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続 ゆうけいの月夜のラプソディ 的な

蛍、納屋を焼く、その他の短編 / 村上春樹

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     村上春樹の初期短編集で、特に「」は好きな作品である。この作品はよく知られているように、後に大ベストセラーとなった「ノルウェイの森」の導入部に丸ごと底本として使われた短編である。

  しかし、その膨らませ方は私にはあまり好ましいものとは思えなかった。性描写や文章に抑制の効いたこの作品の方が私は好きである。

 

  舞台は主人公の「」が大学生となり上京し入った学生寮。「文京区の高台にある」この寮のことを、

あるきわめて右翼的な人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されている

と書いているが、これは彼が実際に入った和敬塾をそのままモデルにしている。ちなみに右翼的な人物とは前川昭一のことで、先日加計学園問題で物議をかもした前川喜平前文部科学事務次官の父親である。

 

  彼はその気風と共同生活になじめず、ほんのわずかの期間いただけで退寮したそうだが、この小説の冒頭ではその当時の寮の日常を的確に描写し、くそまじめでいいやつだが、ややはた迷惑な「同居人」をユーモラスに語っている。(この人物は「ノルウェイの森」では「突撃隊」というニックネームをもらっており、しかも唐突に姿を消す。それについては様々な議論がある。村上春樹自身が語るところによれば実在のモデルがいたそうだ)

 

   そして場面は切り替わり、半年ぶりに四谷で会った「彼女」とのエピソードが語られ始める。

  高校時代の彼女の恋人は僕の親友で、いつも三人でつるんで遊んでいた。その親友は僕とビリヤードをした後N360の中で排ガス自殺した。動機は全く不明。彼女は最後に会っていたのが自分ではなく僕であったことに腹を立てていた。

できることならかわってあげたかったと思う。しかしそれは結局のところ、どうしようもないことなのだ。一度起こってしまったことは、どんなに努力しても消え去りはしないのだ。

 僕も悩んだが高校を卒業して東京に出てきた時、はっきりと決めたのは

あらゆるものごとを深刻に考えすぎないようにすること

だった。そして時が経つにつれ、僕の中にある何かしらぼんやりとした空気のようなものは言葉に置き換わった。

 

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 

  それまでの一連の彼の作品に漂う空気を一息で言語化したものでもあり、その後の作品の一つの道標となっていく重要な文章である。

 

  僕は死はすでに僕の中にあると考えている。だからこそあらゆる物事を深刻には考えないようにしているのだ。

  そしてより深く死にとらわれているのが「彼女」である。それを村上春樹

 

彼女の眼は不自然なくらいすきとおっていた。

 

と表現している。そしてその透明度は後半ますます増していく。

 

  そして彼女の二十歳の誕生日にある出来事があり、彼女は姿を消す。僕は彼女に手紙を書き、彼女から返事がある。村上春樹文学で最も有名なヒロイン「直子」の雛型がここにある。

 

  この短編は、同居人から貰った蛍が寮の屋上の給水塔の暗闇の中でうすぼんやりとした光を放ちながら、長い時間僕に見つめられ続けたのちに、ようやく飛び立っていく姿を描いて終わる。

 

  僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指には何にも触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった。

 

続く「納屋を焼く」は全く違った物語だが、ここでも僕の彼女は最後に姿を消す。

 

夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。

 

なんとなく共通項が見えてくる。この時期の村上春樹は喪失と死についてとても敏感な感性を有していた。そしてそれをうまく暗闇の中の「」の光や「納屋を焼く」イメージに投影していた。

 

  「踊る小人」も面白い作品で、これもラストが見事である。「めくらやなぎと眠る女」は後年の短編集「レキシントンの幽霊」でもう一度書いているので比較して読むと面白い。「三つのドイツ幻想」はやや散文的だが、第一章はその後横溢していく彼のセックス描写の原点を示すものなのかもしれない。

 

  何はともあれ、村上春樹の作品を未読の方に「まず試しに読むならどれがいいか」と尋ねられたら、私は迷わず「」と答える。

  

 

金の仔牛 / 佐藤亜紀

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   佐藤亜紀を読むシリーズ、いよいよ残り少なくなってきた。今回は2012 年の作品「金の仔牛」、元祖バブル、18世紀フランスでジョン・ローの施行した「ル・システム」という金融実験に踊り踊らされる人々を面白おかしく描いた群像劇である。

  佐藤流ユーモア小説「モンティニーの狼男爵」や「醜聞の作法」の系統に位置する話であるが、出てくるキャラが立っていて、ストーリー展開のテンポもよく、そして前二作以上に鮮やかなハッピーエンドは、当時の欧風喜劇、あるいはオペレッタを思わせる。

