしただけでショートショートの体をなしていない、という情けない結果に終わってしまった。

 

  さて、efさんに「理系」としての感想をリクエストしていただいたのだが、わたしの専門分野に該当するテーマは「神経科」である。この分野は、まだSF世界と現実の乖離が大きく、SFがまだSFとしてのんびり眺めていられる。解説では2020年には人間の脳全体をシミュレーションするために必要なスーパーコンピューターが開発されると予想されているそうだが、それで人工脳がすぐできるわけではない。

 

  それよりも現代医学において喫緊の問題は「AIと法律」のカテゴリーであろう。例えば診断能力においてすでにAIは既に人間医師を凌駕しているとさえ言われているが、ではAIの下した診断を医師が自己判断よりも優先してそれが間違っていた場合だれが責任を取るのか。

  また、今最先端の医療ロボット「ダ・ヴィンチ」、これは現時点では遠隔操作ロボットに過ぎないが、将来的にAIが自律的に手技を選択して手術を進めるようになれば、その結果が良くなかった場合それは不可抗力なのか失敗なのか、訴訟になった場合誰が責任を取るのか。

  不確定要素があまりにも多く絶対的正解のない医学の世界では難しい問題である。

 

  その他ブレインストーミング的に、漠然と脳裏をよぎった、今流れているCM(2019年3月現在)を二つ挙げておこう。

 

  一つはトヨタの新型SUPRAのCM。香川照之トヨタ自動車社長の「モリゾウ」こと、豊田章男氏にインタビューする宣伝。根っからのクルマ好きで自身スバル車でラリーもされているモリゾウ氏熱く語って曰く

アメリカ大陸には昔1500万頭の馬がいた。今はそれが車に取って代わられた。馬で残っているのは競争馬。だから車で最後まで生き残るのはスポーツカー」

そう熱く語っている一方で自動運転に本格的に取り組んでいるのもトヨタなのだが。本作品集でも「自動運転」の項では、AIによる自動運転化に肯定否定相反する思いが感じられる。やはり「人間性」最後の牙城として自分で運転したい思いがあるのだろう。

 

  もう一つは家庭教師のトライの宣伝。「OK Google」をもじって、ハイジがおじいさんに「OKおじいさん」、犬のヨーゼフに「OKヨーゼフ」と語りかける。おじいさんのほうは、Google HomeやSiriなどが聞き取れなかった時と同じ反応をする。犬の方は我関せず。考えようによってはなかなか深いCM。

  本作品集では「対話システム」のカテゴリーだが、ビッグデータ解析や音声認識、発音等々この本の出版時よりもはるかに進んでいて、こんなCMが当たり前に作られるようになって誰も違和感を感じない。こうなると、出版までに結構時間を要する作家が追いついていけないし、読者も2、3年前の作品だと違和感を感じてしまう。SF作家受難の時代である。

 

 

Memory Wall / Anthony Doerr

⭐️⭐️⭐️⭐️

    2002年に短編集「The Shell Collector」でデビューし、最新作でピュリッツァー賞を受賞したAnthony Doerrであるが、2018年末までの著作は下記四作品と寡作である(エッセイを除く)。

 

長編:

About Grace(2004)(未邦訳)

All The Light We Cannnot See(2014)(すべての見えない光)

短編集:

The Shell Collector(2002)(シェル・コレクター

Memory Wall(2010)(メモリー・ウォール)

 

  既に三作品は読んだので、残るはMemory Wall一作のみ。さて、英語で読むか、日本語で読むかであるが、原書を手に入れにくかった昔と違い、今はたいていの作品がAMAZONKindleに容易にDLできる。で、お値段。

 

English Edition Kindle DL  520円

邦訳 新潮クレフトブックス  2254円

 

版権や翻訳にかかる費用などが増えるにしても、値段4倍はないと思う。だからやっぱり原著を読むことにした。 ちなみに邦書は六作品収録のようであるが、このKindle版にはもう一つ「 The Deep」と言う短編が収録され七作品となっており、よりお買い得感が強い。

 

Set on four continents, Anthony Doerr's collection of stories is about memory: the source of meaning and coherence in our lives, the fragile thread that connects us to ourselves and to others.(AMAZON解説より)

 

1.「Memory Wall

  表題作だけに力が入っており、中編といっていいくらいの分量がある。彼得意の博物学、特に今回は化石発掘譚の部分が素晴らしい。南アフリカの自然や、アパルトヘイト後に依然として残る白人と黒人の貧富の差もうまく描けている。