 

  ただ、フランスの歴史と経済に通暁している人を除けば、いきなりこの小説を読んでも訳が分からないと思う。まずは佐藤亜紀自身が巻末で珍しく詳細に解説している「覚書」のうちの「十八世紀の貨幣について」だけは先に読んでおいた方がいいだろう。とは言っても読んでもなお、この当時の貨幣紙幣の種類や価値はとてもややこしくて、理解がとても難しいが。

 

  とにもかくにも、金銀本位制だった中世から近代においてこの時期、紙幣は一つ間違えば「ただの紙切れ」で、信頼を置いてよいかどうかは微妙な問題であったことがよく分かる。

  これで思い出すのは、学生時代、社会・政経の先生が授業の始めにいきなり

 

君たちは日本という国を信頼しているか?

 

という質問を投げかけたことだ。何を言いたいのか全く分からなかったのだが、

 

紙幣を何の疑いも持たずに使っているかぎり、それは意識しているいないにかかわらず国を信用しているという事

 

というのがその先生の論旨だった。その時はそんなことで国を信用していることになるのかとポカンとしてしまったが、超インフレで紙幣が紙くずになる国などを見ているとなるほどそういうことかと思ったし、円ドル交換レート自由化の後の激しい円高円安の繰り返しを見て円紙幣の価値は一定ではないのだなと思い知らされることもあった。何しろ私の幼い頃は1ドル360円が常識だったのだから。

 

  そういう目でこの小説を読むと本当にスリリングだ。ちんけな追いはぎルノーがたまたま襲った相手がフランス有数の投資家カトルメールという胆力のある大物で、こんなことやってないでもっと金を稼がないかと持ち掛けられてある紙切れを渡されたところから、物語が始まる。

 

  一言、上手い。

 

  で、そのアルノーが思わぬ才能を発揮して、あれよあれよという間に時代の寵児的な株屋にのし上がっていく様は痛快でかつ株の勉強にもなる。

 

  そこに、恋人ニコルのおやじで結婚に大反対の怪しい故買屋ルノーダン、泥棒集団の親玉ヴィクトール親方狂言回し的に儲け話を操る三つ子のヴィゼンバック三兄弟青髭のような残忍な貴族オーヴィリエが絡んできて、このマネーゲームは実に込み入ったややこしい様相を呈し始める。アルノ―にとっては大成功か破滅か二つに一つの乾坤一擲の勝負だが、その周囲の者は様々な形で自らの財産を確保する手段を講じていく。ねずみ講あり、空売りあり、マネーロンダリングあり、リスクヘッジあり。

 

  さらにこの話に深みを与えているのは金銀本位制の温和で安定した世界から紙幣経済、更には証券相場と変遷していくこの時代に、単なる数字のやり取りだけで世界中の人間が同時に瞬時に取引する時代が来ると空想している人物が出てくることだ。もちろんこのあたりは佐藤亜紀の手腕ではあるが、そういう天才的発想を持つものが、それに必要な手段や通信機械(やウェブ社会)を産み出し、今現実となっているのだなと納得してしまう。

 

  ちなみに「ミノタウロス」にミノタウロスが出てこないように、「金の仔牛」に金の仔牛は出てこない。元は旧約聖書のモーゼの章の偶像崇拝の対象であるが、この作品にあっては「拝金主義」の象徴である。

 

 

 

『18世紀初頭のパリ。追い剥ぎのアルノーは、襲撃した老紳士に逆に儲け話を持ちかけられる。ミシシッピ会社の株を利用すれば大儲けができるというのだ。アルノーは話に乗り、出資者集めを引き受ける。当初300リーブルほどだったミシシッピ株は翌月に1000リーブルを突破し、投資者への返済は順調に履行される。株価はこれから4000まで上がると期待され、相場は過熱していく。アルノーはいまや羽振りのいい青年実業家に。―それは、株取引という名の「ねずみ講」だった。ルイ王朝下、繁栄をむさぼる18世紀初頭のパリを活写した傑作長編。(AMAZON解説より)

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法

鏡の影

モンティニーの狼男爵

1809

天使

雲雀

ミノタウロス

醜聞の作法

スウィングしなけりゃ意味がない

空海「三教指帰」-ビギナーズ日本の思想

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  先日読んだ「空海の風景」で司馬遼太郎先生が数々の空海の著作や口伝を詳説されていた。そのうちの一つでも読んでみたいと思っていたが、「三教指帰(さんごうしいき)」が角川ソフィア文庫の「ビギナーズ日本の思想」から出ていた。著者は大正大学講師、千葉・金乗院住職の故加藤純隆(じゅんりゅう)氏と慶應義塾大学名誉教授、高野山大学客員教授、東京・南蔵院住職の加藤精一氏。