 

  けれど中途半端なSF設定がこの作品を凡庸なものにしている感が否めない。頭に四本電極を突っ込んで記憶をカートリッジに記録し、そのカートリッジを装填すればいつでも誰でも読める。。。まあ60年代かというくらい古臭いSFガジェットである。大体電極4本突っ込んだだけで記憶が読み取れるはずがない。サイバーパンクの走りの頃のギブソンの「記憶屋ジョニィ」でさえもうちょっとクールで説得力のある設定だった。

 

  ドーアにSFは似合わない。というか、この設定、あるとんでもなく貴重で高価な化石の在り処を探るためだけにあるといって過言ではない。彼なら無理にSFの方向に振らなくてもいくらでも書けるだろうに、と思う。

 

  あとは大発見の後の処理ががさつで単純・能天気すぎる。惜しいなと思う。

 

2.「Procreate, Generate

  面白い題名だが、どう邦訳するか難しいところ。

 

  その題名通り、子供に恵まれない30代夫婦が必死に不妊治療するさまを、ひたすらドライかつシニカルに描いている。ドーアにしては異色の筆致だが成功しているかといえば微妙なところ。ではあるが、「Memory Wall」とは対照的に、ひたすら一本調子で進んで行って最後にちょっと盛り上げ、粋な終わり方をするのはうまいと思う。

 

  最後の方に出てくる「old woman in the shoe」という表現に引っ掛かりを感じたので調べてみると、「There was an Old Woman Who Lived in a Shoe」というよく知られたNursery Rhymeがあるそうだ。

 

3.「Demilitalized Zone

  掌編であるが、手紙の中だけで見事に朝鮮半島の非武装地帯を描写している。

 

  語り手の男はアメリカにいる。朝鮮戦争に従軍し今は認知症になっている父を介護している。妻は友人に寝取られて出て行った。今は韓国に赴任している息子からの手紙だけが楽しみである。。。が、その息子がDMZでちょっとした不注意でAWOLしちゃってえらいことに。。

 

4.「Village 113

  今度はお隣の中国(っぽい)。近代化の波で巨大なダム湖に沈む運命にある村、Village113が舞台。そのダム計画は壮大で、数多くの村町都市を飲み込み、完成した暁には、

 

「月からダム湖が見える」

 

規模というからすごい。となると、思い出すのが、中国が行った世紀の愚策にして汚職の大温床、完成してからも問題山積の、三峡ダ である。ドーアは具体的な地名は記していないし、あくまでもフィクションではあるが、三峡ダムにインスピレーションを得たのはおそらく間違いないだろう。

 

  閑話休題、前半は、そのダム湖に沈む113村に住むSeedkeeper(種屋)の母と、村の生活を嫌って出ていき、沈める側のダム・コミッションに雇われて住民の移転を進める側に回った息子の静かな交感をドーア独特の筆致で描いている。

 

  一度は息子の家に仮住まいした母だが、やはり水が合わず、元の村へ戻る。そこに居残っている老教師のKe(中国語でどう書くか不明)とのこれまた静かな交感が後半のハイライトとなる。

  段々と村人たちは減っていき、種の需要もなくなる。村も荒廃していき、皮肉なことに花々は咲き乱れ、蛍が飛び交う。

  113村最後の日まで二人は居残るが、さて村と運命を共にするのかどうか。この終盤からラストまでの描写が飛び切り美しい、さすがドーアである。

 

  主題の「記憶」に関しては「種」が今回はその役を担う。ややとってつけた感が否めないが、上述の美しい文章がそれを補って余りある。

 

5:「River Nemunas

  ドーア流の美しいジュブナイル小説である。ある少女が両親を亡くし喪失感を抱いたまま異国の祖父の元に引き取られる。そこで過ごす数ヶ月間の様々な出来事を平易な文章、泣き笑いありで活写している。

 

  舞台は北欧(主人公の少女に言わせればヨーロッパの北東の角)に飛んで、リトアニアである。題名はリトアニア最大の大河ネマン川のこと。その悠々とした流れの描写も見事だが、その地域にも二度の独立戦争ソ連の干渉が残した爪痕がある。そこを子供目線でしっかりと描いているのは、さすが。

 

  さてその主人公の少女Allieアメリカはカンサス育ちだが、両親を相次いで癌で亡くし、リトアニアに住む母方の祖父グランパZ (本名Zydrunasがアメリカ育ちの子供には言いにくいからであろうが面白い呼称)に引き取られることになる。そして愛犬Mishap(災難とは何というスピーキングネーム)と飛行機に乗るところから話は始まる。

  一見醒めている少女の軽快でドライでテンポの良い語り口でどんどん話は進んでいき、リトアニアの祖父や隣人の記憶障害のSabo婆さんとの出会いが簡潔に語られる。そして少女は祖父に連れられてネマン川を始めて見る。その驚き。流れていないようでゆっくりと流れている大河。

 

At first the river looks motionless, like a lake, but the more I look, the more I see it's moving very slowly.