 

  精一氏の解説によると祖父加藤精神師が岩波文庫で訳注を出し、父純隆師が世界聖典刊行協会から口語訳を出版、それを精一氏がソフィア文庫側からの依頼で思い切った意訳にしたのが本書であるとのこと。本書はその意訳と訓み下し文の双方が掲載されており、とても分かりやすく親切な内容となっている。

 

  空海19歳の初著作で、内容はよく知られているように儒教道教仏教(大乗)の三つを比較してどれが一番優れているかを検討したものとなっている。儒学色の濃い大学にいた空海が何故こういうものを書く必要があったのか?

  

  それは、当時周囲の努力もあり晴れて大学生となった空海であったが、その教育内容が

 

単に世に処するためだけのもので人生の真理を探究するものでない

 

ことに不満を抱き、さる僧侶から「虚空蔵求聞持法」を伝えられたことをきっかけに仏教の道を選ぶ決心をした。しかし、当然苦労して大学に入学させ将来を嘱望していた周囲の者から反対される、特に一番お世話になり、漢学の基礎を叩き込んでくれた阿刀大足(あとのおおたり)を説得せねばならない、そのために著したのがこの書である、とされている。

 

  このあたりを司馬遼太郎先生は「空海の風景」で詳説されていて大変面白かった。その中でも触れられているが、この書ががちがちの堅い論文ではなく、戯曲構成で面白く読めるようになっているところ、当時日本では全く浸透していなかった道教までわざわざ入れているところ、あたりに空海の陽性な茶目っ気があり、阿刀大足に対する配慮もあったものと思われる。

 

  前置きが長くなってしまったが、登場人物は5人。

蛭牙公子: 放蕩三昧のバカ息子で父の兎角公を悩ませている

兎角公: 名家の名士で息子の放蕩に悩み説得できそうな人物を呼ぶ

亀毛先生: 儒学者阿刀大足がモデルと言われている。

虚亡隠士: 道教の道士。

仮名乞児: ぼろを着て食うや食わずの状況で仏道の修業をしている。たまたま托鉢に訪れた兎角公宅で前二人の論争を耳にして自分も参加する。もちろん空海その人のカリカチュアである。

 

  というわけで、だれがこのバカ息子を説得できるかで優劣を決するわけであるが、論争といっても三人がそれぞれの意見・見識を披露するだけで、質疑応答的な論争はなく、肩透かしを食ったような感じだった。亀毛先生、虚亡隠士、仮名乞児の順番で発言し前者を論破していくのだから、後出しじゃんけんのようなもの。

  これで仏教の優位性を説かれても、後世の我々にはちょっと納得できないが、阿刀大足は納得したようであるし、「続日本後記」によると朝廷に献上された後は貴族を中心に広く読まれ、任官試験対策としても重要な書となっていたそうである。

 

  しかし、結局どんな栄華を誇ろうが、どんなに悟達しようが、結局誰でも死んで体は滅び、地獄へ落ちればあんなことこんなことやら、とにかく阿鼻叫喚の責め苦の数々が待ち受けているのだぞ、ってのは単に脅しているだけ、これで四人ともが説得されるのか?という気がしないでもないが。。。

 

  とにもかくにも、この書に詰め込まれた情報量は圧倒的であり、訓み下し文でもわかる四六駢儷体の華麗な文章は19歳で書いたものとは到底信じがたいほどのもの。さらには司馬先生が書いておられたように、仮名乞児が乞食のなりでござをかかえ、背中に椅子を背負っているのは

 

兜率天へゆく旅姿だ

 

とみずから説明しているように、その後の空海の人生は兜率天へゆく旅そのものであった。仮名乞児に託した自らの抱負で人生を貫いたところに空海の真の偉大さがある。天才空海の決意表明文として凄みのある書であった。

 

  最後に一つだけ。中国の戦国時代に扁鵲という医師がいて心臓移植をしたそうである。まじか!