(中略)

River Nemunas. It is called River Nemunas.

 

非常にシンプルなセンテンスであるが、的確にネマン川を描写している。実に鮮やかな手並みである。

 

  そしてある日、チョウザメをサボ婆さんと目撃する。しかしグランパZは絶滅危惧種ネマン川にはいるはずがないと全く相手にしない。その悲しい理由は終盤にネタ明かしされるが、頭から否定され怒ったアリーはサボばあさんを引き連れて夏の間ずっと小舟で釣りをする。そんなある日、婆さんの釣り糸に大物がかかる。婆さんは突然正気を取り戻し必死で釣り上げようとするが。。。

 

  そのサボ婆さんにももう記憶から消えてしまっている二度の独立運動をくぐり抜けてきた過去があり、苛烈な歴史はアリーにも、学校から出かけるKGB歴史館やソ連の核ミサイル跡地の見学で段々とわかってくる。

 

  と書くと深刻な話ばかりのように思われるかもしれないが、この小説でのドーアのユーモアは秀逸である。こんなセンスがあったのかと驚くほど笑わせる。例えばこんなシーン。サボ婆さんと「Boy Meets Grills」と言う番組を見てアリーは自分で料理を作る。

 

I try cooking zucchini crisps and Pepsi-basted eggplant. I try cooking asparagas Francis and broccoli Diane. Grandpa Z screws up his eyebrows sometimes when he comes in the door but he sits through my bless us O lord and eats everything I cook and washes it all down his Juazo beer.

 

  こんな愉快な文章のすぐ後に、サボ婆さんと釣りに出かけて物思いに耽るシーンが用意されているところが憎い。

 

I wonder about how memories can be here one minute and then gone the next. I wonder about how the sky can be a huge, blue nothingness and at the same time it can also feel like a shelter.

 

  ネタバレになるが、サボ婆さんはあと一歩のところで大物を逃した。ここに及んでもグランパZ はチョウザメを否定する。しかし程なくしてサボ婆さんが天国へ旅立つ。彼の職業は墓石に個人の肖像を掘ることだが、サボ婆さんの墓石は無償で引き受け心を込めて完成させる。そしてアリーとチョウザメ釣りに出かける。さて果たしてチョウザメはまだネマン川にいるのかいないのか。。。ラスト4行は心に残る名文。秀逸な作品であった。

 

 I pray for the lonely sturgeon, a monster, a lunker, last elder of a dying nation, drowsing in the bluest, deepest chambers of the River Nemunas.

    Out the window it starts to snow.

 

6:「Afterworld

  本作品集の白眉、最も長く、最も暗く、そして最も感動的な中編である。物語は不穏で不可思議な雰囲気で幕を開ける。

 

  第一章ではあざみ野の中の朽ちかけた建物に11人のユダヤ系の少女がいる。彼女たちもここがどこか分からない。一人が言う。「Estherはどこ?」誰も答えない。最後にEstherの親友だったMiriamが階段を降りて来て言う。

 

"We're dead." "I'm sure of it."

 

  第二章ではEstherの生い立ちが簡潔に語られる。分娩外傷でてんかん持ちとなった少女Estherハンブルグユダヤ人少女専門の孤児院に預けられる。そこでてんかんを起こしたEstherは女性の声を聴く。

 

First we die.Then our bodies are buried.So we die two deaths. ...... in another world, folded inside the living world, we wait. ..... And when the last one of them dies, we finally die our third death.