  

『日本に真言密教をもたらした空海が、渡唐前の青年時代に著した名著。放蕩息子を改心させようと、儒者・道士・仏教者がそれぞれ説得するが、息子を納得させたのは仏教者だった。空海はここで人生の目的という視点から儒教道教・仏教の三つの教えを比較する。それぞれの特徴を明らかにしながら、自分の進むべき道をはっきりと打ち出していく青年空海の意気込みが全編に溢れ、空海にとって生きるとは何かが熱く説かれている。(AMAZON解説より)』

醜聞の作法 / 佐藤亜紀

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  佐藤亜紀を読むシリーズ、今回は2010年発表の「醜聞の作法」。革命前のフランスはパリで起こる騒動を、いかにも翻訳フランス文学的な文章と書簡体小説という形式で描き出す。

  実際ディドロの小説のパスティーシュ的な部分もあり、これを当時のフランスの小説の翻訳だと言われてもそのまま信じてしまいそうなくらい、佐藤亜紀の文章は相変わらず上手い、上手過ぎるといっていいくらいだ。

 

  梗概については下記AMAZON解説を参考にしていただければいい。そして数多くのレビューで語りつくされているので詳しくは述べないが、今の世のSNS炎上と同じく、当時流行ったという「パンフレット」という形での「煽り文」で世間が炎上していく様を描いて、いつの世も変わらぬ

 

彼らが何を真実と考え何を出鱈目だと考えるかは、どちらということにした方がより面白いか次第、なのでございます。

 

という「醜聞の作法」をテーマとしている。もちろん、どこに落としどころを持ってきて、庶民を納得させるかも「醜聞の作法」ではあるが。

 

  そしてそこに当時のフランス庶民の鬱屈した貴族への反感が含まれているのが、この小説のキモであり、こんなくだらない悲喜劇もフランス革命へ至る要因の一つなのだ、ということを佐藤亜紀は暗に示唆しているのだろう。

  例えばB***とルフォンが連れていかれるV***の部屋の描写。

 

ルフォンは茫然と口を開けて(中略)天井に描かれたシテールの洞窟の風景を見上げ、私(B****)は幕を上げられたままのヴェニュスの嬌態に見入りました。(中略)この部屋を丸ごと売りに出したら、一体どれほどの値が付くものか。

 

という、当時の中身のない貴族の贅沢を容赦なく抉り出す。

 

  技法的にもうまい。書簡体小説の形をとっているが、この小説の語り手といえるB***が依頼を受けた侯爵夫人へ送る「現実」の手紙と、うだつの上がらない弁護士ルフォンが描く「パンフレット」の「創作」をアトランダムに配置することにより、読む者は何が真実で何が虚構なのかが次第に分からなくなってしまう。騙されていると分かっていて騙される快感がそこにはある。それが頂点に達するのは、インド系の美少女で侯爵夫人の養女ジュリーを自分の囲い者にしようと侯爵に働きかける極悪貴族V****の正体が明らかになる部分だろう。

 

 

   佐藤流の説明なしの衒学的文章も健在。例えばかの有名な、シャン・ゼリゼ通りにしてもChamps-Élysées(エリュシオンの園)という意味を分かっていないと、文章が理解できない。

 

  以上、一見軽い小品に見えてまぎれもなく、佐藤亜紀、である。ファンにはやはりマストであるし、ファンであろうがなかろうが、この雰囲気を楽しまない手はないだろう。ある程度勉強が必要だけれど。

 

『さる侯爵が、美しい養女ジュリーを、放蕩三昧の金持ちV***氏に輿入れさせようと企んだ。ところが、ジュリーには結婚を誓い合った若者がいる。彼女を我が子同然に可愛がり育ててきた侯爵夫人は、この縁談に胸を痛め、パリのみならずフランス全土で流行していた訴訟の手管を使う奸計を巡らせた。すなわち、誹謗文を流布させ、悪評を流して醜聞を炎上させるのだ。この醜聞の代筆屋として白羽の矢が立ったのは、腕は良いがうだつの上がらない弁護士、ルフォンだった。哀れルフォンの命運やいかに―。猛火に包まれたゴシップが、パリを駆けめぐる。『ミノタウロス』の著者が奏でる、エッジの効いた諷刺小説。(AMAZON解説より)』 

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法

鏡の影

モンティニーの狼男爵

1809

天使

雲雀

ミノタウロス

スウィングしなけりゃ意味がない

空海の風景 / 司馬遼太郎

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   最近司馬遼太郎先生の本を読んでいるのは、この作品を再読したいと思っていたから。「本が好き!」をやめる前から考えていたので、ずいぶん遠回りしてしまったことになるが、ようやく再読した。

  できれば発刊当時の感動を味わうべく単行本で読みたかったのだが、何度ブックオフに出かけても見つからず、結局Kindle版で読んだ。冒頭に

 