 

  この二章の意味するところは、終盤で明らかとなる。衝撃をもって。。。

 

  それ以後の舞台はナチス時代のドイツ・ハンブルグと現代のアメリカ合衆国オハイオ州。この二つの世界が交互に語られていく。

 

  Estherの入った孤児院にもユダヤ人迫害の足音が徐々に忍び寄ってくる。そしてハンブルグは連合国軍の大空襲の惨禍にもさらされる。この大空襲は以前佐藤亜紀の「スイングしなけりゃ意味がない」でも描かれていたが、あちらでは主人公がしたたかに生き抜いたのに対して、こちらの孤児院は段々とユダヤ系の避難者でごった返すようになり、生活はどんどん苦しくなる。一方孤児院の少女たちは一人一人と強制移動命令で去っていく。去った者からの手紙は来ない。

  そして1942年の7月ついにEstherを含む12人の少女に移転命令書がくる。行き先はビルケナウだ。お分かりと思うが悪夢のアウシュビッツ収容所があるところだ。

 

  一方で、Estherはもう81歳と老年期を迎え、オハイオ州に住んでいる。奇跡的にあの時代を生き抜いたのだ。何故アウシュビッツを免れたのかは最終盤に明らかとなる。彼女は何故自分だけ命が助かってアメリカへ来れたのか、疑問と自責の念に常にかられている。その理由は彼女自身には分からないが読む者には想像がつく。その理由にも胸が締め付けられる思いがする。

 

  残念ながらてんかんは悪化する一方。息子夫婦は中国の孤児二人を引き取りに中国へ出かけているため、孫のRobertが世話をしている。

 

  Estherは発作のたびに11人の少女、とりわけ仲の良かったMiriamの声を聞く。それはもう発作の幻聴なのか、記憶なのか、それとも別の世界(Another World、あるいはAfterworld)から彼女たちが呼んでいるのか、最後には見境いがつかなくなる。 そしてRobertが打ち上げる花火のきらめきの中、、、

 

  暗転した舞台。次のシーンではEstherは退場し、Robertと義理の妹になったばかりの二人の中国人少女の交流が描かれる。このRobertの描き方がとても上手く、この陰鬱な物語の一服の清涼剤となっていたが、ラストシーンで、戦争時のことは何も語らず逝った祖母と新しい妹たちに思いを馳せ、彼はこう独白している。

 

 Every hour, Robert thinks, all over the globe, an infinite number of memories disappear, whole glowing atlases dragged into graves. But during that same hour children are moving about, surveying territory that seems to them entirely new. They push back the darkness; they scatter memories behind them like bread crumbs. The world is remade.

 

  

7:「 The Deep

  最後を締めるのは大恐慌前後のデトロイトを舞台としたほろ苦い短編。主人公Tomは1914年生まれ、心臓に中隔欠損を持ち医師から寿命は16歳、よくて18歳まで、とにかく興奮させないように、と診断され、母は過保護に過保護に育てる。ドジでのろまで頭の悪い彼にも風変わりなRuby Hornadayというガールフレンドができるが。。。

  大恐慌時代をなんとかしのぎ、18歳を超えて生きているTomはRubyと最後のデートをする。ほろ苦い余韻が残る。

 

  そして終文でエエッと言わせる。ドーアも人が悪い、というか、うまいと言うべきか。

 

 

  と言うことで、前半はどうしたドーア?と心配したが、「 Village 113 」で盛り返し、「 River Nemunas 」「 Afterworld 」で読むものを圧倒する出来栄えを披露してみせた。やはり彼は短編の名手であるし、その手法は斬新である。そしてその手法を長編に活かし、見事にピュリッツァー賞を獲得してみせたのが「 All The Light We Cannot See 」であると言えるだろう。

 

 

 

 

 

昨日がなければ明日もない / 宮部みゆき

⭐️⭐️

  宮部みゆきの杉村三郎シリーズ第五弾。私立探偵になって初めての「希望荘」に続き再び短編集で出版された。昨年末の単行本化なのでようやく現在まで追いついたことになる。

 

 杉村三郎vs.“ちょっと困った”女たち。自殺未遂をし消息を絶った主婦、訳ありの家庭の訳ありの新婦、自己中なシングルマザー。『希望荘』以来2年ぶりの杉村シリーズ第5弾!(AMAZON解説より)

 

絶対零度

  中編と呼んでいいくらいのボリュームであるが、ここまでの布石が効いて、杉村三郎というキャラクタ設定・人脈・周囲環境が確立しているので、内容にすっと入っていけてサクサク読める。ようやく私立探偵ものとして安定してきた感がある。

  AMAZON解説にあるように、自殺未遂をして消息を絶った女性の母の依頼により杉村三郎が動き出すのだが、早々に夫婦による自作自演の可能性が出てきてそこには大学の先輩もかんでいることがわかり。。。

  と、今回は速いテンポで話が進む。杉村三郎も多少の駆け引きや嘘は平気になってきているのが好ましい。とはいえ後半には話は陰惨となり、新たな殺人事件が起こり、気が滅入る様な事実が明らかとなる。宮部らしいといえば宮部らしい悪の描き方だが食傷気味ではある。

  ちなみに飛び道具である蠣殻オフィスの木田ちゃんを利用し過ぎ。彼がいれば何でもわかっちゃうというのはミステリの興を削ぐ。

 

華燭

  題名通り、結婚式をめぐる騒動に杉村三郎が巻き込まれる話。同じホテルの同じ階の二つの式及び披露宴がトラブルに見舞われるというのは、いくら何でも無理がありすぎる。宮部の最後の種明かし説明もさすがに説得力がない。

  面白いのは大家さん夫人「ビッグ・マム」が本格的に登場してさすがの貫禄を見せるところ、くらいか。

 

昨日がなければ明日もない

  本のタイトルになっている作品。「名も無き毒」の原田いずみや「楽園」の両親に殺された不良娘を彷彿とさせる、どうしようもない性悪自己中のシングルマザー登場で早速辟易。

 

  我慢して読んでいると中盤から不良娘の「妹」が出てくる。どうしようもない不良の姉と出来のいい妹というのは「楽園」と同じパターン。となると、このシングルマザーも?と思ってしまう。

 

  ここから先はネタバレになるので伏せておく。

 

  以上三作あるが一番最初の「絶対零度」が作品としては一番完成度が高い。あとの二つは今一つで、このシリーズもようやく私立探偵ものとしての位置を宮部作品の中で確立したところなのに、もうマンネリ化してきているのは心配。

 

 

 

 

希望荘 / 宮部みゆき

⭐️⭐️⭐️⭐️

  宮部みゆき杉村三郎シリーズ第四弾。「誰かーSomebody」「名も無き毒」「ペテロの葬列」長編三部作において、巨大コンツェルンの入り婿という「ドールハウス(解説杉江松恋氏の表現)」から、何故か事件に巻き込まれる運の悪い一市井人杉村三郎が観察し続けた現代社会の「」を描き尽くした宮部みゆき

  そして宮部はその三部作で用意周到に準備しつくした上で、杉村三郎を再び庇護のない社会に放り出し、そして「私立探偵」という職業を与えた。

  だから、本書は杉村三郎が私立探偵として活躍する初めての作品で、短編(と言っても中編くらいのボリュームはある)四作から成る。

  彼が研修し今も「調査員」として所属しているという設定の「オフィス蛎殻」が優秀であることもあり、話の流れがスムーズでようやく探偵小説らしくなってきた。

  また、三作で馴染みの喫茶店睡蓮」のマスター・水田大造が杉村の近所に引っ越してきて喫茶「侘助」を開いてしょっちゅう事務所に顔を出すのも嬉しい。率直なところ、とても面白かった。

 

 今多コンツェルン会長の娘である妻と離婚した杉村三郎は、愛娘とも別れ、仕事も失い、東京都北区に私立探偵事務所を開設する。ある日、亡き父が生前に残した「昔、人を殺した」という告白の真偽を調べてほしいという依頼が舞い込む。依頼人によれば、父親は妻の不倫による離婚後、息子との再会までに30年の空白があったという。はたして本当に人殺しはあったのか――。 表題作の「希望荘」をはじめ計4篇を収録。新たなスタートを切った2011年の3.11前後の杉村三郎を描くシリーズ最新作。 『誰か』『名もなき毒』『ペテロの葬列』に続く人気シリーズ第4弾。(AMAZON解説より)

 

聖域

  東京都北区の北東部、墨田川上流の流れを望む尾上町の古家の一角に事務所を構えた杉村探偵事務所としての初事件。と言っても、探偵事務所ともい見えない古家の一角を借りて「杉村」という表札を出しているだけなので、最初からそうそう客が来るものでもない。初めは殆どがオフィス蛎殻の調査員としての下請け仕事ばかりだった。

  そんな折、近所のおばさんが知り合いの女性を連れてきた。この女性も杉村と同じこの地の大資産家である竹中家の店子なのだが、同じテラスハウスの下に住んでいて先日亡くなった老婆が車いすに座って若い女性に連れられているのを見かけたというのだ。