この電子書籍は(中略)一部について底本と異なる場合があります。

 

という注釈があるのが気になるのだが、もう以前読んだのははるか昔のこと、どこが違うかは分からない。

  兎にも角にも、始まりのこの文章で初読当時の感激が蘇ってきた。

 

空海がうまれた讃岐のくにというのは、(中略)野がひろく、山がとびきりひくい。野のあちこちに物でも撒いたように円錐形の丘が散在しており、

 

  私は空海の生まれた地とされる善通寺で一年間暮らしたことがある。そこに赴任する際、香川県の風景を見て全く同じ思いをした。司馬先生は何気ない筆致で見事にその情景を描写されている。 

 

  この調子で、讃岐の地理歴史、空海の家系等が綴られていく。まるで随筆か紀行文のごとき伝記である。しかし途中で唐突に注釈が入る。

 

いまさらあらためていうようだが、この稿は小説である

 

  これが司馬先生独特の小説スタイル。賛否両論あるが、飽きずに読ませる技量はこの上下巻ある長い作品でも健在。

 

  上巻では上に述べた空海の出自や家族縁戚の説明に始まり、奈良京都での修業時代、そして官吏としての栄達の道を捨て仏教を志して出奔した空白の七年間の想像、そして遣唐使に加わり艱難辛苦の末に長安に至り、青龍寺恵果和尚に金剛胎蔵両密を完璧に伝授され、わずか2年間で帰国するまでが描かれる。

 

  下巻では帰国後の密教の理論体系の確立と密教布教戦略、特に最澄顕教との対峙が延々と語られる。最後は空海入滅(死去)だったか、入定(即身成仏)だったかが検証され、この長い「稿」を司馬先生は終えられる。

 

  読み物としては陽性で明るい上巻のほうが、暗くてやや陰湿な下巻よりも圧倒的に面白い。遣唐使のくだりに至っては、最近読んだ夢枕獏先生の「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」に負けず劣らずの面白さである。逆に言えば、完全なフィクションの部分を除いては夢枕獏先生は極めて史実に忠実であったのだな、と感心させられた。

  ただ、面白さを求めて読む小説ではないので、そこは我慢が必要だろう。

 

  個人的な思い出としては母校のあった東大寺が頻繁に出てくるのが懐かしかった。在学当時の理事長であった清水公照先生も顔をのぞかせている。東大寺の宗派華厳宗密教色が混じているのは空海別当になったからであることもよくわかった。

 

  以上、レビューというよりは個人的な読後感であるが、記してみた。それにしても遠い昔の風景の中の人ではあるが、空海は膨大な書物、書字、口伝を残している。とは言え司馬先生のようにそうそう読みこなせるものでもない。ただ若い頃に仏教、道教儒教を比較して仏教の優位性を寓話の中に説いたとされる「三教指帰」については興味が湧いたので読んでみようかと思っている。

 

 

 『平安の巨人空海の思想と生涯、その時代風景を照射して、日本が生んだ最初の人類普遍の天才の実像に迫る。構想十余年、著者積年のテーマに挑む司馬文学の記念碑的大作。昭和五十年度芸術院恩賜賞受賞。(AMAZON解説より) 』 

ミノタウロス / 佐藤亜紀

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  佐藤亜紀を読むシリーズ、前回の「1809」から、レビュー済の傑作「天使」「雲雀」を経て、いよいよ代表作「ミノタウロス」、2007年の作品に辿り着いた。この時点で彼女を新人とするのもおかしな話だが、第29回吉川英治文学新人賞を受賞している。それほどの作品がAMAZONの中古本で1円。時の流れというか、佐藤亜紀の評価が低すぎるというか。まあとにかく読んでみた。

 

  舞台は20世紀初頭のウクライナ地方である。冒頭の地図に1913年とあるので、そのあたりから始まって断末魔の帝政ロシアからロシア共産主義革命を経てウクライナ内戦時代あたりまで。

  赤軍、白軍、強盗団入り乱れ、これぞ無政府状態、と呆然とするような荒涼たる世界を佐藤亜紀は例の如く一切説明抜きの淡々とした衒学的な文体で描き尽くす。

 

   まあ凄い小説だ。吐き気がする。佐藤亜紀に免疫ができているから読み終えられたが、殺戮、凌辱、強奪が当たり前のアナーキーな世界を主人公が渡り歩く。

  ピカレスク・ロマンと言えば最近読んだコーマック・マッカーシーの一連の作品のメキシコを思い出すが、あれほどねちっこくリアリスティックではないが、その分ドライに次から次へと殺しまくり、強姦しまくる。たまには逆に男に強姦されたりする。ズタボロになるまで殴られたりもする。