  ここから大家さんの竹中家の細かい紹介が始まるがそれは省略。竹中さんの話によると葬儀を出したわけではなく、消えそうな声でもう死にますという電話があり姿を消した、というだけ。調べているうちに娘が新興宗教に入れ込んでいることが分かってきて。。。

  題材の割に後味は悪くない。杉村探偵事務所、いい出足である。

 

希望荘

  老人ホームに入居していた、人格温厚で評判のいい老人が心臓発作で亡くなった。ところがその老人は亡くなる少し前の昨年暮れごろから、しばしば自分は人殺しだ、それは昭和50年のことだった、と話すようになっていた。息子はある事情で、それが気になって仕方がない。そして杉村に調査を依頼する。

  昭和50年の殺人事件はもう犯人が分かっていて刑も確定していてその老人が犯人ではありえない上、歳月はその現場や老人が暮らしていた街を大きく変貌させていて、なかなか調査は進まない。そこへ依頼人の息子も絡んできて話はますますややこしくなるが、ある日突然街で見かけた情景から杉村はヒントをつかむ。

  これも宮部流人情噺ではあるが、老人の真意と言動にかなり無理がある。

 

砂男

  今回一番の長い話でしかも杉村三郎が探偵になるきっかけとなる話であるから、本作で一番の読みどころ。

  杉村三郎が離婚の失意のうちに決して喜んで迎えてはくれない故郷山梨へ帰り、余命幾ばくもない父の世話を焼いたり、農産物の販売センター「なつめ市場」を手伝ったりしている情景がまず丁寧に描かれる。

  次いで、配達先の一つである評判の蕎麦屋の夫婦にある事件が持ち上がる。その蕎麦屋は妻の親から引き継いだものだが、評判も良く繁盛していた、ところが夫が突然知り合いの女性と駆け落ち同然に姿を消してしまったのだ。妻は、自宅内で呆然自失しているところを杉村等に発見され、病院に入院してしまう。しかも身重であることも判明する。

  そして運命の出会いが訪れる。配達を頼まれて出かけた「斜陽荘」と言う別荘のオーナー、蛎殻昴(かきがら・すばる)との出会いだ。そう、彼こそ創業者である父を次いだ「オフィス蛎殻」の社長である。

  足に障害があるが車いすテニスの達人、極めて頭脳明晰、趣味も多彩、料理もうまい青年として描かれている。

  既に杉村三郎の過去と彼が出会った事件の詳細を調査しており、彼を呼んだのも当然目的があった。この蕎麦屋の事件の調査を通じて彼の調査員としての敵性と実力を推し量り、あわよくば社員として採用しようという腹だったのだ。

  杉村は当然ながらその調査を開始する。蕎麦屋の主人であった男には意外な過去があった。そして温厚に見えた人格も以前はそうではなかった。そこから話は一直線に進むと思いきや、杉村の予想は次々と引っくり返っていき。。。

  この話は本当によく練られていて感心する。そして杉村家の人々、前妻と娘もしばしば登場し、悲しくも暗い話の絶好の緩衝材となっている。

  そして蛎殻昴は最後に杉村に勧める。

 

「杉村さんにはうちみたいなオフィスの調査員より、フリーで動く私立探偵の方がいいと思います。生活が成り立つように、毎月うちからある程度の仕事を回しますし、サポートもしますから、独立開業したらいい」

 

二重身

  もちろんドッペルゲンガーのことであるが、それほど題名にこだわる必要はない。それよりこの物語に大きく扱われているのは、東日本大震災である。この物語は実際には大震災の4年後に書かれたそうである。さすがの宮部みゆきもこの体験を作品に冷静に取り入れて、感情に流されずまた扇動的にもならずに物語を構築することが出きるようになるまで、それだけの時間を要したということだろう。

  ここで杉村が担当するのはあるアンティークショップの店長の失踪で、依頼案件と言うよりは、ある女子高生が持ってきた相談に乗ったに過ぎない。その店長はアルバイトの店員によると、大震災の前日に東北地方に買い出しに出かけた。当然何万人と言う死者行方不明者と一人になった可能性がある。

  しかし杉村は蛎殻のある優秀な社員からこうアドバイスを受ける。

 

「杉村さん、余計なお世話を申しますが、その案件の場合、震災がらみのーこう、何と申しますかね、感情的に揺さぶられる部分は脇に置いて、単なる行方不明の案件としてとらえることを忘れない方がいいと思います。」

 

これはとても貴重なアドバイスとなる。と同時に、宮部自身が物語を綴るにあたり心したことでもあるのだろう。

 

  それでもこの物語に落としている大震災の影は大きい。

 

  その中で竹中家の末っ子、三男である竹中冬馬トニー)というユニークな新登場人物が新鮮な空気を物語に吹き込んでくれる。この話はこういう一文で終わる。

 

トニーはまだ、竹中家の父上から、原発の絵を描きに行く許しをもらえずにいる。

 

楽園 / 宮部みゆき

⭐️⭐️⭐️⭐️

  大作「模倣犯」はあまりにも登場人物が多く、一人一人取り上げていくとレビューが煩雑になるため、敢えて言及しなかったキャストも多かった。その一人に、前畑滋子というフリーライターがいた。事件を追いかけるルポライターとなり、主犯のピースこと網川浩一に翻弄されながらも最後にTV討論で一矢報い、自白を引き出した人物である。

 

  この前畑滋子を主役に据え、事故死した子供の母親からの奇妙な依頼に応じて取材するうちに、バブル崩壊直前の1989年に起きた両親による不良娘殺害事件の真相(深層)が徐々に明らかになっていくという筋立てで再び社会派ミステリーを宮部みゆきは書き上げた。それがこの「楽園」である。「模倣犯」に量的には及ばないものの渾身の力作であり、今回は「」というテーマも加わり感動的な物語である。

 

未曾有の連続誘拐殺人事件(「模倣犯」事件)から9年。取材者として肉薄した前畑滋子は、未だ事件のダメージから立ち直れずにいた。そこに舞い込んだ、女性からの奇妙な依頼。12歳で亡くした息子、等が“超能力”を有していたのか、真実を知りたい、というのだ。かくして滋子の眼前に、16年前の少女殺人事件の光景が立ち現れた。  (AMAZON解説上巻)

 

彼の告白には、まだ余白がある。まだ何かが隠されている。親と子をめぐる謎に満ちた物語が、新たなる謎を呼ぶ。 (AMAZON解説下巻) 

 

  宮部みゆきが「模倣犯」を書き上げることにより心身とも著しく消耗したように、この前畑滋子もあの事件で深く傷つき、事件の真相を本に著すこともなく9年が過ぎたという設定で物語は始まる。このあたり解説でも書かれているが、宮部みゆきの味わった苦悩を主人公に投影しているのであろう。前畑はしばしば

 

「犯人には勝ったかもしれないが、事件そのものには敗北した」

 

という言い方で自身の無力感を表している。しかし「前畑滋子という名前」は「あの事件を取材し犯人を追い詰めたジャーナリスト」として独り歩きしており、著作もあると誤解されている、という設定はうまい。

  ちなみにピースは当初はふてぶてしく嘯いていたものの今は拘禁反応に苦しんでいる。夫昭二と滋子はよりを戻しており、今回も滋子を励ましている。秋津刑事も再登場し彼女に協力する。

 

  というお膳立てのもと、今回彼女に依頼を持ち掛けるのは、ごく普通の中年女性萩谷敏子である。彼女は二か月前交通事故死した一人息子(ひとし)の描いた絵が未来を予見していたと前畑に語る。事故を起こしたトラックの絵もあるし、ある事件を予見していた絵もある。だから彼が超能力を有していたのかどうか調べてほしいと前畑に依頼する。

 

  事件に関する絵ではある家の地中に灰色の女性が埋まっている。等は生前「この人は出られなくて悲しんでいる」と言っていた。そして訪問の一か月前、つまり等の死後に、北千住の土井崎という家で火事があり焼け出された老夫婦が16年前にどうしようもない不良娘を殺して自宅下に埋めたと告白、なんと屍蝋化した茜の死体が発見されるという事件が起きたのだ。

 

  前畑はサイコメトラーについては詳しくはないが、当然当初は否定的である。ただの偶然か、あるいは無意識のうちに見聞したことを書いたのではないかと推論し、その証拠をつかむために早速取材を開始する。そして彼が知り得るはずのなかった、家の屋根に描かれていた蝙蝠の風見鶏という変わったオブジェが本当にあったことを知る。

 

  それでも半信半疑の滋子であったが、敏子に見せて貰ったある絵に強烈な衝撃を受ける。それはどう見てもピースの山荘であった。その地面からは埋められた女性たちの腕が飛び出しており、さらには絶対に等が知りえなかったはずの、ある被害者を埋めた場所の目印であるドンペリの瓶まで描かれていたのだ。。。

 