 

  何故この黙示録的世界を「ミノタウロス」と名付けたのかも、一切説明はない。ネタバレになるが、文中にミノタウロスという神話の半牛半人は出てこない。

        いささかうっとうしい、力み過ぎ喋り過ぎの岡和田晃の自己満足的解説を読んでもハイそうですかと納得できるものでもないが、何となくそんなとこだろうな、ということは書いてあるので、ここでは詮索しない。

 

  それはともかく、この時代の混沌のウクライナを通して佐藤亜紀はどういう人間を、どういう世界観を描きたかったのか?主人公で語り手であるヴァシリーという、成り上がり農場主の息子である少年の思考を通して、ある程度見えているものはある。

 

  まずは冒頭、「神性」について語る彼女らしい辛辣な文章がある。

 

農場の上がりを歩合で取る差配は、親父には畏敬の対象だった。揺るぎない支配は神性に似ている。狡猾も、残忍も、十の子供を眠気と空腹と諦めで小さく縮んだ老人に変えてしまって顧みない冷淡も、神々の特質に他ならない。

 

  ヴァシリーは農場主の子供なのである程度の教育は受けている。ならず者に成り果ててもシラーは読むし、シェイクスピアは「学のないやつらが読む」とバカにする。トリスタンとイゾルデの話を馬鹿にしながら映画の字幕を自分勝手に訳す。

  途中で相棒になる飛行機マニアのドイツ人ウルリヒも、元々がインテリ階層で、学がある上にピアノも弾ける。

  しかしこの世界では学など何の役にも立たないことをヴァレリーは知り尽くしている。ウルリヒはまだ倫理観や女性に対するまともな愛情が残っている。この二人の違いが後半決定的な事件を引き起こす。

 

  ちなみにヴァシリーが会得した真理を佐藤亜紀が滔滔と書き綴っている。

 

ぼくは美しいものを目にしていたのだ - 人間と人間がお互いを獣のように追い回し、躊躇いもなく撃ち殺し、蹴り付けても動かない死体に変えるのは、川から霧が漂い上がるキエフの夕暮れと同じくらい、日が昇っても虫の声が聞こえるだけで全てが死に絶えたように静かなミハイロフカの夜明けと同じくらい美しい。(中略)それ以上に美しいのは、単純な力が単純に行使されることであり、それが何の制約もなしに行われることだ。こんなに単純な、こんなに自然なことが、何だって今まで起こらずに来たのだろう。誰だって銃さえあれば誰かの頭をぶち抜けるのに、徒党を組めば別な徒党をぶちのめし、血祭りにあげることが出来るのに、これほど自然で単純で簡単なことが、なぜ起こらずに来たのだろう。

 

  佐藤亜紀自身が人を殺していいと思っているわけでは勿論ない。この時代のウクライナ情勢を借りて中世キリスト教社会を痛烈に皮肉っているのだろう。それにしても何と簡潔で何と判りやすく何と恐ろしい文章か。

 

  そして最後には「人間性」というよく分からないものについて、もう一度考える。ウルリヒの操縦する飛行機で好き勝手やり過ぎて頭目につかまり、ウルリヒと殺し合いを命じられ、ウルリヒを刺し殺してしまった後で、お情けで昔の情人マリーナに逃がしてもらって僕は泣く。

 

人間を人間の格好にさせておくものが何か、ぼくは時々考えることがあった。それがなくなれば定かな形もなくなり、器に流し込まれるままに流し込まれた形になり、さらにそこから流れ出して別の形になるのを―(中略)ぼくはまだ人間であるかのように扱われ、だから人間であるように振舞った。それをひとつずつ剥ぎ取られ、最後の一つを自分で引き剥がした後も、ぼくは人間のふりをして立っていた。(中略)そしてこれこの通り、ウルリヒは死に、マリーナにはせせら笑われて放り出されたぼくは、人間の格好をしていない。

 

人間でなくなったものが最後にどういう行動をとるのか?佐藤亜紀の冷たく突き放した描写は見事だった。

 

 

帝政ロシア崩壊直後の、ウクライナ地方、ミハイロフカ。成り上がり地主の小倅(こせがれ)、ヴァシリ・ペトローヴィチは、人を殺して故郷を蹴り出て、同じような流れ者たちと悪の限りを尽くしながら狂奔する。発表されるやいなや嵐のような賞賛を巻き起こしたピカレスクロマンの傑作。第29回吉川英治文学新人賞受賞。(講談社文庫) (AMAZON解説より)』