  そこから「断章」という全く本筋に関係ない少女のモノローグをたびたび挟みつつ、物語は息もつかせぬほどのスピードで16年前の事件に関する新事実を明らかにしつつ展開していく。

 

  「模倣犯」において私は医学的記述に瑕疵があると述べたが、今回は「超能力」である。ネタバレになるが、中盤あたりまで進んだ段階で前畑滋子は等に

 

実際に接した他人の記憶を読み取る能力

 

があったと確信する。フィクションとはいえ社会派ミステリーに超能力をアイテムとして持ち込んでいいのかどうか、評価はここで別れることだろう。ただ、宮部は超能力に関しては「龍は眠る」「クロスファイア」「蒲生邸事件」等で存分に使いこなし自家薬籠中のものとしているので、「模倣犯」よりもこちらのほうが説得力があると思えるほどうまくこのアイテムを使いこなしている。

 

  閑話休題、後半は等が誰の心を読んで土井崎茜のことを知り得たのかが焦点となり、彼女の当時の恋人であった札付きの悪、”シゲ”の存在が浮かび上がり、それが「断章」の事件と最終盤にリンクし、モノローグの少女の誘拐事件がクライマックスとなる。

 

  そして、最終盤、等の母敏子とシゲの母の二人の母同士が相対し、敏子が驚くべき行動をとり、事件は急転する。ずっと不幸な境遇のまま慎ましく生きてきただけの存在であった敏子が豹変する瞬間には驚きと涙を禁じ得ない。

 

  最後の心に残った、宮部らしい文章をいくつか。

 

  まずは、「理由」をはじめとして彼女がこだわり続ける、日本人の心の有り様の大きな変換点となったバブルの時期の描写。

 

だが、そんな彼女に、底抜けで拝金的で享楽的な時代は、彼女のまだ若い心では処理しきれないほどの情報を与えまくった。茜の頭と心が、最短距離を行くことだけが正解ではないという人生の素朴な心理を理解する前に、茜の我欲は、茜という人間の存在そのものを乗っ取ってしまった。(中略)あの夜、命を落とさなければ、茜はいつか気づいたろうか。そんな自分の幼い愚かさと、無駄にした時間がいかに尊く、取り返しのつかないものであるかということに。時間は浪費するのはたやすい。買い戻そうとするときに初めて、人は、その法外な金利に驚くのだ。(下巻p269)

 

  勿論、茜のぐれた原因はバブルの時代の風潮だけにあるのではない。人間としてダメだったからだ、という厳しい意見も忘れない。

 

「今はあのころより、もっとそういう風潮が幅を利かせているんじゃありませんか。わたしがちゃんとできないのは親が愛してくれないから。先生が不親切だから。環境がよくないから。みんな言い訳ですよ。」(下巻p296、茜の叔母木村夫人言)

 

  この作品が書かれた頃(2005-6年)よりさらに「言い訳」が幅を利かせ、利己主義が当然の権利とはき違えられる現在。宮部がまた前畑滋子を主人公とした小説を書くのであれば是非読んでみたい。

  その時には今回新たに登場し、なぜ9年前の事件をちゃんと本にしなかったのか、と前畑を問い詰めつつ彼女に協力した新米女性刑事野本にも登場願いたい。

 

  最後に題名の「楽園」について、宮部みゆきが強い思いを込めて書いた見事な文章を引用してこのレビューを終わりたい。

 

 誰かを切り捨てなければ、排除しなければ、得ることのできない幸福がある。

 滋子には馴染みのない、よくできた物語にしか思えない海の向こうの宗教は、人間は原罪を抱えているのだと説く。

 (中略)それが真実ならば、人々が求める楽園は、常にあらかじめ失われているのだ。

 それでも人は 幸せを求め、確かにそれを手にすることがある。(中略)この世を生きる人びとは、あるとき必ず、己の楽園を見出すのだ。たとえほんのひとときであろうとも。

 敏子と等のように。

 土井崎夫婦のように。

 誠子(茜の妹)と達夫のように。

 茜と”シゲ”のように。

 ”山荘”の主人、網川浩一でさえも、きっときっとそうだった。

 血にまみれていようと、苦難を強いるものであろうと、短く儚いものであろうと、たとえ呪われてさえいても、そこは、それを求めた者の楽園だ。

 支払った代償が 、楽園を地上に呼び戻す。

 萩谷等は、それを描いていた。あらかじめ失われたすべての楽園と、それを取り戻すために支払われるすべての代償を。(下巻p425-6)