 

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法

鏡の影

モンティニーの狼男爵

1809

天使

雲雀

スウィングしなけりゃ意味がない

1809 / 佐藤亜紀

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  佐藤亜紀の長編第五作「1809 ナポレオン暗殺」(1997)。前作「モンティニーの狼男爵 」に続き欧州が舞台。でもフランスの話じゃなくて、ナポレオンオーストリア攻めの頃のウィーンが主舞台。題名の通り、1809年の有名な「シェーンブルンの和約」の頃の混乱に乗じて仏墺の一筋縄ではいかない男たちが企むナポレオン暗殺計画を、否応なくそれに巻き込まれていくフランス軍の工兵隊アントワーヌ・パスキ大尉の目を通して描いていく。

 

  「天使」と同じころの作品だけあって、ついて来れる読者だけついてこい、のS的佐藤亜紀節全開である。これがたまらない。歴史的記述について説明一切なし。のっけからパスキ大尉は陰謀に巻き込まれているのだが、それはもう後の後になって分かる話。この頃の欧州の光と影を余すことなく語り尽くしていく中で徐々に手の内を見せていく。

 

  BL的とのレビューが結構多いが、あまりそんな感じはしない。もちろんその気のある男たちもいるが、脇役に過ぎない。ただ、出てくる男たちみな一癖も二癖もあることは事実。その中心にいるのがスタニスラウ・フォン・グラッツェンシュタイン=ヴィルカ公爵。彼が何故ナポレオン暗殺を思い立ったのか最後の最後で明らかになるが、凡庸なサスペンス小説のような単純なものではないのは当然にしても、これだけ性格がねじくれまくりながらも魅力的な人物を描き尽くすのは容易ではない。最初から出ずっぱりだが、見事な筆致ではある。彼の同志や駒となる様々な階級の男たちの細かい描き分け、自分の愛人でありながらパスキ大尉を引き込む餌として使われる、弟の妻クリスティアーネも魅力的。

 

 一方で佐藤亜紀ナポレオン・ボナパルトに関してはにべもない。

青白くむくんだ小男(中略)おそろしくひ弱な、ちっぽけな、指の先で虱のよううにひねり潰してやることもできそうな男

と形容している。さすが欧州史に通暁している佐藤亜紀だけのことはある。

 

  フランス革命の後、何故かこの小男がのし上がり、欧州全体を戦争に巻き込んでいく、その一断面を描いて見事な作品である。もちろん、ここでナポレオンが暗殺されなかったことは、普通に世界史を習ったものなら誰でも知っている。それでもグイグイ引きずりこまれてしまった。「天使」に負けず劣らずの佐藤亜紀の代表作ではないだろうか。

 

 

『1809年、フランス占領下のウィーン。仏軍工兵隊のパスキ大尉はオーストリア宮廷の異端児ウストリツキ公爵と出会い、ナポレオン暗殺の陰謀に巻き込まれていく。秘密警察の追及、身を焦がす恋―。激動期のヨーロッパをさらなる混沌に陥れようと夢見た男たちの、華麗で危険なゲームを精緻に描き上げた歴史活劇。  (AMAZON解説より)

 

佐藤亜紀を読むシリーズ

バルタザールの遍歴

戦争の法

鏡の影

モンティニーの狼男爵

天使

雲雀

スウィングしなけりゃ意味がない

 

李陵 山月記 / 中島敦

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  先日読んだ万城目学の「悟浄出立」、その表題作の執筆動機となった中島敦の「悟浄出世」を探していたところ、この小学館文庫に収録されていた。

 

  迷いに迷って、偉い先生(と呼ばれている人)の元を次から次へと訪れ教えを乞うても、自分というものへの確信や生きている意味など一つも得られなかった沙悟浄が、三蔵法師に従うことにより少し気が楽になる、という話はやや説教臭い感じがしなくもないが、なかなかに凝った面白い話ではあった。

 

  そしてやはり中島敦は文章・文体だ。漢文調でありながら、まごうかた無き全き日本語。居住いを正さずにはおれないほど、その文章は折り目正しく美しい。

 

  代表作の「李陵」「山月記」「弟子」はその極みであろうが、表題作や「牛人」「名人傳」「盈虚」といった春秋左氏伝、列子などに題材をとった商品にも遺憾なく発揮されている。

 

  美しく端正な日本語を読みたければ中島敦である。

 

 

前漢武帝の時代。侵略をくりかえす匈奴を討つために北辺の地へ向かった李陵であったが、やむなく捕虜となってしまう。そしてその李陵を弁護した歴史家・司馬遷は、宮刑に処され──。 時代の波に翻弄される男たちの姿を描き、“人間の真の美しさ”を問う「李陵」、己の自尊心のために虎の姿になってしまった詩人・李徴の苦悩を綴った「山月記」など、漢籍に材を採った作品全七篇を収録。(AMAZON解説より)

大盗禅師 / 司馬遼太郎

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    司馬遼太郎先生の作品は大体知っているつもりだが、先日本屋で司馬先生のコーナーを眺めていて、ふと目についたのがこの作品。この題名は見たことがない、未読は間違いない、ということで購入。

 

  解説によると、全集未収録の幻想歴史小説だそうで、昭和43年から翌年にかけて週刊文春に連載されたそうである。ちょうど新聞に「坂の上の雲」を連載していた時期にと重なっていて、膨大な日露戦争の資料を読み解きながらの連載と精神の均衡をとるためにももう一つの持ち味であった幻想歴史小説を書くことが必要だったのだろう、と解説者は述べている。

 

  「由比正雪の乱」と「国姓爺合戦」が同時代に起こっていることに目をつけ、うまく結びつけた司馬先生の発想とそれを組み立てていく筆力はさすがで、虚実ないまぜの登場人物の多さも今回の特徴。特に、二つの事件を結びつける鍵となる、主人公を翻弄する両性具有の謎の人物蘇一官が魅力的ではある。

 

  とは言え、さすがにちょっと話が散漫になってしまっている感は否めないし、両方の事件とも尻切れトンボで終わってしまい、終わり方もやや唐突である。

  また、この作品中で「徳川のための閉鎖的日本」が嫌いなことを先生ご自身隠しもされていないので、全集にあえて入れなかったのもむべなるかな、という気がする。

 

  それでも面白いし、高橋克彦氏の寄稿は一読の価値あり。

 

 なにが善で、なにが悪か。

 今の若者の多くは仙八の立場にありながら、仙八のように迷いつつ道を求めていない。見て、学ぶことの大事さを司馬先生は教えている。(高橋克彦

 

 

 

『大坂落城から三十年。摂津住吉の浦で独自の兵法を磨く浦安仙八の前に、ひとりの僧が現れる。妖しの力をあやつる怪僧と、公儀に虐げられる浪人の集団が、徳川幕府の転覆と明帝国の再興を策して闇に暗躍する。これは夢か現か―全集未収録の幻想歴史小説が、三十年ぶりに文庫で復活。(AMAZON解説より)』

かのこちゃんとマドレーヌ夫人 / 万城目学

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  万城目学のもう一つの未読作品。前回の「悟浄出立」とは違ってユーモアを交えたほのぼのしみじみ系で、どちらかと言えばジュブナイルである。

 

   こういうものも書けるのだなあと感心する一方で、わざわざマキメーでこういうものを読まなくても、という気もする。

 

  ライバル、モリミーこと森見登美彦との違いは、やはり一読してわかるような文体を持っていないことかな。

 

  かのこちゃんのパートでは独特のユーモアで笑わせてくれる(ござる言葉とか、茶柱ならぬ○○○柱とか)のだが、マドレーヌ夫人(猫)パートは、文章も内容もまじめすぎて、モリミーの狸ほどの楽しさがない。泣かせるのが目的だとはわかっているが、それでも今一歩のユーモアがこちらにもほしかったところ。

 

  一番面白い、かのこちゃんとすずちゃんのお茶会を抜粋。大人の雰囲気を出すための「ござる」の応酬。

 

「では、茶会を始めるでござる」
「こちらにお菓子を用意したでござる」
「サンキューでござる」
「お暑いでござるか?」
「ちょっと暑いでござる」
「ならば、扇風機をオンにするでござる」
「かたじけないでござる」

 

 

 

『かのこちゃんは小学1年生の女の子。玄三郎はかのこちゃんの家の年老いた柴犬。マドレーヌ夫人は外国語を話せるアカトラの猫。ゲリラ豪雨が襲ったある日、玄三郎の犬小屋にマドレーヌ夫人が逃げこんできて…。元気なかのこちゃんの活躍、気高いマドレーヌ夫人の冒険、この世の不思議、うれしい出会い、いつか訪れる別れ。誰もが通り過ぎた日々が、キラキラした輝きとともに蘇り、やがて静かな余韻が心の奥底に染みわたる。 (AMAZON解説より)』